七月、午後七時の京都市内はまだ日没前で、明るかった。
 京都駅の新幹線改札前で、私、高梨雫(たかなししずく)は改札口をじっと食い入るようにして見つめていた。
 いない、いない、いない。
 恋人の灰野友一(はいのゆういち)に【改札で待ってるね】とLINEを送って一時間、既読はつかず、彼の姿はいまだ見えない。お気に入りの水玉の紺色ワンピースを着た私は、途方に暮れていた。
 今日は私の誕生日なのに。
 三日前、友一から【十八日、午後七時に京都着の新幹線に乗る】と連絡があった。【分かった】と返し、誕生日デートに心躍らせていたのに、この状況はなんだろう。友一は今日、午後休をとって京都に来ると言っていた。なのに、連絡は途絶え、彼は現れない。

 二年前、K大学経済学部を卒業した友一が東京の広告会社に就職し、遠距離恋愛になった。理系院卒の私は今年、京都の製薬会社で研究職に就き、大阪から通勤中だ。忙しさで連絡は減り、彼との間に壁を感じていた。社会人の友一は忙しく、学生だった私の夜の連絡に翌日の昼に返信してくることもしばしばだ。生活の違いが、私たちの間に壁をつくっていた。

 必要な連絡はままならないわりに、ある日、【今日の夜、暇?】と来た友一のLINEが、すぐに【ごめん間違えた】と削除されたのを思い出す。男友達と間違えたならわざわざ削除までしないはず。かすかな疑念が生まれたけれど、気づかないふりをしていた。

「……来んやんか」

 時間が経つごとに焦りが募る。独りごちた声は雑踏の中に溶けた。
 ……困った。

『来年の雫の誕生日も、京都でお祝いするからな』

 一年前の今日、眺めの良いホテルのテストランで夜景を楽しみながら、爽やかな笑みを浮かべて言ってくれた彼の顔を思い出す。その言葉があったから、ここ数ヶ月、連絡が滞っていても彼を信じられた。それに、一週間前にちゃんと、今日の予定まで話してくれていたし。

 午後七時に京都着の新幹線でそっちに向かう。
 着いたらレストランを予約してるから、そこでお祝いしよう。
 夜もホテルに泊まってくよ。俺が予約しとくから。

 その言葉を無邪気に信じていたのに……。


 私たちはこれまで、理性的で合理的な恋愛をしてきた。連絡は週に二、三回、ダラダラせず、会って話すのが基本。求めすぎず、破滅を避けたかった。写真サークルで出会った友一はクールで感情表現が少なく、それが逆にサークルの仲間たちにはウケていた。女の子たちにもよくモテていて、ちょっとこわいところもあった。
 でも、恋愛で感情を抑える私が、彼には合っていたらしい。
『雫が彼女でよかった。一緒にいて楽だな』と友一が言ってくれたのを思い出す。
 私もそう思っていた。
 今思えば、正解だと思い込みたかっただけかもしれないけれど。



 このまま改札の前で待っていても仕方がないと思いつつ、近くのコーヒーチェーン店に入店する。コーヒーを注文して、無為の時を過ごす。
 大丈夫、彼は絶対に来てくれるはず。
 何度も自分に言い聞かせてはLINEの画面をチラチラと見た。けれど、待てど暮らせど「既読」はつかないし、彼はやってこない。

「お客様、そろそろ閉店の時間になりますので……」

 店員さんに肩を揺さぶられて、うたた寝してしまったことに気づいた。

「すみませんっ」

 慌てて顔を上げて時計を確認すると、なんと午後十時前。

「は……」

 寝起きの頭でも、分かる。
 友一が私の誕生日を忘れていること。
 いや、もしかしたら忘れてすらいないのかもしれない。
 確信犯的に、今日の約束をぶっちしている。
 いくら仕事が忙しいとはいえ、来られなくなったなら連絡を入れるのが普通だろう。でも彼はその連絡すらくれない。試しに通話ボタンを押してみたが、何コール目かで彼が出る気配もないことを察知して、通話をキャンセルした。
寂しさと悔しさと、ごちゃごちゃになった気持ちが、冷め切ったコーヒーみたいに黒く沈んでいる。こぼれ落ちそうな涙を目にいっぱい溜めながら、お店を後にした。

 京都駅を出て、周囲をぐるりと見回す。
 こんな時間でも人の往来の激しい駅前は、仕事終わりのサラリーマンや、腕を組んで歩くカップルたちがいやでも目に飛び込んできた。

「なんでやねん……」

 人生でいままで、これほどまでに物寂しい「なんでやねん」をつぶやいたのは初めてだ。
 今日は私の、二十五歳の誕生日。
 大好きなひとに祝ってもらって心の底から幸せな気持ちになるはずだった。
 仕事を頑張って早めに切り上げられるように、朝早く、始業前から出勤した。
 仕事から帰宅して、大急ぎで着替えて、メイクを直して、コテで髪の毛を巻いて。
 最近買ったおしゃれな指輪をつけて、デパコスリップで唇を艶めかせて。
 頑張ったんだ。だって今日は特別な日になる予定だったから。
 なのに、それなのに……。
 現実はひとりぼっちの自分が、駅前で寂しく立ち尽くしている。
 このまま大阪行きの電車で家に帰るしかなくなって、ふと嫌だ、と抵抗している自分がいた。
 何もせずに帰りたくない。だからと言って、どこに行けばいい? ひとりきりで、なにをすればいい?
 京都という地には、彼と過ごした幸せな時間の記憶が詰まっている。ここを離れたら、本当に私たちの関係が終わってしまうような気がして。
 だから、進んだ。
 駅の改札口ではない。京都駅から北上して、京都市内を南北に伸びる鴨川(かもがわ)の河原に降り立った。鴨川は京都でいちばん好きな場所。友一とも何度も歩きながら語り合った思い出がある。私にとって、大切な居場所だった。
 久しぶりに履いたヒールで歩きにくかったけれど、苦ではなかった。夜の鴨川は当たり前だけど暗く、昼間とはまったく違う顔を見せる。月の光がきらきらと反射して、黒光りする川はちょっとこわい。だけど、今のこの寂しい気持ちを代わりに表してくれているようで好きだと思った。
 
 ひとりぼっちで歩くこと、なんと五十分。
 気がつけば京都一の繁華街のある四条通を通り過ぎ、さらに北上して三条あたりまで来ていた。学生時代、私は出町柳(でまちやなぎ)という地域に住んでいたのだが、三条からさらに北のほうに位置している。このまま懐かしい場所まで一人で歩いて行こう——ぼんやりと心の中でそう思っていたとき、前方から歩いてきた人物に声をかけられた。

「雫さん……?」

 懐かしいその声に、はっとその人に視線を合わせる。普段、道を歩いている最中にあまり人の顔を見るほうではないので、声をかけられるまで気がつかなかった。

「ひなたくん……」

 そこにいたのは、大学時代のサークルの後輩である向田(むこうだ)ひなただった。私より二つ下で、今は修士一回生。同じ理系で、彼は工学部に所属していた。

「わ、やっぱり雫さんですよね!? びっくりしたー、目の前から知ってるひとが歩いてきたから。しかも雫さんだなんて。お久しぶりです」

 昔から——と言っても出会ったのは大学生になってからだけど、変わらない太陽みたいな笑顔で挨拶をしてくれた。

「ひなたくん、こんなところで何してるの?」

「見ての通りランニングです。ていうかそれ、俺のセリフなんですけど」

「そ、そうだよね。こんな夜中に鴨川散歩してる社会人、いないよね」

 後輩の前ではどうしてか標準語になってしまう。昔からそうだった。たぶん、見栄を張りたいのだ。標準語で話すことがどうして見栄を張ることになるのか分からないけれど。

「……何かあったんですか?」

 突然神妙な顔つきになったひなたくんを見て悟る。
 彼は私の今の胸のうちを知っているのだと。知っているというと語弊があるかもしれないが、少なくとも私が暗い気持ちでいることを察してくれているのだ。
 
「うん、まあ、いろいろ」

 後輩の前で今日のことを口にするのは恥ずかしいと思って、曖昧に誤魔化す。同じサークルだったから、ひなたくんはもちろん友一のことも知っている。私たちが付き合っていることも。サークルで公認のカップルだったから。

「友一さんと何かあったんでしょ」

「え?」

 核心を突かれて、どきりと胸が鳴る。

「聞かなくても分かりますよ。雫さんの顔に書いてあります。雫さん、今日誕生日ですよね? それなのにこんな時間に、こんなところで一人きりでいるなんて、どう考えてもおかしいでしょ」

 言いながら、ひなたくんが私の隣に並んだ。私と同じほうを向いて、「行きましょう」と口にする。

「行くって……どこに?」

「雫さんが行こうとしてたところ。どこへでも、ついてきます。……って、これはさすがに気持ち悪いか」

 頭をぽりぽりと掻きながら、私を誘うひなたくん。

「気持ち悪くなんかないよ」

 むしろ、今の私にとってはじゅうぶんありがたい提案だった。
 ずっと自分の中で強がっていたけれど、ひとりぼっちで泣いていた心が、誰かの温もりを確かに求めていたから。

「それならよかった。じゃあ、行きましょう」

「うん」

 どういうわけか、ひなたくんと二人で並んでまた鴨川を北上することになった。ひなたくんは、「どこに行きますか?」とは聞いてこなかった。たぶん本当に、私が向かう場所にどこまでもついてきてくれるのだと分かって、胸が締め付けられた。

「雫さん、今日は大阪、帰らないんですか?」

「うん、たぶん……」

「たぶんって、大丈夫ですか? もう少しで終電じゃないですか」

「いいの。もうどうにでもなれって感じ」

 幸い明日は土曜日で、会社は休みだ。今日、どこかホテルに泊まって明日の朝に帰ればいいと思っている。当日に、しかもこの時間にホテルの予約ができるのかどうか、定かではないけれど。

「雫さんって、結構破天荒なとこがあるんですね」
 
 ふふ、と子犬みたいに笑うひなたくん。その姿にむっとしてしまったけど、確実に救われるものがあった。

 それからさらに歩くこと三十分。
 私たちは出町柳駅を少しだけ通り過ぎた先にある、鴨川デルタにたどり着いた。ちょうど一本だった川が二手に別れる場所に、三角形の岸がある。誰でも立ち入れるようになっていて、大学生の頃はここでよくサークル仲間や友達、そして友一とお酒を飲んだ。川のせせらぎを聞きながら飲むお酒は最高に美味しいのだ。あの頃の感覚を思い出して、ちょっと泣きそうな気分に浸る。

「せっかくだし、お酒買いに行きません?」

「え? うん。いいよ」

 ひなたくんに提案されて、今まさに考えていたことが実現した。
 近くのコンビニでひなたくんはビールを、私はレモン酎ハイを買って再度鴨川デルタに戻る。深夜のこの場所には誰もいなくて、二人きりで夜の静寂の中に溶け込んだ。

「久々の再会に乾杯!」

「乾杯」

 場違いなほど元気なひなたくんの声が響き渡る。
 一瞬だけ、今日、恋人が来なかったことなんて忘れてしまいそうになった。

「ぷはー! ランイニング終わりのビール、最高」

「ふふ、仕事終わりの酎ハイも最高だよ」

 ひなたくんといると、自然と心が明るくなる。それは、いつだって屈託のない笑顔で周囲を和ませる天性の才能のおかげだろう。
 ひなたくんって変わらないなあ。
 好きなひとたちに囲まれて、幸せそうに笑ったり、周りの男の子に揶揄われて怒ったり、いろんな表情を見せてくれていた。そんな彼は私にとってかわいい後輩で、憎めないやつで、弟みたいな存在だった。
 
 しばらく二人で漆黒の川を眺めながらお酒を飲んだ。夏なのに、夜は信じられないくらい涼しく感じられる。風が顔に当たって気持ちがいい。もうとっくに終電を逃してしまったことをぼんやりと理解した。

「雫さん、何があったか教えてくれませんか?」

 ひなたくんの口から、その言葉が出てくるのを待っていたように思う。
 自分から切り出すのは先輩として情けないし。かと言って、話さないままなのはもやもやする。ここまで二人で歩いてきて、そのまま解散するのもおかしい。
 だから、ひなたくんからそう聞かれて、ほっとしている自分がいた。

「今日……七時に、友一が京都駅に来てくれる予定だったの。でも、友一は来なくて……。連絡もつかなくて、どうしようかって思って。既読すらつかないの。たぶん私のことなんてもう……。最近、連絡が滞ってたし、まさかとは思ってたけど、やっぱりいつのまにか、心の距離も遠くなっちゃったみたい。……このまま諦めて家に帰るのも悲しくて、ふと鴨川を歩こうと思った。意味わかんないと思うけど、不安定な気持ちを落ち着かさせたかったのかも。だけどひとりで歩いてるとやっぱり寂しくて……」

 いつのまにか、目尻からぽろぽろと涙があふれだして、缶を持つ手にぽつりぽつりと落ちていた。
 みっともなく肩を震わせてしゃくりあげる私を見て、ひなたくんは黙って寄り添うようにしてそばにいてくれた。
泣きながら缶酎ハイを半分くらい飲み終えたとき、ひなたくんが「実は」と語り出した。 
 
「本当は俺、今日どこかに雫さんがいるんじゃないかって思って、鴨川をランニングしてたんです。雫さん、鴨川が好きって言ってたから。……友一さんとデートしてる雫さんがいるかもって考えながら、出町柳と三条をもう三往復もしてました」

「え?」

 まさかの真相に私は言葉を失う。
 三条と出町柳間を三往復も……?
 私もかつてそのコースでランニングをしたことがあるけれど、往復で三十分ほどかかる。三往復ってことは、一時間半も? 後半は疲れてくるだろうから、もっと時間がかかっていてもおかしくない。
 いったいどうしてそこまで……。

「バカですよね。でも俺、なかなか諦めきれなくて。今日もし、友一さんと幸せそうにしてる雫さんを見れたら、ふっきれるんじゃないかって思ったんです。……まさか本当に雫さんに会えるとは思ってなかったんですけどね。でも、実際に会った雫さんはひとりきりで、すごく寂しそうだったから、居ても立ってもいられなくて、声かけたんです」

 ドクドクと、胸の鼓動がどんどん大きくなる。

——ふっきれるんじゃないかって思ったんです。

 その言葉が意味するところを聞かなくても、じゅうぶん理解できる。
 頭の中では、「なんで」と「どうして」が渦巻く。
 だって、私と友一は、ひなたくんが大学に入学する前からすでに付き合っていたんだよ? それなのに、ひなたくんは私のことを——。

「この気持ちは口にしちゃいけないって思って、ずっと秘めていました。でももう、いいですよね? だって雫さんの誕生日に、雫さんにそんな顔させる男に、雫さんを譲る必要はないって思うし」

 速まる鼓動は止まることを知らない。「待って」と口にしかけたが、彼の口から出てきた言葉は、予想とは違うものだった。

「雫さん、今からうちに来ません?」

「はい?」

 てっきり気持ちを伝えてくるのかと思っていた私は、身構えて固くなっていた身体が弛緩するのが分かった。と同時に、聞き捨てならないセリフに、再び身も心もぎゅっと締まる。

「ひなたくんのうちに?」

「はい。だってもう終電逃しちゃったでしょ。ホテルだってこんな時間に探すの大変でしょ」

「それは……」

 もっともなことを言われて、反論の余地がない。
 ひなたくんは地元が神奈川県で、他の多くの学生と同じように一人暮らしをしている。
 合理的に考えて、そう。
 ひなたくんの家に一晩泊めてもらうのがいちばん無難である。
 何が無難なのかと言えば、屋根のある場所で眠れることだが、一つ屋根の下で後輩の男の子と——しかも、恋人がいる状態で寝泊まりするのは、とても無難とは言えない。

「雫さん、知ってますか。鴨川って、このデルタで高野(たかの)川と賀茂(かも)川に分かれるんですよね。一つの川だったものが、二つに分かれる。ここが分岐点です」

 まっすぐなまなざしで私を見つめる彼の顔には、一点の曇りもなかった。まるで私を誘い出すことが彼の正義だとでも言うように。今この瞬間、倫理的にどうなのかとか、彼は考えていない。彼が思う、彼の方法で、私を救い出そうとしてくれてる。
 だったら、私がすべきことは。

 ひなたくんの目を見つめながら、ゆっくりと首肯する。

「知ってるよ。何年、京都に通ってると思ってるの」

 驚いてふるりと揺れる彼の瞳。それからふっと微笑んで、「そうですよね」と右手を差し出した。
 その手をそっと握って、私は彼と、夜の街を歩き出した。
 街といっても学生がたくさん住む住宅地だ。夜中だし、もちろんひと通りはほとんどない。コンビニで再びお酒を買って、ひなたくんがビニール袋を持ってくれる。私は彼の横にちょこんとついていく。なんだか私が後輩で、ひなたくんが先輩みたい。完全に立場が逆転している。でもそれが、今の私にとってはすごく心地良かった。





「てかさ、ほんとありえんよね? 今日半休取るって言ってたのに。取れなかったんなら事前に教えるでしょふつう。そして待ち合わせに間に合わないって詫びるはずよ、まだ私に気持ちがあるなら」

 歩き出した私は、ひなたくんにあけすけに愚痴をこぼしていた。一度タガが外れてしまうともう一気に感情が爆発していた。

「ほんと、なんやねん。他に女がおるんやろか。もうそれならそれでいいわ。あんな薄情男、こっちから願い下げやわ」

 ひなたくんの前だというのも忘れて、関西弁でしゃあしゃあと騒ぎ立てる私を、ひなたくんは「そうっすよねえ」と笑いながら宥めてくれた。

「もう、ほんと、なんでよ……あんなに好きだったのに」

 止まらない本音がつい口からこぼれ落ちる。ひなたくんがどんな気持ちで私の言葉を聞いてくれているのか分からない。ずっと相槌以外なにも言わずに聞いてくれていた。そばにいてくれた。でも、繋いだ手から伝わる温もりは、確実に私の気持ちを、好きだったひとのところから遠くへと連れ出してくれるものだと分かった。

「こんなふうに感情を爆発させるとね、恋愛って上手くいかないんだよ。私、知ってるもん。だからずっと、友一といる時はクールなふりしてた。そんなに好きじゃないですよって言うみたいに、冷静に恋愛してるふりをしてたの。そんな私を、友一も好きでいてくれたはずなのに、いつどこで、間違っちゃったんだろうね」

 あふれ出した理不尽な気持ちを、夜の闇の中に溶かしていく。
 ひなたくんの温もりだけが、私を現実に繋ぎ止めてくれていた。

「……きっと私、明日にでも友一に振られるんだと思う。悔しいよ……。どうして気持ちが大きいほうが、つらい目に遭わなくちゃいけないんだろうね……。そう思わない?」

 ひなたくんが、ぴたりと歩みを止めた。
 それにつられて私も立ち止まる。少しだけ前にいたひなたくんがくるりと振り返った。

「それじゃあ、雫さんが今から友一さんを振ったらいい」

 今までずっと話を聞いているだけだったひなたくんが、はっきりとそんなことを口にした。予想外の言葉に目を瞬かせる。

「雫さんから振って、友一さんにつらい目を味わわせたらいいじゃん。そうすれば、気持ちが大きいほうがダメなんてことにならずに済む。雫さんに振られて、雫さんがどれだけ大切だったかを思い知ると思いますよ」

「……」

「で、その後に気づいて取り戻そうとしてももう遅いんです。だって俺が、雫さんのこと奪っちゃいますから」

 聞こえるはずのない心音が、静まり返る深夜の住宅街で、ドクンドクンと響いているような心地がした。

「ひなたくん」

 たまらなくなって彼の名前を呼ぶ。さっきからおかしいのだ。私は、友一のことが大好きなはずなのに。今日、いちばん近くにいてくれた彼に、こんなにも心惹かれている——。

「電話、かける」

 まるでそうすることが必然であったかのように、自然と鞄の中のスマホへと手が伸びた。
 LINEを開くと十八時頃に私が送ったメッセージに「既読」がついている。だが、その後に何もメッセージは送られていなかった。
 その事実を確認したとたん、堪えていたものがプツンと切れたような気がした。

 通話ボタンを押して、スマホを耳に押し当てた。
 ワンコール、ツーコール、スリーコール。
 四度目のコール音の前に、彼が通話に出たのが分かり、息をのんだ。

「……友一」

 静かに彼の名前を呼ぶ。

『もしもし』

 彼も、低い声で答えた。その声で察してしまった。友一がこれから何を言おうとしてるのか。覚悟の上で電話をとったことが。
 さらに、電話の奥で「だれ〜?」という女のひとの声が聞こえてドクンと心臓が跳ねた。
 ……やっぱりそうだったんだ。
 虚しさと悔しさで胸がはち切れそうになる。このまま感情が爆発してしまう前に、思い切り息を吸い込んで、冷静な口調で言った。

「友一、私たち、別れよう」

 隣にいるひなたくんが息をのんだのが分かった。
 大丈夫、落ち着け、私。
 夜風が私の髪の毛を揺らす。髪の毛が顔にかかり、眉を顰めた。ひなたくんが私の顔に手を伸ばし、私の髪の毛をさらりと掬い上げる。
 目が合った。
 ひなたくんのまっすぐな瞳が、「大丈夫」と語りかけていた。

『……ちょっと、待って。俺から、言おうとしていたんだ、その』

 謝罪の一言もないのか。あれだけのことをしておいて? ついでに弁明もなし。やっぱり友一は最初からもう私のこと振ろうとしていたんだ。今日、誕生日の約束のデートに現れることなく、絶望して何かを察しているであろう私に、明日にでもトドメを刺そうとしていたのだろう。そうすることで、少しでも早く私が別れを受け入れてくれるように仕向けたんだ。
 なんてずるいんだろう。
 やっぱり私はもう、友一と一緒にはいられない。

「好きなひとができたから別れてくれって? 誕生日デートの約束までして、忘れたふりして? それって苦しすぎない?」

『いや、それはその、成り行きで——ほら、俺たちもうずっと前から終わってただろ』
 
 終わってた、という彼の言葉にひゅっと息が詰まる。
 私が悶々としたり、今日のデートを楽しみにしたりしている間に、友一はとっくに終わった気でいたの?
 そんなの……そんなの、あんまりじゃないか。
 
 奥歯を噛み締めて、ぎゅっと目を瞑る。傍で私が電話を終えるのを静かに待ってくれているひなたくんの息遣いを感じた。
 さあ、言うんだ。
 こんな男に、もう未練なんてない。
 言ってしまえ、前を向け、雫。

「終わってなかった。今の今まで、少なくとも私の中では。でももう、いい。たった今、ほかに好きなひとができたから。それだけ。じゃあね」

『おい——!』

 返事も聞かないうちに通話ボタンを切った。再び彼から電話がかかってくるかもしれないという予想もしたけれど、その予想はあっけなく外れてしまった。友一は二度と私に電話をかけてこなかった。それが、答えだと分かった。

「ふふっ」

 なんだかおかしくて、笑いが込み上げてきた。ひなたくんがぎょっと目を見開く。そりゃ変だよね。さっきまで恋人のことで傷ついていたはずの私が、自ら別れ話をしたあと、笑ってるんだもの。薄気味悪いことこの上ないだろう。

「雫さん——」
 
 ひなたくんが再び私の手を握る。さっきよりずっと汗ばんでいて、緊張しているのが伝わってくる。

「よくできました」

 もう一方の手で私の頭を撫でてきた。不意打ちすぎるその仕草に、きゅんとしてしまったのは秘密だ。恥ずかしくて思わずたじろいでしまう。だけど、ひなたくんはそんな私に構わずに、にっこりと微笑んで言った。

「友一さんと別れてくれて、ありがとうございます。それで、ほかに好きなひとができたって、誰のことですか?」

「そ、それは……」

 つい別れの言い訳で使ってしまった言葉に食いつかれて焦る。
 サークル活動中に私が落ち込んだ時、ひなたくんが無邪気に励ましてくれた記憶がふとよみがえった。
 ……なんでこのタイミングで。
 深く考える余地なんかなくて、ひなたくんが柔和な笑みを浮かべて続けた。

「ふふ、まあいいです。俺から改めて言いますね。俺、雫さんのことが好きです。出会った頃からずっと」

 感情表現が豊かな子だなと思っていた。
 私や友一とは違う。思ったことを素直にひとに伝える、いい子だなって。
 時にそれが他人の反感を買ってしまうこともあるけれど、その分ひなたくんは、たくさんのひとから愛されている。そんな彼のことを私は、格好良いと思った。

「ひなたくん、私は——」

 どう返事した良いのか、迷った。
 確かに私はいま、確かにひなたくんに惹かれている。けれどそれは、雪が溶けて春になり、新芽が芽吹き始めたみたいな小さな兆しだ。いまはまだ友一と別れたばかりで、気持ちがうまく切り替えられない。それに、特別な夜に特別な再会を果たしたから心が錯覚してるだけで、朝になったらまた、友一のことを想って泣いてしまうかもしれない。
 そう思うと、いま返事をするのが怖かった。
 そんな私の気持ちを察してくれているかのように、「いいんです、いまは」と彼はやさしく微笑んだ。

「雫さんの気持ちに整理がついたら、答えをください。それまでは曖昧なままでもいいです」

「曖昧なままなんて、ダメだよ。ちゃんとしなくちゃ——」

「それが、合理的だからですか?」

「え? いや、それは……」

 彼に問われて気づいた。
 恋愛は、決して合理的なだけでは考えられないということ。
 確かに冷静さは必要だけれど、時に気持ちを素直に伝えたり、自分を見失うほど相手のことを愛してみたり——そういう不合理な部分も、恋を進めるには必要なのかもしれない。

「冷静でいられないくらい俺を好きだって思ったら教えてください。すぐ、掻っ攫いに行きますから」

「ひなたくん……もう」

——冷静でいられないくらい俺を好きだって思ったら。

 そう感じる日は、たぶんきみが思っているよりずっと近いと思うよ。

「そうだ、雫さん。日付変わっちゃいましたけど、誕生日おめでとうございます」

「あ、ありがとう……」
 
 ひなたくんに「おめでとう」と言われるまで、誕生日に誰にも祝われていなかったことに気づく。母も父も忙しくて、LINEでメッセージはくれていたけれど、直接伝えてくれたのは彼だけだ。

 照れたように頬を掻くひなたくんが、「行きましょう」と一歩前に進んだ。私も彼につられて足を踏み出す。新しい一歩。さっきまでとは全然違う風が吹いている。そんな気がした。

「さっきの鴨川の話、あれ逆でしたね。だって高野川と賀茂川の二つに分かれてるほうが上流だから。分かれていたものが一つになる。俺たちの関係と一緒ですね」
 
 ペロリと舌を出して、ひなたくんが笑う。
 私は頬も耳も熱くなるのを感じならが、「なんでやねん……」とそっとつぶやいた。


Fin.