理学部の研究棟に入るのは初めてだった。
 二棟の建物が三階の渡り廊下で繋がっているその建物は、どうやら片方が実験室ゾーンで、もう片方が入る各研究室の部屋となっているようだった。

「えーっと、石橋研究室は……五階か」

 エレベーターで五階まで上がると、廊下はひどく静かだった。

「本当にここか?」

 ドアに『石橋研究室』と書かれた部屋を恐る恐るノックする。
 返事はない。
 仕方なくドアをそっと開けると、人影が見えた。

「あの、失礼します」

 俺が声をかけると、人影が振り返った。

「誰? 関係者以外立ち入り禁止だけど」

 明るめの茶髪に鋭い目つき。
 彫刻のように綺麗な顔は、明らかに俺を睨んでいた。

 この人が桜庭律先輩か。
 黒髪に地味顔な俺とは正反対の人。

 ……それにしても、怖ぇ。

「あのーこんにちは。山村春樹です。石橋研究室配属です。一応……」

 俺がビビりながら挨拶をすると、なぜか彼はパッと表情を明るくした。

「あぁ! 一人配属された子がいるって本当だったんだー。教授の冗談かと思ってた。ほら、入って入って」

 まるで二重人格だ。
 さっきまで睨んでいたその人は、子犬のような人懐っこさで俺の肩を抱いて研究室に迎え入れた。
 普段人とこんなに接近しないから、先輩の体温にドキリと心臓が跳ねる。

 部屋に入る時に先輩をちらりと見上げると、耳についているゴツめのピアスがギラリと光るのが見えた。
 この人、やっぱり合わなさそう……。

 先輩は俺を研究室に招き入れると、両手をバッと広げた。

「ようこそ、石橋研究室へ! って言っても俺しかいないけどね。俺は修士一年の桜庭律。よろしくねー!」
「ど、どうも」
「山村くん……春樹だからハルくんね! そこの席、自由に使っていいよ。教授からノートPC預かってるから、研究用にはこれを使ってね。あ、別に講義のレポートとかでも自由に使っていいから」
「はぁ」

 桜庭先輩は怒涛の勢いで研究室を案内しだした。
 俺用のデスクやノートPCが用意されていることに驚きつつ、とりあえずペコペコと頭を下げる。


 研究室は十畳程の空間だった。デスクが三台と大きな本棚が一つ。本棚には分厚いファイルが何冊も入っている。

 後は……なぜか食器棚や冷蔵庫、電子レンジやトースターまでもが置かれていた。

「で! これが冷蔵庫。好きに使っていいよー。一応名前書いといてね。俺がうっかり使っちゃうといけないから」

 桜庭先輩が冷蔵庫を開けると、チョコやプリン、それにミニトマト、もやし、ハム、チャーシュー……と色々な食材がごちゃごちゃと入っている。
 お菓子は分かるけど、野菜とか……ここで食べるのか?

 俺がまじまじと冷蔵庫の中を眺めていると、先輩はチョコを一つ取り出して包装紙を剥いた。

「もーそんなに食べたいの? どーぞ」
「わっ! ……んん、美味しい、です」

 口に押し込まれたチョコはブラックチョコレート。まろやかな苦みが口に広がった。

「さて、研究室の案内はこんなもんかな。じゃあ次は実験室ね。行くよー。あ、チョコは早めに飲み込んで。実験室は飲食禁止だよー」
「んぐ。は、はい」

 先輩が口に押し込んだのに。
 なんてマイペースな人なんだ。