エピローグ
開け放たれた窓からは、陽が暮れた後の涼やかな風が流れ込んでくる。それでも室内はもわっと蒸し暑くて、肌にはじっとりと汗が滲んでいた。時おり、生徒たちの声が風と一緒に耳に届く。
校内には、外と同じ流行りのミュージックが控えめに流れていた。ジャカジャカとしたハイテンポのものからゆったりとしたものまで、代わる代わる流れてくるそれは、生徒から集めたリクエスト曲だ。時々、先生が選んだんじゃないか、と疑うような渋い選曲が紛れ込んでいるのが笑える。
後夜祭の会場となっているグラウンドから少し離れたここは、とても静かだった。
『私のお姉ちゃんもここの卒業生で、教えてもらったんだけど、美術準備室から花火見えるんだって! 鍵閉めちゃうから入れないんだけど、足元の窓の鍵開けておくからこっそり入って!』
という立花さんの計らいで、俺たちは美術準備室にいた。
そんな不法侵入みたいなことしてもいいのか、と一度は断ったのだけど、『私のせいで二人がこじれてたなんてもう、本当に壁失格……どうか私に名誉挽回の機会をお与えください……』とわけのわからない懇願に押し切られて今に至る。
廊下側の窓はカーテンを閉め、電気を消した室内の灯りは、外から差し込んでくる月明りとグラウンドに照らされたナイター用の照明だけ。
そんな薄暗い中、俺たちは窓辺に椅子を二つ並べて、寄り添うように座って外を眺めている。
知っている曲が流れてくると一緒に口ずさんだり、他愛のない話をしたりしながら、さっきまでの喧噪が嘘みたいに静かな空間で二人きりの時間を満喫していた。
昨日、気持ちを伝えて晴れて両想いになった俺たちは、その足で立花さんの所に向かってお礼を伝えたのだけど、流れ的に“お付き合いのご報告”みたいになってすごい恥ずかしかったし、それを聞くや否や立花さんが泣き出して大変だった。
春斗曰く、『嬉し涙だから大丈夫じゃないかな』らしい。
そのあとは、俺がバレー部の当番の時間になってしまったので後ろ髪を引かれる思いで春斗と別れたし、帰宅後は、お互い忙しかったのと恥ずかしかったのとで、夕食後さっさと自室に引き上げてしまったため、二人の時間はほとんど取れていなかった。
文化祭一般公開の今日、お互い当番を終えてから一緒に文化祭を回って、片づけを大方終わらせてようやく今、二人きりの時間というわけだ。
ちなみに、郁実と五十嵐には、昨日の時点でRINEで俺たちのことを報告している。今日も春斗と二人でいるところに出くわしてからかわれた。
――春斗と、恋人、なんだよな……。
正直、昨日は怒涛の展開すぎて、夢でも見てるようだった。帰宅後もなんだかふわふわそわそわして、現実と夢の間を彷徨っているようなそんな心地で、よく眠れなかったし、今日も朝から忙しくて騒がしい中にずっといたから実感が湧かなかった。
それが今、こうして静かな場所で二人きりになった途端、事実が実感を伴ってじわじわと俺を追い立てていた。
「そう言えばさ、バレー部の当番してるときに藤本が来たよ」
「えっ、藤本くんて、あの?」
「うん。それで、謝られた」
藤本はバレー部の出し物のかき氷屋に来て、『引退試合のときのこと、本当ごめん。ただの八つ当たりだった』と頭を下げた。
「あと、俺がバレー部入ったって聞いて、安心したとも言ってくれた」
春斗は、「そっかぁ……よかった……」とまるで自分のことのように喜んでくれた。目をうるうるさせて、今にも泣きそうになってる。
「全部、はるのおかげ」
春斗が俺に勇気をくれたから、気持ちに区切りをつけて前を向けるようになった。
これまでずっと、胸の奥底に蟠っていたもやもやが嘘のように晴れていった。
「ううん、俺はなんにもしてないよ。ふゆくんが自分で決めたことだもん」
「ありがとう」
感謝を伝えれば、春斗は顔をくしゃりとさせて笑ってくれた。
あの、俺の大好きな可愛い笑顔。
――あぁ、好きだなぁ。
そう思ったら、手が勝手に春斗の頬に伸びて、指先で撫でていた。触れた箇所から、びりびりと感情が伝染してくるようだった。それがどちらのものなのか、区別がつかない。まるでお互いの気持ちが共鳴しているような錯覚を覚える。
春斗の薄茶色の虹彩が、月明りに反射して揺らめく様が綺麗で目が離せない。
時間が止まったかと錯覚するくらいに静かだった。
「ふ、ふゆくん……」
頬を染めて動揺する春斗の薄い唇に親指を滑らせる。
「キスしたい」
恋心を自覚してからずっと抱いていた願望が口から零れ落ちる。春斗が息を呑んで、目を瞠る。
もう隠せない欲望に身を任せ、返事を聞くよりも先に顔を近づけたそのとき、薄暗かった部屋全体がピンク色に照らされ視界が明るくなり、俺たちは同時に外を振り仰いだ。
――ドーン……パラパラパラ……
そして少し遅れて花火の破裂音が鼓膜を叩いた。
「始まったな」
「う、うん」
高校の打ち上げ花火は、毎年OB会や地域、保護者の寄付によって成り立っている。なんでも、そこそこ大きな企業の社長さんが卒業生の保護者にいるらしく、うちの高校の花火は市内でも有名な風物詩だった。俺もここに入る前から、毎年のように見ているくらいには。
その後もコンスタントに打ち上がる花火を、春斗と二人で眺める。さっき、春斗に触れた指先に、まだ感覚が残っていて、花火に集中なんてできなかった。
春斗は、「わ、綺麗! すごい、今のハート型だった!」と楽しそうに花火を見上げている。
キスしたいっていう、俺の渾身の願いがスルーされてしまったのが気に食わなくて、俺は春斗の手に触れる。びくりと反応したけれど、拒まれはしなかったので、そのまま握りしめた。
少し体を傾けて、春斗の肩に寄りかかると、隣から可愛らしい笑い声が届いた。
「あはは、ふゆくん重いよ、倒れちゃうって」
――あぁもう、可愛いなぁ。
俺より華奢な手も、サラサラの髪も茶色い目も、笑い声も、なにもかも全部可愛い。
俺の体を押して抵抗する春斗がいじらしくて、ぐいぐいともっと体を倒す。
「うわ、わ、ちょっ、ホントに倒れるってー!」
いよいよ押し返す腕に力がこもったところで、体を戻した。
「もう、花火見逃したじゃん」
ふくれっ面でこちらを見上げた隙を狙って、俺は春斗の唇にキスをした。
緊張と期待、不安と歓喜。
さまざまな感情が一瞬で全身を駆け抜けていき、体の中で弾けて熱となった。初めてのキスは、情熱的なのに儚く夜空に散る花火みたいに、鮮烈な衝撃となって俺に降りかかった。
その柔らかさと甘さに眩暈がして、縋るように額をこつんとくっつける。
「好きだ」と息を吐くように口から想いが溢れた。
「俺も、好き。大好き」
好きな人に想いを伝えて、同じ気持ちを返してもらえることは、奇跡みたいなことで。少し前の自分には手に入ることのない幸せだったはずなのに。
いざこうしてそれが手に入ってしまえば、満たされたはずの心は途端に飢えてしまっていた。
――足りない。もっと。
乞うように鼻を摺り寄せてから、もう一度唇を触れ合わせる。
それだけじゃ足りなくて、春斗の薄い唇を啄んだ。形を確かめるように、何度も、何度も。
そうしている内に、されるがままだった春斗もおずおずと同じように返してくれて、ぞくぞくとした甘い痺れが存在感を増して背中を這い上がってきた。
閉じた瞼に散る光は、外の花火の灯りなのか、それとも自分の熱によるものなのかもわからない。
春斗とのキスに夢中になっていると、ふと繋いでない方の手が俺のシャツを掴んだ。その助けを求めるような仕草に顔を離すと、春斗がへなへなと俺の胸にしな垂れかかってくる。
「む、無理……」
「はる、ご、ごめん、止まんなかった」
「もぉ……ふゆくんの馬鹿」
「許して。あと、嫌だったら言って、俺も初めてでよくわかんないから」
「嫌なわけじゃ、ないんだよ……。その、慣れてないだけで……」
「うん……、俺たちのペースで、ゆっくり進んでいこ」
そう耳元で囁けば、春斗は耳を押さえて顔を真っ赤にさせる。
照れて恥じ入る春斗に庇護欲をそそられる。またしてもキスしたくなる衝動を、必死に押さえるのにいっぱいいっぱいだった。
――こんなに激しくて、切なくて、嬉しくて狂おしい感情が自分の中にあったなんて知らなかった。
俺一人では決して知り得なかったものばかり。
苦しくてツラい感情もあったけど、それも春斗が与えてくれたもので、春斗と二人だから生まれたものだと思うと、それだけで愛おしくて大切なものになるから不思議だ。
離れた体が寂しくて、そっと春斗の肩を引き寄せる。
足りないものを補うように、俺たちはぴったりと寄り添って花火を眺めていた。
fin.
開け放たれた窓からは、陽が暮れた後の涼やかな風が流れ込んでくる。それでも室内はもわっと蒸し暑くて、肌にはじっとりと汗が滲んでいた。時おり、生徒たちの声が風と一緒に耳に届く。
校内には、外と同じ流行りのミュージックが控えめに流れていた。ジャカジャカとしたハイテンポのものからゆったりとしたものまで、代わる代わる流れてくるそれは、生徒から集めたリクエスト曲だ。時々、先生が選んだんじゃないか、と疑うような渋い選曲が紛れ込んでいるのが笑える。
後夜祭の会場となっているグラウンドから少し離れたここは、とても静かだった。
『私のお姉ちゃんもここの卒業生で、教えてもらったんだけど、美術準備室から花火見えるんだって! 鍵閉めちゃうから入れないんだけど、足元の窓の鍵開けておくからこっそり入って!』
という立花さんの計らいで、俺たちは美術準備室にいた。
そんな不法侵入みたいなことしてもいいのか、と一度は断ったのだけど、『私のせいで二人がこじれてたなんてもう、本当に壁失格……どうか私に名誉挽回の機会をお与えください……』とわけのわからない懇願に押し切られて今に至る。
廊下側の窓はカーテンを閉め、電気を消した室内の灯りは、外から差し込んでくる月明りとグラウンドに照らされたナイター用の照明だけ。
そんな薄暗い中、俺たちは窓辺に椅子を二つ並べて、寄り添うように座って外を眺めている。
知っている曲が流れてくると一緒に口ずさんだり、他愛のない話をしたりしながら、さっきまでの喧噪が嘘みたいに静かな空間で二人きりの時間を満喫していた。
昨日、気持ちを伝えて晴れて両想いになった俺たちは、その足で立花さんの所に向かってお礼を伝えたのだけど、流れ的に“お付き合いのご報告”みたいになってすごい恥ずかしかったし、それを聞くや否や立花さんが泣き出して大変だった。
春斗曰く、『嬉し涙だから大丈夫じゃないかな』らしい。
そのあとは、俺がバレー部の当番の時間になってしまったので後ろ髪を引かれる思いで春斗と別れたし、帰宅後は、お互い忙しかったのと恥ずかしかったのとで、夕食後さっさと自室に引き上げてしまったため、二人の時間はほとんど取れていなかった。
文化祭一般公開の今日、お互い当番を終えてから一緒に文化祭を回って、片づけを大方終わらせてようやく今、二人きりの時間というわけだ。
ちなみに、郁実と五十嵐には、昨日の時点でRINEで俺たちのことを報告している。今日も春斗と二人でいるところに出くわしてからかわれた。
――春斗と、恋人、なんだよな……。
正直、昨日は怒涛の展開すぎて、夢でも見てるようだった。帰宅後もなんだかふわふわそわそわして、現実と夢の間を彷徨っているようなそんな心地で、よく眠れなかったし、今日も朝から忙しくて騒がしい中にずっといたから実感が湧かなかった。
それが今、こうして静かな場所で二人きりになった途端、事実が実感を伴ってじわじわと俺を追い立てていた。
「そう言えばさ、バレー部の当番してるときに藤本が来たよ」
「えっ、藤本くんて、あの?」
「うん。それで、謝られた」
藤本はバレー部の出し物のかき氷屋に来て、『引退試合のときのこと、本当ごめん。ただの八つ当たりだった』と頭を下げた。
「あと、俺がバレー部入ったって聞いて、安心したとも言ってくれた」
春斗は、「そっかぁ……よかった……」とまるで自分のことのように喜んでくれた。目をうるうるさせて、今にも泣きそうになってる。
「全部、はるのおかげ」
春斗が俺に勇気をくれたから、気持ちに区切りをつけて前を向けるようになった。
これまでずっと、胸の奥底に蟠っていたもやもやが嘘のように晴れていった。
「ううん、俺はなんにもしてないよ。ふゆくんが自分で決めたことだもん」
「ありがとう」
感謝を伝えれば、春斗は顔をくしゃりとさせて笑ってくれた。
あの、俺の大好きな可愛い笑顔。
――あぁ、好きだなぁ。
そう思ったら、手が勝手に春斗の頬に伸びて、指先で撫でていた。触れた箇所から、びりびりと感情が伝染してくるようだった。それがどちらのものなのか、区別がつかない。まるでお互いの気持ちが共鳴しているような錯覚を覚える。
春斗の薄茶色の虹彩が、月明りに反射して揺らめく様が綺麗で目が離せない。
時間が止まったかと錯覚するくらいに静かだった。
「ふ、ふゆくん……」
頬を染めて動揺する春斗の薄い唇に親指を滑らせる。
「キスしたい」
恋心を自覚してからずっと抱いていた願望が口から零れ落ちる。春斗が息を呑んで、目を瞠る。
もう隠せない欲望に身を任せ、返事を聞くよりも先に顔を近づけたそのとき、薄暗かった部屋全体がピンク色に照らされ視界が明るくなり、俺たちは同時に外を振り仰いだ。
――ドーン……パラパラパラ……
そして少し遅れて花火の破裂音が鼓膜を叩いた。
「始まったな」
「う、うん」
高校の打ち上げ花火は、毎年OB会や地域、保護者の寄付によって成り立っている。なんでも、そこそこ大きな企業の社長さんが卒業生の保護者にいるらしく、うちの高校の花火は市内でも有名な風物詩だった。俺もここに入る前から、毎年のように見ているくらいには。
その後もコンスタントに打ち上がる花火を、春斗と二人で眺める。さっき、春斗に触れた指先に、まだ感覚が残っていて、花火に集中なんてできなかった。
春斗は、「わ、綺麗! すごい、今のハート型だった!」と楽しそうに花火を見上げている。
キスしたいっていう、俺の渾身の願いがスルーされてしまったのが気に食わなくて、俺は春斗の手に触れる。びくりと反応したけれど、拒まれはしなかったので、そのまま握りしめた。
少し体を傾けて、春斗の肩に寄りかかると、隣から可愛らしい笑い声が届いた。
「あはは、ふゆくん重いよ、倒れちゃうって」
――あぁもう、可愛いなぁ。
俺より華奢な手も、サラサラの髪も茶色い目も、笑い声も、なにもかも全部可愛い。
俺の体を押して抵抗する春斗がいじらしくて、ぐいぐいともっと体を倒す。
「うわ、わ、ちょっ、ホントに倒れるってー!」
いよいよ押し返す腕に力がこもったところで、体を戻した。
「もう、花火見逃したじゃん」
ふくれっ面でこちらを見上げた隙を狙って、俺は春斗の唇にキスをした。
緊張と期待、不安と歓喜。
さまざまな感情が一瞬で全身を駆け抜けていき、体の中で弾けて熱となった。初めてのキスは、情熱的なのに儚く夜空に散る花火みたいに、鮮烈な衝撃となって俺に降りかかった。
その柔らかさと甘さに眩暈がして、縋るように額をこつんとくっつける。
「好きだ」と息を吐くように口から想いが溢れた。
「俺も、好き。大好き」
好きな人に想いを伝えて、同じ気持ちを返してもらえることは、奇跡みたいなことで。少し前の自分には手に入ることのない幸せだったはずなのに。
いざこうしてそれが手に入ってしまえば、満たされたはずの心は途端に飢えてしまっていた。
――足りない。もっと。
乞うように鼻を摺り寄せてから、もう一度唇を触れ合わせる。
それだけじゃ足りなくて、春斗の薄い唇を啄んだ。形を確かめるように、何度も、何度も。
そうしている内に、されるがままだった春斗もおずおずと同じように返してくれて、ぞくぞくとした甘い痺れが存在感を増して背中を這い上がってきた。
閉じた瞼に散る光は、外の花火の灯りなのか、それとも自分の熱によるものなのかもわからない。
春斗とのキスに夢中になっていると、ふと繋いでない方の手が俺のシャツを掴んだ。その助けを求めるような仕草に顔を離すと、春斗がへなへなと俺の胸にしな垂れかかってくる。
「む、無理……」
「はる、ご、ごめん、止まんなかった」
「もぉ……ふゆくんの馬鹿」
「許して。あと、嫌だったら言って、俺も初めてでよくわかんないから」
「嫌なわけじゃ、ないんだよ……。その、慣れてないだけで……」
「うん……、俺たちのペースで、ゆっくり進んでいこ」
そう耳元で囁けば、春斗は耳を押さえて顔を真っ赤にさせる。
照れて恥じ入る春斗に庇護欲をそそられる。またしてもキスしたくなる衝動を、必死に押さえるのにいっぱいいっぱいだった。
――こんなに激しくて、切なくて、嬉しくて狂おしい感情が自分の中にあったなんて知らなかった。
俺一人では決して知り得なかったものばかり。
苦しくてツラい感情もあったけど、それも春斗が与えてくれたもので、春斗と二人だから生まれたものだと思うと、それだけで愛おしくて大切なものになるから不思議だ。
離れた体が寂しくて、そっと春斗の肩を引き寄せる。
足りないものを補うように、俺たちはぴったりと寄り添って花火を眺めていた。
fin.



