「山村くん」

 六月。
 じっとりとした暑さの中、俺は講義棟の横で呼び止められた。
 呼び止めた声の主は分かっている。この春、俺が配属になった研究室の教授、石橋教授だ。
 白髪でニコニコと人の良い笑みを浮かべているその人は、体型も相まって七福神みたいに見えた。

 俺にとっては疫病神だけど……。

「最近忙しいかな? そろそろ研究室来ない?」

 そう。
 俺は四月に配属された研究室に、まだ一度も顔を出したことがなかった。研究室で研究をして、卒業論文としてまとめないと卒業出来ないのは分かっているのだが……。

「あー……就活とかあって」
「就活かぁ。そうだよね、四年生だもんね。大変だねぇ。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってね」

 石橋教授はうんうんと頷きながら眉を下げている。
 俺はいたたまれなくて、「でも今日行きます」と小さく答えた。

「そうかい、良かった。単位のこともあるから心配していたんだよ。僕は行けないけれど、研究室には桜庭くんがいるはずだから。彼に何でも聞くといいよ」
「はい……」

 力なく返事をした俺見て、石橋教授は満足そうに去っていった。



◇◇◇


 研究室に行かなかったのは、就活が忙しいからではない。
 単に気力がないだけだ。


 この大学――南ヶ丘大学は私立の総合大学で、そこそこ偏差値の高い大学だ。
 自慢じゃないけど、去年までは理学部の成績優秀者として授業料を免除されるくらいには勉学に励んでいた。

 だけど――。

 三年の冬、配属決めのじゃんけんに負けに負けて一番不人気の研究室になってしまったものだから、モチベーションってやつが上がらないのだ。
 まあ、その前から色々あってモチベーションなんて地に落ちていたけれど。


 それに……。

「桜庭先輩かー。昔派手に遊んでたって噂の人だし、合わなさそー」

 俺の配属した石橋研究室は学生が二人しかいない。
 学部四年の俺。そして、修士一年の桜庭律先輩。

 彼の学部時代は、色々な伝説があったらしい。
 他学部他学科の各美女を次々と落としたとか、どこぞのOLが頻繁に構内にまで会いに来ていたとか、女子たちが彼を巡って殴り合いの喧嘩をしたとか……。

 噂に疎い俺にすら耳に入ってくるとんでもない話は、まるで異世界人の話に聞こえた。
 とにかく俺とは交わらない人種なのだ。
 上手くやっていける気がしない。

「まぁしゃーない。後で行くか」

 俺がなけなしの覚悟を決めた時、スマホがブルブルと震えた。


「メッセージか? ……げっ」

 スマホには『母さん』と表示されている。

『GWにも帰ってこなかったけど、元気でやっているの? 今日、お米と食料を送りました。ちゃんと食べてね。お父さんも気にしているよ』

「いやいや、俺いたら邪魔だろ」


 数ヶ月間に再婚した母さんは、新しい父との生活を楽しんでいるはずだ。
 帰って邪魔をするなんて野暮だ。今まで一人で俺を育ててくれた分、幸せになるべきなんだから。

 新しく父になった人は、金銭面に余裕のある人だった。それまで母さんと二人、カツカツの生活をしていたのが一変した。

『春樹くんは、何も心配しなくていいんだよ。今までよく頑張ったね』

 彼は父になった日、俺にそう言ってくれた。
 学費を払うためにアルバイトでヒーヒー悲鳴を上げる日々も、授業料免除を目指して勉強に身を削る日々も終わったのだ。
 俺は燃え尽き症候群のように、やるべきことが分からなくなっていた。

 これがモチベーション低下の要因その二だ。

 別に誰のせいでもない。俺が勝手にやる気をなくしているだけなのだ。

『ありがと。荷物は確認しとく』

 母さんに短い返事を送信すると、俺は目の前の問題と向き合うことにした。


 いくらモチベーションがなくても、卒業できないのはマズい。
 そのくらいの見栄やちっぽけなプライドが、俺にはまだ残っていた。