その日の晩。

「明日にしよっかなぁ……でもなぁ……」

 そわそわしながら、洗面所と部屋を行ったりきたりしている。

「晴翔、いつまでそれしてんの! そろそろ寝なさいよ」

 母さんに怒られた。

 この洗面所と部屋の往復は、実は夕方からしている。今は二十一時なので、ざっと二時間はしていると思う。

「よし!」

 迷惑だと思いながらも、自室のベランダに出て、蓮にメッセージを送った。

【蓮、まだ起きてる?】

 起きているのは知っている。電気がついているから。一応、挨拶だ。

 ピロン♪

 返事はすぐにきた。

【起きてるよ。今日はごめんね】
【ちょっと窓開けてみて】

 そわそわしながら、蓮の部屋のカーテンと窓が開くのを待った。

 それはすぐに開いた。

 同時に、蓮の瞳が大きく見開かれた。

「晴翔……」
「へへ……どうかな?」

 俺は照れたように、短くなった髪の毛をいじった。

 目元はスッキリ、視界も良好。肩の辺りまで伸びていた後ろの髪も、束感ショートヘアになった。

「……」

 蓮は何も言ってくれない。

 母さんは似合っていると泣きながら喜んでくれたのだが、不安になってきた。

「変……かな?」

 蓮は首をブンブン横に振って、小さく言った。

「似合ってる」
「良かった」

 明日から、また顔を揶揄われるかもしれない。しかし、蓮に相応しい彼氏になると決めた今、何でも頑張れそうな気がしてきた。

 とりあえず文化祭で、あっと驚かせるような演技を……と、はりきっていると、蓮が言った。

「晴翔、明日学校休んで」
「は?」
「いや、明日だけじゃダメだ。もうずっと外に出ないで」
「はぁ?」

 蓮に外出禁止と言われてしまった。

「やっぱ変?」

 落ち込んでいると、またもや蓮は首を横に振った。

「すっごく似合ってる」
「だったら何で学校行くな……なんて」
「だって……」

 蓮は、暫し悩んだ末にスマホに何か打ち込んだ。

 ピロン♪

 メッセージが届いた。もちろん蓮から。

【可愛すぎて、誰かに取られちゃう】
「は?」
【学校行かないで。お願い!】
「いやいやいや、揶揄われはしても、取られたりなんてないから。てか、直接喋ってよ」
「やっぱ昼の続きして良い? 晴翔のお尻にマーキングしとかなきゃ」
「なッ!? そんな恥ずかしいことは口に出すなよ! 母さん達に聞かれたらどうすんだよ!」

 そして、俺は受けなのか。そうかな……とは、最近何となく思ってはいたけれど。

 蓮がベランダの手すりに足をかけた。

「うわ、蓮。マジで来る気じゃ……?」

 蓮の目は本気だ。

 俺は、お尻を手で押さえた。

「蓮、ごめん。尻の準備……じゃなかった。心の準備が出来てないから」
「明日まで、まだたっぷり時間あるから大丈夫だよ。晴翔」
「いや、そういう問題じゃ……。と、とにかく、また明日な」
「晴翔、待って!」

 俺は急いで部屋に戻り、ピシャッと窓を閉めた。鍵も忘れずに。

「はぁ……蓮のやつ、あんなに獣みたいだったっけ?」

 それにしても、こんなに髪を短く切っても『可愛い』か……。

 他人に言われると腹が立つが、蓮に言われるのは存外悪くなくなってきた。むしろ、もっと言って欲しいと思う自分がいたりする。

◇◇◇◇

 そして翌朝。

 俺は一人で起きて支度し、時間通りに登校する。

 蓮は残念そうに横を歩きながら言った。

「晴翔、最近一人で起きれらること多くなったよね」
「あー、だね」

 そう、『恋人のフリ』を始めてからというもの、アラームよりも前に覚醒出来ることがしばしば。

 ただ、これは当初目指していた自立とは、ちょっと違う。どうやら、防衛本能が働いているようなのだ——。

「れ、蓮。流石に外では……」

 蓮が手を繋いできた。しかも恋人繋ぎ。

 俺は知り合いがいないか、辺りをキョロキョロと見渡した。

「良いじゃん。学校の生徒には、もうバレてる訳だし」
「いや、そうだけど……近所の人とかさ、色々いるじゃん」

 さりげなく手を離そうとすれば、更にギュッと握られた。そして、蓮はムスッとしながら言った。

「晴翔が悪いんだよ。朝、充電させてくれないから。晴翔が足りない」
「足りない……って」

 そう、蓮は俺が寝ぼけている隙にスキンシップをしていたらしい。

 昔は頭をヨシヨシくらいだったらしいが、付き合うフリを始めてから、スキンシップは更にエロくなっている。

 好きだから、俺も触れ合いたい気持ちはある。しかし、恋愛に耐性のない俺には、朝から過激すぎて学校どころではなくなりそうなのだ。

 だからか分からないが、蓮の足音で目が覚めるようになった。蓮に言ったら、泣きそうなので言えないが。

 ——そうこうしているうちに学校の校門に着いた。

 俺が立ち止まると、蓮も引っ張られるようにして少し前で立ち止まった。

「晴翔、大丈夫?」
「う、うん……」

 冷や汗が止まらない。

 過去の嫌な思い出がフラッシュバックされる——。

『この女男、キショいんだよ』
『近づくなよ。オカマ』
『オカマ、オカマ、オカマ』
『僕、男だもん……男の子なのに……』

 泣いている俺に、一人だけ手を差し伸べてくれた人がいる。それは今も同じ。

「晴翔、自信持ちなよ。晴翔は、誰よりも綺麗なんだから」
「蓮……」
「ま、僕は、このまま登校拒否になってくれた方が嬉しいけど」
「なんだよそれ」

 冗談か本気なのか分からないので、笑えない。

 ドンッ!

 誰かの肩が後ろからぶつかってきた。

「悪いな。けど、そんなとこ突っ立ってるんが悪いんやで」

 ぶつかった相手は、転校生の海斗だった。

 そして、蓮が俺の肩をこれでもかと言わんばかりにはたいている。

「海斗君。ごめん」
「ん? おれ、この学校でまだ知り合いおらんのやけど、もう有名人になったんかな? おれ、すげー」

 上機嫌の海斗を蓮が睨みつけているような気がするのは気のせいか。うん、多分気のせいだ。

 俺は、はにかみながら言った。

「あの……修学旅行の時に助けてもらって」
「修学旅行……?」

 海斗にまじまじと見られ、照れる。

 そして、海斗は気がついたようだ。

「あー、あの時の。前髪は? 後ろもバッサリやん! てか、何やねん。この可愛さは! そこらの女子より可愛いやん」
「気持ち……悪いよね」
「は? 何言っとんねん。そんな訳ないやろ。キモいとか言う奴がおったら、おれがしばいたんで。ほな、おれ、先に職員室行かなアカンから。また後でな」
「うん、また後で」

 初めて肯定された気がして嬉しかった。

 蓮以外の誰かに肯定された気がして……。

 ——この時の俺は、蓮がどんな思いで、今のやり取りを見ていたかなんて考えもしなかった。