I say love,
it is a flower
And you,
its only seed
新しく自分の部屋になった馴染みのない小さな部屋。
逢生がそこで目覚めた時、頭の中では繰り返し “ the Rose ” が流れていた。
早起きが苦手だったから、朝ベッドから体を起こしても数分間はぼんやりしている。
大学の入学式が終わって1週間経った朝。
僕は愛は花だと思う
そして君はその唯一の種
高校を卒業して一年経った春。
大学進学のために借りたアパートの部屋に引越してきた時に古い手紙が一通出てきた。
自分の部屋から手当たり次第運んできた荷物の間に中学時代のノートも混じっていて、記憶にない小さな白い封筒がそこから滑り落ちてきた時は花びらが床に散ったのかと思った。
引越し初日にそんな出来事があって手にした手紙の文面を久しぶりに読んだことで、逢生は“ the Rose ” を口ずさみながら部屋を整えた日々だった。
手紙には、ただ手書きで“ the Rose ” の歌詞の一部が書かれてあったから。
1枚だけの便箋の下の部分が破られていたのは最初からだった記憶があるけれど、時間が経つうちに逢生自身がしたことだったのかもしれないと思うようにもなった。混沌とした想い出。
誰からもらったのか、なぜ手紙だったのかも分からない。
ただ、スマホの時代に届けられた差出人の名前のない手書きのメッセージから力をもらった記憶はある。
逢生の地味で色彩の薄い中学生時代の日々を、この曲から喚起される薔薇の花びらの赤色や白色、葉の緑色が染めてくれて。
淋しくなったら口ずさめる歌があるっていい。
友だちもほとんどいなかったから。
誰も知り合いのいない土地での新しい生活は逢生にとって手探りの日々だ。
そして。
朝はひたすら眠たい。
小さな頃から兄にからかわれるくらい毎日よく寝ていた。10代後半になって睡眠時間は減ったけれど、ストレスで体調不良になったり環境が変わったりした時には今でも幼子のようにひたすら眠る。
大学から少し離れている静かな地域にアパートを借りた逢生は、大学に通うのにバスを利用していた。一年生なので1限目から始まる日が多く、朝から30分も歩いていられない。ぎりぎりまで眠っていたい。
窓側の席に座れた朝だとバスの揺れに合わせて夢の続きを見てしまうことさえ、ある。
夢はクリアで数本だて。まるでアートハウス系のミニシアターみたいに数々の興味深い夢が用意されている。
今日も窓硝子に頭を預けて春の陽射しを浴びながら二度寝をしてしまった。
バス停に着いて、青空が目に染みるなと思いながらバスから降りて歩き出したところで「逢生!」と遠くから声を掛けられた。
大学の正門前に仲良くなったばかりの小さな同級生が手を振っている。
逢生も右手を挙げたところで真後ろから柔らかい声がした。
「おまえアイセイって名前だったんだ」
振り向くと逢生のすぐ真後ろに男が突っ立っていた。
「うわ!」
距離が近くて仰け反ってしまった。
同じバスに乗っていた客たちの中に大学生風の数人の若者がいたが、そのうちの一人。
短髪を明るく染めた男が、人懐っこい表情をして右手を差し出して体勢を崩した逢生を支える。
「アイセイって名前、懐かしいんだよなぁ。俺が昔好きだったコがその名前だったんだ」
身体を引っ張り上げてもらいながら、逢生は青空を見上げて遠い目をしている相手の端正な顔をまじまじと見てしまう。
アイセイって男の名前だよね?
そういうことサラッと言っちゃっていいの大学ってとこは?
それともこの人が天然ってだけ?
「ありがとうございます」
逢生は咄嗟に掴んだ相手の右手を見て(大きくて綺麗な手だなぁ)と見惚れた。それも一瞬のことで慌てて手を振りほどく。
「あ。ごめんなさい」
繋いでいた手を離したのは自分なのに、何故か先程までの手のひらの温もりを急に失って淋しくなった自分に驚いた。そんな自分に戸惑っていると、先程声を掛けてくれた同級生がすぐ横まで来ていて肩を叩いてくれた。
「おはよう」「あ…おはよう」
逢生は大学生になって初めての友だちに照れたような笑顔を向けた。挨拶をしてくれる友だち、自分の名前を呼んでくれる友だちという存在に慣れていないから、こういうシチュエーションにでさえ胸がいっぱいになってしまう。
高校時代まで友だちだと自分が自信を持って言える同級生はいなかった。大学生になる前、自分を心配する(しすぎる)兄のためにも逢生なりに決意した。精一杯できることはして自分を変えよう。その一歩が友だちづくりだった。
まるで小学1年生みたいで恥ずかしいけれど。
自分にとって今日は朝から濃密だ。そう思いながらも他人とコミュニケーションを取る喜びを知り始めた初心者マーク付きの逢生は、目の前にまだ立ち続けてくれている相手に目線を向けた。
目が合うと相手は少し笑った。
「入学式のスーツ姿でも今日でもバスの中で健やかに寝てるからさ。可愛いなぁって見てて。たまたま俺の好きだったコのこと想い出して浸ってたら同じ名前が聞こえてきて驚いたってワケ。急に声掛けて悪かったな」
じゃあと軽く言って手を挙げて歩きはじめた相手の背中に向かって、逢生は声を掛けてしまう。今は隣にいる新しい友だちには待ってもらうしかない。
「あの!」
「ん?」
だって。
向きを変えながら相手が小さな声で歌を口ずさんだのが聴こえてしまったから。
そして。
それが僕の体を今まさに充たしている曲と同じだったから。
「そのアイセイって、僕のことですか?」
言葉にしてから逢生は思いきり顔を赤らめた。
うわ。何言っちゃったんだろう。突拍子もないこと口走ってる。なんだかこの人と自分が繋がってる気がして、つい。
「ごめんなさい!違うんです、えっと…。そのアイセイさんは今どうしてるんですかって聞きたくて」
逢生があわあわと動揺しているのとは対照的に、振り返った相手はゆったりとした空気を纏ったまま逢生に笑いかけた。
「さぁ。知らないんだ。中学生の時に俺が転校してから会ってないから。でも」
そう言った相手が、目線を下げて7㌢ほど背の低い逢生の顔をじっと見た。
柔らかい表情をしていた大人の男がふと真顔になる瞬間を目の当たりにして、逢生はどぎまぎしてしまう。
その真顔は束の間で、すぐに相手は切れ長の目をふわりと緩めた。
「俺の好きだったアイセイにはオリオンの三ツ星があったから、おまえとは違うよ」
その言葉を耳にして逢生は心臓が止まるかと思った。
……貴方は誰?
オリオンの三ツ星って言った?
もう消えてしまったのに。どうして?
男は逢生の左目の横に視線を走らせ、また逢生の目を真っ直ぐに覗き込んでから流れにピリオドを打つように大きく頷く。そして「待たせたな」と横に居た逢生の同級生にも声を掛けて素早く立ち去っていった。
「ねぇ逢生。知ってる人?」
そう隣に立つ友だちに尋ねられて、ハッと逢生は現実の四月の大学にいる自分の中に意識を戻した。
「ううん。知らない先輩」
「え?そうなん。逢生。さっきの人にカワイイって言われてなかった?」
「わぁ駿くん!ストップ!」
今とても胸がざわついているけれど、それは今晩にでも兄さんに相談しよう。
逢生はそう気持ちを切り替え、取り急ぎ目の前で展開するコミュニケーションに集中した。二人で肩を並べて人文学部に向かって歩き出す。大学内のメインストリートの両側に植えられたユリノキが美しい緑の葉を揺らしている。
「恥ずかしいから言わないで。さっきの先輩とバスで一緒だったみたい。僕あまり周り見てないから…」
「かっこいい人だったね。先輩?何学部の何年生?」
「先輩…だと思う。新入生には見えないし。えっと。名前も何も知らない…」
「知らないわりにはかなり濃い会話してたよね。あ、それはそうと逢生!」
駿が立ち止まり、下から手を伸ばして逢生の両肩をガシッと掴んで言った。
「なんで俺の名前を君付けで呼ぶんだよ。呼び捨てで下の名前を呼んでほしいって先に言ったの逢生じゃん。俺のことも呼び捨てで呼んでくれたらいいのに」
そう言われて逢生は今日二度目にあわあわしてしまう。
「うん…。そう思ってるんだけど慣れてなくて」
逢生が小さな声になったので駿はフフフと笑いながら両手を離して前を向いて歩き出し、左横にいる逢生が背負ったリュックを左手でぽんぽんと叩いた。
「まぁゆっくりでいいけど。初日に声を掛けてきてくれたのはよっぽど気合いを入れてくれてたんだって今なら分かる」
駿がおかしそうに笑うので逢生は今日2度目の赤面になる。
そう。入学式の時に一年浪人して貯めたエネルギーを全投入しちゃったと言えるかもしれない。
兄さんがあんなミッション出してくるんだもの。
あの日の右往左往する心情を思い出して逢生は深呼吸しながら空を仰いだ。
ユリノキの葉の間の浅葱色の空が自分の瞳の中を水色で満たした途端、逢生は息苦しくなる。
オリオンの星のことを言われたのは、何年ぶりだろう。



