途中まで興味なさそうに聞いていて律先輩だったが、俺が女の人に殴れと提案したと告げると、顔を真っ青にしていた。

「え? え? ハルくん殴られたの!?」
「いえ、なぜか呆れて諦めてくれてました」
「ちょっと! そんな無謀な提案しちゃ駄目でしょ! ハルくんの可愛い顔に傷がついたらどうするの!」

 律先輩は俺の頬を両手で挟んだ。怖い顔で俺を睨んでる。だけどこれは多分、俺を心配してるんだろう。
 こんな平凡顔が可愛いだなんて、先輩の目はどうかしてる。

 ……多分、倫理観もどうかしてるけど。

「女の人が泣いてたから。律先輩を一発殴らないと気が済まないって。律先輩がまた殴られたら、顔がボコボコになっちゃいそうでしたもん。俺の顔で済むなら安いもんでしょ」
「……」

 律先輩はしばらく黙って俺を見つめていたけれど、何かを決意したかのようにスマホを取り出すと猛然と長文を打ち始めた。
 そして帰り支度を始めたのだ。

「ごめん、今日は先に帰るね」
「えっ?」

 律先輩が帰る?
 まさか、俺より先に帰る律先輩を見られる日が来るなんて。

「……お、お疲れ様です」
「何かあったらメールしておいて。じゃあね」

 律先輩は険しい表情のまま研究室を出ていった。

 大丈夫だろうか。
 多分だけど、家に帰ったわけじゃないのだろう。
 さっきの事件と無関係ではないはずだ。


 俺に出来ることなんてないのに、俺は研究室から動けずにいた。

「仕方ない。面接の台本でも作るか」


◇◇◇


 三時間ほどたった頃、研究室の扉がガチャリと開いた。

「あれ、ハルくんまだいたんだ。もう夜だよ」
「律先輩? 帰ったんじゃ……」
「用事が終わったから戻って来たんだー。ただいま」

 確かに律先輩が心配で帰れなかったけれど、まさか戻ってくるとは思わなかった。
 小さく「おかえりなさい」と呟くと、律先輩は心なしかホッとしたような表情をした。

「連絡先を知っている女の子全員に、謝罪してきたよ。あと、もう会えないって伝えた。これで大学構内に怪しい人が入ってくることはもうないよ。だからハルくんはもう無茶しないでね」
「……へ?」

 律先輩のよく分からない行動に、俺の声が裏返る。
 何を言っているんだ? この人。
 唖然とした表情で律先輩を見つめていると、先輩はさらに説明を付け加えてくれた。

「直接会えなかった子にもちゃんと連絡したよ? あ、安心して。文句がある子専用の窓口も設置してきた! 知り合いにバーの店長がいるんだけど、その店が受付してくれるんだー。必要があれば謝罪でも弁償でもしに行くつもり。どう? 完璧でしょ」

 疲労感を滲ませながらドヤ顔をする先輩は、やっぱりちょっと変だと思う。
 一体どんな思考回路しているんだ。その行動力、他に有効な使い道があるだろう。

「何してるんですか……」
「だってハルくんに迷惑かけたくないもん!」

 俺のため?
 
 ……いやいや、律先輩のこういう言葉に深い意味なんて無いはずだ。
 俺は少し視線を逸らす。心臓が痛い。

「思ったより多くてさ、時間かかっちゃったー」
「えっと、結局何人泣かせたんですか?」

 そっと律先輩を盗み見ると、先輩は俺の顔をのぞき込んで「内緒!」とウインクをかましてきた。

「ハルくんがドン引きするの嫌だもん」

 その返事でドン引きするだろ。普通。
 さすがの俺でも若干引いてしまう。

 それなのに律先輩は俺の様子には気づかず、やり遂げた達成感に浸っていた。

「えへへ。ハルくんのおかげでマトモな人間になれたでしょ? 褒めてくれていいよー」

 まるで犬が尻尾をブンブンと降っているようだ。
 キラキラとした目でこちらを見てくるんだからタチが悪い。

 本当にこの人は……。
 でも憎めない俺も、同罪なのかも。


 俺は立ち上がって律先輩の頭をポンポンと軽く撫でた。

「よしよし。律先輩はマトモに一歩近づきましたよー」
「へへへ」

 俺が冗談交じりで適当な対応をしたのに、律先輩は心底嬉しそうに笑っていた。

 あーぁ、好きになったら負けだけど、もう負けてるじゃん。
 俺は心の中で深いため息をついた。
 
 でも大丈夫、隠し通せばいい。
 ていうか、隠して墓場まで持っていかないと、俺はマトモじゃいられなくなる。

 どうか隠し通せますように――。