夜の研究棟は薄暗くて寂しげだ。
 いくつかの研究室から明かりが漏れているから人はいるはずなのに、静まり返っている。

 石橋研究室の部屋を開けて電気をつけると、いつもの空間が広がっていた。俺はひっそりと安堵のため息をつく。
 
「ねえ、ハルくん」
「はいっ」

 先輩は自席に座って俺を見ていた。真剣な目で。

「さっきみたいこと、今は本当に全然ないんだよ? ……信じてくれる?」

 上目遣いで俺の見る先輩は、シュンとしていた。
 さっきみたいなことって、女の人との揉め事だろうか。
 別に信じるけど、先輩はどうして『浮気がバレた人』みたいな言い訳をしているんだ?

 俺は冷凍庫から保冷剤を取り出すと、自分のハンカチを巻いて先輩に差し出した。

「信じます。とにかくこれで冷やしてください。腫れちゃいますよ」

 先輩は驚いた顔をしながらそれを受け取った。
 小さい声で「ありがと」と言うのが、なんか可愛らしかった。

「何があったか知りませんけど、俺にとっては先輩は最低ではないんで」
「ははは。ありがと」

 先輩はしばらく頬を冷やしながら目を閉じていた。
 俺は先輩を眺めながらぼんやりしていた。

 ……先輩ってまつ毛長いな。
 こうやって改めて見ても整った顔だし、本当にモテるんだろうな。

 さっきみたいなことは全然ないって言ってたけど、周りは放っておかないだろう。
 俺には分からない苦労もあるのだろう。大変そうだ。

 強く生きてください、先輩。と心の中で祈っていると、先輩が目をパッチリと開けた。

「さっきのハルくん、俺のこと冷めた目で見てたでしょー? 大事な後輩に嫌われたかと思ってショックだったんだから!」

 その声のトーンはいつもみたいに明るかった。

「気のせいですよ。修羅場っぽかったから、気まずかっただけです」
「本当に? なんだ、良かったー」

 先輩は安心したように笑っている。
 だけど、俺は何だか喉がイガイガするみたいな、変な感じだった。

 頭の中でさっきの女性の「律くん」という甘い声が反響する。

 ……俺だって、名前で呼んだことないのに。