「あ、待って!」

 カラン、コロン、カラン、と下駄を鳴らしながら小走りで線路沿いを歩いていた私は、目の前の線路を電車が通過していくのを呆然と眺めた。
 過ぎ去っていく電車はどの車両も人、人、人、で満員だ。それもそのはず。だってこの電車は、花火大会が行われた今日、臨時で発車している電車だ。しかもこれが最終電車で、私はこの電車に絶対乗らなくちゃいけないはずだった。

「待って……、待ってよ」

 白色の生地に薄紫の藤の花があしらわれた浴衣に身を包んだ私は、力無くうなだれる。鼻をつく潮風が、必死にまとめ上げたお団子の髪の毛をべたべたに乱していく。もう、身なりなんて気にしなくてもいいはずなのに。半分は自ら最終電車を逃したようなものなのに。
 心はいつだって本音とは違う方向へと私を連れていく。
 そんな嘘っぱちの自分がきらいだ。
 
「ばーか」

 つぶやいた言葉は、夜の暗闇の中で溶ける。
 
「ばーかばーか……」

 私のばか。
 こんな気持ちになるって分かってたはずなのに。
 好きでもない男と花火大会に来たら、惨めな気持ちになるって気づいていたはずなのに。
 心はいつも、本音とは裏腹に、私を傷つけるほうへと歩いていく。

「歩こ……」

 後ろから吹いてくる潮風を全身で受け止めながら、人もまばらになった花火大会会場の、最寄り駅から伸びる線路をたどって歩き出した。

 根来風香(ねきふうか)、二十二歳。
 鼻緒が足の間を擦り上げるひりひりとした痛みを感じながら、たったひとりで夜道を進んだ。


 ***

 同じ大学の同級生である新田清隆(にったきよたか)くんと出会ったのは、つい一週間前のことだった。
 海沿いの街にある公立大学で、経済学を学んでいる私。同じ経済学部の友人である里美(さとみ)から、「紹介したい男の子がいるんだけど」と言われた時は、「え、だれ?」と思わず食いついた。

「風香が好みそうな男の子。サークルの同期なんだけどね……」

 私が反応を示したことで勢いに乗った里美は、件の彼の写真を私に見せてくれた。ほんのりと茶色に染まった髪、目鼻立ちの整った顔、キリッとした表情。サークルでBBQをしている時の写真で、新田くんは里美をはじめ、大勢の友達に囲まれて楽しそうにしていた。

「ねえ、どう? 彼さ、一年ぐらい彼女がいなくて、ずっと彼女がほしいって言ってるんだよ」

「なるほど……いいね」

「でしょ!? わーよかった! 風香もそろそろ新しい彼氏つくったほうが身のためだよ。恋は上書きしちゃえばなんとでもなるって。まじでこれは本当。前の恋を忘れるためには新しい恋をするに限る!」
 
 使い古された恋愛理論を、あたかも自分が考えましたというふうに自信満々で言う里美がおかしくて、思わずふふっと吹き出した。

「そうだよね。うん、新しい恋、してみたい」

「よし、そうこなくっちゃ。そうと決まれば早速連絡先教えるから、あとは頑張って」

 軽いノリで私に新田くんの連絡先を送ってくれる里美。ピコンとLINEの通知音が鳴って、里美から「新田清隆」という人物のプロフィールが目に映る。戦国武将みたいな名前をしたその人に多少興味が湧いたのはたぶん、元彼の真島穂高(ましまほだか)とちょっとだけ名前の響きが似ているからだ。……なんて、この時は気づかなかった。無意識に、穂高の影を追う自分がいることに。盲目なふりをしていた。


 新田くんと連絡をとり、待ち合わせをして初めて食事を共にした夜、彼から「今日はありがとう」とお礼を言われた。会話はそこそこ盛り上がったし、その場は楽しかった。
 ……でも。
 心のどこかで、穂高と比べてしまっている自分がいた。
 彼が食事の際にお箸を口に運ぶ仕草や、私の様子を伺いながらお酒を飲む姿を、どうしても穂高と重ねてしまう。笑い方、喋り方、一つ一つの所作が気になって正直彼との会話に集中できたという気がしなかった。
 だからやっぱりまだ新しい彼氏をつくるのは無理かな……と諦めていたのだけれど、食事から帰ったあと、夜寝る前に新田くんからメッセージが届いた。

【今日は付き合ってくれてありがとう。とても楽しかった! それで、早速なんだけどさ……来週末の花火大会、一緒に行かない?】
 
「花火大会……!?」

 予想もしなかったお誘いに心臓がどきりと跳ねる。ここらで花火大会といえば、八月の頭にある海辺の花火大会のことだ。6000発の花火が上がる。かなり大規模な花火大会で、毎年楽しみにしている人も多いだろう。かくいう私も、今まで毎年穂高と行っていた。でも、そんなビッグイベントに、出会ったばかりの彼と……?
 うーん、どうしよう……。
 一瞬迷ったものの、嬉しそうににまにまと笑う里美の顔が浮かぶ。
 花火大会に行ったからと言って必ずしも何かが起こるわけじゃないよね。
 それに、花火自体、見るのはとても好きだ。
 心の中で謎の言い訳をして、スマホに指を這わせる。

【いいよ】

 たった一言だけで、返事を送った。すぐに【よっしゃ! ありがとう!】と屈託のない返信がくる。そのシンプルな言葉にすら穂高とのメッセージのやり取りを重ねてしまって、やっぱりちょっとだけ胸がざわめいた。
 でも、今年も花火大会に行けるということが、胸にほんのりと確かな温もりを運んでくれた。

***

 が、甘かった。
 海沿いの歩道を、とぼとぼと歩きながら、今日の出来事がフラッシュバックする。
 駅前で新田くんと待ち合わせをして、たこ焼きやからあげを頬張りながら、お祭り気分に浸っている時はまだ良かった。新田くんがわずかに緊張した面持ちで、なんとか私を楽しませようとリードしてくれているのが分かった。私も、そんな彼の期待に応えようと、精一杯楽しんだ。いや、今思うと楽しいふりをしていた。
 そして、いよいよメインイベントの花火大会が始まる。
 人混みをかき分けて、なんとか見つけた観覧場所に腰を下ろし、夜空に咲き乱れる光の芸術を目に焼き付ける。何も考えないように、ただ花火に圧倒されながら空を見上げていた。隣の新田くんの息遣いを、無意識のうちに感じないようにしていたんだと思う。そして、最後の花火が上がったあと、新田くんが「あのさ」と頬を赤らめながら言った。

『出会って間もないからびっくりさせちゃうと思うんだけど。俺、風香ちゃんのこと好きかも』

 さっきまで「根来さん」だったのに。いつのまにか「風香ちゃん」という呼び方に変わっていた。彼のその辿々しい告白の言葉に、私の心臓は凍りついたように動かなくなった。それが、自分の中での明白な答えだと知る。出会って間もないからだめなわけじゃない。世の中には一目惚れで恋に落ちて、永遠の愛を誓うひとたちだっている。だから、新田くんの告白を受けて私の心が動かなかったのは、そういうことだと悟った。

『……ごめんなさい』

 あまり深く考えられないうちに、口が勝手に動いていた。次の瞬間に新田くんの顔に浮かんでいたのは、驚愕と、やっぱりそうだよねという諦め。私が彼にそんな表情をさせてしまったという罪悪感に、胸が軋む。

『そっか。うん、なんとなく気づいてた。風香ちゃんって、俺といるとき、なんだか別のひとのことを考えてるみたいだったから』

 心中を言い当てられて言葉が出てこない。どんな謝罪も、彼の気持ちを逆撫でするだけだ。
 気まずくなって目を伏せる。そんな私を見ていられなくなったのか、彼は「ごめん、先帰るね」と私を置いて歩き出した。人混みに紛れて去っていく彼の絶望が滲む背中を、四ヶ月前の自分の背中と重ねる。
 
 穂高から、「別れようか」と言われたときの、自分の背中と。
 あまりにも一緒すぎて、その場から動けなくなった。


 花火大会のあとの街の静けさは表現し難い。
 つい一時間ほど前まで、前に一歩進むのも苦労するほど人でごった返していたのに。今や寒気すら感じられるほど、人気(ひとけ)がなかった。花火を見に来たひとたちは今頃電車の中でおしくらまんじゅう状態で揺られているだろう。それもまた花火大会の醍醐味だ。私はいつ、進むべき道から脱線してしまったのだろう。

「はあ……」

 ため息を吐きながら一人きりで夜の街を進む。海沿いを離れて、繁華街のほうへ。いつのまにか、時刻は二十四時をすぎていた。どうりで静かなはずだ。遠くからかすかに聞こえる波の音が、私を現実ではないどこかへ連れ出そうとしているみたいだった。

 どれくらい歩いただろう。もう、棒のように硬くなった足を無理やり動かすのにも慣れてしまった。そんなときだ。
 
「こんばんは」

 右斜め後ろから声をかけられた。反射的に身体が跳ねる。周りに誰もいないと思っていたから、突然声をかけられるなんて思いもしなかった。恐る恐る声がしたほうに振り返ると、そこには若い男性が立っていた。
 仕事帰りなのか、いわゆるオフィスカジュアルふうの装いで、暑いのに半袖のジャケットを羽織っている。年齢は見た感じ二十代半ばくらい。

「な、なんですか」

 深夜に見知らぬ男から声をかけられてことで、自然と身体が固くなる。咄嗟に頭に浮かんだのは「ナンパ」の三文字。それ以外ありえないだろう、と勝手に納得していた。
 でも。

「あ、突然話しかけてすみません。僕、怪しい者じゃないんです。こういう者でして」

 ジャケットのポケットから名刺を取り出した彼は、それを私に差し出した。受け取る義務なんてないはずなのに、名刺をちゃんともらって、そこに書かれている文字を目で追ってしまう。

「MMラジオ局……?」

 どこかで聞いたことのあるようなラジオ局名と、「白井圭介(しらいけいすけ)」という名前が目に飛び込んできた。

「そうそう。知ってる?」

「は、はい。なんとなくですが聞いたことあります。そこのラジオ局のひとってことですか?」

「ザッツ、ライト!」

 怪しい者じゃないと分かってもらえて嬉しいのか、ニコニコとした表情で右手の親指をサムズアップした。
 な、なんなんだろう、このひと……。
 こんな真夜中に、社名を出して陽気に話しかけてきて、何がしたいんだろう。
 内心訝しく思ってることが顔に出てしまっていたのか、「あ、それで」と慌てた様子で話を続けた。

「ものは相談なんだけど、今から俺の担当してるラジオ番組に出てくれない?」

「へ?」

 予想の斜め上をいくお誘いに、一瞬自分の表情筋が固まるのを感じた。

「……って、突然こんなこと言われても意味わかんないよね。えっと、詳しく説明すると、今俺、『深夜のふたりごと』っていう番組を担当してて。毎週この時間帯に俺と、ゲストのふたりでラジオを配信しているんだけどさ、今日そのゲストから体調不良で出られなくなったって連絡があったんだよー。でもさ、もう番組の枠も決まっちゃってるし、今更おやすみするわけにもいかなくて。で、代わりのゲストを探してたんだ。ラジオって言っても、俺の質問に答えてくれればいいだけだし、そんなに固くならなくても大丈夫。どう? 深夜の戯れに参加してみるのは」

 淀みなく説明する白井さんだが、話を聞いている最中、いくつもの疑問が浮かんだ。
 『深夜のふたりごと』って、一体どんな話をするの?
 私のような素人ゲストで大丈夫なの?
 打ち合わせと配信時間は?
 聞きたいことが山ほどあって、頭の中をぐるぐると疑問が回っている。でも、不思議なことに「断る」という選択肢が浮かんでこない。

 代わりに、穂高と同棲していた頃、彼と二人でラジオを聴いた日のことを思い出していた。
 眠れない夜に、彼とラジオアプリを開いて、適当なラジオを聴くのが二人の日課だった。彼は、私と付き合う前からラジオを聴くのが趣味だったのだ。彼の趣味につられて、私も静寂の横たわる空間で、彼とうつ伏せに寝転んで身体を寄せ合う。

『ラジオの声って、なんだかすごく落ち着いて聞こえて、良くない?』

 穂高が深夜のラジオを聴きながらはにかむ顔を見るのが、私な何より好きだった。
穂高との思い出を振り返るうち、気がつけば無意識に「はい」と頷いていた。

「本当!? うわあ、助かるよありがとう! 今日のテーマ的にも、きみみたいなひとを探してたんだ」

「テーマ的にも?」

「うん。詳細は現場についてから伝えるよ! ちょっと時間ないから、走れる?」

「え、走るんですか!?」

「ああ。配信まであと十五分なんだ。浴衣で走りにくいところ申し訳ないけど、ついてきて!」

「は、はいっ」

 白井さんが私に右手を差し出してきて、いいのかな、と思いつつ私はその手をそっと握る。ゴツゴツとして大きい手のひらは汗ばんでいて、彼が内心とても焦っていたことが分かった、
 もう訳がわかららない。でも、走り出した白井さんの背中を追って、自分も下駄で勢いよく地面を蹴った。足が痛いはずなのに、自然と辛くない。夜の闇を引き裂くようにして、風を受けながらただひたすら、白井さんについて走った。

 ラジオ局へは五分ほどで到着した。ブースは二階にあるというので、二人でエレベーターに乗り込む。

「白井〜遅いって! もう始まるから早く!」

 スタジオで白井さんと同じぐらいの年齢の男性が焦った様子で出迎えてくれた。

「ごめんごめん、ゲスト探すのに時間かかっちまって」

「いいから入って! きみがゲストの方だね、突然だけどよろしく!」
 
 よろしく、と言われましても。
 何をどうすれば良いの分からないまま、呼吸を整える間もなく、早速ブースへと突入する。
 名前も知らない機材に取り囲まれた部屋で、中央のテーブルにつく。テーブルの真ん中に設置されたマイクがにょきりと伸びている。自然と緊張してしまうけれど、そんなことお構いなしに、白井さんが息を切らしながらヘッドフォンを装着した。

「ほら、きみも……えっと、名前はなんだっけ?」

「根来風香です」

「風香ちゃんも、これつけて」

 いきなり名前で呼ばれたことに驚きつつ、彼の指示通りにヘッドフォンを頭につける。
 
「簡単に説明だけするね。基本は俺が風香ちゃんに質問をするから、質問されたらマイクに向かって喋って。ラジオは二十分間。それだけ」

 それだけ、と本当に簡単なことしか言われなくて面食らう。
 じゃあそろそろいくよー、とブースの外の機械の前に座っている先ほどの男性に合図を送ろうとする。

「ちょ、ちょっと待ってください。質問って、どんなこと聞かれるんですか? 何かテーマとかないんでしょうか?」

「あー、テーマね! そうだそうだ。伝えてなかった。テーマは毎回変わるんだけど、今日のテーマは『あのとき後悔したこと』だよ」

「後悔したこと……」

 言葉にしてつぶやいてみて、胸にぽつりと静かに雨が降ってきたようなしんみりとした感情に襲われる。
 穂高……。
 咄嗟に思い浮かんだ彼の顔を慌ててかき消す。
 私、今から彼のことをラジオで話すの? 
 誰が聞いているかも分からないのに。
 さすがにそれはまずいよね。
 ……と、理性では「やめておけ」と自制するものの、心のどこかでは「いいんじゃない?」と自分の背中を押していた。
 ずっと、誰かに言いたかったんでしょ。吐き出したかったんでしょ。
 だったらここで吐き出しちゃえばいい。

「あ、ちなみに本名とかは言わないほうがいいよね? なんて紹介したらいいかな?」

「えっと……じゃあ、“ネギ”で」

 それじゃあもう本名を言っているようなものだ。
 ネギ、と聞いたら、もしかしたら穂高が気づいてくれるかもしれない。
 穂高は、ラジオが好きだったから聴いてくれているかも。
 ……なんて、ありもしない現実を想像する。
 だけど結局、本名を連想させるニックネームを答えたのだから、私はどうしようもない馬鹿なんだろう。

「了解、“ネギ”さんでいくね。じゃあ今度こそ本番いきまーす! 本番、五秒前。四、三、二、一」

 白井さんの五本の指が一本ずつ閉じて、ついに拳だけになる。
 捨て置かれた猫のように椅子に座っている浴衣姿の私は、途端に緊張で顔も背筋もひきしまった。

「さあて、今宵も始まりました。『深夜のふたりごと』のお時間です。みなさんは、深夜に胸のうちを誰かに打ち明けたくなることってありませんか? そんな誰かの打ち明けたい想いを毎週配信します。今日のテーマは『あのとき後悔したこと』。ゲストはネギさんです〜」

 パチパチパチ、と大きな拍手をされて、「こんばんは」とマイクに向かってつぶやく。質問はされていないけれど、たぶん挨拶ぐらいはしたほうが良いだろう。

「えー、なんとですね。ネギさんは今、浴衣姿で僕の前に座ってくれているんですよ。花火大会終わりで歩いているところを声かけたんです。え? ナンパじゃないですよ。彼女、とても美人さんです」

 やっぱりナンパじゃないかよ。
 とツッコミを待っているようにコミカルに話を進める白井さん。その澱みのない語りに、さすがプロだとしか言いようがない。先ほどまで準備に焦っていたのに、いざ本番が始まるととても落ち着いているように見える。逆に、ど素人の私はどんどん心拍数が上がっていくのを感じていた。

「あ、ネギさん、そんなに固くならないでいいですよ〜。いやいや、僕の圧が強いわけじゃないですって、勘違いしないでくださいね〜。さて、前置きはこの辺にして、早速本題のほうは入りましょうか。今日のテーマは『あのとき後悔したこと』ですが、ネギさんは何か、今まで後悔したことってありますか? 僕はですねえ、小学校の卒業式で、初恋の子に告白できなかったことですね。その後その子、中学でヤンキー男と付き合ってショックだったんですよ。あのとき僕が告白していれば、彼女を極道から救うことができたのにって。いやいや、そんな大層なことできないだろうって? 夢ぐらい見させてください! あ、すみません。僕がずっと喋っちゃってましたね。ネギさん、どうですか?」

 白井さんがおもしろおかしく自分の過去の後悔を話してくれたあとに、私に質問を振ってくれた。考える暇なんてほとんどなかったから、もう思いついたことをぱっと話すしかない。
 ええい、もうどうにでもなれっ! 
 と、やけくそになって大きく息を吸い込む。

「私が後悔していることは……自分の心に嘘をついてしまったことです」

「おおっと、繊細な表現が来ましたね。具体的に聞いてもいいですか? どんな嘘をついたんでしょう」

「元彼と別れたあとに、もう彼のことなんて好きじゃないって、自分に言い聞かせていました。あんなやつ大嫌いだ。こっちからもう願い下げだ。薄情男め、って悪口を言って、吹っ切れたふりをしていたんです」

「ほうほう、それでそれで?」

 白井さんが興味津々な様子で身を乗り出してくる。ふりなのか、本気で気になっているのかは分からない。でも彼のその態度が、私の背中を後押しした。

「元彼とは高校二年生の春から五年付き合って、今年の春に別れたんです。同棲していたんですけど、お互い就活で忙しくなって、知らず知らずのうちにストレスが溜まっていて。どちらかが本命の企業の選考に進んだら、どちらかが落ちてしまって気まずい空気が流れる——そんなことが度々ありました。お互いの活躍を素直に喜べない雰囲気になって、それが苦しくて……つい」

 話しながら、胸にちくりと針で突かれたような痛みが広がっていく。
 話には若干嘘を混ぜた。
 どちらかが本命の企業の選考に進んだら、どちらかが落ちてしまって——と言ったが、本当は穂高がどんどん選考を進めていくなか、私だけが一次面接で落ちまくっていた。

『穂高ばかり、選考進んでずるい』
『同じように生活してるのに、なんで私だけだめなの?』

 今思い返せば、ひどい八つ当たりだった。でもこの時の私は、精神的に追い詰められていて、誰かに当たり散らさなければ正気を保っていられなかった。どこへ行っても突きつけられる「落選」の二文字。面接官の質問に真面目に答えているはずなのに、真面目すぎるのが災いしているのか、私を受け入れてくれる企業はどこにもなかった。
 次第に人間否定されている気分に陥って、逆に思い通りに選考を進めていく穂高に腹が立ってしまったのだ。
 穂高も私と同じぐらい真面目な性格をしていた。でも彼はきっと面接官を前にしても身体が震えることはない。堂々と自分の意見を話していたのだろう。そこが自分との差だと気づいていたはずなのに、都合の悪いことは見えないふりをして、彼に当たり散らした。
 穂高は「落ち着けよ」「きっと次は大丈夫だから」と私を宥めてくれたけれど、やがて慰めることすら難しくなったのか、最後の方は終始黙りこくって私の愚痴をただ受け止めるだけになっていた。

『穂高のこと、もう好きじゃない』

 四月の終わり、すでに内定を二つ手にしていた彼に、私は感情を吐き出した。
 どろどろのマグマみたいに熱く溶けた気持ちに、焼け爛れていたのは自分自身の心だ。
 穂高は一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐにすっと冷静になって、「別れようか」と言った。
 自分から破滅への一歩を踏み出したくせに、彼から決定的な一言を聞いた時、心臓をもがれたかのように激しい痛みが私の胸を襲った。

『うん、別れよう』

 別れたくなかった。
 でもきっと、そうするしかなかった。
 これ以上、お互いを傷つけないために、本心とは違う決断をするしかなかったんだ。

「その日からずっと……後悔しているんです。なんで自分の心に嘘をついて別れを受け入れてしまったんだろうって。別れた後も、どうしてもう吹っ切れたから大丈夫だなんて嘘をついて、無理やり新しい出会いを求めようとしたのかって。新しい人に出会うたびに、どんどん虚しくなるんです。この嘘の代償が染みみたいに胸に広がって、がんじがらめになっているんです。私はもう、この場所から動けない。ほだ——彼がいないこの場所で、上手く息を吸えない。それが私の……『あのとき後悔したこと』です」

 せり上がってくる感情を抑えることができずに、ガタン、とその場から立ち上がる。「え、ちょ、ネギさん!?」と白井さんが驚いて、慌ててマイクに向かって続ける。

「えー、というわけで、『あのとき後悔したこと』を語っていただきました! いやあ、かなり切ないお話で胸に来ましたね。みなさんの『あのとき後悔したこと』も、メッセージにて募集いたします。ぜひ、胸のうちを吐き出してみてくださいね。それでは今日のところはここまで。また次回お会いしましょう。さようなら〜」

 半ば強引にラジオを締め括った彼が、次に何か言葉を発する前に、私はブースから飛び出す。

「待って、風香ちゃん!」

 エレベーターの前までたどり着いた時、白井さんに捕まった。
 無視することもできずに、「すみません」とただ謝る。

「いや……謝らなくていいよ。俺のほうこそごめんね? 突然ゲストに誘って。迷惑だったかな?」

「いえ、迷惑というわけではありません。ちょっと色々思い出してしまって、苦しくて……」

「さっきの元彼の話だよね。すごく好きだったんだね」

「……はい。就活のことはきっかけに過ぎなかったんです。きっと私たちの歯車はとっくの前から狂っていて、それがたまたま就活で爆発してしまっただけ——分かっているんですけど、自分の気持ちに嘘をついたことが、やっぱり許せなくて」

 どうして、白井さんに穂高とのことをここまで話してしまっているんだろう。
 自分でも不思議に思いつつ、それでも本音を吐き出すことが止まらなかった。
 白井さんは神妙な顔つきのまま、私の言葉をただ静かに受け止めてくれた。やがて、すうっと彼が息を吸う。

「ラジオってさ、不思議だよね。顔の見えない相手に語りかけるうちに、気がつけば本音がするする出ていってしまうんだ。誰が聞いてくれているかな。大切な人が、家族が、友人が、今自分の言葉を聞いてくれてるかもしれない。そう思うと、ちょっと恥ずかしいし、でも勇気をもらえる気がするんだ。うちはAMラジオでさ、他にFMっていうのもあるんだけど、AMはFMより遠くまで電波が届くんだ。まあその分ノイズも多くなっちゃうけどね。風香ちゃんの想いは、きっと届いているよ」

 誰に、とは言わなかった。
 白井さんはニッと口を開けて、頬を綻ばせる。
 白井さんの歯は白い。
 くだらない駄洒落を思いついた自分がアホらしくて、鼻緒が食い込む痛みも忘れていた。 

「風香ちゃん。良かったらさ、今度一緒に食事でも行かない? まだ話し足りないことがあれば、俺に話してくれていいよ」

 さらりとした誘い方だった。心臓がとくんと跳ねて、白井さんの顔をまじまじと見つめる。表情は少しだけ強張っていて、あんなにラジオで堂々と話していた彼も、今は緊張しているのだと分かった。
白井さんのその言葉の意味を考える間もなく、心がひとつの結論を導き出す。

「ごめんなさい。私、やっぱり心に嘘はつけないみたいです」

 ここで白井さんの誘いに乗っていたら、どんなに楽だっただろうと自分でも思う。でも私にはできなかった。この胸の真ん中に今もずっと居座っているのは、他でもない穂高だから——。

「……そっか。残念だけど、自分の気持ちに正直になるのが一番だよ。実はさ、今日風香ちゃんを見かけたとき、後ろ姿がすごく寂しそうだったから。今日のテーマにぴったりだなって思ったんだ。でも、つらい思いをさせてしまったね。ごめんね。今日は付き合ってくれてありがとう」

「いえ……むしろ、話せてすっきりしました。こちらこそ、ありがとうございました」

 白井さんの眉がわずかばかり傾いたのを見て、ちょうどやってきたエレベーターに乗り込んだ。
 何も考えずに、一階へと降りて、無心でラジオ局を後にする。ラジオであんなことを話してしまったせいか、頭のなかは穂高の顔で埋め尽くされている。
 このまま歩いて自宅まで帰るか、どこかでタクシーを拾おう——ぼんやりと考えながら、また前を向いたときだ。
 カゴバッグに入れていたスマホのバイブがブーっと震えていることに気づいた。
 きゅっと真ん中で閉じられた鞄の紐を解いて、スマホを取り出す。画面に表示されている名前を見て、飛び上がりそうなほど驚いた。

「穂高……」
 
 一体なぜ、このタイミングで。
 「真島穂高」と画面いっぱいに映し出された名前を見て、ゆらゆらと水面を漂っていた身体が、突如大波に攫われたみたいに緊張した。
 出ようか出まいか迷っている間にコール音が切れてしまうことを願った。けれど、どれだけ待っても音は途切れない。
 もう、出るしかない。
 いや、出たい。
 いつのまにか、心が前向きなほうへと動き出していることに気づく。真夏の夜のまんなかで、遠く夏の虫が鳴いているのを聞きながら、恐る恐る通話ボタンを押した。

「もしもし」

 神経を研ぎ澄ませて、相手が言葉を発するのを待った。一秒、二秒、三秒、と間合いの時間が果てしなく長く感じられる。やがて、穂高が息を吸う音がはっきりと聞こえた。

『風香、出てくれたんだ』

 懐かしい声が耳に響き渡る。高校二年生の春から今年の春まで五年間、私のいちばん近くにあった声。私を安心させて、愛しい気持ちにさせてくれる。いつからか疑心暗鬼になって信じられなくなっていた。そんな彼と、もう一度電話で言葉を交わせていることに、驚きと切なさが込み上げてきた。

「こんな夜中に、どうしたの?」

 言葉が前のめりにあふれそうになるのをぐっと堪えて、いちばん気になっていることだけを尋ねる。心臓の音がどんどん速くなっていた。

『さっき、ラジオを聴いたんだ。“深夜のふたりごと”。それに出てただろ』

「え……」

 確かに期待はしていた。
 自分の苗字をもじった“ネギ”というニックネームで喋ったら、穂高が気づいてくれるかもしれないって。ラジオが好きな彼が、部屋のベッドの上で聞いてくれているかもしれないと。
 だけど、まさか本当に聞いていたなんて思いもしなかった。

『ラジオ出といて驚くなよ。俺がラジオ好きなの知っているくせに』

「そりゃ、知ってるけど……でも、付き合ってる頃、『深夜のふたりごと』なんて聞いたことなかったから」

『まあ、そうだけど。風香と別れてから聞き出したんだよ。風香がいない夜が、寂しくてさ……。そんな時に出会った番組なんだ。深夜の静まり返った時間帯に聞くと、一人じゃないって思えるから』

 聞き捨てならない言葉を聞いた。
——風香がいない夜が、寂しくてさ。
 それってつまり……。
 穂高は私と同じ気持ちでいるってこと……?
 一陣の風が私の頬に吹き付ける。髪の毛が目に入って、痛みで涙がじわりと滲んだ。

『俺、風香に別れようって言ったとき、自分の心に嘘ついたんだよ。本当はあのとき……別れたくなんかなかった。でも、俺も風香も、あのときは自分のことにいっぱいいっぱいになってて……これ以上一緒にいたら、お互いを傷つけちまうって思った。だから、別れようなんて心にも思ってないことを言っちまった』

「うそ……穂高も……? 私も、本当は別れたいなんて思ってなかったんだ。でも、穂高と一緒にいると、自分がどんどん醜くなっていくような気がして……それで、別れるように仕向けた。その後も、穂高のことなんて好きじゃないって思い込もうとした」

『ああ。ラジオで言ってたな。風香のその言葉を聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだ。だから今、こうして電話をかけた。俺も同じ気持ちだって、伝えたくて』

 そこまで口にすると、穂高はすうっと深く息を吸い込んだ。さっきから夜風が目に沁みると思っていたのに、沁みているのは風じゃないことに気づく。彼の言葉のひとつひとつを聞きながら、ゆっくりと自分の胸に語りかける。
 もう嘘はつかないで、と。

『風香』
「穂高」

 同時に名前を呼んだ。あまりにも息がぴったりすぎて、思わずくすりと笑みがこぼれる。穂高も、電話の向こうで「ごめん」と小さく笑った。
 私たち、息ぴったりだね——。
 だって五年も一緒にいたんだもん。
 高二の春に、公園の桜吹雪の中で、はにかみながら彼が私に「好きだ」と言ってくれた日のことを思い出す。あのときからずっと、私の気持ちはあなたにばかり向いていた。この恋の周波数がいったいどれぐらいのものなのかは分からないけれど、穂高にだけは届く数字であってほしい。
 
「ねえ穂高、私たちもう一度やり直せるかな?」

『ああ、もちろん。今度こそ、お互い自分の気持ちに嘘はつかない。そうすればきっとこの先も一緒にいられるよ。な?』

 彼が電話口でそう言ってくれたとき、今までとは明らかに、私の耳に届く声の質が違うことに気づいた。はっとして振り返る。すると、五メートルほど後ろで彼が私に向かって手を振っていた。

「なんで……? どうしてこんなところに」

「ラジオが始まってから、すぐに家を飛び出してきたんだ。ラジオ局までタクシーで疾走してきた。風香に会えるかなって思って」

「うそだ」

「本当だって。なんで嘘つかなきゃいけないんだよ」

「だって……だって、ずっと会いたかったんだもん。会いたいひとが目の前に来てくれるなんて、そんなことあるはずがない」

「でも俺は、風香の隣にいるよ。これから先もいちばん近くにいたい」

 穂高が私に近づいて、全身で私を包み込んだ。
 久しぶりの彼の温もりに胸がとくりとやさしく波打つように鳴る。
 
「良かった。風香の嘘つきな気持ちをラジオで聞けて。俺のところまでその嘘が届いて良かった」

「……うん。素直に話して良かった。終電逃して正解だったかも」

「いや、それは今日だけだよ。終電逃しなんていいことほとんどないから」

「でもこれからは、穂高が迎えに来てくれるでしょ?」

「ふっ、調子の良いやつ。もちろん飛んでいくに決まってる」

 穂高が私の唇に自分のそれを重ね合わせる。
 久しぶりの感覚に、甘やかなときめきで満たされていく。
 すれ違うことが多くなっていた私たちの関係。
 だけど、素直な気持ちを口にすれば、残ったのはとてもシンプルな答えだけだった。

「風香、今年も浴衣似合ってるよ」

「……ありがとう」

 私はやっぱり、穂高の腕の中がいちばん安心するし、いちばん好きだ。
 穂高の背中越しに見える夜空の星のなかに、ひときわ明るく瞬く輝きを見た気がした。



<了>