中学の卒業式を終えて少し経った三月の中旬。
 風は肌を優しく撫で、花はほころび、春の訪れをそこかしこで感じられる穏やかな季節になっていた。
 ――というのに、俺――小林冬璃(とうり)の心は少しも穏やかではなかった。
 緊張のあまり居ても立っても居られなくて、自宅のリビングでソファの周りをせわしなく行ったり来たり。どうにか心を落ち着かせようとあの手この手を尽くしたが、どれも全く意味をなさない。
 何度も時計を見ては、少しずつ迫りくるその時(・・・)を想像して不安に駆られる。
 ――うぅ、吐きそう。
 今までに感じたことのない程の緊張に、俺は心臓のあたりを手で押さえる。どくどくと激しい鼓動が手にも伝わり、せり上がってくる気持ち悪さを抑えるように息を深く吸っては吐きだした。
「そろそろ、だよな……」
 時計を見ると時刻は午後二時を少し過ぎたところ。両親が、客人たちを迎えに家を出てからすでに三十分が経っている。
 最寄り駅までは片道10分だから、そろそろ帰ってきてもおかしくない時間になっていた。
「……はるちゃん、俺のこと覚えてるかな」
 これから来る客人――はるちゃんは、俺の初恋の相手。
 そして、現在進行形での想い人でもある。
 ――というのは、言い過ぎかもしれないけれど……。
 実に十年ぶりの再会を目前にして、緊張せずになんて居られるわけがない。
 さらに、そのはるちゃんは、今日から俺の家で一緒に暮らすことになっている。
 なんでも、両親の海外転勤についていくのを拒否するはるちゃんに困り果てたはるちゃんママが、親友である俺の母親に相談したのがきっかけで、家で預かることが決まったらしい。
 それに伴って、高校もここから近い俺と同じ高校を受験して入学が決まっている。
 昨夜は、遠足前の小学生よろしく全然寝付けなかったし、もっと言えば数日前から動悸が激しくなって落ち着かない日々を過ごしていた。
 高校受験の時でさえ、ここまで緊張していなかったと思う。
 まさか、もう一度会えるなんて思ってもいなかったし、ましてや一緒に住むことになるなんて誰が予想できただろう……。
 ことあるごとに十年前のはるちゃんの記憶が思い返され、俺の胸はこれでもかと締め付けられる。
 俺の記憶の中のはるちゃんは四歳で、笑うと笑窪ができるそれはそれは可愛らしい女の子だった。日本人にしては色素が薄くて、髪も目も透き通るような薄茶色をしていて、それがまた儚げで独特な雰囲気を醸し出していた。
 もう十年以上も昔の記憶なのに、はるちゃんの姿は色あせることなく鮮明に俺の瞼に焼き付いている。
 母親同士が親友だったこともあり、休日の度にお互いの家を行き来して俺たちは逢瀬を重ねていた。気付けば俺ははるちゃんの虜になってしまい……。十年経った今もまだ、はるちゃんのことが忘れられなかった。
 可愛すぎるはるちゃんのせいで、この方十年と少し、どんな女子を見てもときめかなくなってしまっていた。
 おかげで年齢=彼女ナシ歴という輝かしい経歴を保持している。
 とはいえ、名誉?のために言っておくと、告白されたこともなくはない。だけど、その度に、はるちゃんの屈託のない笑顔が脳裡にチラつくものだから、首を縦に振ることは一度もできなかった。
「――ていうか、なんて挨拶すればいいんだ? 久しぶりだね、会えてうれしいよ? ずっと会いたかった? いや、それはさすがにキモいだろ」
 ぶるぶると寝不足で回らない頭を振ったとき、
「ただいまー」
 と、ドアの開く音と一緒に母親の声が耳に飛び込んできて心臓が飛び跳ねた。
 き、来た……!
「どうしよう、挨拶まだ決まってない!」
 玄関まで出迎えるべきかどうすべきかおろおろと立ちすくんでいるうちに、人の気配と「入って入ってー」という母親の声が近づいてきてリビングドアが開けられた。
「あら冬璃、居たなら出迎えくらい来なさいよ」
「あ、ご、ごめん」
「――ささ、狭いとこだけどどうぞー」
 呆れた顔も一瞬でよそ行き顔になり、母親は客人たちを屋内へと誘導する。
「まー! ふゆくん? 大きくなったわねぇ!」
 はるちゃんのママ――千佳さんが、俺を捉えて目を輝かせた。そうだ、はるちゃんはお母さん似だった、と美人な千佳さんを久しぶりに見て思い出す。
 ということは、はるちゃんも千佳さんみたいな可愛らしくも美人な感じに……。
「お、お久しぶりです」
 ちなみに、「ふゆくん」というのは、はるちゃんが付けてくれた俺のあだ名だ。久しぶりに呼ばれたその響きに、心臓がせわしなく鼓動を打った。
「冬璃くん、こんにちは」
 千佳さんの後から現れた長身の人が柔らかな笑みを浮かべて俺に頭を下げた。はるちゃんのお父さんだ。初対面のため、「はじめまして」とぎこちなく挨拶を返す。
 い、いよいよだ。
 やっと……、やっと、はるちゃんと会える……!
 どっどっどっど、とまるでカウントダウンのように心臓が鐘を鳴らし、緊張のあまり生唾を飲み込んだ。期待と不安とが一緒くたに混ざりあった、なんとも形容しがたい感情が胸の中にあふれかえっていた。
「ほら春、さっさといらっしゃい」
 千佳さんに促され、ワンテンポ遅れてドアの向こうから現れたその姿に、俺の思考が停止した。
「え……?」
 あまりの衝撃に、頭の上から足先まで見てしまう。
 一番に目に入ったのは、茶色味を帯びたサラサラの前髪。その下からこちらを見つめる茶色の瞳は大きいけれど、俺が想像していたよりも切れ長の二重で……。
 ――ちょ……待って……。
 猛烈な違和感から目を反らした俺は、記憶の中のはるちゃんと目の前の人物を照らし合わせていく。
 色素の薄い茶髪と、それに映える白い肌、バランスの取れた小さな顔は昔から変わってない。
 それに、ハーフっぽい面差しも昔と同じと言えば同じ……だし……、体は華奢と言えば華奢だし……ま、まぁ、十年間の成長と考えれば許容範囲……。
 ――って、なわけないだろ!
 だって、目の前に現れたはるちゃんは、どこからどう見ても男だった。
「ひ、久しぶり……、俺のこと覚えてる……?」
 これまた想像よりも少し低い声音に、とどめを刺された。俺の中のはるちゃんは、鈴を転がしたような声のはずなのに……。
「え……、あっ!」
 そうだ、これは何かのドッキリでは⁉
 十年ぶりの再会! もしも幼なじみの性別が変わってたらどんな反応をするのかモニ〇リング検証! みたいな?
 あのお茶の間の人気番組タイトルが頭に浮かんで、リビングを見渡す。隠しカメラを仕掛けられそうなテレビやティッシュケースなど怪しい所を瞬時にチェックするも、それらしいものは見つけられない。両親を凝視するが、彼らは穏やかな表情で俺たち二人の再会を見守っているだけだった。
 それともあれか、はるちゃんにはそっくりな兄か弟がいた、とか?
 あ、でも今千佳さんは「春」って言ったよな?
 あぁもう、わけがわからない!
「えっと、ごめん、だ、誰だっけ……? ――いたっ」
 混乱を極めた俺の口から零れたのはそんな素っ頓狂な言葉で、いつの間にか隣にいた父親に頭をはたかれた。
「この馬鹿」
「ちょっとなに間の抜けたこと言ってるのぉ? やぁね、はるちゃんに決まってるでしょうが」
 母親が大笑いをかまして、その場が笑いに包まれるも、俺は少しも笑えない。
「え……、あのさ……はるちゃんて……女の子じゃなかった……?」
「「はぁ⁉」」
 四方から驚きの声が飛んでくるが、俺は至って真剣だ。

 ――はるはね、大きくなったらふゆくんと結婚する!
 ――ふゆくんは、はるの王子さまなんだよ!

 くしゃりと笑うはるちゃんの可愛い笑顔が脳裡に浮かび、愛らしい声が遠くでこだまする。

 嘘だろ……。
 そんな、まさか。

「俺の、初恋がぁーっ」