逢生が大切にしている記憶。
中学2年生の五月。
隣の席の青海という名前の同級生に声を掛けたことは鮮明に覚えている。
自分が誰かに話しかけるという行為自体がほとんどない逢生だったからというだけではない。逢生が言葉を交わした後の授業に、それまで左側に座っていた青海がいなかったからだ。
逢生は周りの生徒と話をしないけれど、それでもクラスが一緒になった同級生くらいは名字と顔を覚えた。
一カ月だけ隣の席だった青海は授業中に不在ということのなかった生徒だったから、逢生は何度か気になって左隣の空席を見つめたことも記憶している。
窓の外に見える隣の三年生の校舎。五月の明るい光。不在の机の上に踊る陽だまり。
その翌日からも青海が登校しないまま夏休みに入った。
逢生自身も自転車にぶつけられたときの怪我で初めて入院するという大きな出来事があったので心身ともにエネルギーを使った夏だった。それでも、心の片隅には一言だけ言葉を返してきた同級生の面影は居続けた。
二学期になって担任から青海が家庭の事情で欠席しているということは伝えられて、そのまま。秋ごろには転校になったという話をHRに聞いたきりだった。
あの日。
逢生はうっかりと英語の授業中に緑色のボールペンを机から落とした。英語の授業が好きだったから、先生の言葉を書き留めることに普段より熱心になって手元がおろそかになったんだったと思う。
左隣の小柄な同級生がすぐに屈んで拾ってくれたのを見て逢生は御礼を小さな声で言おうとして、なぜか別の言葉が飛び出た。
「大丈夫?」
逢生の左手にペンを手渡した相手の白いシャツがまくれて、手首の裏側が見えた。
赤い花のタトゥーに見えた。逢生は火傷の痕を見たことがなかったから。
相手が怪我をしたばかりの生々しい傷を抱えていることに気が付いて御礼の言葉が消えて尋ねてしまった一言。
逢生の言葉で相手が動きを止めて逢生の目をじっと見た。
青海くん、とても痛いんじゃないの。
そう思った逢生は、授業中でも前を向くことはできなかった。尖ったような目をした青海が逢生を見て怖い顔になっても、逢生は目をそらさずに目を見つめ返していたと思う。
「大丈夫じゃない」
青海が小さな声でぶっきらぼうに言ったとき、逢生は頷いたと思う。大丈夫じゃないに決まってるって。
後ろの生徒たちの授業の邪魔にならないように青海に顔を近付けて逢生はこう言ったんだった。
「僕に何かできること…ある?」
そう言った時に青海がびっくりしたように目を見開いたこと、そして何も言わなかったことを覚えている。
そのままいなくなってしまったことも、ずっと。
いつしか相手の顔の輪郭が消えてしまっても。
逢生が心を寄せても何もできないことがあるんだということを知った、痛みとともに。
どれくらい追憶に浸ってていたんだろう。
逢生がゆっくりと顔を上げた時、隣に座っている陽歩の纏う空気が揺らいだ。
陽歩の方を見ると、前を向いていた陽歩が逢生の目を見て小さく笑ってくれた。
「逢生おかえり」
「た…ただいま」
右側に座る陽歩が顔を近付けてきて自然な仕草で逢生に唇を寄せた。
「オレンジホームって名前の児童養護施設に入ったんだ。あのあと。中2の夏休みに」
「…オレンジ?」
「うん。そこで安心して過ごせたよ。おかげで体も大きくなったし。入所後の俺の成長曲線すごいよ。これって逢生が今学んでる環境心理学分野のケーススタディになるかも」
陽歩が明るく笑って、もう一度顔を寄せてきた。
逢生の記憶の奥底に溶けて一度消えていた同級生が笑った。
逢生は顔が離れた後の陽歩を見て、そう感じることができた。
「今暮らしている自立援助ホームはリュドオランジュって名前。なんせ理事長がみかん農家だったからさ。ホーム関係の名前にオレンジが溢れてる。ブーランジェリーオランジュのオーナーだよ。このメゾンの大家さん。今度会わせるよ」
そう言って陽歩はまた体を寄せて逢生の唇にそっと自分の唇を重ねてきた。
あまりに朗らかな陽歩に、逢生もつられて自然と涙が乾いていく。
「うん。青海くんもおかえり。青海くんも陽歩さんも好きだよ」
逢生の言葉を聞いて陽歩が声を出して笑った。
その声をずっと聴いていたいと逢生は思う。
初めて、自分から陽歩に顔を寄せていった。
オレンジの香りがする。そう感じた。
翌週の日曜日。
八月下旬の眩しい太陽。
陽歩が生活する自立援助ホーム“リュドオランジュ”が地域の夏祭りイベントに出店をすると聞いて、逢生は友だち二人を連れて昼前に森林公園に行った。
同じ人文学科で一番仲良くしている二ノ宮駿と、駿を通じて知り合った経済学部経営学科の藤瀬龍之介の二人。
五月の陽歩の誕生日に二人きりで行った春イベントとよく似た店構えのお洒落な出店が芝生の上に並び、駿も龍之介もこういうマルシェは初めてだと言ってあちこち覗いては楽しんでくれている。
陽歩のやっているカフェオランジュはマルシェ入り口から一番奥のスペースだと教えてもらっていた。
「逢生が今日会いにいく三宅先輩って四月にバス停で俺も会った先輩だよね」
「そう」
駿が龍之介のTシャツを引っ張りながら尋ねてきた。高身長の龍之介がちょうど眼鏡を外してレンズを磨いていて通行人とぶつかりそうになったから引き寄せたらしい。
駿は逢生より背が低く、高校時代から親友だという駿と龍之介の二人が並ぶと凸凹が際立っている。
小さな駿は逢生と会話しながらも同時に龍之介の面倒を見たり世話を焼いたりするのが日常で、今日も機敏な動きを見せてくれていた。
「カテキョ先の純ちゃんが法学部ねらってるんだって。俺もちょっと先輩の話聞いて情報収集したい。法学科だった?」
「うん。民法の教授のゼミだって。純さんは元気?」
逢生が初めて短期バイトをさせてもらったのは駿が家庭教師をしている生徒宅での夏期講習バイトだった。駿が苦手な英語だけ3日間ほど替わりに受け持って高校1年生女子に教えた。
「二ノ宮も逢生に英語教えてもらえ」
龍之介が磨き上げた眼鏡をかけて涼しい顔で言う。逢生が「下の名前で呼ばれたい」と勇気を出して駿に言ったことで世話好きの駿が龍之介に頼んだという経緯があった。
「藤瀬は逢生に着こなしを教えてもらえ」
駿がいつもファストファッションで済ませている龍之介に応酬すると二人は互いを見て笑い合う。
いいコンビだと逢生はいつも思う。
「あーいせーい」
遠くから逢生に呼びかける陽歩の声がして目線を上げた。
陽歩がたくさんの人波の向こう側で大きく手を振っている。逢生も弾かれたように右手を挙げると陽歩が嬉しそうに大きく笑った。
「へぇ。三宅先輩って親しみやすそう」
駿が隣の龍之介のデニムを引っ張る。龍之介が身を屈めて駿に耳を寄せると「あの人だよ」と囁いて指をさして教えてあげている。
「あの日はカッコいい男が逢生と喋ってるなぁって思いながら近付いてさ。大学生って言うよりモデルみたいにお洒落な先輩だなぁって見てたんだ」
駿が言葉を続ける。
龍之介が今日初めて会う陽歩の姿を視野に入れて認識したのを見て丁寧に説明していく。駿は人と人を繋げていく力がある。
「そしたらさ。逢生に『バスの中でかわいいと思って見てた』的なことを言ったの。普通に。さらっと。すごくない?俺は大人の男ってこういう人か!と思ったね」
「じゃあ二ノ宮。その先輩から大人を学べよ。おまえ逢生と同じで…」
「黙れ」
駿たちが喋っているうちに三人は一番奥の出店、CAFEオランジュに辿りついた。
逢生が目の前に来るとさらに目を細めた陽歩に、「おはよう。二ノ宮駿くんと藤瀬龍之介くんだよ」と直ぐに紹介した。
同時に逢生はCAFEスタッフとして客対応をしている都希を見つけて頭を下げて挨拶をした。てっきり陽歩の恋人だと勘違いした上に陽歩と同学年だと思い込んでいたが、都希が四回生だと陽歩から聞いて驚いた経緯がある。
(僕と同い年だと思ってごめんなさい…)
そう心で謝っていると、都希が逢生の目をじっと見て「まぁいいけど」と言ったので逢生はまたびっくりしてしまった。
都希さんって不思議だ。
本当に美しい夜が人になった姿なのかもしれない…。
逢生はしばらく非現実的な思考から抜け出せないまま夏の陽射しに焼かれていた。
そんな逢生の後ろで駿たち二人が陽歩に丁寧にお辞儀していると、CAFEオランジュの大人たちが歓声を上げながら笑った。
「アキが先輩面してるぞ。今の若いコは礼儀正しいなぁ。若いコはいい。若い力でこの店を盛り上げてくれ」
「近衛爺。またその話」
陽歩が年配の男性に気安く返事しているのを聞いて、逢生はこの人がブーランジェリーオランジュのオーナーだと気付いた。
「なんで爺をつける?“近衛さん”でいいだろう」
「もう理事も引退するんだろ?隠居して息子さんが理事長になったら区別しなきゃ。同じ近衛さんじゃわかんないよ」
「ボクまだ八十代にもなってないよ。近衛爺って呼ぶのは九十代に入ってからにしてほしいなぁ」
幾分白くなった長髪を後ろで束ねた近衛と陽歩のやりとりに逢生は思わず笑ってしまった。
失礼かもしれないと思って口元を手のひらで覆ったけれど、笑いが止まらない。高齢男性と普段接しない逢生は、近衛が若々しいのに驚いてしまう。
「あ。アンタ可愛い」
逢生の方を向いて近衛が言った。逢生は思いも寄らない言葉にびっくりして真顔になる。
近衛が逢生に近付いてくると陽歩が間に割り込んで近衛を立ち止まらせた。
そして逢生を後ろから抱きしめて近衛に言った。
「爺さんダメだ。逢生は…俺の…」
陽歩の言葉が途切れる。
逢生は不思議に思って背中側にいる陽歩を右後ろを振り返って仰ぎ見た。
どうしたんだろう。
陽歩は近衛から逢生に視線を移して真面目な顔になって呟いた。
「俺、大事なこと言い忘れてた」
陽歩が逢生を抱きしめていた腕をゆっくり外す。
逢生が陽歩に向き合うと互いに見つめ合う格好になった。
陽歩は横に立つ近衛を気にもせず、逢生の両手を取って力を込めて手を繋いできた。
「逢生。俺と付き合ってください」
陽歩に八月の太陽の光が注ぎ、陽歩のこめかみから汗が流れ落ちる。
逢生はしばらく陽歩の顔を見つめた。
森林公園の木々の間をくぐり抜けてきた風が陽歩の前髪をそっと揺らしたのが見えた。
「うん。そうしよう」
逢生が声を出すと近衛がやっと口を挟んだ。
「おい。ボクは牧師じゃないよ」
近衛の言葉で逢生は我に返り、慌てて陽歩の手を振りほどいた。
近衛だけじゃない。CAFEオランジュのスタッフも二人の友だちも客もいる公園の真ん中なんだった。
逢生は頰が熱くなるのがわかった。
「アキ。ボクたちはおまえのそういうアツいとこ知ってるからいいんだよ。でもこの二人には刺激が強すぎるんじゃないのか?」
近衛が真後ろにいる駿と龍之介を振り返った。
二人は逢生と陽歩の方を向いて突っ立っている。
逢生はそんな二人を見て慌てた。それでも近衛に視線を向けられて駿たちはフリーズから解放されたようだった。
駿が先に声を出す。
「新しい時代が来た…」
「そうだな」
龍之介の返事を合図にして、二人がまた同時に顔を見合わせているのが逢生にも見えた。
逢生はそんな友だちの表情を見て二人が自分たちを応援してくれることを感じた。隣の陽歩を見て「急に手を離してごめん」と謝る。陽歩は笑って「またつなげばいいよ」と言って手を繋いできた。
その陽歩の後ろから、CAFEオランジュのスタッフの隙間を縫って都希の落ち着いた声が響いた。
「ねぇ。アキと逢生は手をつないだままでいいから早く手伝って。そこの大きいコと小さいコも一緒にね」
「は、はい!」「はい」「は~い!」
逢生と龍之介と駿の三人の声が重なったのでスタッフたちが大笑いした。オレンジ繋がりの人々はどこまでも優しかった。
イベント終了後に片付けを手伝ったあと、逢生は一人で帰るつもりだったけれど陽歩が部屋まで送りたいと言ってくれた。
森林公園を抜けてバスに乗らずにしばらく大通りを郊外に向かって歩いていく。夏の夜はどこまでも先送り。
七時を過ぎても明るい夜を二人でたくさん歩いた。
真夏の夜に前を向いて歩く陽歩が晴々とした顔をしている。
陽歩の笑った顔も真面目な顔も、しょんぼりした顔も少し怒ったような顔も見てきたけれど。
逢生は陽歩の新しい表情を見ると今でもどきどきしてしまう。
横を歩く陽歩の顔を見ながら歩く逢生に、ときどき陽歩は笑いかけてくれた。
何も言葉を交わさずに、暗闇が濃くなっていく夜の空気の中を二人でくぐりぬけていく時間を楽しむ。
互いに黙っている時間で今日一日の濃密なやりとりをそれぞれが心に染み込ませた頃合いに、陽歩が「あのさ」と話しかけてきた。
「俺はすぐにでも逢生のお兄さんに会ったほうがいいよな。きっと」
晴々とした顔に笑みを重ねた陽歩が、優しく逢生の顔を覗き込んでくる。
「兄さん?うん…そうだね。僕の好きな人がどんな人か兄さんはたぶん知りたいと思う」
「たぶん?」
「えっと。きっと知りたい…かな」
「きっと?」
「え~っと。ぜったい知りたい、かもしれない」
「うん。そうだと思った」
陽歩が明るく笑った。
「陽歩さん。僕の左頰にオリオンの三ツ星があったって言い方をしたのはどうして?」
「どうしてって何が?」
「その言い方、兄さんと僕の間でしか使ってなかったから」
「綺麗に三つ並んでたからなぁ。それに現国の先生がオリオン座の三ツ星が唐鋤星って呼ばれてるって話を直面にしてたから印象に残ってたんだ」
「え…現国の時間?よく覚えてるね」
「俺は家の中にいるのが嫌でベランダによく出てて。星に興味があったから記憶してるんだろうな」
逢生は陽歩の過去に少しずつ触れていく今のような時間を、積み重ねていきたいと切に願う。
逢生の住むメゾンドオランジュの白い壁は地中海の島に建つ家々のような趣きがある。大学から多少離れていても、逢生はこのメゾンが好きだから気にならない。ここで暮らす日々に充足している。
夏の夜に浮かぶメゾンドオランジュが見えて二人は顔を見合わせてまた笑顔になった。
結局1時間くらい歩いてここまで帰ってきてしまった。
「陽歩さん。少しだけ寄っていって。見せたいものがあるんだ」
「うん。俺も寄りたいなと思ってた」
逢生の言葉に応じてメゾンドオランジュのエントランスホールに陽歩も一緒に足を向ける。
こうやって気軽に立ち寄ることをしてくれる。それがきっと付き合うとか恋人になるってことなんだろうと逢生は照れながらも嬉しく思った。
部屋に入り、陽歩が勉強机の前の椅子に座った。
その後ろ姿を見ながら、小さな冷蔵庫から麦茶を出してグラスに入れつつ逢生は陽歩に語りかける。
「その壁付棚にハムスターのスタンプを置いてくれてたね、陽歩さん」
逢生は気付いた瞬間を思い出して笑ってしまった。
陽歩が同級生の青海だとわかった先週の夜、陽歩が帰ったあとに本棚に置かれているハムスターとふと目があって驚いたんだった。
五月のマルシェで逢生が気に入って手に取った木彫りのスタンプを陽歩が買ったのは横にいて見ていたけれど、そのあと渡されることなく日々が過ぎていた。それがひっそりと棚に置かれていたので、逢生は一人でも陽歩の存在を強く感じながら眠りにつけた夜だった。
そんな温かな気持ちを反芻しながら、逢生は麦茶の入ったグラスと一緒に一枚の写真を陽歩に手渡した。
「陽歩さん。僕の実家で撮った写真。うちのコと陽歩さんがくれたスタンプのコ。そっくりでしょう」
「ほんとだ」
陽歩はじっと写真を見つめていた。
写真には家族四人と逢生の手のひらに乗ったゴールデンハムスターが写っている。
「逢生にまだオリオンの三ツ星がある」
「うん。ハムスターのシナモンが来たばかりの時だから僕が中1だね」
「逢生はお母さんにそっくりだなぁ」
「そう。兄さんがお父さん似」
「お兄さん、逢生をあすなろ抱きしてんじゃん…手強すぎる…」
「え?なに」
「独り言。逢生ハムスター飼ってたんだな」
「うん。2年ほど生きていてくれた間だけ」
座ったままの陽歩が笑顔で振り向いて逢生を見上げ、しばらく黙ったまま逢生を見つめていた。
「逢生が家族を大切に想う気持ちは強いと思う」
陽歩が穏やかな声で、笑みは口元に残したまま話し続けた。
「俺は家族なんていらないって本気で思ってるとこがある。そういう逢生との違いで無意識に逢生を傷付けちゃうことがあるかもしれない」
そう言って陽歩がまた背中を向けて勉強机に置かれた写真を覗きこんだ。
「正直叶わないなぁって逢生のお兄さんに嫉妬したりさ。たぶんこの気持ちがそうなんだろうけど」
逢生はこの陽歩の言葉を聞いて咄嗟に後ろから陽歩を抱きしめた。立ったままの逢生の顔が、座った陽歩の明るい髪に潜っていく。
陽歩が本音を言葉にしてくれるたび、先輩として慕っている陽歩から同級生の青海へとシフトして、相手の方が逞しいのに何故か自分が守りたいと思ってしまう。
「俺は弟いるけど会いたいって思わないから冷たい人間なのかもしれない。こういうズレが逢生を傷付けてしまったらごめん」
「陽歩さん冷たくなんかないよ」
「ふはは。逢生のあすなろ抱き」
「あすなろ抱きって何?」
「こういうハグの仕方だろ」
「じゃあこれは何って言うの」
逢生が顔をずらして陽歩の髪を左頬で感じながら陽歩の肩までなぞるように降りていった。
額を陽歩の肩にしばらく置いて、それから陽歩の首筋に逢生は唇をそっと寄せた。
「逢生。大胆だな」
「…そ、そうかな」
「顔見たい」
陽歩にそう言われて逢生は後ろから抱きしめていた手をほどく。
陽歩が椅子から立ち上がって逢生を見下ろした。
「今日までいろんな逢生を見てきた。寝てる顔だって見たし。困ったような顔も悲しそうな顔も大笑いしてる顔も。見ていないのは怒ったとこかな」
陽歩が逢生の髪をかき混ぜながら優しい表情で言ったので逢生は意表を突かれた。
逢生は兄弟喧嘩さえしたことがないまま大人になってしまったから、周りの大人から同じようなことを言われたことが何度かある。
「逢生が怒るのを見てみたい。怒った声がどんな風に響くのか。どんな顔するのか」
「あなたを傷付ける人がいたら怒る」
逢生はきっぱりと言い放つ。
「陽歩の体が傷付くのは耐えられない」
そう言いながら自分の呼吸がどんどん浅くなっていくのが逢生には分かった。
陽歩がとても驚いた顔をしている。
陽歩のことを初めて呼び捨てで呼んだことに気付いたけれど、逢生は落ち着いていた。
必要な酸素が体に欠けてきたからか、胸が少し苦しくなって鼓動も早くなる。
「あの時みたいに怪我をさせられたら。今度は許さない」
逢生の手先が冷たくなった。
この身体感覚。なんなんだろう。
「今は大丈夫だから」
強く抱きしめられて逢生の波打つ鼓動の速さが暴かれてしまった。
触れてもらって嬉しいはずなのに、記憶の波間から浮かび上がった小柄な少年の手首に浮かぶ傷が逢生の心を乱したままで感情が渾沌としている。
「怒ったとこ見たいって軽い気持ちで言ってごめん。怒らせてごめん。怒ってくれてありがとう」
その陽歩の言葉を聴いて、逢生は自分のさっきの感情が怒りなんだと気付いた。
「逢生好きだ。もう怒らなくていい」
耳元で囁かれる。
好きだと言われて少しだけ呼吸が落ち着く。
「怒るって行為があんまりよく分からないんだ。これがそう?脚元が冷たい水の中にあるみたいな?陽歩の右腕を火傷させた男に復讐したくて黒い気持ちが溢れてて。僕いま怖い顔になってるんだったらお願いだから…」
見ないで。
そう言おうとしたのに塞がれてしまったから。
言葉は一言も出せないままだった。
しばらくのあいだだけ。
その晩はホームに戻る予定だった陽歩が初めて夜に逢生の部屋に居続けた。
三ツ星がかつてあった場所に陽歩の唇が触れた時、火傷をしたのかと思った。
ゆっくりとオリオン座を辿られていったのが分かった。陽歩の大きな右手が逢生の前髪をかきわけた時、逢生の冷たかった手足が熱くなった。
γ星ベラトリクス。
α星ベテルギウス。
心が隅々まで暴かれていく。
陽歩はクールに見えて激情家だということを逢生はもう知っている。
嵐のような真夏の太陽のような荒れ狂う波間のような激しさを持っている。
その嵐に呑まれていく。
飲み込まれて。魂が揺さぶられて。
雨の滴に包みこまれるような。
そんな夜だった。
☆ ☆ ★
二人では狭いベッドで陽歩が体を起こした時、隣の逢生はまだ眠っていた。
バスの中でスーツ姿で寝ていた時のような柔らかな表情だ。白い壁に背中をつけて陽歩の方に手を伸ばしている。
起こすのはブーランジェリーに寄ったあとにしよう。
逢生に身を寄せかけていた陽歩は楽しみを先延ばしにすることに決めた。
動きを止めて立ちあがる。
昨晩互いが眠りに落ちる直前に逢生に着せられたTシャツを改めて見下ろして、陽歩は一人で笑った。
緑色が溢れているとは思ったけれど。
これはミントだ。
サイズの大きな白地のミント柄Tシャツは新品だった。逢生のものにしては大きすぎるから、おそらく陽歩のために買ってくれていたのだろう。
普段無地のTシャツばかり着ている逢生は、寝ている今も柄のないオフホワイトのTシャツを着て健やかに眠っている。
陽歩はロゴやイラストの入ったシャツを着ることはあるが、ここまで爽やかな柄が入ったTシャツとは無縁だった。
逢生が「ミントの精みたい」と陽歩に言いながら笑った顔を思い出す。
ミントの精になって起こしてやるよ。
焼き立てパンを食卓に用意して。
ブーランジェリーオランジュの店頭で扱っているドリップ珈琲を入れて。
「朝だよ」って何回囁いたら目覚めるんだろう。
陽歩は優しい気持ちで軽く身支度を済ませ、靴を履きなから玄関先で振り返った。
逢生が一番奥のベッドの上で、静かに朝の光の中で眠り続けていた。
朝のバス。
朝食を一緒に食べて。
洗面台やシャワーを交互に使いながら身支度をして同じバスに乗った。
この日も一番後ろの席に二人が並んで座ることが出来た。
大学に向かいながら互いにどこかを触れ合わせるようにして座っていた。
自然な仕草からお互いが相手のことを想っているのが陽歩には分かる。
「陽歩さん」
逢生が陽歩を呼んだ。
昨晩初めて呼び捨てで名前を呼んでもらって驚いたけれど、すぐには逢生も馴染めなくて行きつ戻りつしながら近しい呼び方に変えていこうとしているんだろう。
「ん」
「都希さんって僕の心が見えるんだ。僕の未来も見えてるんじゃないかな。陽歩さんのことで困ったら相談しようって思ってる」
「逢生が何でも顔に出るからだろ。って、え?何か困ってる?朝の起こし方、俺しつこかった?」
「何も困ってないよ」
逢生が悪戯っ子のように笑う。
逢生は目覚めて身体をベッドの上で起こしても、しばらく目を閉じたまま夢の世界から現実に自分を馴染ませるのに時間をかける。
そのことを陽歩は今朝知った。
逢生の瞳がゆっくりと見開かれるまで、陽歩は好きなように逢生の耳元や額やまぶたにキスの雨を降らせていたから「目が開けられないよ」と笑いながら押し返された朝だった。
「僕の部屋に少しずつ慣れていってほしい」
そう逢生に言われて陽歩は気付いた。
「…もう慣れてるかも」
「そう?」
「図々しいけど」
「そんなことない。ゆっくりでいいから僕の部屋を陽歩さんの部屋にして」
「俺の部屋に?」
「そう。少しずつでいいんだ」
「逢生の部屋を俺の部屋にしていいの?」
「うん。それからメゾンドオランジュをいつか陽歩の家にして」
「…メゾンドオランジュって“オレンジの家”って意味だもんなぁ」
逢生が意図的になのか自然になのか陽歩への呼び方を変えて言った。こんな引いては押寄せる波みたいな揺らぎも面白いと思える。
右隣に座る逢生を、陽歩は横から見つめた。
頰にあった消えてしまった逢生のオリオンの三ツ星を、心に浮かべて逢生を見てしまうのは自分だけだと思いながら。
「そしていつか僕を家族にして。陽歩さん」
逢生が身体を陽歩に向けて、しっかりと視線を合わせて真顔で小さく呟く。
大学前にバスが到着した。
陽歩は少しだけ触れ合っていた自分の右手と逢生の左手をそっと動かし、互いの小指を触れ合わせる。
陽歩は言葉を出せなかった。
逢生の真っ直ぐさに打たれてしまって。
だから大きく頷いて、陽歩は笑顔を見せた。
逢生が小指を優しく絡ませて、ゆっくりと笑った。
逢生と別れた後、陽歩は大学のメインストリートを一人で法学部に向かいながら、先程逢生から手渡された“家族”という言葉を心の中でゆっくりと転がしてみた。
その言葉が陽歩の魂のようなものに今までのように棘を刺したり痛みを引き起こしてはいないことを感じる。
今まで感じていた棘が落ちて、この言葉に触れても安全だという感覚に浸る。
逢生はいつも悠々と俺の上を超えて思いも寄らない言葉をくれる。
陽歩はこう思いながら懐かしい歌を口ずさんだ。
逢生に歌詞を届けた時と同じように相手を愛しみながら。
手紙に書いた時、自分の一人称はまだ“僕”だったなと懐かしく振り返りながら。
俺は愛は花だと思う
そしておまえはその唯一の種
★ ★ ☆
季節が巡る。
逢生の大学生活も日々穏やかに過ぎていく。
緑の葉が紅く色付き、葉を落とし始める。肌を纏う空気が冷たくなった。
太陽の光が優しくなる。
秋が深まり、大学のユリノキの葉もさらに色を変えた。
そして落ちた葉を踏みしめて歩く日々を楽しんでいるうちに、気付けば冬の真ん中にいた。
季節が移る日々に、雨の日も晴の日もある。
二人の関係性の比喩としてこの言葉が使われることがあるけれど、逢生はまだ陽歩と喧嘩をしたことがない。
きっといつかは喧嘩だってするんだろう。
喧嘩できるくらいに互いをさらけ出せるんだろう。
陽歩は逢生の部屋に寄っても、朝まで一緒に過ごすのは最初は月に一日ほどだった。
秋の終わりには月に二日ほど泊まるようになった。
そして今では、週に一回は逢生の部屋で一緒に朝を迎えている。
相変わらず先に目覚めるのは陽歩で、逢生は「朝だよ」と耳元で囁かれる陽歩の声で一日を始めている。
陽歩の言葉が朝方の夢の中に溶け込んできて、ダイレクトに夢のストーリーが陽歩一色に染められていく。
夢の中にも愛しい人がいて。
目が覚めてからも、そこにいる。
逢生が目を開けずに微笑みながら横たわっていると陽歩の笑い声が耳に届いた。
逢生が既に起きているのに寝たふりをしていることがバレていたみたいだ。
冬の朝のチリリと冷えた空気の中に、オレンジの香りが弾けるように広がる。
「おはよう。今朝の焼きたてフリュイ。逢生はきっと好きだよ」
逢生の好みに合わせて木の実とオレンジピールをたくさん入れて焼いてくれたことを、逢生は知っている。
ベッドで体を起こした逢生は、今日もおはようの言葉の前に、先に言いたいことを目を閉じたまま言葉にした。
「陽歩のフリュイ好きだよ。陽歩さんのことはもっと好きだよ」
それから逢生は心を込めて朝の挨拶をする。
「おはよう陽歩」
ゆっくりと瞳を開けると今日も陽歩が目を細めて優しく笑っているのが見えるだろう。
逢生の暮らす家で。
逢生の部屋で。
逢生のすぐ隣で。



