研究室でご飯を。君と。

 廊下を歩く足取りが重い。
 さっきの皆の声が、頭にこびりついて離れなかった。

 確かに研究室によって受けられる恩恵は違うだろう。大規模な研究室や権威のある教授の研究室とは、全然違うだろう。
 でも……。

「大丈夫だし。絶対」
「研究室とか関係ないし」
「就活なんて、自分が何したいかだろ」

 口に出して言ってみても不安は拭えなかった。
 俺が就活に失敗したら、教授や研究室が悪く言われるんだ。
 俺のせいで石橋教授や律先輩に迷惑がかかるんだ。

 もし、そうなったら……。


 嫌な想像が頭を駆け巡ったその時、ピコンピコンと俺のスマホが鳴り響いた。
 電話だ。

「もしもし……なんだ母さんか」

 就活の合否かもしれないと慌てて電話に出ると、母さんが「やっと出た」とか言っている。久しぶりに声を聞いた気がする。

「何?」
「何じゃないわよ。お盆にも帰ってこないで。九月にはシルバーウィークがあるんでしょ? 一回帰って来なさいよ」
「就活とか研究とかあんだよ。それに……俺はいない方がいいっしょ。じゃあ切るね」
「ちょっと……!」

 母さんが何か言いかけていたが、気にせずスマホを切った。
 今は家のことを考えている余裕がない。

 俺は積み重なる問題に深いため息をついた。

「帰ってこいって……本当は思っていないくせに」
「何がー?」
「うわぁっ……! 律先輩!?」
「そんなに驚く? 部屋に入らずぶつぶつ言ってたら気になるでしょ」

 気がつくと、研究室の前まで来ていたようだ。
 実験室帰りの律先輩は、不思議そうに俺のスマホを指さした。

「電話してたでしょ? 誰かと喧嘩?」
「いや、親から……。夏休み帰らなかったから、帰って来いって」
「そっか。帰るの?」

 律先輩の質問に言葉が詰まる。
 チラリと律先輩を見ると、「ん?」と首を傾げている。

 帰るのが普通だよな。でも……。
 黙っていると、律先輩は俺の背中を押した。

「とりあえず中入ろ」
「はい」

 研究室は、当たり前だけどいつもと同じで、俺はなんだかホッとしていた。

「はい、お茶飲むよー。あんなところでぼーっとしたら熱中症になっちゃう。まだ暑いんだから」

 先輩は冷蔵庫から麦茶を出して注いでくれた。

「ありがとうございます」
「それで? なんかあった? 話くらい聞くよ」

 律先輩は自席に腰掛けると、柔らかい表情で俺を見た。
 茶化す感じも、重たい感じもない。ただ、こっちを見て俺の返答を待っていた。

「か、帰りたくなくて。喧嘩したわけじゃないんですけど」
「うん」

 話そうと思うと喉がカラカラに乾く。
 俺も自分の席に座ると、麦茶をもう一口飲んだ。

「俺……父親が小さい頃に亡くなって、母親が一人で俺を育ててくれたんです。でも少し前に再婚して……」
「うん」
「今まで母親に迷惑かけないようにって、俺なりに色々やって来たんです。三年まではバイトだってしてました。この大学だって、成績優秀だと授業料免除になるから入ったし。でも、再婚したおかげで経済的に余裕が出来て、『もう春樹の自由に過ごしていいんだよ』って言われちゃって……俺、なんか力抜けちゃって」

 律先輩は俺の話を静かに聞いてくれている。
 俺は気づくと全部吐き出していた。

「父親になってくれた人はめっちゃ良い人なんです。だけど、俺、もういらないんだって。頑張るのは無駄なんだって思っちゃって。家に帰りたくなくなって」

 今まで誰にも言ったことがない気持ち。
 自分でも考えないようにしていた気持ちを、律先輩にぶつけた。

「なんか、マザコンみたいでダサいっすよね」

 ははは、と笑うと、律先輩が立ち上がって俺を抱きしめた。
 ……抱きしめた?

「ちょっ、律先輩?」
「いいから。ちょっと黙って」

 律先輩の胸板に俺の顔が触れる。
 この間の香水とは違う、いい匂いがした。あまりにも律先輩が近くてクラクラする。

 あったかい。

 俺はぼーっとする頭で先輩の腰に手を回そうとした。
 その時。

「はいっ、元気になった?」

 先輩は身体をパッと離すと、俺の肩をポンポンと叩いた。

「へ?」
「ハルくん、泣きそうだったから」
「えぇ?!」

 俺が慌てて目をごしごしと擦ると、先輩に腕を掴まれた。

「待って待って、擦らないで。赤くなっちゃうよ」
「な、泣いてませんけど!?」
「まーそういうことにしてあげる。ははは、睨まないでよ」

 別に全然泣いていなかったけれど、先輩の優しさには鼻が少しだけツンとした。