祗園青空下上ル

 
 卯の花の季節。
 俺は織田文哉(おりた ふみや)と謝礼袋に小筆を使って自分の名前を書いた。楷書で書くように言われている。
 そして、最後に名前の上に“ 束脩 ”と書く。
 いつものことだ。
 この言葉は入門するときだけに使うはずだけど、俺の師匠は少し独特だった。月謝や御礼と書く替わりに束脩と書けと言う。最初に書いてから、もう七年過ぎようとしていた。

 師弟の精神的な繋がりは、“ 束縛 ”と紙一重かもしれない。





 大学2年生になったばかりの水曜日。
 合同クラスの授業を終えて昼休みになるとすぐに俺は教室を出た。ざわつく空間が苦手だった。
 足音が近付き、「なぁ」と後ろから呼びとめられたので俺はゆっくりと振り返る。

「何か私に用ですか」

 俺が敬語で相手に尋ねると、男は驚いた顔をした。
 先ほどの授業で他のクラスの生徒とペアを組むことになり、誰にも声掛けをしなかった俺に静かに近付いてきて「相手になってよ」と言ってきた男だ。
 他に選択肢のない俺が頷いたタイミングで授業が終わったので、何も話さないまま背中を向けた相手だった。

「敬語で喋らなくてもいいじゃん…同級生なんだろ」
「そういう理由(わけ)にはいきません」

 そう俺が言うと、風の通る2階の渡り廊下で男が何故か怒ったような顔になった。
 噛みつくように言い返される。
「あのさ、仕事してるんじゃねぇの。堅苦しすぎなんだよ。そういうの邪魔だから」
 師匠の放つ冷たい言葉とは違う、熱の籠もった荒々しい言い方に俺は少し意表を突かれて目を見開く。
「俺たち、休み明けに出す作品を考える間は一緒に作業すンだからさ。肩が凝るような話し方しないでってだけ」

 俺は言葉を出せずに黒色の瞳でじっと相手を見た。
 カラーコンタクトを入れてるのだろう。
 ハシバミ色の柔らかな瞳をした男は、俺と同じようにカラーリングをしていない黒髪を短くしていた。
 見た目は清楚にしているのに左耳にだけつけた銀色のピアスが大きくて、俺はつい目をピアスに向けてしまう。 
 その銀色のうねるような波の模様があまりに美しくて、思いがけず溜息を吐き出すように隠していた言葉が出てしまった。

「銀線を立体にしてるンや。…ベース部分はいぶし銀になってる」

 直前まで相手を無視して立ち去ってしまおうかと思っていた俺の運命が、このタイミングで大きく変わってしまった。
 そのことに気付くのはもっと後のことだ。

 この俺の小さな声に「は?」と男は驚いた。
 俺の目線を辿るようにして、男は左手で自分のピアスに触れる。
 俺の言葉のイントネーションが切り替わったことにびっくりしたようで、口を小さく開けたままだ。

「軌跡のような模様やなぁ。蝶が舞った跡を辿ったような。…綺麗やわ。彫金で作ったんやろか。誰の作品やろ」

 悔しいことに、金工作品のことになると普段物静かに過ごしている俺も熱くなってしまう。
 
 奥行きのあるデザイン素敵やなァ。
 こんなん作れるようになったら俺も嬉しいのに。

「あんた言葉遣い、さっきまでと全然違うじゃん」

 そう言われて少し慌てた。
 今日この男がこのピアスをしていなければ。
 きっと俺はいつも通りの自分でいられたと思う。
 キツい表情をしていた男が少し顔を緩めて体を寄せてきたので、俺は右手を伸ばして相手の胸の前でストップをかけた。
 相手は「おっと」と小さく呟き、素直に動きを止める。

 他人と距離が近くなるのが苦手だ。
 物理的にも、精神的にも。
 渡り廊下を風が素早く通り抜けた。

「せやからアカンねん。…敬語で喋ってたらコレ隠せるんやけど」
 囁くように声を出すと、相手が初めて笑顔を見せた。笑うと男の切れ長の目が優しくなって、野性味を帯びた彫りの深い顔立ちが急に陽気さを纏った。
「隠したいの?」
「…うん」
「なんで?」
「なんでって…。この喋り方してたら優男(やさおとこ)とか言われるんやもん。いややわ」
 俺が正直に言うと「ふははッ!」と相手が口元を手で覆って大笑いした。

 え。なんなん。ムカつく男やな!

 俺が黙って眉をギュッとしかめると、男が涙を滲ませたまま俺の目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「優男ってさ、姿かたちが上品ですらりとしている男っていう褒め言葉だろ。確かに(みやび)な奴だなとは思ったよ。最初にあんた見た時さ。綺麗な顔して静かな佇まいでいてさ」
 そう言われて、俺は目を細く尖らせる。

「風流とか芸術を理解する男って意味もあるんだよ。たぶんあんたが掛けられた言葉は褒め言葉。俺は言葉のプロになりたいから辞書ばっかり引いてる毎日だし、信じてよ」

 男の言葉を聞いて驚いた。
 言葉のプロ?
 芸術コースの他の分野について俺は何も知らない。
 二年生になってすぐ他のコースの学生と共同で自由に作品を創作するのが恒例だけど、初回の授業で一通りした自己紹介も俺にとっては静物画の背景のようなものだ。
 つまり、興味も関心も何もなかった。
 相手が30㌢先の近距離にいて気付くのは、目線が全く同じ高さだということ。
 互いに1㍉も身長は変わらないかもしれない。

蒔田躍(まきた やく)って名前。種を蒔くって字のマキタに活躍するの躍って字。好きなように呼んで。で、敬語やめて」
 蒔田が笑う。
 爽やかすぎる。
 俺はそう思った。
「あんた織田文哉(おりた ふみや)って名前だろ。同級生なんだし文哉って呼ぶけど、いい?」
 
 あかん。

 そう思ったのに言葉に出せなかった。
 京都の言葉は生まれた時から身近にあったから俺の血肉みたいなものだ。
 それでも自宅や修業先で話す時以外は封印している。
 封印しようと思うと敬語になる。
 さっきは「いやです」と言えば良かったのだろうけど、蒔田が真っ直ぐすぎて俺は標準語に切り替えられなかった。
 



▦ ▦ ▦



 その夜、地下鉄に乗って鞍馬口で降り、一人で歩いた帰り道。
 珍しく気持ちが乱されているのに気付く。
 あのとき。
 どうして素を晒してしまったんだろうと後になって愕然とする。
 もう七年間くらい、自分のペースを崩さずに周囲と適切な距離を保って日々過ごすことができていたのに。
 なんだかムカムカしたまま目的地に到着し、鍵を出そうとすると見つけられなかった。
 鍵を忘れることなんて普段はないのに。

 あの男のせいやん!

 朝に家を出る時は彼と出逢ってもいないのだから、因果関係は全くない。
 完全に八つ当たり。
 俺はそんな子どもじみた感情を昼間の残像に理不尽に向けながら、ハァッと溜息をついてブザーを鳴らした。
 がっくり頭を下げていると、頭頂部あたりのインターフォンからざわめきが聴こえた。
―はぁい!
 俺より断然低い声なのに、いつものように陽気な響き。
「俺」
 直ぐに顔を上げ、俺は力なく声を出す。
―なんで?はよぉ入ってこいよ。鍵ないのん?
「忘れた」
―アホやなぁ。待ってろ。今直ぐ開けたるから。
「早く」
―すぐ行くって言うてるやろ!
「今すぐシュウの顔見な死んじゃう」
―うはは。死ね〜!
 くぐもった高笑いの声とドタバタ走る足音がフェイド・アウトする。

 俺には帰る場所があるから他はいらない。
 他は雑音。
 外灯に淡く照らされながら一人で自分の深層意識に刷り込んでいると、やっと心が落ち着いた。
 雑音は気にしたらアカン。



 …そう思ってたのに。

 俺が今まで丁寧に作り上げてきた安寧なキャンパスライフは見事に破壊されることになる。
 あの男のせいで。
 今、俺が翻弄されている感情が何なのか分からない。特定の相手以外の他人とは久しく交流していないから、相互作用で沸き起こる初めての感情をラベリングできない。
 ムカつくって気持ちがこれか。
 俺は慣れない感情を、仮に腹立たしさだと思うことにした。

 ムカつく男が爽やかすぎる。