あれから。
陽歩はしばらくバイトを15分ほど早目に切り上げたいと織江に頼み、朝のバスに乗る時間を早めて大学に行った。逢生に会うのが怖かった。
好きだという気持ちが捻じれて相手を傷付けてしまいそうで。
そう思いながらも自分は逢生をどう傷付けてしまうのか、どんな言葉をかけてしまうのか全く見当もつかない。
相手に恋人がいようが好きだという気持ちは揺らがない。
はっきりしたのはこれだけだった。
会うのが怖いのに2週間も逢生の顔を見ていないことに耐えられなくなり、逢生と同じ時間帯のバスに乗ったのが七月の終わり。
普段あまり動揺したり取り乱したりすることのない陽歩だったけれど、バス停に向かう時は鼓動が早まるのを感じた。
逢生に会って自分はどんな顔をして何を話すんだろうということも予測ができなかった。
バスに乗りながら周りを見渡して逢生がそこに居ないと分かったとき、陽歩は喪失感を味わった。
逢生という名前の男を好きになる体質だなんて自分で言ったけれど。
この気持ちは好きという言葉じゃ足りない。
愛しいという感情なのか独占欲なのか。
逢生という名前の相手と出逢って愛しさを感じるのが運命だとすれば。
愛を自覚しても相手から離れることも運命?
こんな繰り返し。二回もいらない。
八月。
たぶん一年でいちばん眩しい季節。
自由に生きられるようになってから陽歩はこの季節が好きになった。暑い陽射しの下に飛び出して好きなことをしてもいいし、涼しい場所で何もせずに過ごすのもいい。
それなのに今は逢生に会わなくなったことで陽歩は夏の眩しさが感じられない。どれだけ太陽が大地に光を惜しみなく降り注いでいても、陽歩は暗い場所で生きているような心持ちで過ごしていた。
世間が盆休みと騒ぎ始めた頃、初めて逢生の方から連絡があって会いたいと言われたので昼間に待ち合わせた。
普段、お互いにあまりメッセージは送らない。
一度何かを伝えてしまったらキリがなくなってしまいそうで。
相手を目の前にして言葉で伝えることが陽歩は大切だと思っていたこともあって自分からは連絡を取らずにいた。
互いの講義の合間の時間。大学図書館の前のベンチで落ち合った。
欅の木が少し離れたところに大きな枝を空に向かって広げている。脚元は影になっているから少しすれば全て日陰になって涼しいだろう。
体の半分が日陰で半分が日向になった場所。まるで今の陽歩の心のようだ。
逢生が横に自然に腰を降ろして笑顔を見せた時、少し心の冷たい部分が緩んだような気がしたから。
逢生は初めてアルバイトをした話を切り出した。
「友だちが短期バイトを紹介してくれたんだ。陽歩さんの誕生日の時はまだ何もしてなかったから…。プレゼントは自分の力で用意したくて」
逢生が少し照れたように話す。
それが逢生らしくて陽歩は一ヶ月ぶりに真夏の真ん中にいる相手を凝視した。
「それで陽歩さん。今欲しいもの何かな」
今日の逢生は濃いベージュのTシャツにベージュデニム。
全体にカラーを入れていなくても自然に茶色がかった髪色をしている逢生にベージュの色はよく似合う。
陽歩はサマージャケットを脱いでリネン素材のVネックTシャツ一枚になった。ラフな薄手のシャツに風が入り込んでほっとする。
自分の黒デニムを逢生のベージュデニムにくっつけた。逢生が視線を脚元に落とし、すぐに顔を上げて陽歩を見た。そして少し首をかしげ、目を細めて優しく笑う。
陽歩は「俺は欲張りだけどいいの?」と断ってから正直に答えた。
「自分の部屋と自分の家とおまえ」
そう言って逢生の目をじっと覗き込んだら途端に顔を赤らめたので不思議に思う。
いや、おまえ彼氏いるじゃん。
俺の言葉でそんな顔になるの。どうして?
「逢生が可愛い顔するからぶっちゃけて言うよ。逢生が恋人と会ってるの見ちゃってさ。この一ヶ月冷静でいられなかった」
一度溢れてきた本音は取り繕えないくらい真っ直ぐな気持ちだった。
「そんな自分にもイラついた。逢生が欲しいって心底思った。おまえが欲しいし独り占めしたいし…」
逢生の右手が伸ばされて口を塞がれ、これ以上話せなくなる。
陽歩は言葉を呑み込んだぶん、逢生を見つめる眼差しに重たい愛を絡ませた。
こんな風に欲深い自分を曝け出すのは久しぶりだ。
一人目の“逢生”に声を掛けられた後にも自分に正直になったんだった。
それを思い出して勇気付けられる。
爽やかな気持ちでいられないけど、いい。
「恋人なんていない。いたことないよ」
逢生が小さな声で言って陽歩の口元から手を離した。
「いない?」
陽歩は湧き上がった想いで身体が強張っていたのに逢生の囁き声で脱力した。
「一ヶ月前の水曜日の夜のことでしょう?陽歩さん自転車取りにオランジュに寄ったんだね。僕が抱きついてた人を恋人だと思った?それで腹を立ててくれたの?」
逢生が心持ち上目遣いで見上げてくる。
頰を上気させたままの顔に陽歩は見惚れてしまった。
「あの人、僕のお兄さん!」
珍しく大きな声でそう言って逢生が笑う。
「え…兄さん?」
陽歩は愕然とした。
そうだったんだ、と安心したのと同時に陽歩の中に疑問も生まれる。
兄と弟であんなハグ?
逢生のブラコンの重症度、やばくないか。
「いやどう見ても恋人に見えたけど」
「え?」
逢生が驚いた顔をするので、陽歩はあの濃いコミュニケーションが二人のスタンダードなのだと理解して再び愕然とする。
恋心を一度抱えると、思いも寄らないハードルをいくつも乗り越えなきゃいけないらしい。
「陽歩さんだって恋人いるでしょう?」
そう言われて今度は驚いてしまう。
「え?」
「さっきの言葉。嬉しくて僕、死にそうになったけど。言ったらダメだよ。都希さんが哀しむ…」
何言ってるんだ。
思いも寄らない勘違いを逢生がしているらしいことが分かり、陽歩はかなり慌てた。
「なんで都希が出てくるんだ」
「…え?だって一緒のところに住んでるって言ったでしょう?」
あ。
“施設出身あるある”をやってしまった。
そのことに、ようやく陽歩は気が付く。
普通はこういう言い方をしないんだったと自分の失敗に唖然としてしまった。逢生との時間に浮かれて忘れてしまっていた。
「自立援助ホームに住んでんの。俺たち」
陽歩は立ち上がり、左横に座っていた逢生の前に立って見下ろした。
逢生の綺麗な形の眉が心持ち下がった。よくわからないといった表情。
「あいつも俺も同じ児童養護施設出身で。だから一緒によくつるんでるけど」
言いながら逢生に詰め寄り、その細い肩を両手で鷲掴みにした。
「都希は恋人じゃないから」
陽歩の言葉に逢生が目を大きく見開いた。
お互いの勘違いを交換して。
お互いの想いも言葉にして。
一日で世界がひっくり返ることもあることを二人で同時に体験して。
今日は空の青色もなんだか違って見える。
太陽に焼かれながら陽歩は空を見上げた。
それから意を決して座り込んだままの逢生の左手を取り、半ば強引に学生会館に向かって歩き出した。
逢生も引っ張られるような姿で慌てて手を握り返す。手をつないだままで学生会館に入る時、芝生に座って自分の腿にスティックを打ってドラムの自主練をしていた女子がチラッと二人の繋がれた手に視線を向けた。
陽歩は何も気にならなかった。
いつもだったら逢生が恥ずかしがることは控えるのだけど、今はもうどうでもよかった。
会館の中の階段を上がると踊り場には誰もいなかったので広い窓の横の壁に逢生を押し付ける。
外からピアノの音が流れこんできた。
学生会館の裏に音楽棟がある。そこで学生が練習しているんだろう。踊り場が美しい音色で満たされた。
陽歩は逢生の顔の横に自分の両手を置き、顔を近付けて囁いた。
「あの時ダメって言ったのは都希と俺が付き合ってると思ったから?」
「…うん」
「逢生の部屋、行っていい?」
「いい」
「じゃあ今晩寄りたい」
「いいよ」
「それから。キスしていい?」
「…うん」
逢生の誕生日にことごとくNOと言われた陽生の要求に、逢生は全てYESで応えてくれた。
「僕も苦しかったなぁ」
「都希のこと?」
「うん」
逢生のまぶたに触れると逢生が目を閉じた。
陽歩は指を滑らせて逢生の左頬を撫で、唇を指でなぞった。
陽歩の指を重ねたままの唇が開いて、逢生が囁く。
「Valse de l'Adieu」
逢生のフランス語の響きで陽歩の指が震えた。
「ショパンのワルツ第9番が流れてる 。これは別れのワルツと呼ばれてるけど…僕たちの今の状況とは真反対だね?」
そう言って逢生が目を閉じたまま微笑んだ。
陽歩はそんな逢生の顔を見て嵐をまた感じる。
目を閉じて、そっと逢生に唇を寄せていった。
触れ合った時、静かにワルツの音色が鳴り止んだ。二人だけの世界に今は音も光も必要なかった。
陽歩には相手の熱だけが必要だった。
★ ★ ★
陽歩の講義が終わるのが遅かったので逢生は図書館で待っていてくれた。
先に帰ってもらって自分だけが後で逢生の部屋に寄ろうと思っていたけれど、逢生がバスで一緒に家に帰りたいと言ってくれて。
陽歩は法社会学の演習を18時15分に終えて図書館に向かった。
逢生が足りないと思っていたあの水曜日と一ヶ月後の今日の違い。今日は自分の中に逢生が充ちているのが分かる。
渇望を言葉にしてよかった。
陽歩は図書館の前に立つ逢生を見つけて心からそう思った。
嫉妬と愛しさで苦しみながら、互いに思い違いをしたまま時を重ねていたかもしれない。
逢生だから言えた。
逢生がこんな逢生だから。
逢生に何かを尋ねられると自分は心に思っていることを曝け出さずにはいられない。
きっとこれからもそうしてしまうんだろう。
嫉妬。
この言葉を胸に浮かべた時、陽歩は先月に目にした逢生の兄の姿が脳裏に浮かんだ。
たぶん。
手ごわい。
逢生だけじゃなくて。
お兄さんの愛も相当重たいよなぁ。
まぁいいか。
なんとかするしかない。
「陽歩さんおつかれさま」
「逢生ありがとう」
逢生が昼間と同じ服を着て立っているという当たり前の事実が陽歩をまた喜びで満たす。
期間を空けず、同じ日にまた、逢う。
会いたいときに会うという贅沢。
目を閉じた昼間の逢生の顔が浮かぶ。
「大学から一緒に帰るのは初めてだね」
「そっか。そうだな」
「僕はかなり遠いところから陽歩さんが歩いて来るのを見るのが好きだ」
普段降りるバス停の前の大通りを渡る。向こう側に見える郊外行きのバス停まで二人で並んで歩きながら、逢生は語り続けた。
「陽歩さんが買い物をしたときに店員さんに『ありがとう』って笑顔で言うのを見るのも好き。あ。見るのが好き以上に『ありがとう』って言う陽歩さんが好き」
「逢生どうした」
「洗練されててお洒落で優しいところも好き。クールな表情がかっこいいし、笑った顔が素敵だ」
「逢生バスが来たよ。それ言い続ける?」
「言い続けていいの?」
「言い続けたいの?」
「陽歩さんに思っていることを言葉にして伝えたいって今日しっかり思ったから」
バスに乗り込む時に他にも数名大学生がいて、車内も混んでいた。
逢生は大人しい顔をしているのに芯は強いということを今日改めて実感する。周囲に人がいても流されずに言葉を手渡してくる。混雑しているバスの真ん中の通路で二人で前後して立ったまま、逢生は小さな声で会話を続けた。
「陽歩さん」
「ん」
「名前も好き」
「あきほってあまりないかもね」
「うん。夜じゃなくて朝早くにバイトしてるとこも好きだ」
「おかげで朝に強くなったよ」
「僕はまだ朝に弱いままだ」
「そのうち起こしてあげるよ」
「…うん」
「俺はおまえが食事の前に小さく『いただきます』って言って手を合わせるのが好き」
「そうしてた?」
「うん。あと木の実を一粒ずつ食べるとこ」
「え…」
「小動物みたいに可愛いのに仕草が落ち着いてるから妙に大人っぽく見えるときもあって…」
陽歩の肩に顔を伏せた逢生がぶつかってきたので陽歩は口を閉じた。
「陽歩さん黙ってて。ここバスの中だから」
「いやおまえが始めたんだよ」
家路に帰る人々を乗せたバスの中で、陽歩は周りを気遣いながらも笑わずにはいられなかった。
メゾンドオランジュに到着して外階段を3階まであがる。
昼間に急に部屋に行きたいと言った陽歩を連れて、事前に片付けや掃除が必要だからと言わずに招き入れる逢生のこういうところも好きだと陽歩は思った。
逢生が部屋の扉を開けるとき、この部屋の位置だったらブーランジェリーオランジュで自分が焼くデニッシュの香りが朝に届いているかもしれないと嬉しく感じた。
逢生の部屋はベージュと白色を基調にシンプルに整えられていた。
木製の勉強机と椅子、そして同じく木製のベッド。小さな丸い白いローテーブル。それ以外はソファもなく、白い小さな冷蔵庫と白いカラーボックスが小さなシンクの横に置かれていた。
陽歩が「綺麗な部屋だなぁ」と見回していると後ろに来た逢生が背中のリュックに触れた。
「荷物降ろしてゆっくりして。僕の部屋ソファなくて。クッションを二つ重ねて座ってて。お茶をいれてくる」
逢生の言葉を背中に聞きながら陽歩は窓側の勉強机に惹きつけられる。
「逢生ここで勉強してるんだな」
窓側の壁に作り付けの一枚板があり、ライブラリーのような雰囲気になっていた。本棚には心理学や一般教養の書籍と英語の本、そして英語のペーパーバック『KAFKA ON THE SHORE』が置かれている。
普段の逢生の素顔に触れて自然と笑みを浮かべていたが、椅子に座って顔を上げた陽歩は動きを止めた。
「…どうして?」
勉強机の前に座る陽歩の視線の先に、壁に貼られた古びた手紙があった。
壁紙もオフホワイトの逢生の部屋で、その同系色の手紙は溶け込んでいて近付くまで気が付かなかった。
陽歩は手を伸ばして手紙に触れた。自分の指が少し震えている。
「俺の書いた手紙?どうして逢生が持ってるんだ」
ゆっくり振り向くと陽歩のリュックを手にしたまま逢生がひどく驚いた顔をして突っ立っている。
「陽歩さんの手紙?」
逢生が陽歩の顔を見て、ゆっくりと壁の手紙に視線を移す。そして真剣な顔で陽歩を見て静かな声で言った。
「これ陽歩さんが僕に届けてくれたの?僕の家を知ってたの?…陽歩さんだったの?」
陽歩は混乱していて逢生も混乱している。
自分の名前の部分を破り取った手紙。
歌詞しか書いていない、手紙とも呼べないメッセージ。
「逢生。もしかしておまえ水野逢生?」
「…そうだよ」
陽歩は言葉を失う。
立ち上がって逢生の側に行った。陽歩の重たいリュックを両手に下げたままの逢生の手からリュックを奪って床に置く。
陽歩は逢生の両手を自分の両手でしっかり掴んだ。
「おまえがあの時の逢生…?」
陽歩は右手だけそっと離した。
右手の指で逢生の左頬を包み込む。
逢生が囁いた。
「オリオンの三ツ星は消えたんだ」
「消えた?」
「中2の夏休みに自転車とぶつかって。擦過傷が深くて…。皮膚移植したら消えちゃった…」
二人で座るソファも椅子もないので陽歩は逢生のベッドに腰を掛ける。つないでいた手を引っ張って逢生を左隣に座らせた。
一人目の逢生と二人目の逢生が同じだったなんて。
混乱した感情の後に、胸が震えるような歓びが静かに沸き起こりはじめる。氏の変更は珍しい母親の旧姓を遺していくためにしたのかもしれない。
俺は二回も逢生に恋してるのか。
かなり大人びた同級生だと思った相手と、童顔が可愛いくて庇護欲を掻き立てられる目の前の逢生が一緒だったという事実。
そのことに陽歩は感謝したくなる。
逢生は陽歩の左隣で両頬を自分の手で覆って何も喋らずにいた。
逢生の顔を覗き込む。色白の顔がさらに青みがかって青ざめているように見えた。
陽歩は小さな声で尋ねた。
「俺が好きだった一人目の逢生の話をした時、自分のことだって分かったんだな」
「…うん」
「どうして黙ってた?前から壽って名前だったかって聞いただろう?」
責める気持ちなんて全くなかった。ただ不思議な気がしただけだ。
何を隠したり誤魔化したりする行為は逢生には似つかわしくなくて。
逢生は嘘はついてない。
ただ、言わずに胸にしまっていたんだ。
なぜだろう?
「僕はどこで陽歩さんに会っているのか覚えてない。今もまだ思い出せない。それがずっと悲しいんだ」
逢生が絞り出すような声で言った。
その言葉で陽歩はやっと理解できた。だから明るい声で逢生に伝えた。
「覚えてなくて当然だよ」
「…え?」
「俺は一言だけしか逢生と喋ってない」
「ひとこと?」
「そう。2年で同じクラス。一ヶ月だけ隣の席。おまえから話しかけてくれて」
「…僕が話しかけた?」
「俺が返事して。その後に逢生が言ってくれた言葉で俺は生き延びてる。その夜に一時保護された。だからそれっきり会えなかったし。一度しか顔見てなくてお互い記憶に残らないの当たり前だろ?」
逢生が震える声で言った。
「陽歩さんが僕に言ってくれた一言は何だった?」
「たった10文字だよ。“だいじょうぶじゃない”」
逢生が唇を薄く開いたまま、光が宿った目で陽歩を見つめた。
「青海くん…」
陽歩が頷いて笑うと、逢生の目に涙が浮かぶのが見えた。
「あんなに華奢で小さかった青海くんが陽歩さん?全然繋がらないよ。…元気でいてくれて良かった」
逢生がそう言って手のひらで顔を覆う。逢生の手首からひじにかけて、雨のような雫が落ちていった。
陽歩はそれを見ながら、しばらくこのまま何も言葉は出さずにいようと心に決めた。
今日はたくさんの言葉を互いに手渡したから。
今はこのまま、横に座る同級生が顔を上げるまで。



