祗園青空下上ル


 俺の父は織田(おりた)家を継ぐ鎚金師(ついきんし)だった。
 俺は物心ついてすぐ、金属を金床の上で(つち)(たがね)を使って叩いている父の姿に見惚れた。
 工房にいる時間が何よりも好き。
 同じ年頃の子どもたちと保育園で過ごしているときも、魂は自分の中から工房に飛んでいく。
 小学生になっても変わらなかった。
 
―ふみふみ。何ぼんやりしてるン。
―工房行きたいなぁって。
―またァ?俺と遊んでる時は俺を見ろ!
―シュウのこと好きやで。
―わかっとるわ!
―シュウも僕のこと好きやろ。
―あたりまえやん。
―じゃあ一緒に工房行かへん?
―なんでそうなるねん。
―銀細工で綺麗なん工房に入ってたわ。見に行こ。
―行かんわ!ふみふみ死ね〜!


 思い起こせば、少し変わった子どもだったかもしれない。
 少しじゃなくて。
 たぶん、かなり。
―けったいな子ォやなぁ。
 俺を知らない大人からは、こんなふうに言われることが多かった。
 それが何故か俺が織田家の一員だと分かると、180度見方が変わって独創的だとか個性的だとか感心されるのが常で。
 他人への不信感に幼い俺がさいなまれて当然だと思う。
 今に繋がる長い背景が、そこから始まっている。
 


 父も母も京都生まれだ。
 立体的な製品や装飾的な模様を作り出す金属工芸の職人である父は、鎚金師の家に長男として生まれた。
 父の父である俺の祖父が、工芸職人の集まりである双葉会の第3代会長に就任した。
 そこから織田(おりた)家は職人仲間から一目置かれる存在になり、幼い頃から大人が出入りする伝統工芸の工房に入り浸っていた俺は当たり前のように後継者として見られていた。
 でも、「京都の金工」米国13都市巡回展が開催された後から祖父の存在感が大きすぎたことでの重圧で父が体調を壊し、父は幼い俺を守るために後継者争いを実弟に譲った。
 織田家の工房は叔父が継いでいる。
 俺はそれで良かったと思っている。

 自由に育てられた俺は、それでも小学生の時にルーシー・リーの回顧展を観てブロンズ釉花器や陶器の小さなボタンに惹かれたり、ヴァン クリーフ&アーペル のハイジュエリーアール・デコ展に魅了されたりした。
 要するに、変わったヤツ。
 シュウだけは俺の変な部分を面白がってくれた。

―ふみぃ。中学生になるんやで。少しは周りに馴染まんと。
―なんで?
―なんでって。心配やン。いつまでも俺、君の横にいてあげられへんねやで?
―なんで?
―は?なんでって。
―別に学校で一人でもいいわ。帰ってきたらシュウがおるやん。
―俺も部活動とか始めたら忙しくなるで?
―うん。でもバスケより僕のほうが好きやろ?
―まぁそやな。でも、君そんなこと言って恥ずかしくないん?…俺、照れるやん。
―ぜんぜん。シュウの照れた顔が好き。
―わ〜やっぱ君。1回死ね〜!恥ずかしいわ!


 こうやって振り返ると、シュウに言われてることは変わってはいない。
 俺が芸術に心惹かれ、シュウは全く美術や工芸などの世界に無関心だったけれど、俺が綺麗なものに目を輝かせるのは見ていて楽しいと言ってくれた。
 俺は織田家が代々関わっている伝統工芸も好きだったけれど、祗園祭の鉾に飾られる素晴らしい作品よりも生活の中で手に取れる小さな工芸品に関心があった。
 そんな俺が、今の師匠の元に弟子入りしたのは中学生になったばかりの春。
 

 そこから。
 俺を大切に想う家族には気付かれていないけれど、たぶん俺は雁字搦めに捕らえられてしまっている。
 師弟関係という、言葉にうまくできない、特殊で(いびつ)な繋がりに。



「文哉」
「はい」

 師匠の笹木絢堂(ささき けんどう)に呼ばれて、俺はゆっくりと顔を上げた。
 前髪がサラリと左眼を掠める。
 あ。
 あかん。
 髪が伸びすぎてるわ。
 絢堂先生。俺のこと、また女みたいやって怒るんちゃうやろか。
 俺は咄嗟に空いている左手で前髪をかきわけて額を出した。
 絢堂は振り向きもしない。
 俺は安心して細い息をついた。
 俺の透明な吐息が工房にたちのぼる。
 日本に数少ない錫工房として、錫器を中心とした金属工芸品を扱っている工房で俺は修業をさせてもらっていた。
 酒器、茶器、花器だけでなく、純錫板を用いた家具の仕上げや建築内装も手掛けている工房だった。
 俺は金槌を用いた“うちもの”という技法を学んでいるところだ。
 右手に持った金槌を置いて、前にいる自分を呼んだ師匠の背中を見る。

「再来週の火曜日。義定さんとこに注文してる(つち)を受け取る時な。おまえ着流し着て行け」
「…着流し。前に僕が着た着物でええんですか?」
 俺が戸惑いながら応じると、絢堂は低い声で言う。
「あかん。あの着物は茶髪でチャラい同級生にでも譲ってしまえ。おまえには濃い色の着物が合うわ。藍色か黒やな」
「藍色か黒色…分かりました。また週末に仕立ててもらうようにします」
「うん。10万もせんやろ。帰りに渡す。義定さんには織田(おりた)家の孫が行くって言ったからな。大学生になったおまえ見て喜ばはるやろ」
 目を合わせることなく作業台で手を動かしたまま話す師匠に、俺は躊躇(とまど)いながら質問した。
「絢堂先生…。着物は僕が買わなあかんのじゃないンですか」
 俺の小さな声に、ようやく手を止めて絢堂は振り返り、俺を冷たく一瞥(いちべつ)した。
「ハタチ迎えてへん子どもは金の話はせんでえぇ。おまえまだ親の脛齧(すねかじ)りやないか。そんな気遣いは自分で稼げるようになってからしたらえぇ」

 うわ、こっわ!
 絶対零度の冷たさやん。
 …まぁ、いつものことやけど。

「…はい」
「で。おまえ。二回生になっても友だちなんか作らんでえぇで。今までどおり独りでおったらええねん」
「…友だちなんか。いてません…」
「それでえぇ」
 その言葉を受けて俺は姿勢を正した。
 シュウは友だちというカテゴリーに入らない特別な存在だから、俺は嘘はついてない。
「不協和音はいらん。文哉の世界を乱す余計な物は排除せなあかん」
「…誰も僕なんかに興味ないし。乱されようもないです」
 俺が真面目に答えると、この日初めて絢堂は薄く笑った。
「それでえぇんや」 
 師匠は笑った顔でさえ温かみとは縁遠い。
それでも俺は、絢堂の笑った顔を見るとホッとしてしまう。
 どんな着物を見立ててもらったら怒られずに済むか。
 うん。
 シュウに聞いてみよ。
 俺に何が似合うか、よく分かってるし。
 高校生の時も、シュウに選んでもらった服ばかり着ていた俺だった。

―なぁ。君自身は着てみたい服とかないん?
―べつに。なんだっていいやん。
―いや、よくないわ。ふみ素材いいんやから磨かんかい!
―素材ってなんやねん。俺の中身がいいってこと?
―中身もそうやけど、外見もいいやん。
―シュウは俺の外見好きなん?
―は?今さらそれ聞くんかい!好きや言うてるやん。
―やんな。知ってた。また聴きたかってん。
―アホか!ふみ死ね〜。

 俺は何回シュウから「死ね」と言われたら気が済むんだろう。
 この言葉を言う時、シュウは最高の笑顔になる。
 互いに笑いあって涙を流すこともある。ネガティブワードなのに、俺にとっては愛に溢れた言葉だ。
 そんなことを考えながら俺は工房の片隅で自分だけの世界にまた没頭していった。
 




 他専攻の学生と一緒に実技を学ぶ総合芸術クラスの授業は水曜日の午前中だった。
 師匠の言葉を大切にして、中学生以降は他人に関心を持たないようにしていた俺も、本音のところでは他専攻が気にはなっていた。

 自分が専攻している金工芸が他の分野と融合することで、何が起きるのか。
 染織や陶芸や絵画、音楽や建築や文学。この総合クラスが芸術の生まれる現場を間近で知ることができる時間だと俺だって認めざるを得ない。
 大学構内では年間を通して、芸術家の卵を自負する意欲的な学生たちがいろいろな催しをしている。
 この二回生の総合芸術クラスで仲良くなった他クラスの生徒と繋がって視野を広めた学生が、さまざまな展覧会の企画をするからだ。
 企画・運営の授業も二回生の秋には設定されている。日本の古典的な芸術の中心である京都という地の利を生かしているともいえる。
 毎月教員が引率して見学に行く授業もあり、俺が修業している工房も見学先になっていて去年は秋頃に先輩たちが来た。同じ大学だと分かって数名の先輩から声を掛けられたけれど、俺は特に誰とも繋がりはしなかった。
 それで良かった。
 それなのに。

「なぁ」

 ここに来てひずみが生じたのは、令和のノストラダムスの悪戯なのだろうか。
 昭和生まれの親たちが恐れながらも待ち望んでいた、世界の裂け目と突然の天変地異のような災いを目にして衝撃を受けているような状態に俺がなっていることを、決して相手に悟られてはならない。
 俺は落ち着いた声で応答する。そうしないといけない、と肝に銘じる。

「…なんですか」
「なんですかじゃねえよ。またお硬いモード?」

 平和だった俺の令和が破壊される、幕開け。
 そのイメージぴったりのイントネーション。
 ここまでぐいぐいと来る語り掛けの抑揚が初めてなので、その音声だけで俺が受けるダメージは相当のものだ。
「…私の勝手でしょう」
「こっちの勝手も考えて。俺の都合ってのもあるの」
「…あなたの都合って何なんです」
「肩が凝るって言ったじゃん。その敬語。止めてくれない?」
「仕方ないでしょう。私の都合です」
「だ〜か〜らぁ!」
 そう言って左隣にいた男が俺に体を向けた。俺は見ないようにしていた相手の顔をようやく一瞥した。
 蒔田という名前を、今になって思い出す。
 だ〜か〜らって何やねん。
 知らんやん。
 なんでこんなに馴れ馴れしいんやろ。
「文哉があの喋り方しても俺は優男だなんて言わないよ」
 名前を呼ばれて、俺は固まる。
 同年代の男に呼び捨てできちんと名前を呼ばれるのは、初めてかもしれない。
 かもしれないじゃない。
 今生で初めてだ。 
 シュウは俺をいつも愛称で呼ぶから。
 俺は、そっと声を出した。
「…ここで、あの喋り方って言うの止めてもらえますか」
「え?」
 蒔田が周囲を見回した。
 教室でチームを組んだグループやペアごとに好きなように座って話し合っている時間。
 だいたいは互いに向き合ったり、椅子だけで膝を突き合わせて仲間うちで相談している。
 そんな中で、机をそのまま横並べにして二人が顔を合わせずに話している俺たちは悪目立ちしている。
 時折クラスメイトの数人からそそがれる視線を、蒔田は全く気にしていないようだった。俺は意識していたけれど。
「わかった」
 そう言った蒔田の声が小さかったので、俺は意外に思って蒔田の顔を今日初めてまともに見た。
 今まで見えていなかった蒔田の左耳が目に入り、俺はまた息を呑んでしまう。
「…あ」
 銀色に光を放つ小さなもの。
 小さいのに、大きな存在感。
 俺は息を止めていたことに気付き、蒔田に気付かれないように口元に手を当てて息を吐いた。ゆっくりと蒔田から顔を背ける。

 めっちゃ綺麗やん。
 今日つけてるピアスも。
 あ、俺。やっぱり作ってみたいかも。装飾品。

 子どもの頃に見た、ハイジュエリーアール・デコ展の作品が脳内に再生された。
 創作意欲が湧くと生きる力が漲ってくる。
 不思議な感覚に浸される。
 鼓動が早くなる。
 手足が痺れてくる。
 頬が熱くなり、頭の片隅で俺の中だけで生きている妄想小人が暴れ出す。
 美しいものを自分の手で生み出してみたい。創り出したい。誰かに身につけてもらいたい。
 俺にしか創れないもの。俺が最高に綺麗だと思うもの。この世に一つしかないもの。
 蒔田が付けているような、こんな一目見ただけで心臓を鷲掴みにされるようなピアスを。
 工芸品を。
 妄想小人はたくさんいて、俺の頭の中で地団駄を踏んで両手を振り回して暴れている。
 俺は気付かないうちに頭を抱えていたらしい。
「大丈夫か?文哉」
 顔を覗き込まれて俺は我に返った。
「…大丈夫です」
 姿勢を正して呼吸を整える。
 本当は大丈夫ではなかった。全く。
 やりたいことって突然、心に沸き起こるんや。
 食器や家具の装飾や伝統工芸品じゃなくて、装飾品?
 え?
 ジュエリーが好きなん。俺?
 ピアスがなんでこんなに気になるん?
 なんでこんなに心奪われるん…?
「なぁ文哉。おまえ。熱あるんじゃねぇの」
 蒔田が心配そうな顔をして俺の額に右手を当ててきた。
 わ!
 何なん。急に。
 びっくりするやん。
 この心配顔。ほんまもん?
 シュウみたいに俺のこと気遣うなんて。
「熱は……ないです」
 そう俺が言った言葉を疑うように、しばらく蒔田は俺に触れたまま斜めの視線を俺の顔に注ぎ続けた。
 うっわ。きっつ。止めてくれへん?
 ()れられた額が俺の意思とは別に急速に体温を上げる指示を脳にした…、と俺はファンタジーの世界に囚われた詩人のようにぎこちなく心の中でRPGふうに言葉を紡ぐ。

 触わらんとって!
 その…その顔で!

 ファンタジーの世界から現実に戻ってきた俺が、ようやく認めたのは蒔田の造形の美しさだった。
 前回声を掛けられた時は気付かない振りをしていた俺も、この局面まで来て無視するワケにはいかなかった。
 好みの激しい俺が、心を無意識に向けてしまう。 
 見たい。
 目で追いたい。
 目が離せなくなったらどうしようと焦る。
 それでも、どんな表情をするのか見たいと思う。
 どんなふうに移ろい、変化し、どのタイミングで新たに造り直されるのだろう。
 そこに宿る光と世界は、何を熱源にして生み出されているんだろう。
 だいたい何に対しても無関心を貫いてきた俺が、ここまで胸を騒がせるという由々しき事態に自分自身がアラームを鳴らしていて。
 初日は彼がつけているピアスが極上だから、相手のことを気に掛けてしまうのだと思った。
 そう思い込もうとした。
 実際、俺は誰かが身に付けているピアスに心を持っていかれるという経験は初めてだったし。
 あのピアスに魅了されている俺だから持ち主が美しく見えたのだとも思ったし。

(あれ…俺なんでこんなに言い訳がましいン?)

 俺は自分に対しても必死に言い訳をしていることに気付き、愕然とした。
 俺、今どんな顔してるんやろ。
 シュウのそばに行きたい。そう思った。
 相談できる同世代は一人しかいない。
 好き嫌いの極端な俺だから、ニッチな世界観で胸を震わせる希少な事象…だとシュウに絶対にからかわれる案件だと思う。
 真横の蒔田は言葉を出さなかった。
 見守ってくれている気配。その空気の密度が濃い。
「ちょっと教室を出よう」
 背中を真っ直ぐにして前方に視線を固定したまま深い呼吸を繰り返している俺を見て、俺の混乱ぶりを悟ったのかもしれない。
 蒔田が立ち上がって囁く。
「エビィに声掛けてくるよ。模索のため歩いてブレーンストーミングしてくるって」
 俺が小さく頷くと、蒔田の足音が教室の片隅に吸い込まれていった。
 エビィというのが合同クラスを担任する海老原教授を指すことには30秒後に気付いた。
 混乱ぶりが半端ない。
 俺は大きく息を吐いた。
 


 蒔田と並んで建物を出て、等間隔に樹木が植えられている講堂横のメインストリートを歩く。
 樹木の一つにユリノキと書かれたプレートが付けられていたのを見て、俺は気持ちを整えるために並木を見上げた。
 スズカケノキの葉に似ていると一瞬思ったけれど、ユリノキの葉は小さくて艶があった。緑色の可愛らしい葉が揺れているのを見て、俺は銀色と同じくらい、こんな緑色も好きだと思った。
 銀色やけど緑色。
 移ろうように別の色を感じさせる銀細工ってあるかな。
 そんなん表現できるんやろか。
 葉の形にしたら表現しやすいやろか。
 でもありきたりな気もするなぁ。
 俺は横に他人がいるのに物思いに沈んでいられた。
 都市デザイン学部の棟を過ぎ、無言のまま肩を並べて歩く。
 俺たちは互いに何かに思いを巡らし、別に行き先を決めてはいなかったけれど自然と足は図書館に向かっていた。
 それにしても。
 俺は今。やっぱりピアスが気になる。
 銀細工に挑戦してみたい。
 普段工房で教えてもらっていない金工芸をすることに師匠は難色を示すかもしれない。
 それでも大学の合同クラスの課題作品として創作することを伝え、教授から後押しもしてもらえれば、絢堂でも認めざるを得ないだろう。
 だけど。
 今回は一人で創作する課題ではない。
 合同クラスで創作するのは何でもありだ。
 絵画。映画。陶芸。演劇。彫刻。舞台。織物。音楽。
 蒔田とのコラボレーションで装飾品を創り上げることは可能なのだろうか。
 蒔田の分野って?
 言葉がどうのこうの言ってなかったか。
 俺はようやく一番大切な点を確認できていないことに思い至った。
 俺。 自分のことばっかり。
 小学生みたいやん。
「…蒔田くん」
 俺は右隣を歩く蒔田に顔を向けて小さく声を掛けた。
「お。おかえり」
 蒔田が俺を見た。
 おかえり?
 俺は蒔田の言葉に首を少し傾げた。別世界に行ってしまっていた俺がようやく帰還したって意味だろうか。当たらずも遠からずってところかもしれない。
「ただいま戻りました」
「真面目かよ。笑える」
「真面目な話です」
「わかった。真面目な話な」
 俺は伝えないといけないことと尋ねないといけないことがあったので必死だった。
 だから蒔田のからかうような口調にも腹は立たなかった。
「さっき、作りたいものが急にわかって。私自身もびっくりしたんです」
「うん。なんかあっちの世界に行ってたよな」
「創り上げるプロセスに他の芸術を織り交ぜるっていうコンセプト。面白いけど難しい」
「俺もそう思う。でも、難しいけど面白いってほうが俺の感想に近いかな」
 蒔田がこう返事をした時、俺たちはちょうど図書館の前に来た。
 メインストリートのユリノキ並木が終わる。
 俺はもう一度その美しい緑色の葉が波のように重なっている樹木を見上げてから、蒔田に向き合った。

「あなたは何を専攻してるんです?」
「やっとかよ!聴くの遅いっつーの」

 乱暴な言葉の割には蒔田の表情は優しかった。
「言葉のプロになりたいって言ってましたね」
「うん。覚えてた?」
「脚本家とか作家を目指してるんですか」
「違う」
「違う?」
「教えるからさ。座らない?」
 蒔田が空いているベンチに先に座った。
 俺は距離を取ってベンチの端に腰を降ろす。
「作詞やってんだよ」
「え?作詞…歌の?」
「そ。作詞家目指してんの」
「作詞家…」
「それだけで食べていけると思ってないけど」
「…」
「言葉を紡ぐのが好きなんだ」
「そうなんですか」
「うん。俺の作り上げた物語が音に乗って世界に広がるのが最高に面白いって思う」
「物語?」
「そう。そのときそのときで俺が語ることは全く違うから。寝るときに大人から聴く物語みたいにさ」
「…言葉を紡ぐあなたの世界をなぞって、私が何かを創り上げることができたら」
「そうそう。そうしようぜ」
「え。それでいいんですか」
「いいじゃん。それがいい」
「それがいい…。それでいい、じゃないんですか」
「うん。…なぁ文哉。一文字違うだけで全然印象が違うだろ?俺が心を込めてそうしたいって思う気持ちが『で』を『が』に変えるだけできちんと相手に伝わるじゃん。そういうところも俺が言葉に惹かれる理由」

 あかん。
 今日はとんでもなく俺にとって非日常な会話をしてしまってる。
 エネルギーを酷使してる。
 このままだと倒れる。
 いったん、秘密基地に潜り込まな。
 ここにはシュウがいないから。
 シュウ以外でなんとかしないと。
 となるとミノムシ化するしかないやん。

「ユリノキの葉っぱでもミノムシになれそう」
 気を緩めたら、脳内の妄想小人の中でも極端に奇抜なコメントをするヤツの言葉が出てきて俺は焦った。
 頭上にユリノキの葉が豊かに揺れていたから。

「…は?何の話?」
「…私事の話です」
 蒔田は俺の奇抜な言葉を何も変に思わなかったようで、詩人は偉大だと俺は感心する。
 俺の心臓を鷲掴みにした銀色のピアスが、昼前の太陽に反射して俺の瞳を射抜いた。
 その痛みを、俺は胸を震わせながら受ける。心の片隅で、シュウ以外の男と長い時間、ここまで一緒に同じ空間にいることができた自分に驚いていた。
「俺。良い作品を作りたいと思ってるよ。文哉と一緒に」
「はい」
「肩の力抜かないと」
「私はもう大丈夫です」
「文哉じゃなくて俺。俺が肩の力抜かないと駄目なの」
「はい?」
「だ〜か〜ら!」

 あれ。このセリフ。
 さっき聞いたやつやん。

「その敬語。止めてくれない?」
 先刻に顔をしかめて言われた同じ言葉を、今回は極上の笑顔で言われてしまった。
 まともに見てしまって俺は呼吸が浅くなる。
「他の人がいない時だったら。なんとか」
 俺は呟くように言った。
「…努力してみるわ」
 俺がすいっと顔をそむけると、蒔田の残像が笑みを深めた気配が濃くなった。

 あかん。
 好みも過ぎたら毒やわ。
 俺。
 殺されそうやん!