大学から下旬先のアパートに戻って来た時、逢生はお気に入りのパン屋、“ブーランジェリーオランジュ”に立ち寄ることが多い。
 逢生の住む三階建てのアパートの一階角がお洒落な店舗になっていて、ガラス越しに見えるバゲットやクロワッサン、デニッシュ、ブリオッシュが逢生の心を明るくしてくれる。
 甘いものが苦手な逢生だけれど、このお店のヴィエノワズリーは美味しいと思った。
 クロワッサン生地にカスタードとレーズンが入ったパン オ レザンを時々買って夜に食べる。これくらいの甘さだと自分の体が喜ぶんだという新しい事実を知って嬉しく思った。ささやかすぎることだけれど、兄に頼らずに自分で一人暮らしにまつわる新しい世界を開拓しているという行為が自信につながるんだと思う。
 自分は木の実と果物がたくさん入ったハード系のパンが一番好きなんだということも初めて知ったことだった。
 もう19年も生きているのに。
 
 気候が穏やかな五月は窓を空けて風を通して寝ているから、朝にブーランジェリーオランジュからの香りが眠っている逢生を包み込む。
 それはとても贅沢な時間だった。
 甘いものを好まない逢生でさえ、優しく心地よくさせてくれる香ばしい空気。

 一人暮らしをして朝の豊かさを初めて知った。
 これで早起きができる自分だったら、もっといいのに。
 

 朝の苦手な逢生は朝からゆっくりと焼き立てのパンを味わう余裕がなく、前の晩に用意したおにぎりと味噌汁と卵焼きを温め直して食べていた。
 朝ご飯をきちんと食べることと一日に一回は簡単でいいから自分で作って食事をすること。
 このことを兄の詩琉と約束していたから、夜のうちに簡単に準備しておく。調理ということが疲れてできなくても米を炊いて食べるだけでもいいから。こんなふうに詩琉が食事について口うるさく言うのは初めてのことだったから、逢生も約束を守っている。
 京都で一人暮らしをして五年目の詩琉も、医療機器系の会社で営業としてハードに働きながら過ごす日々の中で体調管理の大切さを実感しているのかもしれない。

 もし逢生が早起きの出来る男で朝一番にブーランジェリーオランジュに寄ることが出来ていたら、三宅陽歩とまた違う出会い方をしていたかもしれない。

 それは後になって逢生が何度も考えたことだ。
 この時はまだ何も知らなくて。


 五月三日の昼前に逢生は陽歩と会うことになっていた。
 陽歩の誕生日だ。
 誕生日という特別な日に会いたいと言われて互いの連絡先を交換できたことでも逢生は心が満たされたし、当日はランチと夕食も一緒にしようと言われていたからわくわくしていた。
 
 待ち合わせに指定されたのがブーランジェリーオランジュだった。
 逢生の住んでいるアパートを教えたわけでもないのに…と不思議に思いはしたけれど、いつも乗り込むバス停に近い店を選んでくれたんだと想像していた。
 
 予定時間の10分前に店に行くと、既に陽歩が店の中に居てカウンターの中にいる女性と親しげに話をしている横顔が見えた。
 今日もカッコいい…。
 しばらく見ていたくて逢生は扉にかけた手をそのままに立ち止まる。
 深緑色のトップスにレザーライクな黒のテーパードパンツ。
 その組み合わせは陽歩の明るい髪にとても似合う。
 逢生も今日着る服に少し悩んだけれど、シンプルな白のクルーネックシャツとデニムにした。
 ブーランジェリーの店員が逢生が扉の前にいることを陽歩に教えたようで、陽歩が振り向いて明るい表情で手を挙げた。
 逢生は笑みを深めて扉を開ける。

「二十歳だね陽歩さん。おめでとう」
「うん。ありがとう」

 陽歩が大きな一歩で近づいてきて逢生を一息で抱きしめた。

「わぁ!」
「ハグさせて。ハタチの祝い」
「これ…お祝いになるの?」

 逢生は頬が熱くなる。
 店員さんが見てるよ…。

「三宅くん見せつけてくれるじゃない。独身のアタシを焦らせたいの?」
 カウンターの中の女性が陽気な声を出した。逢生は慌てて陽歩から体を引き離す。
「は〜い。そうです。オリエさんも今の俺たちを見て奮闘して下さい」
 陽歩がそう言って笑った。それから逢生を見下ろして「好きなの教えて」とパンの入ったカゴを手にした。

「パストラミビーフのサンドイッチがおすすめ。ブラックオリーブを使ってるんだ。スパイシーさがイケるよ。辛いけどセミドライトマトの甘味もあるからバランスよく楽しめる」

 陽歩が淀みなく語りだす。

「こっちのハニーマスタードチキンのサンドイッチも美味いよ。低温調理した鶏胸肉とキャロットラペを入れてる。セレアル入りのバゲットが好きだったらコレかな」

 逢生は陽歩を見つめたまま、ぼんやりしてしまった。
 陽歩さん、このパン屋さんの常連?

「パン オ ショコラ スペシャルは甘党だったらぜひとも。バターたっぷりのオランジュ自慢のクロワッサン生地。こだわりのココアパウダーを練り込んである」

 ここまで真顔で言って、目をまんまるにしている逢生をしばらく味わうように見つめていた陽歩はゆっくりと微笑んだ。
「逢生の好きなのあった?」
 陽歩が優しく尋ねてくれて逢生は頷いた。
「全部気になる。陽歩さん詳しいね。毎朝食べてるの?陽歩さんの好みは何?僕は甘党じゃないけどヴィエノワズリーを初めてオランジュさんで買ったよ。えっと…キャロットラペって何?」
「ふはは。また質問攻め」と陽歩が笑った。

 逢生は美しく並べられたパンを見て感動し、両手を頬に当てて見回しながら選ぼうとしたけれど決められなかった。迷うくらい気になるものがあるって楽しい。
 目を輝かせている逢生がよっぽど可笑しかったのか陽歩が声を出して笑い出した。

「じゃあ全部持ってっちゃおう。今日いい天気で良かった。外で食べよ。オリエさ〜ん紙袋に入れて」
 陽気な声でレジに向かっていく陽歩の背中から逢生は目が離せないでいた。
 


 今日は陽歩が顔を出したいイベントがあると言うので、その会場である駅前の森林公園広場に向かった。
 いつも乗るバス停からバスに乗る。
 連休の昼間とあって混んでいて今日は初めて立ったまま揺られた。逢生の後ろにいる陽歩を振り返ったら、すぐに目が合って大きな笑顔を見せてくれた。
 大学前で降りずに終点まで乗っていればいいから今日はゆっくりと話ができる。そう思って嬉しくなった後、気付いた。
 終点どころか夜ゴハンの時間まで一緒なんだ。
 逢生が改めて感激して両手をまた頬に当てていたら陽歩が逢生の左肩に自分の顎を乗せて覗き込んできた。
「逢生の家、オランジュからどれくらい?」
 その話題が出たから逢生も速攻で応答する。
「オランジュさんには徒歩30秒。僕、あのアパートの三階なんだ。陽歩さんも近所?」
 混み合っているバスの中だから必然的に小声で喋らざるを得ず、逢生は左肩に顔を覗かせている陽歩の右耳に口を近付けて話した。
 それがこそばゆい吐息になってしまったのか陽歩が顔を背けてしまって返事をしてくれない。
 怒らせたのだろうかと逢生が心配しかけた頃に陽歩が顔を見せてくれた。目を細めて逢生を見つめた後、今度は逆に逢生の左耳に唇を近付けてくる。

「言いたいことはいっぱいあるけど後で。逢生がオレンジハウスに住んでたのは知らなかったからびっくりした。それから。…普通に喋って大丈夫」

 陽歩の吐息が耳にかかって。
 逢生の体が痺れた。
 
 逢生はたっぷり30秒固まってから陽歩から顔を背けてしまった。
 俯いて自分の脚元を見る。
 グレイのコンバースのスニーカー。
 このCANVAS ALL STAR J OXは兄の詩琉から買ってもらったもの。その星のマークを見て逢生は息を整えた。


 逢生の住むアパートの名前は『メゾンドオランジュ』だったから、さっき陽歩が『オレンジハウス』と言ったのは何故なのだろうと思った。
 知りたいことが多すぎて尋ねたいことが山積みになっている。陽歩から「会った時に一つずつ教える」と言われたから今日も質問を厳選しないといけない。
 物足りない気もする一方で、貪るように相手のことを知りつくすのではない今のやり方も好ましく感じていた。
 楽しみを先延ばしにしている無邪気な時間。

「陽歩さん、さっきオレンジハウスって言った?僕が住んでるところメゾンドオランジュって名前なんだ」

 駅前でバスを降りて普通の声でやりとりする。
 さっき陽歩の囁き声で目眩がしそうなくらい体が反応して体温を上げてしまったことは恥ずかしいから胸にしまっておく。

「言った言った。メゾンドオランジュってブーランジェリーオランジュの店舗が入った時の改装後の名前だって聞いてさ。あそこの大家さんと俺のバイト先が繋がってるんだけど。前はオレンジハウスって言ってたらしい」

 爽やかな青空の下を森林公園に向かって歩く。
 手付かずの時間がたくさん残っていることを太陽の空の位置の高さが教えてくれる。

「どうしよう」
 逢生が小声で呟くと左横を歩く陽歩が見下ろす。
「ん。どうした?」
「陽歩さんのバイトの話も聴きたい。近所に住んでいるのかどうかも聞きたい。今日どっちを優先したら?」
 幸せな一日なのに初端(しょっぱな)から悩ましすぎる。
「あ、おまえまた」
 陽歩の笑う声が聞こえて、逢生は自分の両手首を陽歩に強く掴まれた感覚で我に返った。
「うわぁ…何?僕へんな顔してた?」
 逢生が頰の下で両手を捕まれたまま上気した顔で尋ねると陽歩が笑う。
「その仕草。可愛いすぎる」
「えっ!!…僕、何してた?」 
「ほっぺた手で挟んでた。かわいい」 
 可愛いと言われて喜んでいいのかわからない。

「逢生がすみからすみまで可愛らしいから。そんな顔見たらキスしたくなる」

 陽歩が顔を少しだけ近付けて笑顔のまま小声で言った。
 公園に向かう広い歩道には家族連れや若者たちのグループがたくさん行き交っている。
 周りの人にぶつからないように二人は身を寄せた。大きな街路樹の木陰に寄って立ち止まり、人の波から脱出して二人だけになった。
 逢生は混乱する。

 僕だけ夢の続きにいるんだろうか。
 二本立ての夢。
 どこで僕は眠ってるんだろう。どこから夢?
 
「えっと。僕どうも寝ちゃってるみたい」 
「え?」
「夢なんだ、きっと。僕にとって都合良すぎる。陽歩さんに言ってもらいたい言葉を言わせてる」
「おまえ…。本気で言ってるとこが怖い。でもって」
 陽歩が手首を掴む力を緩めたので、ようやく逢生もホールドアップしていた状態から開放される。
「逢生のそういうとこ。好き」
 陽歩がさっきまでの微笑を消して真顔になった。



 陽歩が連れていってくれたイベントは地域の街興(まちおこ)し的な催しのようで、駅前の商店街にあるお店が出店をしていたりマルシェのように雑貨やスイーツが売られたりしていて賑やかだった。
 かぐわしい香りの珈琲。明るい石で作られたアクセサリー。淡い色彩の陶器の皿や箸置などのカトラリー。木の実の入ったクッキーとパウンドケーキ。木を彫って作ったスタンプ。

「さっき聞かれたこと。俺は逢生の近所には住んでない。朝にオランジュでバイトしてるんだ」
 逢生が木彫りスタンプのハムスター柄に目を輝かせていたら隣の陽歩が唐突に言った。
「えっ?バイト?」
 逢生は驚いて陽歩の右腕を左手で掴んでしまった。
 右手に持っていたスタンプをそっと戻す。
「お。腕そのままつかんでて」
 そう言って陽歩がスタンプを手に取って「これ下さい」と店主らしき若い女性に言って財布を出した。
「陽歩さんブーランジェリーオランジュで働いてるの?常連さんじゃなくて?」 
「そ。もともとは高校の時にジョブプラクティスで一日、就労体験インターンシップで一週間お世話になったことがきっかけ。販売じゃなくて厨房な。作り方を教わってる」
 陽歩は女性から小袋を受け取ってポケットに入れ、逢生の左手の上から自分の左手を重ねて歩き出した。

「しばらくこうして歩こう。あのベンチでランチにしようか。あ、この店でドリンク買お」

 腕を組むような形。
 真っ昼間から。男二人で肩を並べて。
 逢生の今までの人生では考えられないことが今日一日で繰り広げられている。

 大学生になるって僕にとってはこんなに世界が今までと反転することだったんだ。



     ☆    ☆    ☆



「俺が聴きたい話は逢生の専攻。この大学を選んだのはどうしてなのか、とかさ」

 カウンターの横にある、小さな四人掛けの木のテーブル席に座った時に陽歩が尋ねてきた。
 二十歳になった記念に陽歩がバーに行きたいと言うので、陽が落ちる頃に場所を変えてカフェバーに足を運んだ。
 京町家風の落ち着いた佇まいのお店。

 陽歩が連れていってくれたこのバーは一般の店ではない、らしい。
 特定非営利活動法人 コミュニティスペース カフェ&バー orange という看板がかかっている。

 ここもオレンジ?

「陽歩さん。初めてのお酒。何を選ぶの?」
 逢生は自分はエスプレッソにしようと決め、すぐにメニューを陽歩に差し出す。
 陽歩の初めてのアルコールが何になるか。それをわくわくと見守っていた。
「なんか嬉しそうだね。何にしよっかなぁ」
 陽歩がワインリストに目を注いだ。

 ビールやカクテルじゃないんだ。

 逢生は陽歩がお酒が飲めるようになった日に何を選ぶか、気になって仕方がない。

「シャルドネ樽熟成2023。気になるなぁ。後味にしっかりとした塩味を感じるってどういう感じなんだろう。あ、でもこれにする」
 そう言って陽歩はカウンターの中に向かって手を挙げた。
「ここでバイトしてるヤツは俺の知り合いだよ。おいかわとき。こう書く。あ、あいつね」
 陽歩は二回目に会った時にお互いが名前を教えあったのと同じ指文字で、逢生の右手のひらに漢字を書いた。
 その都希が近付いてきた。
「島で醸す デラウェア オレンジ。これは大三島のやつだよな?」
 陽歩が都希に向かって尋ねているのに、都希は逢生の顔をじっと見つめた。

 「君の中、いま音が溢れてるね」 

 都希が漆黒の瞳を逢生の額に向けて唐突に言った。
 都希の黒髪と闇のように深い黒色の瞳の前では、逢生の自然の髪色も瞳の色も実は明るい方だったんだと気付かされる。

「でも音よりも言葉。言葉が溢れすぎ」

 この人。
 “ 美しい夜 ”が擬人化されて人間になったら…こんな感じになるんじゃないかな。

 僕はどちらかといえば“ 朝 ” だろうか。
 “ のんびりした朝 ”とか“ 鳥のさえずりが聴こえる朝 ”とか。
 ぼんやりと平和な感じ?

 逢生はこんな風に心を飛ばして朝の光景に浸っていたが、その光景さえ見透かしていそうな視線だった。
 それを都希はようやく封印した。
 雰囲気が柔らかくなった都希を見て「あ」と言った逢生に向かって、都希は少し口角を上げる。
 それから逢生の向かい側に座る陽歩に向かって「このコ誰?」と尋ねた。
 陽歩が「話しただろ?二人目の逢生に会ったって」と答える。
「逢生?先月会ったばかりって言ってたコ?」
 そう言いながら都希が自然な仕草で陽歩の横に腰を下ろした。
 サイドに深めのスリットが入った薄いブルーのシャツを羽織った都希は中性的な外見をしていて、大人びた陽歩の隣に座ると高校生くらいに見える。
 童顔の逢生と似たようなものだ。
「じゃあなんでアキの中にある音色とダブってるんだろう」
 都希はもう一度逢生を見つめて不思議な言い回しで独り言のように言った。
 逢生は何がなんだかわからなくなる。
「また人を煙に巻くような言い方して」
 陽歩は何も気にしていない風だったが、ダブると言う言葉で逢生は大切なことを思い出した。

 初めて陽歩に会った時、逢生が春から心の中で再生していた“ the Rose ”のワンフレーズを陽歩が口ずさんだことを。

 あぁ。このことを言ってるんだ。
 都希さんすごい。
 
 逢生は都希の色白の顔をじっと見つめた。

「大三島のデラウェア オレンジね。人生初のワインに選ぶのをこれにするんだ。センスいいねアキ」 
 都希はそう言って立ち上がり、「君は何にするの?逢生」とさらりと尋ねてきた。
 初めて会った日にすぐに名前で呼んでくれるのは自分が陽歩繋がりだからだ。それは陽歩の人徳ゆえのことだろう。
 そう分かってはいても気恥かしくて小さな声で「エスプレッソを」と伝えた。

 運ばれてきたワイングラスを陽歩が少し掲げて、逢生に向かって大きく笑ってから軽くグラスに唇を付けた。
 白ワインが一口分だけ流れ込んでいる陽歩の喉元を凝視してしまう。


「僕の専攻は人文学部人文学科の環境心理学だよ」

 逢生はエスプレッソの苦味を楽しみながら答えた。

「住まいを整えることに関心があるっていうか。僕は社会に出ていくのに臆病になって少し籠りがちだったんだけど。だから現役で大学生になる自信もなくて」

 逢生が打ち明けるように紡ぐ言葉を、陽歩は真っ直ぐの視線を向けて受け止めてくれる。

「そんな時に環境心理学者のメッセージを見たんだ。青年期に多少閉じこもり的な行為があっても発達の一時期の現象であって自己の確立に必要なことだって。その言葉に勇気づけられた。それでこの分野に興味を持って進路を決めたんだ」

 都希が運んできた料理には手を付けず、陽歩は真面目な顔をして逢生の言葉の続きを待っていた。
 逢生は陽歩がお腹を空かせていないか気になって、一度口を閉じた。
 陽歩は「それから?」と続きを促してデラウェア オレンジを上品な仕草で一口飲む。
 逢生が黙ったまま再び陽歩の動きに見惚れていると陽歩が少し柔らかい表情になった。小皿のミックスナッツを摘まんで逢生の口にアーモンドをねじ込んでくる。

「ん…」
「ゼミに入るのは来年だよな」
「うん。1年の終わりまでは一般教養と心理や教育系の講義を取るよ」
「住まいを整えることが大切なんだ?」
「そう。住まいはヒトの“なわばり”って言うよ」

 逢生は今度は自分がクルミを一粒取り、陽歩の口元に運んだ。
 陽歩はなぜか一瞬怖いくらいに真剣な表情をしていたが、逢生の手に視線を移してそっとクルミを口に入れた。

「住まいは暮らす人の好みや性格や価値観を反映する器でしょう。自分らしい家を建てて心地よい暮らしをしたいと思う。こうした行為は動物のなわばり行動の一形態なんだって」

 陽歩が「うん」と言いながら料理を取り分けてくれる。
 シーザー・サラダとフィッシュアンドポテト。
 陽歩おすすめのジェノバソースのパスタ。

「自分だけの家。敵から身を守って休息する場所。そこで大切な人とご飯を食べる。それが大切。僕もそう思ってる」

 そこまで言って逢生はフォークに搦めたパスタを一口食べた。
「…美味しい」
 見上げた陽歩が頷いて少し口角を上げた。
「環境心理とか住環境心理学って分野は理工学部とかの理系かと思ってた。人文学科か。そういうことを学びたいんだな、逢生は」
 逢生はゆっくり頷いて白身魚のフライを口に運んだ。
 檸檬の香りが爽やかに広がって美味しさに目を細めてしまう。
「これも好き。こんな料理が作れたらいいな」
 逢生が心の声を言葉にすると陽歩が嬉しそうに言った。
「じゃあ都希にレシピ聞いておく。また次回教えるから作ってみてよ。食べさせて。俺は焼き立てパンを持っていく。今セーグルフリュイ焼くのを練習してるとこなんだ。ワインに合いそうだろ。そうだ逢生」
 陽歩がまだ半分も飲んでいないグラスを置いて、改まった口調に切り替えて言った。

「逢生の七月の二十歳の誕生日。一緒に呑もう。アルコール苦手かな」

 逢生は笑ってしまう。

「飲んだことないから苦手かどうかなんてわかんないよ」
「だよな」
「楽しみにしてる」
「俺も楽しみ」
 二人で笑い合っていると都希が檸檬水のグラスを持ってきて「仲良しだね」と言いながら逢生の前に置いてくれた。
「都希。俺は今日逢生とオランジュにいったん戻って自転車押して帰るから。教えてほしいレシピあるけど遅くなるから明日聞くわ。先に寝といて。明日の朝早いよな?」
「言われなくても待つ気ないし」
 そう言って都希は素っ気なく背中を向けて厨房に消えていった。
 逢生は二人のやり取りを聞いて二人が同じ住まいに居ることが分かってしまった。
 

 陽歩さん。恋人がいたんだ。


「逢生?どうした」
 陽歩が何事もなかったかのように尋ねてくる。
 えっと。
 恋人がいても恋人以外に「好き」って言葉を使っていいんだろうか。
 今日言ってもらった言葉はどういう種類の「好き」だったんだろう。
 すごく今、自分が傷付いてるのがわかる。
 僕がこの人を好きな気持ちは持ち続けていいんだっけ?
 初めてすぎてわからない。

「あの…陽歩さんと都希さん一緒に帰らなくていいの。一緒に住んでるんだよね?」
「うん、一緒のところ。大丈夫だよ。俺の住まいについては次に教える。長い話になるんだ」

 陽歩が肯定したことで逢生はまた傷付いた。

 夢を見てるんじゃないかと思ってしまったくらいの嬉しい言葉。
 今日マルシェ巡りをしながら聴いたブーランジェリーオランジュでのバイトの話。
 逢生の二十歳の誕生日に一緒に過ごす約束。
 全部、夢じゃなくて本当のこと。


 恋人がいる人を好きな自分。
 この気持ちはどう扱えばいいんだろう。