四条烏丸の花屋の前を通り過ぎた時、蒔田が立ち止まった。
白い大輪。
デコラティブ咲きのダリアが店先に飾られていた。
蒔田が立ち止まったので俺も足を止める。
今日。
蒔田は祇園祭に星の数ほど出ている夜店に興味を示さず、何も買わなかった。
多くの老若男女が屋台で買ったものを飲食している祇園祭で、どこにも寄ろうとしないのが俺には不思議だった。
食事はどこか気に入った店があったら寄ればいい。
もしくは何かテイクアウトして帰宅してから夕飯にしてもいいか。
俺もそう考えていたから夜店で何かを買いたいわけではなかったけれど。
去年までみずどり堂とうみどり堂の職人やシュウと出掛けた時は、決まって大人はビールを呑みながら屋台を冷やかしていた。
シュウも屋台で買ったものを夕食替わりにできる1日を喜んでいたし、俺も祭といえば屋台での飲食がセットだったから。
蒔田は、そういう点では俺から見てクールだった。
そんな蒔田が、花屋の前で足を止めたので俺は驚いたのだった。
「どうしたん?」
「夜になったのに花屋が開いてる」
「ほんまや。お洒落なフラワーショップやなぁ」
「うん。この花。なんて言うんだろう」
「存在感のある切り花やなぁ。ダリアやろ」
「文哉。花の名前分かるんだ?」
「詳しくないで。でもダリアは綺麗やん」
「この花、綺麗だと思った?」
「うん。この白色、緑も混じってるみたいに見えるわ」
「俺。さっき文哉に似合うなと思ったんだ」
「…え?」
「この大きな白い花が。文哉の顔に似合う」
「ダリアが?」
「そう。花を渡そうかって思って。文哉に」
「…俺に。…花を?」
「ピアスの御礼にさ」
蒔田が「花を渡そうか」と口にした瞬間、俺が表情を硬くしたことを蒔田には気付かれずに済んだ。
二人とも横並びになって、大輪の白いダリアに視線を注いでいたから。
語りたいこと言葉にできない
伝えたいのにココロ手渡せない
だけど君ばかり追う この目は
きっと無邪気に澄んでるんだろう
花を渡そうか
どんな花がいいかな
星を見上げようか
隣に君を誘って
詩を歌おうか
僕の想いをなぞる詩を
どうすれば
君に触れられるかな
蒔田の初恋の相手の声が、急にまたクリアに再現された。
たぶんシュウが何度も部屋で聴いていて、俺も自然に何度か耳にしていたんだと思う。
その歌詞が蒔田のものだと知ってからは聴いていないのに。
正確に言うと聴けていないのに。
どうして俺は、こんなに正確に歌詞を覚えているんだろう。
―恋をイメージして言葉をつなげた?
俺が歌詞を作るときのことを尋ねた時。
蒔田は彼についての想いを歌詞に込めていると言ったと思う。
―俺が相手に対して思った言葉を散りばめたり。
確かに蒔田はこう言った。
相手って彼のことやんな。
架空の世界を創り上げてるとも言ったけど、きっと彼に“ 花を渡そうか ”って思ったんやんな。
そして。
“ どうすれば君に触れられるかな ”って想いながら。
彼に片想いしてたん?
俺は蒔田を好きだと思う気持ちが一気に深くなった分、顔も知らない男を嫉妬する気持ちも倍増していることに気付いて愕然とした。
一瞬で刃物で斬り掛かられたような衝撃だった。
静かに、血を流しているような。
架空の傷口から流れている血が、俺の藍染の浴衣を赤黒く染め始めている…。
そう感じた。
俺はまた妄想の世界に片脚を突っ込んで呆然としてしまう。
慣れていない感情は、俺を多いに揺さぶって。
「花を渡さないで」
俺が呟いた言葉に、俺自身が驚いた。
俺。
なんで標準語喋ってるんやろ。
「え…?」
蒔田が驚いて俺に視線を向けたのを、俺はダリアに視線を置いたまま横顔で感じた。
胸が苦しくて、少しだけ声が震えた。
「彼に触れないで」
あ。また。
きっと歌詞をなぞりながら衝撃を受けている俺の思考回路が、à gaucheの歌声の脳内再生にトドメを喰らってショートしてるんだと思う。
それとも。
à gaucheのヴォーカルの彼が俺に憑依した?
恋人がいるってのは過去の話で、彼も本当は蒔田が好きで。蒔田が俺に花を渡さそうとするのを牽制するために、俺のからだ使って言わせてる?
まさか。
蒔田が俺に触れようとするのが、彼も苦しい?
それで、今さっきそんな風に言ったん?
あれ。
言ったのは俺やんな。
俺は突拍子もないことを考えることに関しては、自慢じゃないけど個性派揃いの芸大生の中でも上位にいると思う。
でもこの妄想はヤバいんじゃないか。
俺。
大丈夫?
俺は。
蒔田には彼に触れてほしくない。
彼に触れたことがあるとかないとか、もうこれ以上考えたくない。
「…文哉?」
蒔田の声を右耳で感じた。
俺は目を合わせられなくて瞼を閉じる。
嫉妬の感情は恋愛初心者の俺にはキツすぎた。重たい闇に絡め取られたように呼吸がしづらくなって、俺はうなだれてしまう。
「ごめん。俺なんか混乱してるわ」
「どうした?」
「…俺。ちょっと頭冷やしてくる」
「文哉!」
俺はどす黒い自分を見られたくなくて身を翻した。
「蒔田くん、ごめん!」
下駄で人混みに走り込む。
今度は背中で蒔田の声を感じたけれど、波に漂う小さな葉のように俺は姿をくらませることができた。
宵々山の人だかりはまるで冬の日本海のようだ。荒々しい人波は、しばらく一人でいたいと思う俺の我儘を叶えてくれた。
シュウとは夜の八時頃に合流できそうだったら連絡を取り合って会おうと約束していたのに…。
シュウの彼女である真姫ちゃんに初めて会う晩。
あと1時間くらい。
それまでに。
俺は気持ちを立て直せるんだろうか。
つい15分くらい前の自分のように、無邪気に「この人が好きや」って蒔田の顔を見つめられるんだろうか。
好きな人が前に好きだった人のこと。
そこにいない人の影に対峙しながら、世の中の人は恋人との関係を深めていっているんだろうか。
どうやって?
俺。
どうしたらいいん?
世間の人並みに器用ではない俺は、もういっそのこと不器用さを極めて突き抜けたらいいんだろうか。
“ あなたの初恋の彼が俺に憑依したかもしれないって考えた俺…。変やと思う? ”
こんな風に素直になれたら。
変人ぶりを隠さないようにすれば解決するだろうか。
この痛みがマシになるんだろうか。
菊丸くんに相談できたらいいのに。
御囃子の音色に包まれながら四条通りから少し離れた場所を歩いていた時、近くから声を掛けられた。
「文哉」
三週間ぶりに聞く声に、俺の身体が凍り付く。
俺は落としていた視線を上げて、通り過ぎた人混みをゆるゆると振り返った。
着物を着た数名の大人たちが提灯が燈された町家にぞろぞろと入っていく。
その最後尾に着物姿の笹木絢堂がいて俺を見つめている。
俺は一瞬で呼吸が浅くなった。
息が苦しい。
脚元が急に冷たく感じた。
凍り付いた水の中にいるみたいに。
「絢堂先生…」
「文哉。ひさしぶりやなぁ。体調はどうや」
「…」
「数週間も工房に来んかったのは初めてや。心配してたで」
「…あの」
「その浴衣、ええやないか」
絢堂が薄く笑っている。
一度も俺を褒めたことがない師匠の言葉とは思えなかった。俺は聞き間違えたのか、と思う。
氷点下の海に投げ込まれて、冷たい波に呑み込まれているような心苦しさの中で。
町家に入っていく他の大人たちに絢堂は「後で行きますわ」と挨拶をして俺の方に歩いてきた。
俺は咄嗟に逃げようと身構える。
下駄で走れ。
なんなら下駄を脱ぎ捨てて。
裸足でも、いい。
早く。
早く逃げないと。
俺は必死に俺自身の体に指示を与え続けたのに、身体は1㍉も動かなかった。
「文哉」
「…はい」
「おまえ工房いつから顔出すねん」
「…」
絢堂の声は今までになく穏やかだった。
1㍍ほどの空間を空けて師匠が立ち止まる。
数週間前のあの晩。
―文哉。最近のおまえ。顔が違う。
絢堂がこう言った時の顔を、俺は思い出さないようにしていた。
師匠はあの時のことをなかったことにしてる。
俺は背筋がゾッとした。
―雑音が入ったんか。誰かと一緒におるやろ。
絢堂はこう言った時に一歩俺に身を寄せた。
あの時、俺は。
中学生の時から怖いと感じていた師匠への恐さの種類が、変わったと思った。
―えげつないな。そんな腑抜けになってるんはこの詞をしょっちゅう見てるからやな。
絢堂が今まで見せないようにしてきた一面を、覗かせた刹那の恐さ。
それが一瞬で蘇って俺の身体を震えさせた。
目の前の絢堂は、笑っているのに。
俺は絢堂に“ 笹木堂を辞めます ”という一言が言えないままだった。
逆に蒔田からは、俺から連絡しなくていい、連絡すべきではなくて放置すべきだと諭されていた。
―七年以上束縛されていたんだよ、文哉は。容易には呪縛は解けない。
―怖くなるのは当たり前だから。俺の言う通りにして。
―そうなるのが当然だから、怖いという気持ちに支配されても絶対に笹木堂にはもう戻るな。
俺を安全基地にしろ。
シェルブルー東山101号室に帰ってこい!
蒔田の声が心に響いたタイミングで、俺の身体の呪縛が解ける。
シェルブルー東山に帰ろう。
蒔田のところに戻ろう。
一瞬で勇気づけられる。
「絢堂先生。俺はもう工房には行きません」
俺は師匠の前で一人称を“ 俺 ”にしたことがなかった。
絢堂からは“ 僕 ”か“ 私 ” を使って会話をするように命じられていたからだ。
絢堂が俺の言葉に目を細めた。
「もう…来ない?」
意味が分からないと言うように口角をさらに上げる。
「どないしたンや」
師匠が一歩、俺に近付いてきたので、俺は一歩二歩と後退った。
「どうもしません」
もうじゅうぶんだ。
伝えないといけないことは言った。
もういいから、早く。
早くこの場から立ち去ってしまおう。
俺は最後だと思って、勇気を出して言葉を続けた。
「今までありがとうございました」
俺が軽く頭を下げて背を向けようとした時、絢堂が急に間合いを詰めて俺の左腕を掴んだ。
「あ…」
俺は驚愕して全身がまた凍り付く。
師匠から体に触れてくることは、今までなかったのに。
「今晩な、ここの町衆が童舞を観せてくれるって誘ってくれはったんや」
「…」
「文哉もどうや。滅多に観られへん舞やで」
「…結構です」
「観世流の能楽と玲月流の篠笛はえぇで」
「…離してください」
「文哉は気にいるはずや」
掴まれた腕を、俺は振り解けなかった。
絢堂は表情を変えずに少しずつ俺を町家の玄関に誘導する。俺はまるで連行されている犯罪者か、警察官に補導されている不良少年のような心持ちで引きずられていった。
あかん。
建物の中に入ったらアカン。
人混みから抜けて二人きりになった途端に、殴り掛かられるかもしれん。
いや。
殴られるんやったらまだいい。
いっそのこと。
もう殴られたい。
俺は師匠の目の中に妖しく蠢く光を見て、恐さの正体がわかった。
分かったのに体がまた動かなくて。
あのピアス。
蒔田くんに手渡してなかったら武器になったやろか。
俺を守ってくれたやろか。
銀色の一刺しで。
あかん。
俺のピアスはこんなことのために作ったんとちゃう。
あれは蒔田くんの。
俺の好きな蒔田くんの耳に添えるために。
「離してくださいって言ってるじゃん」
俺がほとんどしゃがみ込むような姿勢でいた背中越しに、蒔田の声が響いた。
絢堂が目を見開いている顔がまず視野に入る。
俺が体を起こして振り返ると、蒔田が3㍍向こうで腕を組んで立っていた。
蒔田の前後を、小川のせせらぎのように人々が行き来する。
師匠と俺のやり取りは宵々山の人混みの中で誰からも気に掛けられたりはしていなかっただろう。
そんな祇園祭の賑やかすぎる喧騒の中で。
蒔田だけが、どっしりと川底の岩のように身じろぎせずに絢堂を睨みつけていた。
蒔田くん。
来てくれたんや。
なんで。
なんで俺の居場所が分かったん?
俺は蒔田の存在を認めた瞬間に再び呪縛が解け、力が一気に抜けていた。
「あぁ。彼やな。あの詞を作った友だちってのは」
絢堂が薄く笑ってから、俺を掴んでいる手を離した。
その刹那。
俺は蒔田に駆け寄った。
行き交う人々に見られてもいい。
もう。
世界中の人に見られてもええわ。
俺は神様から愛されてるから。
どうにでもなるわ。きっと。
俺は蒔田にそっと近付いて正面から抱きつく。
弟以外の誰かをハグする俺。
蒔田の全身の熱を、俺は初めて奪う。
「絢堂先生。この人は友だちなんかじゃありません」
俺は右後ろにゆっくりと顔を向けてきっぱりと言い放つ。
「躍は俺の恋人です」
俺の言葉に、蒔田が応じるように腕を俺の背中に絡めてきた。
「センセ。そーゆーこと」
絢堂が無表情になったのは一瞬のことだった。
俺はもう、謝礼袋の名前の上に“ 束脩 ”と書いて渡すなんてことは一切しない。
二度と。
宵々山の御囃子が盛り上がって、周囲がさらに賑やかになる。
師匠がまた薄く笑ってから、身を翻して町家に入っていった。
何事もなかったかのように。
「蒔田くん。俺が居る場所どうやって分かったン?」
そう言って蒔田から体を引き剥がした時、蒔田が右手に花を持っていることに俺は気付いた。
大輪のダリア。
一本の切り花。
白と緑が混ざったような美しい花。
花を渡そうか
詩を歌おうか
どうすれば
君に触れられるかな
「修哉に助けてもらったんだ。ぎりセーフだったわ」
「え。…シュウが?」
俺は蒔田が指をさした方を慌てて見る。
笑顔のシュウがいた。
その横で浴衣姿の女子が俺を見て手を振っている。
彼女が真姫ちゃん?
シュウの恋人。
女子の中では背が高いほうだろう。
シュウと同じバスケ部だったはず。
切れ長の目をした賢そうな女子だった。
女子を30秒以上見続けたことのない俺が、真姫という名前の女子に視線を注ぎ続けたのも新たなステージだと言えるかもしれない。
「真姫ちゃん。はじめまして」
俺がシュウたちに歩み寄って声を掛けると、真姫ちゃんが打ち震えたように叫んだ。
「ふみにぃさま!やっと会えました!」
…え。
何。このテンション。
シュウみたいやん。
見た目すっごく大人びてるのに。
「ふみさんと蒔田さん。その顔で生まれてくださってありがとうございます!」
真姫ちゃんに言われた言葉で脱力し、俺は真横に来てくれた蒔田と目を合わせた。
戸惑っている俺とは逆に、蒔田は口角を上げている。
蒔田の笑顔に引っ張り上げられるように、俺も愉快な気持ちが込み上げてきた。
俺も笑顔になって真姫ちゃんとシュウを交互に見た。
「…真姫ちゃん。シュウに似てるなぁ」
「そう言われます!さっき。先程の御二人の熱い抱擁!私は役得で目に焼き付けさせて頂きました。これで一生…」
「真姫ちゃん。落ち着きぃ〜」
「シュウちゃん!落ち着いてられへんわ」
「ふみの浴衣姿見れたしなぁ」
「シュウちゃんとふみさんと蒔田さんのスリーショット撮らせて」
「うん。真姫ちゃんも入ろうやぁ」
「だめ。まずはMENSだけで是非」
俺に馴染みがなかった女子の声が、静かに優しく俺の体に染み込んでいく。
どんどんと俺が素直に解きほぐされていく。
シュウがみずどり堂に来た時に、数日だけ限定で位置情報を交換するというシュウの提案を受けたことを俺は思い出した。
―俺はふみにぃを束縛するような真似は絶対せぇへんと決めてたけど。
宵々山の人混みで探しだせるか自信ないからやで。
宵々山終わったら共有外すし。
今までおにぃと一緒に行ってたから宵々山で待ち合わせなんてしたことなかったもんな。
家から一緒にふみと行くの、去年が最後か。
いや。真姫ちゃんと行けるの幸せなんやで。
それでも。
なんか。俺。泣きそう。
そう言ったシュウの頭を俺はヨシヨシと撫でたっけ。
2日前に。
弟の頭を撫でる行為は、あれが最後になるかもしれない。
シュウにはお似合いの彼女がいる。
俺も弟離れをしないと。
それに。
今からたくさん触れる相手が、目の前にいるのだから。



