ひとりじめ

   ◆

 マンションに着くと、いつもは三階まで階段で上がるところを、今日は二階で止まった。
 遥香の家に遊びに行かなくなってから半年も経てば、なんだか懐かしい感じすらする。

 二〇五号室のドアに立ったものの、インターホンが押せなかった。
 ここまで来たのに、私はまだ、遥香と話すこと、そして真実を知ることが怖いと思っているらしい。
 それに、もし夢奏が言っていたことが正しいとすれば、遥香が家にいる可能性が低い。
 ここに立ってようやく、勢いで行動してしまったことに気付いた。

 だけど、いつまでもここで立ち止まっているわけにもいかない。
 グッとボタンを押すと、音が鳴ってから数秒後にドアが開いた。

「はーい……って、りりちゃん? 久しぶりだね。どうしたの?」

 出てきたのは、遥香のお母さん、千里(ちさと)さんだった。
 遥香に会いにきたのに、出てきたのが遥香ではなかったことにほっとしている私がいた。

「えっと……遥香、いますか?」
「遥香? 最近部屋に篭もりっぱなしで今日も部屋から出てきてないから、いるよ。でも、起きてるかな……」

 千里さんは「どうぞ」と言って中に入っていく。

 遥香は、ここにいる。
 それも、部屋から出ていない。
 つまり、遥香は今日学校に来ていない。

 それをよかったと思うと同時に、どうしようとも思った。これでは、夢奏の話が嘘だったということになってしまう。

 でも、もう引き返せない。
 私は自然に閉まろうとするドアを押さえ、足を踏み入れた。私の家と同じ間取りだけど、置き物とか家具が違えば、別の部屋に見えるから不思議だ。
 靴箱の上には、遥香の小さいころの写真や、家族写真が並べられている。その中に、遥香と私が写った写真があった。疎遠になるなんて微塵も思っていない、無邪気な笑顔。もう絶対にこのころには戻れないとわかっているからこそ、その向日葵のような笑顔を直視できなかった。

「遥香ー? りりちゃん来たよー?」

 リビングに向かう途中で、千里さんの声が聞こえてきた。こっそり遥香の部屋の様子を覗いてみると、出てくる気配がまったくない。寝ているのか、それともこっそり出かけていないのか。ここからでは判断できそうにない。
 すると、千里さんが踵を返したことで、目が合ってしまった。

「ごめんね、りりちゃん。遥香、やっぱり寝ちゃってるみたい」

 千里さんに申し訳なさそうに言われ、私は首を横に振った。

「外、暑かったでしょう。アイスあるけど、食べる?」

 千里さんは、記憶の中にいるまま、優しく微笑んだ。
 遠慮したほうがいいとわかっているけど、まだこの優しさに浸っていたかった。

 バニラのカップアイスとスプーンを受け取ると、食卓テーブルに座ってひとくち分をすくう。冷たくて甘いバニラが舌の上で溶けていった。

「でも、本当に久しぶりだよね。前に来たのが……春休みだっけ。やっぱり高校生になると忙しい?」

 千里さんは私の前に座り、チョコアイスを食べている。

「そう、ですね……」

 私と遥香の間で結ばれた約束を知らなさそうなところを見ると、なんだか勝手に気まずくなってしまう。

「そっかあ。りりちゃんは、高校でもバスケ続けてるの?」
「いえ……部活には入ってなくて」
「そうなの? 遥香が前に、りりちゃんは私と遊ぶより部活のほうが楽しいみたいだからって言ってたから、てっきり高校でも続けてるのかと思った」

 それは、本当に遥香が言った言葉なのだろうか。
 千里さんが言うのだから、本当のことなのかもしれないけれど、素直に信じられなかった。

「まあ、高校生は部活よりもみんなで遊ぶほうが楽しいこともあるか」

 千里さんが想像しているような、いわゆる青春な一ページを日常としていない自覚があるから、私は曖昧に笑ってアイスを食べ進めた。

「高校では新しい友達できた?」

 これは、遥香のお母さんの前で頷いていい質問なのだろうか。

「えっと……」
「って、私には言いにくいか。いや、遥香がね? りりちゃんとは住む世界が違うからって拗ねちゃっててさ」

 千里さんは「子供でしょ?」とでも言いたげな呆れた表情で言う。
 遥香が、拗ねる。そんな姿、想像できない。
 だって、遥香は自分から私の隣にいることを拒否したのだから。

「りりちゃんが忙しいことはわかってるんだけど、ときどき遥香をかまってあげてくれると」
「……母さん、なに言ってんの」

 すると、背後から千里さんの言葉を遮る低い声がした。
 振り向くと、そこには不機嫌そうな顔をした遥香が立っている。寝間着で髪が乱れているところを見るに、まさに寝起きだ。一日、部屋から出ていないような姿。
 その姿を見て、よかったと心の底から思った。

 遥香は、“Y”じゃない。

「なにって、事実でしょ?」
「……違うけど」

 千里さんに言い返す様子は、たしかに拗ねているように見える。

「もしかして、あれで拗ねてないつもりだったの?」
「うるさいな」

 遥香は言いながら、冷凍庫を漁って私と同じバニラアイスを取り出した。
 そして部屋に戻るさなか、遥香は私のほうを見た。

「……部屋、来る?」

 私は頷き、千里さんに「ごちそうさまでした」と言って、遥香の背中を追った。
 部屋に入ると、そこは昔よりも少し薄暗く、物が散らかっているように見えた。

「莉々愛が来るって思ってなかったから、部屋の掃除してないけど、適当に座って」

 遥香はそう言いながら電気をつけると、勉強机に向かった。私は乱れたままのベッドの上に腰かける。

「それで? なにしに来たの?」

 その声色が怒っているのか、興味がないのか、私には判断つかなかった。
 カップアイスの蓋を開け、一口を頬張った遥香は、戸惑う私を見つめてくる。

「……話を、したくて」

 私が言うと、遥香は鼻で笑った。

「人気者の莉々愛に嫉妬して、ネットで莉々愛のことを誹謗中傷していたことについて?」

 それは、クラスや同級生たちが噂していたことだ。遥香の言う通り、私はそのことについて話をしにきた。
 でも、私がしたいのは遥香が想像しているような内容ではない。

「……それが本当なのか、確かめにきた」

 予測通り、遥香は固まり、何度か瞬きをした。

「莉々愛は、あれを信じてたんじゃないの」

 遥香は私と視線を合わせず、アイスを食べ進める。
 千里さんが拗ねていると言っていたのがわかる。これは、動揺しているというより、ふてくされているようにしか見えない。

「信じてたっていうか……わからなかったの。遥香のことが」

 そう。私は信じたかった。だけど、遥香が隣にいなくなってから、私は遥香を見失った。
 なにを思って、なにに悩んで、不満を抱いているのか。
 そのすべてを、私は知らない。

「遥香は、どうしてあの日、私にあんなことを言ったの?」

 遥香はその言葉の続きをちゃんと聞くためか、こちらに視線を向けた。
 その表情は、私がどのことを言おうとしているのかわかっていないみたいだ。

「私と距離を置きたいって」

 私が、この半年、一度も忘れなくて、聞けなかったこと。やっと、聞くことができた。
 それを聞くと、遥香は逃げるようにアイスに視線を戻す。でも、アイスを食べ進めはしない。ただ見つめているだけだ。

 遥香が答えない限り、この部屋は沈黙に支配される。
 静かな時間は苦手だ。最近の私は、悪い妄想ばかりしてしまうから。
 だけど今は、その答えが聞けるなら、いくらでも待つ。

「……莉々愛と、住む世界が違うなって思ったから」

 さっき、千里さんが言っていたものと同じだ。
 私と遥香の世界が違うわけないじゃん。
 そう言いたかったけれど、きっと、遥香はそんな言葉を求めていない。
 私は言葉をなんとか飲み込んで、遥香の言葉の続きを待った。

「中学に上がるまでは、そんなこと微塵も思わなかった。莉々愛の隣にいるのが楽しかったし。でも……中学生になってからは、違和感があったっていうか」

 違和感。それは、私が感じた、隣が空席になった感覚に似ているのだろうか。そして、私たちの間に溝ができてしまった原因。

 いや、きっと違う。遥香は、私が隣にいることに、違和感を抱いていたんだ。

「莉々愛って、普通に一軍に属せるタイプでしょ」

 遥香はこちらを向き、確かめるように言ったけれど、私は首を傾げた。

「目立つタイプってこと」

 それなら少しわかってしまった。
 実際、高校に入ってからの目立ち方は異常だと思う。

 だけど、中学のころも目立っていたかと聞かれると、答えはノーだ。私は、どこにでもいる中学生だったはずだ。
 でも、遥香から見れば、そうではなかったのかもしれない。

「……私、目立つの嫌いだから」

 それだけの理由で。
 そう思っているのは、私だけではなさそうだ。
 遥香もそう感じでいるからか、私のほうを見ようとしない。

「でも、それなら、そう言ってくれたらよかったのに……連絡も取れなくなるまでしなくても」

 そこまで徹底的だったからこそ、寂しくて、不満をこぼすように言った。
 すると、遥香は小さく笑った。私はまるでなにもわかっていないと言わんばかりに。

「中学のとき、私と莉々愛が話しているとき、どんな目を向けられてたか知らないんだね」

 そのころの私は、まったくもって周りの目を気にしていなかった。
 遥香にこんな悲しい表情をさせてしまうような反応が、知らない間にあったというのだろうか。

「莉々愛の部活仲間だったかな……誰かわからないけど、あの二人って本当に友達なの?みたいに見られてたことがあるんだよ」
「え……」

 そんなの、知らない。だって、私の周りには、そんな反応をするような子はいなかったと思う。

 ……いや、それはあくまで、私が知っている一面の話。鈴ちゃんみたいに、心の奥底ではどう感じていたのか、私には計り知れない部分があったのだとしたら。そういう目を向ける人もいたのかもしれない。

「そのころからかな。あー、私って、莉々愛の隣には相応しくないんだなあって思うようになって」
「……だから、“距離を置きたい”?」

 遥香はあっさりと頷いた。

「高校でもそんな目を向けられるのは面倒だなって思って。だったら、最初から無関係でいたほうが楽かな、と」

 周りの反応のせいで、私は、遥香と距離を置くことになったなんて。気にしなくてもよかったのに、なんて無責任な言葉が頭をよぎる。

 でも、遥香が静かな学校生活を過ごすためには、必要な約束だったんだと納得しているところもあった。
 遥香は、目立ちたくなかった。静かに日常を過ごしていたかった。
 これは紛れもない事実だろう。
 つまり。

「じゃあ……遥香は“Y”じゃないんだね」

 やっと、心から安心して言えた。
 私と関わらないことが最善だと思っていたなら、ネットであんな騒ぎを起こしたりしない。
 私の隣に相応しくないと思ってしまっていたなら、夢奏に「莉々愛の隣にいることが許せない」なんて言わない。

 遥香は、本当に“Y”ではなかった。その確証を得られた気がした。

「“Y”って?」

 まるで初めて聞いたみたいな反応は、演技には見えない。

「えっと……夢奏が、遥香を責めたでしょ? 私のこと嫌いだからって、あんなことするなんて最低だって」

 遥香は口にスプーンを入れたまま、記憶をたどっている。すぐにそのときのことを思い出したのか、何度か首を縦に振った。

「あれ、ネット上で私の悪口を書いた人がいて……そのアカウントの名前が“Y”だったの」
「あー……そういうこと? イニシャルだけで私はあんなに責められたわけね。ほかにもいるだろうに」

 遥香は、納得しているようで、腑に落ちていないように見えた。

 でも、冷静になった今、遥香の感覚もなんとなくわかる。
 イニシャルだけで夢奏は遥香を犯人だと決めつけて、責め立てるなんて、さすがに暴論だ。

 でも、どうして、遥香だったんだろう。
 私を睨んでいたと言っていた気がするけれど、遥香の思っていたことを聞いたことで、それは夢奏の気のせいだとしか思えない。
 つまり、思い込み。
 私だって、遥香に嫌われたと思い込んでいたから、夢奏の言うことを真実のように感じてしまったわけで。
 先入観というのは、恐ろしい。

「でも……遥香じゃないなら、“Y”って本当に誰なんだろう……」

 誰かがあの投稿をしていたことも。鈴ちゃんと衝突したことも。夢奏が傷付けられたことも。
 すべて、実際に起きたことだ。
 その正体を見つけ出さなければならないのに、完全にわからなくなってしまった。

「……さあね」

 だけど、遥香はどこか興味なさそうに言った。