中学2年生の夏まで逢生の左目の斜め下には三つの黒子があった。
オリオンの三ツ星という言葉は兄と逢生だけが知っている符号みたいなものだった。
今は跡形もなく消えてしまっている。
その三ツ星の他にも長めの前髪の下に隠れて額に二つ、首筋にも二つある。
それらの黒子を全て繋げて「逢生にはオリオン座がある」と最初に言ったのは七歳上の兄の詩琉だ。
顔をじっくり覗きこむ同級生はいなかったから、左目の下からこめかみにかけて並ぶ三つの黒子以外は誰も知らなかったと思う。
三ツ星のことだって誰も気にも止めてなかったんじゃないか。親しく声を交わす友だちがいたわけではないし、帰宅部の逢生はいつも一人で行動していたから。
中2の夏休みのある朝、自宅から大学に通う詩琉の横に逢生がくっついて駅まで歩いていた時に小さな事故に巻き込まれた。
高校生男子が自転車で突っ込んできて逢生に当たり、吹っ飛ばされた逢生が住宅のコンクリート塀に顔の左側をぶつけた。
額と左頬から血を流している逢生を見て詩琉がキレて高校生に掴みかかっていった。その血相を変えた兄の姿が怖かったという記憶は鮮明に残っているけれど、その時の痛みや辛さは忘れてしまった。
外傷による皮膚の欠損を補うために皮膚移植が必要で、逢生の耳の後ろの皮膚を取って目の下に移植する手術をした。
生体包帯の役割を果たすには他人の皮膚では駄目だということも初めて知ったし、手術後にガーゼを取った逢生の顔を見て兄が涙を流したのを見て大人の男も泣くんだという事実も知った。
「おまえの三ツ星。消えちゃったな」
この時がオリオンの三ツ星という言葉を二人の間で使った最後だったと思う。
兄さんがこれだけ僕を愛してくれてるんだからじゅうぶんだ。
そう心に浮かんだ言葉が三ツ星が消えた日と重なって記憶されている。
「兄さん。仕事終わった?」
逢生が詩琉に電話を掛けたのが夜の9時。
「待て。切るなよ。すぐだから」
囁くような声が聴こえた。三十秒ほどブランクがあって、空気の密度が切り替わり詩琉のクリアな声が逢生の左耳に届いた。
「いいよ、店出てきた。課内の歓送迎会してたんだよ。逢生、大学生活はどう?」
久しぶりに兄の声を聞いて逢生は深く息を吐く。
それから力強く言った。
「友だちできた」
春に詩琉から“二十歳の誕生日までにおまえを下の名前で呼ぶ友だちを三人作っとけよ”と言われた。
心配されないように取り繕うわけじゃなくて事実を報告できていることに、逢生自身がまだ信じられない気がしていた。
「お!良かった。それ聞けて嬉しい」
詩琉の声のトーンが上がる。たぶんすっごく心配していたんだろうと思う。
「入学式に友だちになれた同じ人文学科の駿くんと、駿くんと高校時代から仲の良い藤瀬くん。二人とも僕のことを下の名前で呼んでくれるよ」
「信じられない」
そう言って笑う詩琉の声が電話口から明るく響いた。
「信じてよ」
逢生はひとしきり笑って、そして本題に切り替えた。
「兄さん。僕のオリオンの三ツ星のことを知ってる先輩がいた」
触れずにいた話題。逢生は兄に確認したかった。
誰かに兄が話したことがあったんだろうか?
あの先輩は兄と同級生だったとか?
でも、それだと今は26歳か27歳ってことになる。
博士課程なんだろうか。
「何?どういうこと?」
詩琉の声が硬くなった。
あ。
また何か心配させちゃったかな。
「偶然声をかけてくれた先輩がいるんだ。その人の名前も何も知らないんだけど。アイセイって名前のオリオンの三ツ星があったコを知ってるって。兄さん友だちに話したりしてた?」
「言うわけない。あの言い方は誰にも話したりしてない。オリオンって言ったのか?三ツ星があったって?」
詩琉も驚いた声を出したので逢生はわけがわからなくなってしまった。
三ツ星みたいに黒子があるアイセイ君が他にもいるんだろうか。
いないよね?
あの時。逢生の顔を覗き込んだ先輩が刹那目を走らせた場所は、逢生の三ツ星がかつてあった場所と同じだった。
どこかで会っているんだ。
どうして僕は先輩のことを全く覚えていないんだろう。
「気になる。そいつのこと、また報告しろよ逢生」
詩琉の声の奥から人々のざわめく声が重なってきた。
店から客が出てきたのだろう。兄のいる京都の、柔らかい言葉での挨拶のやりとりが優しく耳に飛び込んできた。
「うん。また先輩には会えると思うから」
「おやすみ逢生」
「詩琉…おやすみなさい」
「おい。甘えたいのか?」
そう言って詩琉は最後に笑い、「じゃあ」と言って切電した。
普段は兄さんと呼んでいる逢生だが、兄に甘えたい時だけ名前で呼ぶ。
友だちがいない逢生が屈折することなく生きてこられたのは間違いなく兄の存在があったからだ。
兄に支えられてきた逢生だったけれど、今ようやく少しずつ世界が広がってきた。
新しい出会いってこんなに自分を温めてくれるんだ。
出会いじゃなくて、あの先輩の場合は再会?
また、きっと会える。というか。
会いたい。
☆ ☆ ☆
あの日からバスに乗る時は周りを見て先輩を探した。それでも一週間以上会えないままだった。
何回もバスの中で逢生を見かけたようなことを言っていたから会うのは簡単だと思っていたけれど、学生の多い朝のいつもの時間帯では見つけることができなかった。
朝に弱い逢生がバスに揺られながらも覚醒できていることに我ながら驚いた一週間。
たぶん、すごく会いたかったから夢の続きに浸ってられなかったんだと思う。
“好きだったコ”の話をした先輩のことが、ずっと心から離れなくて。
兄の詩琉以外の男を好きだと思ったことは今までないけれど。
あの人。
好きだな。
会って話したいし名前を知りたい。
あの綺麗な手にまた触れたい。
四月末の水曜日の朝、バス停に着いたバスに乗り込んでいると後ろから肩を叩かれた。
「アイセイ!」
振り返ったら先輩が笑っていて、逢生は待ち人が来た…とドキドキしてしまった。
あと。
名前。呼んでくれた。
名前を呼んでくれる三人目。
ミッション、クリアしちゃった。
後ろの席が広く空いていたので、二人で並んで座ることが出来た。
先輩が逢生の右隣りに座る。互いにリュックを肩から外して脚元に置いたタイミングで、逢生はようやく知りたかったことを息せき切って尋ねた。
普段こんなに早口になることは決してない。それでも、大学に着くまでに話したいことがたくさんありすぎて。
「先輩の名前は?学部はどこですか?バス停も同じって知りませんでした。家はどこなんですか」
逢生が周りを気遣って小さな声で耳元で言う言葉をくすぐったそうに受けとめてから、先輩は一度顔を伏せた。
肩が細かく震えている。バスの中じゃなかったら、大爆笑されていたんだろうか。
先輩が顔を上げた。近くで見ると整った顔立ちに陽気さと覇気が織り混ざっているのがわかる。綺麗な造形なのに、底知れないエネルギーを隠しているような逞しさもある。
「ぐいぐい聞いてくるなぁ。会った時に一つずつ教えるよ」
目を細めて大きく笑った顔が素敵だった。
「みやけあきほです。よろしく」
先輩がわざと初対面の挨拶のようにおどけて言った。座ったまま上半身だけで軽くお辞儀をしてくれる。
「三宅さん?あきほってどんな漢字ですか」
逢生は左の手のひらを先輩に差出す。右指で三、宅、と書いて見せると「古風だなぁ」と先輩が笑いながら同じように指文字を書いてくれた。「あき」と言いながら“陽”、そして「ほ」と言って“歩”と書く。
三宅陽歩って言うんだ。
「アイセイは?どんな漢字?」
三宅は自分の右手を差し出してきた。
“逢”と“生”と言う漢字をゆっくりと指で書いて見せた。
「あ、その逢生なんだ。漢字まで同じだな」
そう言って三宅があの時みたいに一瞬だけ遠い目になって真顔になった。オリオンの三ツ星のある逢生の顔を想い出してるんだろうか。
それはたぶん、僕です。
僕と何処で会いましたか?
記憶がないという事実が悲しくて胸が痛くなった。
「苗字は?」
「壽です」
「ことぶき?」
三宅が首をかしげたので逢生は指文字を続けた。
「ほら。この寿って字があるでしょう。この旧字体で…壽。こう書くんです」
「難しいなぁ」
そう言いながら逢生が最後の点を書き終わったタイミングで手のひらを閉じて逢生の右手を包み込む。
逢生は手を握られたまま斜め右横の三宅の顔を見上げた。さっきまで微笑んでいた三宅が真面目な顔をして小さな声で言った。
「俺。逢生って名前のコが好きになる体質かもしれない」
その言葉を聞いて逢生は声が出せなくなった。
「逢生。俺もうすぐ二十歳になるんだ。その日、一日付き合って。一緒に居たい」
三宅の言葉と大学前に到着したアナウンスが重なった。
「えぇっ!!」
逢生が大声を出すと立ち上がってリュックを背負いかけていた三宅が不思議そうに見下ろしてきた。
「どうした?」
周囲が降りる準備をしてざわついている車内で逢生だけが混乱していた。
立ち上がれないままでいた逢生に三宅はまた手を差し伸べてくれる。
その右手を掴んでリュックを前抱きしたまま逢生は放心したように呟いた。
「三宅さんかなり歳上だと思ってました。大人っぽいから院生さんかなって。僕と二ヶ月ほどしか変わらないんだ…」
僕と同い年だなんて信じられない。
「えっ!」
今度は三宅が大声を出す。
「逢生、現役入学じゃないの?」
逢生が立ち上がっても三宅はまだ手を繋いでいてくれた。
出会った日は手をすぐに離してしまって残念な気持ちになったから、今は触れていられるのが嬉しい。それでも照れた気持ちがまさって、ゆっくりと右手を解いていく。
それが合図のように前後に並び、取り急ぎバスを降りて大学正門に向かって歩き出した。
「俺五月生まれだけど。逢生七月生まれ?」
そう尋ねられて逢生は頷いた。
「てっきり一歳下だと思ってた、逢生。敬語やめてよ。俺のことも名前で呼んでよ」
左腕で逢生の右肩を押しながら三宅が凜とした声で言った。
「僕、童顔だから…。三宅さん学年ひとつ上だけど、そう言ってくれるんだったら陽歩さんって呼んでいい?」
「え…。さん付けなの?」
三宅が少し眉を下げた。しょんぼりしたような顔。ごめんなさい。
こんなやりとりを駿くんとも交わしたばかりだ。
「えっと。ちょっとずつシフトしていくね。待っててくれる?」
精一杯、逢生なりに敬語を使わないで言葉にした。
待ってて。
いろんな意味で追い付くようにするから。
思い出せないこともあるだろうけど、それでも。
逢生の心を読んだように三宅が強く頷いた。
「うん。待ってる」



