1 side春斗①
「こんにちは! とーりです!」
「……」
「ごめんね冬璃くん……この子恥ずかしがり屋なの」
無言で俯いている俺・冴木春斗の代わりに、母が謝罪する。その困った声を耳にしながら、4歳の俺は座り込んだカーペットの模様を眺めていた記憶がある。
母の友人の子どもが同い年だから、と連れてこられた見知らぬ家で、人一倍人見知りの激しかった俺はカチコチに固まって動けないし喋れないでいた。
大抵同じ年齢の子は、固まる俺に近寄って「一緒に遊ぼうよ」「なんで喋らないの?」と声を掛け、それでも返事がこないと「つまんないの」「はるくん抜きで遊ぼ」と離れていくのが関の山で、それきり声を掛けてもらえなくなるまでが一揃え。
この日も、どうせそうなるんだろうなと思っていた。母には申し訳ないけど、やっぱり喋れない。心臓はドキドキとうるさくて、手を握りしめていないと指先は震えてしまうし、口は瞬間接着剤でも塗られたかのように動かない。
「ううん、全然平気だよ。俺もそういうときあるし」
少し高めの、子ども特有の柔らかな声。
喋り口調もゆっくりなせいもあって、ふゆくんの声は俺の耳にすんなりと届いた。
「そうよぉ、初めてなんだし、はるちゃんだって緊張して当然よ」
「そうは言ってもさぁ、この間なんて――」と母親同士で話し始めて、自分に集まっていた視線が離れたので、俺はふうと息を吐いた。
すると、それまで自分の母親の隣に居たふゆくんが、絵本を手にとことことこちらへ近づいてくる。俺はなにを言われるのだろう、と身を固くするも、ふゆくんはなにを言うでもなく俺の隣に腰を下ろし、絵本を自分と俺との間に広げて置いてみせた。
俯いたままだった俺の視界にそれが入り込む。二足歩行の犬が11匹出てくるシリーズものの人気絵本で知っていたけれど、目の前にあるのはまだ読んだことのない話で興味が湧く。
ちょっと前のめりになった俺をちらっと見たふゆくんが、「これ、俺のすきな絵本。一緒に読も」と誘ってくれたので、軽くうなずいてみせる。口は相変わらず重くて開かないので、頷くのが精いっぱいだった。
一言も喋らない俺に、ふゆくんは嫌な顔ひとつせず、にこっと笑ってから絵本に向き直ると、ページをめくって読み始めた。
「11ぴきのいぬは、もりのなかにやってきて……」
声にだして読み始めるものだから、もうひらがなが読めるのかと驚いた。俺はこのときには簡単な絵本なら自分で読めたけど、幼稚園の友だちはほとんどが字を読めていなかったから。
だけど、ふゆくんの声を聞きながら絵本の文字を目で追っていくと、ところどころ違う風に読んでいて、ふゆくんは読めているのではなく、暗記しているのだとわかる。
けど、そんなことは気にならないくらいその話は面白くて、夢中になった。要所要所で子どものツボを突いてくるので、気付けばふゆくんと一緒に声を立てて笑っていた。
「――おしまい。 面白かったぁ。あ、そうだ、このつぎのも読も」
待ってて、と部屋から出ていってしまう。
隣にあったものがなくなって左肩がすーすーして、ふゆくんと肩が触れるほど身を寄せ合っていたことに気付いてびっくりした。
ふと視線を感じて母を見上げると、嬉しそうに微笑んでいる。
「仲良くできそうでよかった」
「うんうん。名前は春と冬で正反対だけどね」
「はると、ふゆ?」
ふゆくんの母親の玲子さんが言っている意味がわからず、俺は母にそう訊ねる。
「そう、春は春夏秋冬の春っていうのは知ってるでしょ?」
もっと小さいころからずっと言われてきたことだ。うんと頷く。
「冬璃くんの名前の『とう』って字は、春夏秋冬の冬なの」
春はあたたかくて、冬は寒い。だから反対なのだろうか、と幼いながらに頭で理解する。
「ふゆくん」
「それ俺のこと?」
いつの間に戻ってきたのか、隣にすとんと座ったふゆくんが嬉しそうに俺を覗き込んでいた。びくっとしてのけ反ると、「あれ、違った?」と首をかしげて残念そうなふゆくんの顔が目に入り、慌てて首を横に振る。
「違わない……。ふゆくんて呼んでいい?」
口が、勝手に動いていた。
すんなりと出た言葉に自分で驚いていると、目の前のふゆくんの顔はみるみる笑顔になっていく。まるで、冬の終わりに雪を優しく溶かすあたたかな春の日差しのような笑顔だと思った。
「いいよ! 俺もはるちゃんて呼ぶね」
寒くてあまり好きじゃなかった冬のイメージが、少しだけあたたかなものに変わった瞬間だった。
それから、あっという間に仲良くなった俺とふゆくんに気をよくした母たちは、ここぞとばかりに毎週のようにお互いの家に集まって遊ぶようになる。
いつだって穏やかでいて明るいふゆくんの隣は、ほかのどの友だちよりも居心地がいい。
なにをするにも俺の気持ちを聞いてくれて、心配性な上、優柔不断な俺の返事をちゃんと待ってくれる優しいふゆくんのことを、俺はどんどん好きになっていった。
どうして同じ幼稚園じゃないのか、ふゆくんと同じ幼稚園に行きたい、と何度も母にねだって困らせた記憶がある。
「この前なんて、ふゆくんがいないなら幼稚園行きたくない!って泣いてね」
「えー! はるちゃん可愛いー! そんなに冬璃のこと気に入ってくれたのー?」
今日も今日とて母たちは楽しそうに話している。その傍らで、俺は恥ずかしくて俯いてしまう。確かにぐずったのは嘘ではないけれど、いくらなんでも年中になってまで泣いたなんて話を同い年の、ましてや大好きなふゆくんにバラされてしまっては立つ瀬がない。
だけど、二人の白熱する会話に入っていけるわけもなく、俺は熱くなる頬を両手で冷やすように押さえて「むぅ」と唸った。
ふゆくんがどんな顔をしているのか気になって隣を見ると、にこにこと上機嫌で俺を見つめている。
「俺も、保育園にはるちゃんがいればもっと楽しいのに、っていつも思ってる」
自分と同じ気持ちでいてくれたことにじわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「じゃぁ、ふゆくん、大きくなったらはると結婚しよ? そしたらずっと一緒でしょ」
「うん、いいよ! 結婚してずっと一緒にいよ」
ふゆくんはいつだって俺が欲しい言葉をくれた。
「約束」
差し出された小さな小指に自分の小指を結んで、微笑み合った。
「あらあらー」と顔を見合わせる母親二人なんか気にもならないくらい、俺はその約束を――ぎゅっと痛いほどに握られた小指の感触やふゆくんの優しい笑顔を胸に刻み込んだ。
それが、ふゆくんとの出会い。
だけどそんな幸せな時間は長く続かず、小学校に上がるタイミングで両親の転勤が決まり、俺たちは離れ離れになってしまう。
もちろん5歳だった俺たちに、連絡を取る手段なんてなかった。母親同士が連絡を取った折に、近況を聞いたり聞かなかったり。それも母の気まぐれだったし、俺も自分からふゆくんの近況を訊ねることは恥ずかしくてできなかった。
それでも、なにかに付けて思い出すのは、いつだってふゆくんとの思い出だった。
成長とともに薄れるどころか時間が経てば経つほど色濃く俺の記憶に居座って、その大部分を占拠し続ける。
そして、成長するにつれて、ふゆくんに対して感じていた「好き」という気持ちは、ほかの友だちに対する感情と違うことに気付いた。
幼心にも、ふゆくんに恋をしていた。
もうずっと会っていないのに忘れられない。
そのせいで、小中とどんなに周りから可愛いと評判の女子に告白されても、心動かされることがなかった。同性が好きとか、そういうのではない。ふゆくんだから好きになった。
――ただただ、ふゆくんが特別だっただけだ。
だから、両親の海外転勤が決まり、日本に残りたいという俺に、ふゆくんの家に居候する話が舞い込んできたときは、飛び上がるほど嬉しかった。
会っていないからこそ、記憶が美化されてより強く感じるのかもしれない。思い出に捉われているだけかもしれない。
成長したふゆくんに会えば、あの頃の面影なんて欠片もなくて思い出は思い出のまま、あのときの恋心に終止符が打てるだろう。
でも、もし……、もしも、記憶のままのふゆくんだったら?
――結婚してずっと一緒にいよ!
少なくとも、あのときはふゆくんも自分のことを好きでいてくれたはず……と、どうしてもバイアスのかかった仮定を捨てきれなかった。
そして、密かな期待と不安を胸に挑んだ、ふゆくんとの再会の日。
俺は、一つだけ……大きな過ちを犯していたことに、この日初めて気付かされる。
「はるちゃんて……女の子じゃなかった……?」
ふゆくんは、目を瞠り、口を開けて驚愕の表情で俺を見た。
その顔とその言葉に、頭から氷水をぶっかけられたような衝撃を受ける。
そう、ふゆくんと会う時はいつも女の子のような格好をしていた、ということをすっかり失念してしまっていたのだ。
となれば、当時のふゆくんが、俺のことを女の子だと勘違いしていてもおかしくはないわけで……。
「俺の、初恋がぁ――っ!」
目の前で頭を抱えて叫ぶふゆくんを見て、俺の初恋も粉々に砕け散った。
「こんにちは! とーりです!」
「……」
「ごめんね冬璃くん……この子恥ずかしがり屋なの」
無言で俯いている俺・冴木春斗の代わりに、母が謝罪する。その困った声を耳にしながら、4歳の俺は座り込んだカーペットの模様を眺めていた記憶がある。
母の友人の子どもが同い年だから、と連れてこられた見知らぬ家で、人一倍人見知りの激しかった俺はカチコチに固まって動けないし喋れないでいた。
大抵同じ年齢の子は、固まる俺に近寄って「一緒に遊ぼうよ」「なんで喋らないの?」と声を掛け、それでも返事がこないと「つまんないの」「はるくん抜きで遊ぼ」と離れていくのが関の山で、それきり声を掛けてもらえなくなるまでが一揃え。
この日も、どうせそうなるんだろうなと思っていた。母には申し訳ないけど、やっぱり喋れない。心臓はドキドキとうるさくて、手を握りしめていないと指先は震えてしまうし、口は瞬間接着剤でも塗られたかのように動かない。
「ううん、全然平気だよ。俺もそういうときあるし」
少し高めの、子ども特有の柔らかな声。
喋り口調もゆっくりなせいもあって、ふゆくんの声は俺の耳にすんなりと届いた。
「そうよぉ、初めてなんだし、はるちゃんだって緊張して当然よ」
「そうは言ってもさぁ、この間なんて――」と母親同士で話し始めて、自分に集まっていた視線が離れたので、俺はふうと息を吐いた。
すると、それまで自分の母親の隣に居たふゆくんが、絵本を手にとことことこちらへ近づいてくる。俺はなにを言われるのだろう、と身を固くするも、ふゆくんはなにを言うでもなく俺の隣に腰を下ろし、絵本を自分と俺との間に広げて置いてみせた。
俯いたままだった俺の視界にそれが入り込む。二足歩行の犬が11匹出てくるシリーズものの人気絵本で知っていたけれど、目の前にあるのはまだ読んだことのない話で興味が湧く。
ちょっと前のめりになった俺をちらっと見たふゆくんが、「これ、俺のすきな絵本。一緒に読も」と誘ってくれたので、軽くうなずいてみせる。口は相変わらず重くて開かないので、頷くのが精いっぱいだった。
一言も喋らない俺に、ふゆくんは嫌な顔ひとつせず、にこっと笑ってから絵本に向き直ると、ページをめくって読み始めた。
「11ぴきのいぬは、もりのなかにやってきて……」
声にだして読み始めるものだから、もうひらがなが読めるのかと驚いた。俺はこのときには簡単な絵本なら自分で読めたけど、幼稚園の友だちはほとんどが字を読めていなかったから。
だけど、ふゆくんの声を聞きながら絵本の文字を目で追っていくと、ところどころ違う風に読んでいて、ふゆくんは読めているのではなく、暗記しているのだとわかる。
けど、そんなことは気にならないくらいその話は面白くて、夢中になった。要所要所で子どものツボを突いてくるので、気付けばふゆくんと一緒に声を立てて笑っていた。
「――おしまい。 面白かったぁ。あ、そうだ、このつぎのも読も」
待ってて、と部屋から出ていってしまう。
隣にあったものがなくなって左肩がすーすーして、ふゆくんと肩が触れるほど身を寄せ合っていたことに気付いてびっくりした。
ふと視線を感じて母を見上げると、嬉しそうに微笑んでいる。
「仲良くできそうでよかった」
「うんうん。名前は春と冬で正反対だけどね」
「はると、ふゆ?」
ふゆくんの母親の玲子さんが言っている意味がわからず、俺は母にそう訊ねる。
「そう、春は春夏秋冬の春っていうのは知ってるでしょ?」
もっと小さいころからずっと言われてきたことだ。うんと頷く。
「冬璃くんの名前の『とう』って字は、春夏秋冬の冬なの」
春はあたたかくて、冬は寒い。だから反対なのだろうか、と幼いながらに頭で理解する。
「ふゆくん」
「それ俺のこと?」
いつの間に戻ってきたのか、隣にすとんと座ったふゆくんが嬉しそうに俺を覗き込んでいた。びくっとしてのけ反ると、「あれ、違った?」と首をかしげて残念そうなふゆくんの顔が目に入り、慌てて首を横に振る。
「違わない……。ふゆくんて呼んでいい?」
口が、勝手に動いていた。
すんなりと出た言葉に自分で驚いていると、目の前のふゆくんの顔はみるみる笑顔になっていく。まるで、冬の終わりに雪を優しく溶かすあたたかな春の日差しのような笑顔だと思った。
「いいよ! 俺もはるちゃんて呼ぶね」
寒くてあまり好きじゃなかった冬のイメージが、少しだけあたたかなものに変わった瞬間だった。
それから、あっという間に仲良くなった俺とふゆくんに気をよくした母たちは、ここぞとばかりに毎週のようにお互いの家に集まって遊ぶようになる。
いつだって穏やかでいて明るいふゆくんの隣は、ほかのどの友だちよりも居心地がいい。
なにをするにも俺の気持ちを聞いてくれて、心配性な上、優柔不断な俺の返事をちゃんと待ってくれる優しいふゆくんのことを、俺はどんどん好きになっていった。
どうして同じ幼稚園じゃないのか、ふゆくんと同じ幼稚園に行きたい、と何度も母にねだって困らせた記憶がある。
「この前なんて、ふゆくんがいないなら幼稚園行きたくない!って泣いてね」
「えー! はるちゃん可愛いー! そんなに冬璃のこと気に入ってくれたのー?」
今日も今日とて母たちは楽しそうに話している。その傍らで、俺は恥ずかしくて俯いてしまう。確かにぐずったのは嘘ではないけれど、いくらなんでも年中になってまで泣いたなんて話を同い年の、ましてや大好きなふゆくんにバラされてしまっては立つ瀬がない。
だけど、二人の白熱する会話に入っていけるわけもなく、俺は熱くなる頬を両手で冷やすように押さえて「むぅ」と唸った。
ふゆくんがどんな顔をしているのか気になって隣を見ると、にこにこと上機嫌で俺を見つめている。
「俺も、保育園にはるちゃんがいればもっと楽しいのに、っていつも思ってる」
自分と同じ気持ちでいてくれたことにじわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「じゃぁ、ふゆくん、大きくなったらはると結婚しよ? そしたらずっと一緒でしょ」
「うん、いいよ! 結婚してずっと一緒にいよ」
ふゆくんはいつだって俺が欲しい言葉をくれた。
「約束」
差し出された小さな小指に自分の小指を結んで、微笑み合った。
「あらあらー」と顔を見合わせる母親二人なんか気にもならないくらい、俺はその約束を――ぎゅっと痛いほどに握られた小指の感触やふゆくんの優しい笑顔を胸に刻み込んだ。
それが、ふゆくんとの出会い。
だけどそんな幸せな時間は長く続かず、小学校に上がるタイミングで両親の転勤が決まり、俺たちは離れ離れになってしまう。
もちろん5歳だった俺たちに、連絡を取る手段なんてなかった。母親同士が連絡を取った折に、近況を聞いたり聞かなかったり。それも母の気まぐれだったし、俺も自分からふゆくんの近況を訊ねることは恥ずかしくてできなかった。
それでも、なにかに付けて思い出すのは、いつだってふゆくんとの思い出だった。
成長とともに薄れるどころか時間が経てば経つほど色濃く俺の記憶に居座って、その大部分を占拠し続ける。
そして、成長するにつれて、ふゆくんに対して感じていた「好き」という気持ちは、ほかの友だちに対する感情と違うことに気付いた。
幼心にも、ふゆくんに恋をしていた。
もうずっと会っていないのに忘れられない。
そのせいで、小中とどんなに周りから可愛いと評判の女子に告白されても、心動かされることがなかった。同性が好きとか、そういうのではない。ふゆくんだから好きになった。
――ただただ、ふゆくんが特別だっただけだ。
だから、両親の海外転勤が決まり、日本に残りたいという俺に、ふゆくんの家に居候する話が舞い込んできたときは、飛び上がるほど嬉しかった。
会っていないからこそ、記憶が美化されてより強く感じるのかもしれない。思い出に捉われているだけかもしれない。
成長したふゆくんに会えば、あの頃の面影なんて欠片もなくて思い出は思い出のまま、あのときの恋心に終止符が打てるだろう。
でも、もし……、もしも、記憶のままのふゆくんだったら?
――結婚してずっと一緒にいよ!
少なくとも、あのときはふゆくんも自分のことを好きでいてくれたはず……と、どうしてもバイアスのかかった仮定を捨てきれなかった。
そして、密かな期待と不安を胸に挑んだ、ふゆくんとの再会の日。
俺は、一つだけ……大きな過ちを犯していたことに、この日初めて気付かされる。
「はるちゃんて……女の子じゃなかった……?」
ふゆくんは、目を瞠り、口を開けて驚愕の表情で俺を見た。
その顔とその言葉に、頭から氷水をぶっかけられたような衝撃を受ける。
そう、ふゆくんと会う時はいつも女の子のような格好をしていた、ということをすっかり失念してしまっていたのだ。
となれば、当時のふゆくんが、俺のことを女の子だと勘違いしていてもおかしくはないわけで……。
「俺の、初恋がぁ――っ!」
目の前で頭を抱えて叫ぶふゆくんを見て、俺の初恋も粉々に砕け散った。



