陽歩が中学2年の夏から高校卒業まで入所していたのはオレンジホームという児童養護施設だった。
その児童福祉施設の立ち上げ時に関係している篤志家が瀬戸内海の出身で、昔はみかん農家をしていたようだ。
小さな不動産を持っていて少しずつ児童福祉のボランティア団体と繋がった。その縁で陽歩が措置されていた施設の開設時に役員になったようだった。
後に社会福祉法人の理事をするようになった高齢のこの近衛という老人と気が合うのか馬が合うのか相思相愛と言っていいのか、陽歩は年の離れた友だちのようになっていた。
ブーランジェリーオランジュの経営者でもあり、陽歩が今、私的契約をして住んでいる自立援助ホーム“リュドオランジュ”の責任者でもあった。
昔持っていた不動産が「みかん荘」から「オレンジハウス」に変わり、今は「メゾンドオランジュ」というアパートになったという。そんな笑い話みたいな話を飄々としてくれる楽しい老人だ。
そんな近衛の紹介で陽歩がブーランジェリーオランジュにつなげてもらったので、陽歩が逢生に出会えたのは瀬戸内海の柑橘類の恵みのお蔭なんじゃないかと思っている。
そんな瀬戸内気候の柑橘を彷彿とさせる施設にいたこともあって、この施設出身の男子だけの間で通じる隠語があった。
「オレンジを届けにいく」
これは告白をするという意味で男子だけの間で使われていたから女子には通じていなかったと思う。
愛を伝える、愛を手渡すというニュアンス。
陽歩も二つ上の先輩から教えてもらった時はそんな暗号みたいに言わなくても…と身も蓋もなく無く思ったくらい冷めていたわけだが、なぜか二十歳の大人になってからこんな暗号なのか比喩なのか分からない言葉を使いたくなった。
逢生にオレンジを届けたい。何度でも。
こう思ったときに、久しぶりに本格的な嵐が自分に近付きつつあることを自覚せざるを得なかった。
嵐だ。
それも、かなり激しくて手に負えない類の。
★ ★ ★
逢生の二十歳の誕生日。
七月六日。
その日にどうしても抜け出せないオレンジホーム関係の手伝いが入ってしまって夕方から逢生と会うことになった。
朝から夜まで一日一緒に過したかったけれど、自分が巣立ったホームの後輩たちの顔が浮かんでパスできなかった。
七夕行事を大切にしているホームだったから、前日にいろいろと準備が必要だった。
短冊飾りのついた笹の葉を見ていると心が和んだ。
ホームには2歳から18歳の児童が措置されている。
陽歩は中学生の途中からだったけれど、都希のように2歳からホームにいる児童も今も数人いる。
様々な年齢の子どもたちが書いた短冊が、笹の葉の緑をカラフルに染めていた。
『あいりがふりむいてくれますように あきら』
うわ。これ今すごく刺さる。
あきら頑張れよ。
陽歩はまた自分の恋心を自覚する。
幼い子どものこんな言葉にさえ自分のことを重ねてしまう。
早く二十歳になった逢生の顔を見たい。
こんなふうにホームにいて先輩面してキビキビ手を動かしながらも、心はすぐに逢生のところへ飛んでいってしまう。
夕方になり、待ち合わせ場所に陽歩が早足で向かうと逢生はすでにギャラリー前に立っていた。
大学の近くの大通りの西側、閑静な住宅街の中にあるギャラリー。
古い日本家屋をリニューアルしたギャラリーで漆器や工芸品が展示されており、ティールーム「波」を併設している。
夜に逢生を連れていきたいバーが開くまで、この波の空間でたくさん話をしたかった。
「逢生!髪切ったんだな」
陽歩が手を挙げて挨拶しながら駆け寄ると、逢生は照れたように右手で自分の頭を押さえた。
「うん。新しいことをしたくて」
短くなった前髪の下で綺麗な形の眉が下がり、逢生は優しい笑みを浮かべた。
今までは長い前髪で見え隠れしていた眉の上の額に、今日は黒子が二つ見える。
白い肌に黒子が散る様子がとても美しくて、陽歩はしばらく逢生の額から視線を外せなくなった。
新しい逢生に触れた気がする。
陽歩の胸が高鳴る。また触れたくなる。
「陽歩さん見て」
ギャラリースペースで逢生がそっと陽歩の腕に触れて5秒で手が離れていった。
物足りない。
五月にマルシェに行ったときみたいに、逢生の手を上から離さないように掴んでおくんだった。
陽歩は残念に思ったけれど静寂なギャラリーでは紳士的な振舞いをしないと、と昔気質な男みたいに考えて静かにしていた。
なぜか逢生の前では自分がいつも以上に背伸びして余裕のあるところを見せようとしたり、逆にわがままな気持ちをあからさまに手渡して受け入れてもらおうと甘えたりしてしまう。
「青色のモザイクタイル。綺麗」
逢生が体を前屈みにして覗き込んでいる作品は若い女性のアート作品だった。
焼いたタイルを組み合わせた陶器のランプスタンド。青と白のモザイクを基調に陶器がタイルでカラフルに飾られていた。
逢生がマルシェでハムスターのスタンプを見ていた時と同じように顔を輝かせて作品を見ている。
いや、そういうおまえが綺麗だよ。
陽歩は右下で屈んでいる逢生を見下ろし、その柔らかい髪に触れた。
逢生が少し驚いたような表情になる。
ゆっくり体を起こした逢生は、少し困ったような顔をしてから陽歩を見上げて小さく笑った。
逢生も背が高い方だ。
陽歩と10㌢も変わらない。
それなのに眉を下げ気味にして首をかしげたまま笑う逢生は、高校生みたいに瑞々しかった。
こんなふうに思う自分はちょっとヤバいかもしれない。
陽歩は静かな空間で自分だけの嵐に対峙する。
「きんつば初めて食べるよ」
「逢生あまり和菓子食べないんだよね」
「うん。有機茶も初めて」
「今晩初めてお酒飲むだろ。初めてづくしじゃん」
「ほんとだ」
波オリジナルの有機茶と今日の和菓子がセットになった波のおすすめ茶菓を二人で楽しんだ。
甘いものが苦手だと言っていた逢生が、小さな一口できんつばを食べて笑顔を見せたので陽歩はほっとした。
波のティールームから二人連れと三人連れの客が同時に出て行った。ギャラリーのオーナーが一人の顧客と話し込んでいるのが目に入る。
今、この波には逢生と自分だけがいる。
そう思ったら陽歩は気持ちを押さえられなくなった。
すごく触れたい。
逢生が初めての酒で酔うかもしれないから。
酔ってないうちに逢生の同意を得たいと思った。先日の緒形とのやりとりが頭をよぎる。
相手の返事を聞く前に触れてしまいそうな前のめりの欲望を必死になだめながら、右側に座る逢生に顔を向ける。
声が掠れた。
「逢生にキスしたい」
陽歩が顔を近付けると逢生が手のひらを陽歩の額に当てて押し返してきた。
「ダメ」
「え…」
初めての拒絶。
何故か逢生らしくない言葉だと陽歩は身勝手に思う。身勝手をいいことに、触れたい気持ちに正直になって逢生が伸ばしてきた左手をそのまま掴む。
そして逢生の顔を覗き込んだまま至近距離で尋ねた。
「嫌だった?」
「嫌じゃないよ…。でも。ダメだよね?」
「どうして?」
「えっと。…倫理的にダメって言うのかな…こういう場合」
「どういう場合?」
逢生が何を言ってるのか初めてわからない。
逢生の言う倫理って?
見た目が高校生、下手したら中学生の童顔の男に大人が迫ることが駄目?…違うよな。
手順を踏む必要があるということなんだろうか。
ハグを一回しただけの二人にはまだ早いとかなんとか。逢生だったらそう思うかもしれない。
陽歩はかなり真剣に考え、掴んでいる手はそのままに小さな声で続けた。
「倫理の定義って人として守り行うべき道だったような気がする」
「うん」
「逢生。男同士ってのに抵抗がある?」
陽歩は今まで一度も確認していなかった核心に触れた。
「ない!抵抗なんか全然ないよ」
逢生が凜とした声で言う。ダメと言ったときの気弱な声とは大違いだった。
「僕は陽歩さんが好きだ」
その一言に陽歩は胸を打たれる。
波のティールームに誰も客はいないけれどカウンターの向こうにはスタッフもいるしギャラリーにはオーナーがいる。陽歩は周りを気遣って小声で喋っていたが、それは逢生のためでもあった。
陽歩が隠しきれなくなった渇望を言葉にするのを逢生が恥ずかしいと感じたり不快に思ったりすることは避けたいと思ったから。
それなのに、逢生は波の空間に自分の声が響くのを隠そうとはしなかった。
拒絶されたのはショックだったけど。
今日はもうこれで充分かもしれない。
充分とか言いながら、直ぐに足りなくなるけど。
夕方6時前にティールーム波を出て、歩いてバーに向かった。
Bar The Door。
この店は年上の友だち近衛から教えてもらって陽歩も今日が初めてだった。
大学と逢生の住むメゾンドオランジュの間にあるから、飲んだ後に逢生の家まで歩いて送っていける。
細い路地に入ると建物が見えた。
昭和の初めに建てられた町家を改装して作られた場所だと近衛から聞いた。一階はカウンターで奥に坪庭が見える。
2階にはテーブル席があると聞いていた。陽歩は2階に行こうとして逢生がカウンター席を見て立ち止まったのに気付いて一緒に足を止めた。
カウンターの奥でバーテンダーがカクテルを作っている姿を目にして逢生の瞳が光を帯びたので、陽歩は笑ってしまう。
直ぐに顔に出るよなぁ。
逢生のわくわくが伝わってきて陽歩も嬉しくなった。
二人でカウンターで飲むことに決めた。
もうすぐ八十代になる近衛に「好きな子を口説く時にバーに行きたい」と言うと教えてくれた店だった。
「陽歩さん。これいいなぁ」
メニューを丁寧に手を取って写真に目を注いでいた逢生が果物がたくさん入ったオールドファッションドを指で押さえた。
オレンジや檸檬、チェリーが浮かんでいて確かに逢生に似つかわしくはあるのだけど。
「それウィスキーベースだよ。大丈夫かな」
「わぁそうなんだ」
「あ、でもダメだったら俺が飲めばいいのか。今日は好きなものをゆっくり味わったらいいよ」
「陽歩さんは何にする?」
「2杯目は決めてるんだけど最初は何にしよっかな」
陽歩が逢生の手元にあったメニューを手に取ると、逢生が不思議そうに尋ねてきた。
「2杯目は決まってるの?」
「うん。友だちのおすすめ。モンブランって言う珍しい栗のカクテルがあるんだって。ホワイトラムとダークラムがベースって聞いた。俺、実は甘いのも好きなんだ」
陽歩がそう言うと逢生は笑った。
「前はワインだった陽歩さんがカクテルを飲む姿を今日は見ることができる。楽しみ」
「楽しみのハードル、低すぎ」
二人で小さく笑い合ってから陽歩はモヒートとナッツとチーズの盛り合わせを注文した。
「ここは料理もイケる。好きなのを頼んで。逢生は木の実が好きだよね」
「うん」
陽歩の前に緑色の美しいモヒートが置かれ、ミントの清々しい香りが漂った。
バーの中で小さな音でジャズが流れている。ロックやブルースのレコードが飾られていたりもする。
逢生の前に優しくオールドファッションドが置かれた。写真よりも果物が豊かに入っており、色彩に溢れたグラスが逢生の目を輝かせた。
バーテンダーの若い男が逢生に静かに声をかけた。
「アンゴスチュラビターズをしみこませた角砂糖が底に沈んでいます。マドラー変わりのシナモンスティックで角砂糖を溶かしながらお楽しみください」
「はい…。楽しみます。ありがとうございます。カラフルで綺麗ですね」
バーテンダーが逢生の言葉に目を細めて笑った。
こんなに丁寧に御礼を言われることはたぶんないんだろう。
逢生が目の前のグラスを軽く両手で包み込んだ。
「陽歩さんが初めて飲んだ白ワインにもオレンジが入っていたんだよね。僕のもオレンジが入ってる。お揃いだね」
オールドファッションドのグラスを見下ろしている逢生を横から見て、今この姿を写真に撮りたいと思った。
柔らかなライトが照らされた木製のカウンターは光と逢生の姿とグラスを鏡のように映しこんでいる。
そっとスマホをポケットから出して素早く撮った。
「逢生。1枚撮らせてもらった」
逢生が顔を向ける。
「写真?僕の初ウィスキー記念?」
「これはまだウィスキーを飲んでない逢生」
「じゃあ飲んだ後にも?」
「うん。見比べてみよう」
「うわぁ顔色きっと違うよね」
そう言って恥ずかしそうに言いながらも逢生は嬉しそうだった。
「僕もどこかのタイミングでカクテル飲んでる陽歩さんを撮りたい」
そう言って逢生が頬杖をついてグラスを右手で持って掲げて見せたので陽歩は頷きながらモヒートのグラスを逢生のグラスにくっつけて乾杯をした。
「逢生。二十歳おめでとう」
「ありがとう。今晩このお店に連れて来てくれてありがとう」
そう言ってから逢生がグラスに口を付けたのを見て、陽歩は動きを止めた。
右手にあるモヒートのグラスの氷が音を立てる。
ミントの葉に当たったのか再度爽やかな薄荷の香りが広がって、逢生と陽歩の二人の空間をハーブの優しさで充たした。
「うわ…キツいけど美味しい」
逢生がそっと小さな声で言った。
「このお店の名前はThe Doorだったよね。僕はどんな扉を開けようとしてるのかな」
逢生がグラスから唇を離してペンダントライトの隙間から見える薄暗い天井を見上げて言った。
陽歩はそんな逢生を見ながら、ようやくモヒートに口をつける。
逢生がバーテンダーに「すみません」と声をかけた。
「これ美味しいです。ウィスキーは何を使ってくれたんですか」
逢生の尋ね方が見た目と反して大人っぽくて陽歩は驚いた。
「ウッドフォードリザーブです。これですよ」
目の前にウィスキーの瓶がそっと置かれた。
「しばらく置いておきますね」
そう言ってバーテンダーが微笑んで新しい客を迎えるために去っていった。カウンターの逆の端に別の二人連れの客が来た。
「逢生。髪短くなって大人びて見える」
「そう?だったら嬉しいな。そんなこと今まで言われたことないもの」
「わかる…」
「笑わないでよ」
そう言いながら逢生は笑って頬杖をついた。
流し目が魅力的だと耳元で囁いたらまた困ったような顔をするだろうか。
逢生の柔らかい髪に触れた時のように。
「中学生くらいまでは背が高い方だったんだけど早くに背が伸び過ぎたんだ。僕は中三の時から止まってる」
「大きな中坊だなぁ」
「うん。大人びてはいなかったけど子どもらしくもなかったかな。誰とも喋らずに一人で過ごすような生徒だったから。高校生のときも」
「逢生。出身はどこ?」
陽歩は尋ねてから自分で驚いた。
誰にも尋ねたことのない質問だった。他人より濃い境界線を持つ陽歩がされたくない問いかけ。
今まで誰にもしたことはなかったのに。
「小平市だよ。鷹の台が一番最寄りの駅」
逢生の返事に陽歩は息を飲んだ。
陽歩が六年前に去った地名が出てきて、陽歩の血がざわめく。
逢生には実家の話も施設入所の話もこれからゆっくり伝えていこうと思っていて、まだ何も話せていない。
どこから話したらいい?
どこから聴いたらいい?
混乱するのが久しぶりで言葉が出なかった。
顔色を変えた陽歩を見て逢生が心配そうな表情をしたので、陽歩は咄嗟に気持ちを立て直した。
「大学まで実家から通えるのに下宿にしたんだ?」
陽歩は何気ない会話にすり替える。
「うん。僕、朝が苦手だし高校生までの自分を変えたいと思ったし。心機一転」
「逢生って親が離婚したり再婚したりした?前から壽逢生?」
陽歩はいつもであれば誰にも尋ねないプライベートすぎる質問をした。
逢生が同い歳だとは分かっていても同級生というイメージを持てずにいた。今、出身が同じだと分かってからまさかとは思うけれど一人目の逢生と二人目の逢生が繋がっていたりしないだろうかと考えてしまう。
三ツ星の残像が浮かぶ。
逢生の左の頰の辺りには黒子がないから、別人だとは分かっていても。
それでも、もしかしたら。
名字が変わることは現代の日本では特別珍しくない。陽歩みたいに。
「えっと…」
逢生が言い淀んでグラスを口に運んだ。オールドファッションドの琥珀色の液体が揺れる。
そのウィスキーが逢生の体温を僅かに上げていることを陽歩は知っている。
「うちの両親は仲良しだよ。離婚してない。仲が良すぎて息子の僕が困るくらい」
逢生が珍しく目を逸らして言った。
「そうか。いいじゃん。俺の家はいろいろありすぎて。離婚、再婚、また離婚。三宅って名字は三つ目。もう変える気ない。またゆっくり話をさせて。きちんと伝えたい」
そう言って陽歩がモヒートのグラスを傾けるとスマホのシャッター音が小さく響いた。
「陽歩さんがミントの精みたいだ」
いつの間にかスマホを陽歩に向けていた逢生が笑った。普段は大きな目を細め、逢生が笑い続けている。それを見ていると踏み込み過ぎた後味の悪さも溶けて消えていった。
陽歩もつられるようにして小さく笑う。
ミントの精ってなんだよ。
言い方かわいすぎるだろ。
三日月を超えて半月に近付いた月が夜空に浮かんでいるのを見ながら二人で歩いて帰った。
逢生はたぶんアルコールに弱い。もちろん1杯だけにしたけれど、オールドファッションドも最後の一口を陽歩が飲んでやれば良かったと思った。
ブーランジェリーオランジュの前まで来た時、陽歩は逢生を抱きしめた。
前よりも体温を高めた逢生の体が少しふらつく。
短くなった髪に陽歩が顔を近付けると、逢生の耳の後ろの髪が陽歩の肌をくすぐった。
「あ…逢生!髪にカラー入れたんだ」
手つかずの自然な色をした髪の下に一部だけインナーカラーを入れた髪。それが陽歩の頰に触れた。
ややアッシュがかったブラウン。
ベースの髪色に馴染む色だったから気付かなかった。目立ちにくい位置で、さらにカラーに被さるようなヘアスタイルにしていたから誰にも気付かれないような小さな変化。
「うん…新しいことのひとつ」
そう言って逢生が陽歩にもたれかかってきた。前に抱きしめた時は織江が見ていたこともあって、逢生はすぐに離れてしまった。
今日は逃げないでいてくれる。
「もっとくっついてきてよ。嬉しいから」
「ダメ…」
「それ。夕方に言ってた倫理感?」
「…そう」
「逢生の部屋に行きたい」
「…ダメだよ」
「今日は3回もダメって言われてる」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。逢生は悪くない。俺がオレンジを届けたいだけ。逢生の部屋に」
「え?」
逢生が体を陽歩から離して、陽歩の目を見上げた。
謎のような言葉を手渡してしまったけれど。
これからゆっくりと逢生にオレンジの意味も自分の過去も夢見ている未来も伝えていこう。
陽歩は逢生の背中に触れていた手をゆっくりと逢生の髪に運んでかきあげる。隠されていたアッシュブラウンになった髪の一部が見えた。
髪を触らないと見えないインナーカラー。
自分だけが知っているという思いが逢生を独り占めにできているような気分にさせてくれる。
陽歩は逢生の髪を優しくかきまぜた。
逢生はしばらく目を閉じて好きなように触れさせてくれた。
ブーランジェリーオランジュの閉店後の小さなオレンジの灯りだけが、逢生の陶器のような白い肌を照らしていた。
★ ★ ★
逢生が二十歳になった4日後の水曜日。
陽歩のバイトが長引いてしまって朝のバスに間に合わなかったので、逢生に会えずに大学に向かうことになった。
バイトのシフトが固定している時はだいたい週に3回、朝だけ一緒に過ごせる。
その朝の時間が陽歩のオアシスだった。
法学部の講義が増えたのでバイトやホーム関係のボランティアもしている陽歩はスケジュールがタイトだ。
そんな多忙な日々を支えてくれる泉の水。この春からの逢生とのバス通学。
朝の空気は爽やかだったけれど、今日のバスには逢生がいないから笑顔になれない。
陽歩は子どものように拗ねた自分が可笑しくなって苦笑してしまう。
憲法、民法、刑法や訴訟法、国際法と法社会学や法制史などの基礎法。
二年生になってゼミに入ったことで学ぶことが増えた。課題をやり残したままホームに戻るのが好きではない陽歩は、今日も図書館でレポートを仕上げて夜遅くにバスに乗った。
逢生不足で疲れが取れない。
このあと自転車でホームまで帰るとき寝落ちしそう。
陽歩は溜息をついてバスの座席で伸びをした。
ブーランジェリーオランジュのバイトの日だけホームから自転車で来る。
白いロードバイクはブーランジェリーの前に停めさせてもらっている。
陽歩の自転車がオランジュのウィンドウ前にあると美味しそうなパン屋に見えると織江が謎の発言をして、オーナーの近衛も同意をした。そんな流れで陽歩は自転車を堂々と店の前に停めるようになった。
「ここに白い自転車が停まっているのを見ると笑顔になるんだ。朝と大学から帰ってきた時と2回も幸せな気分になれるんだよ」
逢生にある朝、バスの中でこう言われて驚いたこともある。
ホームの小遣いを必死で貯めて中学生の時に買った小さなロードバイク。小さすぎて買い替えたいと思いながら乗り続けていた古い相棒。
それが誰かの心を幸せにすることがあるんだと不思議な思いもしたが、逢生が「2回も」と言う時に指を二本立ててピースサインをしたのが可愛すぎて陽歩はその指先を握りしめてしまったんだった。
この時の逢生の笑顔が頭に浮かび、陽歩の逢生不足度合いが限界値に達しかける。
「逢生おまえ約束しただろ」
バスを降りてメゾンドオランジュまで歩いてきた時、スーツ姿の若い男が強い口調で言いながら逢生の腕を掴んでいるのが見えて陽歩は咄嗟に物陰に隠れた。
逢生。
歳上の彼氏がいたのか。
陽歩は頭から冷たい水をかぶせられたような衝撃を受けた。
「俺が来るまで飲んで欲しくなかった」
身を隠している自分をカッコ悪いと思いながらも建物の陰で体をずらし、後ろ姿の逢生と背の高い男を見た。
怒った顔をした男の言葉のあと、逢生が相手に情熱的にしがみついたので陽歩は驚く。
そして湧き上がってくる嫉妬に翻弄される。慣れない感情は愛しい相手への腹立ちに変換された。
道のド真ん中で何してんだよ。
普段あんなにおとなしくしてるクセに。
「おまえの初めてを見たかったな」
「しりゅう、ごめん!」
逢生が甘えた声を出すとスーツの男が笑顔になって右手で逢生の髪をかきまわす。
そして左手で逢生の背中を包み込むように抱えて歩き出した。その時に逢生が振り返ってブーランジェリー前に停められた白いロードバイクに視線を向けたのが陽歩には分かった。
ブーランジェリーオランジュ横のエントランスに二人が消えていく。
結局最後まで目で追ってしまった。
…ぜっんぜん、面白くない。
倫理だなんて言葉を使ったのはこのことだったのか?
陽歩は数年ぶりに感情がひどく掻き乱されて呼吸が荒くなった。
そして同時に大切なことにも気付いた。
逢生に恋人がいるのかどうか一度も確認したことはなかった。
いないものだと決めつけていた。
おとなしくて不器用な中学生にも見える逢生に特定の相手がいると考えたことがなかった。
それは自分の偏見だったのかもしれない。
何度か見かけているうちに自分でも戸惑うくらいに急速に惹かれていった。
相手が纏うゆったりとしたリズムや穏やかな空気、柔らかな表情やジェンダーニュートラルな容貌が好みだと思った。
以前。
同性の同級生に惹かれた経験を思い出す。
逢生と同じ名前。
その時に翻弄された激しい感情と今日の魂の揺れが重なる。
嵐の中でオレンジを手にしたまま相手に手渡すことが出来ず、雨に降られている。
陽歩はなぜかそんなことを考えながら、その場からしばらく動けないでいた。



