こそばい。
首筋だけじゃなく、耳たぶを嚙まれたりする。
寝ている朔太郎の耳の後ろに息を吹きかけられても反応しないでいると瞼の上にざらりと熱い舌が這わされた。
「なぁ。いっつもそうやって猫に襲われてんの?」
大の字になった朔太郎が目を閉じたまま頭をアイスブレークさせていると佐倉の声が30センチ上から降ってきた。
「そう」
これが雉虎猫モカの通常作法だから朔太郎は何とも思わないけれど、もう一匹自宅にいる白猫のジュジュはこんなことはしてこないから、さっきの耳たぶ甘噛みがジュジュからだったら全く感じ方が違うだろう。
ジュジュは家に来たのが七か月だったこともあり、最初は触れさせてもくれなかった。今は朔太郎が近付いていくとたまにスリっと体を寄せてくれることがある。普段触れさせてくれないジュジュが初めて朔太郎の頬にそのふわふわの毛を摺り寄せてきた時、朔太郎は嬉しさのあまり悶えてしまった。
だから今こうやってまぶたを舐めているのがジュジュだったら、朔太郎はこそばいという感覚ではなくて陶酔に浸ると思う。
そしてそれがジュジュじゃなくて、この同じ部屋にいる相手からだったら。
死ねる。
こう心で言い切った後、その言葉が頭でエコーしたので咄嗟に朔太郎は“死ねる”というワードを“気絶できる”に変換した。
できるだけ否定的な言葉を使わないように朔太郎が意識しはじめて八カ月。
気が付けば自然に自分で言葉をより大切に使おうとする姿勢が身に付いていた。
別に今の表現は幸せの絶頂というニュアンスで心で呟いただけだけど、朔太郎の幼馴染の結陽曰く、“心で用いる言葉もできるだけ綺麗な方がいい”らしい。
脳内で言葉が独り歩きして自分自身さえ騙すこともあれば、無意識に自分の生き方にさえも言葉の雫が染み込んで滲み出てくるように影響を与えるらしい。美しい言葉で人間は美しく匂い立つとか云々。前向きに考えるようにすると自動運転のように物事がうまく運ぶとかなんとか。
この結陽のひたすら前向きな性格を思い起こしていたら、先週ダンスレッスン帰りに朔太郎の自宅の庭で新しいステップを伝授してくれながら結陽が呟いた言葉が寝そべったままの朔太郎の頭の中で再生される。
『同じ空間で寝てんのに朔太郎に触わらないで済んでるのが信じられない』
女子にモテる顔を惜しげもなく朔太郎に近付け、真底理解できないという風に目を見開いて言ってくるものだから結陽の態度と佐倉のそれを嫌でも比較してしまう。
いやほんと、これ言わないでほしい。下心を見透かされてるような発言は慎んでもらわないと。
朔太郎は腕を交差させて閉じた目の上に置いて仰向けのまま小さく唸った。
女子と交際している兄の琉伊と、佐倉はどこまで好みが似ているのだろう。
やっぱり女子じゃないと恋愛対象にしてもらえないのか?
してもらえる余地はどれくらい?
「痛ッ!」
喉元からガリッと音がして朔太郎は痛みを感じて咄嗟に飛び起きた。
普段からモカは朔太郎が反応しないと最後には喉元に噛み付いてくる。
夜中の0時前。
普段だったら、佐倉の部屋で合宿さながら一緒に勉強したり喋ったりする時間がどんなに楽しくても翌朝5時起きの朔太郎に合わせて就寝準備をしている時間帯だった。
今日は瞑想が過ぎて(瞑想もしくは妄想しすぎるのは朔太郎のアイデンティティだと幼馴染の結陽は言う)傍らにいる佐倉の健全すぎる朔太郎との距離を憎らしく思いながら寝そべり過ぎていた。
朔太郎が喉に手を当てて「やったなぁ」とモカを追いかけるように上半身を捻っていると佐倉が呆れたように言い放つ。
「あんた無防備すぎ」
そう言われて朔太郎はきょとんとしてしまう。
「え?どこが?」
この佐倉の部屋で襲いかかってくるのは0歳の可愛い雉虎猫くらいで、おまえは俺が横で寝ていようが寝そべっていようが食指も何にも動かないんだろうが。
別に意地悪な気持ちでもなんでもなく、シンプルに純粋にそう思ったから“無防備”という言葉がしっくりこなくて佐倉に真面目にそう聞いてみた。
「さっきみたいにモカに噛まれたこと?」
いつもこうだからさぁと呟きながらモカを掌中におさめ、雉虎色の毛皮に朔太郎は顔を埋めた。
朔太郎がモカの首筋裏を母猫のように甘噛みすると「ミュ」とモカが鳴く。そのまましばらく朔太郎がモカの首筋を咥えているのを見た佐倉が「信じらんない」と目を細めた。
「あんた噛まれて血迷ったの?」
朔太郎は笑いがこみ上げ、口からモカを離した。
「ふだんからこうやってじゃれてる」
そう言いながら喉元に手をやるとチリッとした痛みが残っていて、モカの牙で傷付いたかもしれないと朔太郎は部屋を見回した。
ダンスが生活の中心にある朔太郎の部屋には大きな鏡が当たり前のように置いてあるが、この佐倉の部屋には小さな鏡一つ置かれていないことに今更ながらに気付く。
もう5回も押しかけて泊まっておいてそんなことにも気付かなかった。普通の男の部屋ってそんなものなのだろうかと朔太郎は思う。鏡がなかったので朔太郎は佐倉に近付いて首を傾げて尋ねた。
「俺のここ。傷になってる?」
朔太郎が鎖骨辺りに左指を置いて喉元のラインを見てもらおうと顎を上げる仕草をすると、佐倉は朔太郎のシャツの襟元に視線を落とした後すぐに横に視線を泳がせるようにして「べつに」と硬い声で言ったので朔太郎は驚いた。
え。今の何。
可愛い。
ツンツンぶりが。
さっきの無防備すぎという言葉といい、今の目の逸らし方といい。
俺が首元晒すの刺激的だったりした?
もしかして。
朔太郎は鎖骨に置いたままの自分の左手を見下ろした。当たり前だけど自分の首元は見えない。同じような顔をした妹の紗穂子が「何もケアせずとも肌理細やかな肌なんて羨ましすぎ」と言ってくる陽焼けしない色白の肌を持って得した経験は一度だってない。
でも佐倉が凝視できないくらい自分の喉元が魅力的だった…という俺の妄想が少しでも事実に近かったらいいな、と朔太郎は前向きに思った。
学校では会えない佐倉と過ごす夜の時間は朔太郎にとってわくわくする時間だし、喋りたいことを結構遮らずに聞いてもらえるのも元気が出る。
ただ片想いの宿命として朔太郎がどれだけ焦がれようが何かしらの影響も相手に与えていないという場面を積み重ねていると哀しみもあるわけだが、今みたいな反応を見てしまうと脈があったらいいのにと期待してしまう。
この脈のありやなしやって、先週綾大が言ってたやつだな。
佐倉は背中を向けたまま、自分の膝に飛び込んできたモカをベットに抱き込んで「電気消すよ」とぶっきらぼうに言った。
キャリーバックに入れて佐倉の家に初めて連れてきた夏にはまだ仔猫だったモカも、秋が深まるに連れて体がどんどん大きくなってきた。朔太郎の自称“前向き家出”は佐倉の母親が夜勤で不在の時で、だいたい月に三回ほど。10日ごとにモカを連れて朔太郎は佐倉の部屋に押しかけているが、佐倉や琉伊は雉虎猫の成長ぶりに毎回感心している。雨水を受けて若葉がどんどん背を高めて伸びていくような率直さで身体を大きくしていく仔猫の成長を見ることができるのは最初の七〜八カ月までの頃。ちょうど今の時期だ。
この今しか目にすることができない命の奇跡のような軌跡を朔太郎はシェアしたかったのだ。
佐倉と。
そのわくわくする気持ちと自分の恋心。
そして、また佐倉が悪夢を見ても支えてあげられるかもしれないといった思い上がった心と、合宿の時と同じように強く抱き締めてもらえるかもしれないという下心と。
綺麗な気持ちと少し汚れたような気持ちをごちゃまぜにして。
「寝てる時に佐倉もモカに噛まれたりしてる?」
隣のベッドに寝ている佐倉に尋ねながら、朔太郎は床に広げたシュラフに潜りこんだ。
「ん〜。今も腕舐められてるけど。あんたみたいに噛まれたりはしてない」
「そうか。もし噛んだとしても甘噛みだから平気だよ。甘えたいだけだからさ。好きなだけさせてやってよ」
朔太郎は暗闇の中で声を紡いでいった。
小さな豆電球を点けて眠るか、何も点けないで暗闇の中で眠るか。
もしかしたら多くの恋人たちは初めての夜を迎えた日に相手の好みの眠り方を知るのかもしれない。
そして朔太郎は恋人ではなくても佐倉が普段は小さな灯りを点けて眠ることが好きなことを知っている。
さらに、まったく点けずに暗闇で眠るのが好きな朔太郎に合わせて二回に一回は暗闇にしてくれるという佐倉の優しさも知っている。
もう。こういうとこなんだよな。こいつのことがいいなぁって思うのは。
「モカどんどんでかくなってきてんのにあんた小さいままでさ。喰われそうになってんのに平気なんだな」
「小さいって言うな…」
朔太郎は誕生日が同じ日でちょうど一年後に生まれたのに、自分より背丈も態度もでかい佐倉との身長にまつわるこんな会話に慣れてしまった。
普段はあまり喋らないような印象を受けるが、自分の家にいて寛いでいる中で朔太郎ががんがん喋っていると佐倉も意外とストロークを返してくる。
不愛想な態度がほぐれてきて時々笑ったりして、あれ、こいつ結構表情豊かなんじゃんと驚かされる夏だった。
そんな夏休み、佐倉の家でワンダーフォーゲル部の夏合宿の準備をしている佐倉の横で朔太郎が好き勝手に喋っていたら「あんたこの登山リュックに入りそう」と切れ長の目で見下ろしてきたりして。
その冗談を冗談じゃなかったことにしてください、と心の中で祈ったっけ。
俺小さくて良かったって人生初感動したっけ。
「ええと電気点けて寝んの、おまえたちは夕闇って呼んでたんだっけ?夕方…だった?」
朔太郎はふと思い出して、佐倉と琉伊が幼い頃に一緒に就寝していたころの話を再度尋ねた。
「夕方」
さすがに眠たそうな声になった佐倉が一言返してきた。
「あ、そうだったわ」
前に電気を点けて就寝するとき、眠りに落ちる手前でこの話を聴いたのだった。そういう兄弟だけで通じる言い方いいなぁと思いながら眠った十日前の夜。どんな夢を見たかは覚えていないが、翌朝5時前に目覚めて一人で自宅に戻るときも温かい気持ちだけは残ったままだった。
「今日は夕方の夕焼け見せてやれなくてごめんだけど吸い込まれそうに黒い世界ってのもいいもんだろ。何も見えなかった暗闇が自分と親しくなって暗い世界が馴染みあるものになっていく過程ってのがさ。なんだか優しくていい」
「あんたさ。ほんとよく喋るよな。喋られなくなったら病気になるんじゃねぇの」
暗闇がだんだんほどけ、手枕をした朔太郎の目には佐倉の輪郭が漆黒の世界の中心に浮かび上がってくる。
「うん。冬になってときどき大きな風邪を引いたあとに喉がやられることがあんの。そうなって喋ることができなくなる日が一年で一日くらいあって。普段から思ったことをつぎつぎ言葉にして手放してるからうまくやれてたりしたんだなってその日に実感する。自家中毒っての?何も喋らずに一日過ごした後はグロッキーになっちゃうことがある」
朔太郎が漆を溶かしたような夜の気配に浮かぶ相手に淀みなく言葉を向けていると、その相手が笑いだしたことが闇の揺れで伝わってきた。
「あんたが黙ってたらそれだけで病気に見える」
さっきまで眠たそうな声をしていた佐倉を起こしてしまって悪かったなとちょっぴり思いながらも、このまま話続けられる夜がまだ続いているという状況に朔太郎は嬉しくなった。
他愛もない話。どうでもいい話。誰とでもできそうでいて、誰とでもではできない、そんな話。
「まぁな~。だいたい喋ってるからなぁ。でも佐倉も慣れてきたら意外に喋るよな」
「うん。まぁそう」
「佐倉が軽い感じで喋るのを聴くのもいいなって思うし、琉伊が学校ですっごい社交的な分、真逆に家でひっそりしてるのもいい」
「あ~それ。あんたも気付いた?」
「うん。おまえたち正反対のようでいて似てるとこもあって面白い。でもって根っこのとこは優しいってのは同じ」
「優しいのかな」
「最初はおまえからは睨みつけられるわ琉伊からは本名で呼ばれて頬っぺた触ってこられるわで散々だったけどさ。時間がたつとちゃんとわかる」
そう朔太郎が言うと灰色に変化した闇の中で佐倉の表情が動いたのが分かった。
「それ。前から聴きたいと思ってた。本名って何?あんた瀧朔太って名前じゃないの。この前ひっどい通知簿だって見せてくれたけどその名前で書かれてたじゃん。なんで琉伊は知ってんの」
「あ。琉伊その話してないんだ…」
朔太郎は兄弟にさえ朔太郎について知っていることを軽々しく口にしない琉伊に頭が下がる思いがして感動した。そしてすぐ、この流れを捉えて佐倉に打ち明け話をすることにした。
お互いが灰色に見える世界の中で言葉を交わすシチュエーションってのも悪くないもんだ。
それにしても勉強を一学年下の佐倉に教えてもらうために見せた通知簿。
あれは散々だったよな、確かに。
「俺の名前は瀧朔太郎っての」
朔太郎は小さな声で囁いた。
「そうなんだ。いい名前じゃん。少し古風に響くのが嫌だった?」
佐倉は一呼吸置いて、ゆっくり返事をしてくれた。
「まぁそんな感じ。大正っぽいとか明治っぽいとかいじられてしんどい時期あったからさ。高校生になってすぐに名簿からも消してもらった。自分の名前を受け入れられないのは少し悲しいけど」
そこまで朔太郎が言っても佐倉がまだ聞いてくれそうな雰囲気を出していたので、思い切って続けて打ち明ける。
「9歳になった日からさ、転校してきた年上のやつに変にからまれるようになって。殴ってきたりするのも嫌だったけど名前呼ばれて付き纏われる感じがゾッとして。なんかその時の怖い記憶が名前と結びついて邪魔すんの。本名で呼ばれても何とも思わないくらい自分が大人に成長できたら戻そうと思って」
佐倉はグレイ色の空気の中で朔太郎のことを真っ直ぐ見て「うん」と返事をしてくれた。
「この話は琉伊にはしてないけど訳があるんだろうと思って黙っててくれたんだろ。あいつも大概優しいな。あ、今あいつが付き合っている彼女が俺と一年のとき同じクラスだったから最初だけ名簿で晒してしまった名前を知ってたってオチだったんだけどさ」
朔太郎は優しい人が好きだ。
「俺はおまえたち二人の優しさで癒されたくて繰り返しこの家に足を運んでしまうのかもしれない」
朔太郎は大切に思っていることを今晩の真夜中のダークトーンに全部溶かしてしまいそうだった。
「優しいってのが大事?さっきも暗闇が暗闇じゃなくなっていくプロセスが優しくていいみたいなこと言った」
「そう。佐倉ちゃんと聴いてんじゃん」
いつも適当に流してるようなふりしてさ。
「おまえが寝かけていると思ったから俺の言葉が溶けていってお前の夢に潜り込んでいったらいいと思っていつも以上に心を込めて言ったンだよ」
朔太郎がそう呟くように言うと、モカを撫ぜていた佐倉の指の動きが止まったのが夜の気配の中でも分かった。
「わけわかんない。おやすみ」
佐倉の声が真夜中の秋の冷えを震わせながら朔太郎の耳に届いた。
「うん。おやすみ」
家族以外で朔太郎がこの「おやすみ」という優しい言葉を眠る直前に面と向かって言うのは、今のところ、この優しい兄弟だけかもしれない。
この優しい四文字の言葉を、同じ空間にいて好きな相手に手渡すことのできる恋人たちはとても幸せだろうと朔太郎は真剣に思っている。
❍ ❍ ❍
同じ境遇や弱みを持つ人同士が慰め合うことを傷の舐め合いと表現したりする。
動物が負傷した時に仲間が傷を舐め、唾液に含まれる抗菌成分と水分で異物を取り除くことで傷の回復を促すのと同じだとか何とか。だいたいマイナスな感情と共に使われるこの言葉に対して、朔太郎は何故か温かいものを感じてしまう。
ざらりとした舌で普段から仔猫に舐められながら目覚める朝が、朔太郎にとっては日常であり癒やしでもあるから。
「前から牧さんと傷の舐め合いしてて」
朔太郎がそう言ってソラノアオヲの1階の珈琲カウンターの椅子に座ったとき、珈琲カップを右手に持ったまま佐倉が眉間に皺を寄せて「傷?」と聞き返してきた。
「サク。言い方があまり適切じゃない」
カウンターの奥から牧に指摘されて朔太郎は口を尖らせる。
「そんなことないじゃん。俺、自分の名前のことでクヨクヨする気持ち分かってくれるの牧さんだけだし共感してもらったら元気になるし。癒やしあってるでしょ。牧さんは違うの?俺だけが癒やされてんの?牧さんのことコイツに紹介しようとしたら自然と導入部分がこうなったんだよ。先週俺の名前を自分からコイツに教えたんだけど。そんなことするの初めてだったし、久しぶりにいろいろ揺れてんの」
朔太郎が噛み付くように言うと牧は苦笑した。そして朔太郎の前に白湯の入ったマグカップを置く。
「ごめんごめん。君だけだよ。僕の名前についての複雑な気持ちを理解してくれるのは」
牧の優しい声を聞いて朔太郎は口角を上げた。佐倉の前で子どもみたいに牧に甘えることで、朔太郎は佐倉にもまた甘えているんだという深層心理には同時に気付いている。
朔太郎は普段からバイトの休憩時間に牧のいる1階に降りてきて珈琲の香を楽しみながら白湯を飲む。
ディープな相談電話を受けてエネルギーを消耗した時はスイーツを食べさせて貰ったりもする。口数の少ない牧は朴訥とした誠実な人柄で、朔太郎が甘えられる数人の大人の一人だった。
名前コンプレックスはささやかなことで、小さなことだからこそ誰にでも言えることではなかった。場合によってはそんなくだらないことで傷付いてるなんて馬鹿らしいと笑われて二重に傷付いたりして。
与えてもらった名前に違和感を感じることの罪悪感って何なんだろう。
朔太郎の場合は古めかしい名前だとイジられた痛みよりは、古風な名前ゆえに目を付けられて年上男児から執着された時の心理的な恐怖が痛みになっていた。
あとは性別を固定する名前への抵抗感だったかもしれない。
ニュートラルな名前を持つ同級生が真底羨ましいという気持ちを持つ自分を小学校の低学年の時には自覚していたと思う。
ユウキやナツキ、ヒビキ。佐倉兄弟の名前みたいにレイとかルイとか。
中性的な名前への憧れは常にあった。
朔太郎は自分の男の身体に違和感はないけれど、メンタリティの部分で男要素が少ないのかもしれない。
性的マイノリティへの気付きって、もしかして自分の名前を受け入れられるかどうかというところから始まったりするのだろうか?
「牧さんは名字が三木さんなんだ」
牧が2階の事務所のスタッフのためにデミタスのカップを5つ載せたお盆を持ってカウンターを出たのを目で追いながら、朔太郎は隣の佐倉の珈琲に顔を近付けた。
「あ〜いい香り」
そう朔太郎が言うと佐倉が「飲むなよ」と応えて朔太郎のおでこに手をやって押し返す。朔太郎が珈琲を一口でも飲めば目眩に襲われることを知っているからだ。
「牧さんって名字なんだと思ってた」
佐倉が黒板に目をやって呟く。そこには“牧のオススメ”とか“牧’Sスペシャル”と珈琲の名前の上に書かれていた。
「ここではマキさんって愛称で呼ばれてるけど、牧って書いてツカサって言うんだ本名は」
朔太郎は白湯の入ったマグで両手を温める。
「でも普通読めないじゃん?だから面白可笑しくミキマキって呼ばれる運命なワケ。ミキマキって双子の女子みたいで可愛いよな」
朔太郎が笑いかけると佐倉も少しだけ微笑んだ。
「俺が瀧廉太郎って呼ばれる運命と同じ。牧さんも俺も親に対して素朴な疑問持っちゃうよね。そんな名前授けても将来イジられずに生きる息子を想定してました?って。でも名前には悪意なんかひとかけらもなくて愛が込められてるんだよなぁ」
朔太郎はここまで一息で言ってから白湯を口に含んだ。
「朔太郎って呼ばれたくないからサクって呼んでほしいって牧さんに言ったときにすっごく寄り添ってもらえてさ。なんか息がしやすくなった瞬間を覚えてる。牧さんが女子みたいに呼ばれるのが負担だった気持ちとは、俺の場合は真逆だったんだけど」
朔太郎はこれ以上は詳しくは語らずにいた。
今日は休憩時間を長めに取っていいとスタッフの遥樹から言われていたから心のおもむくままに話ができるのが朔太郎にとって有り難い一日だった。
牧が戻ってきてカウンターの奥で焙煎機に触れる。朔太郎の好きな珈琲の香りがまた強くなった。
「ねぇ佐倉聴いてよ。俺の名前のおかげで周りの同級生たちは昭和の前に大正や明治って元号があることを学ぶんだ。年上の奴らがこいつ名前が大正ネームだってからかうからさ。俺何かに貢献できてるよな?」
朔太郎が明るい口調に切り替えて話すと佐倉が小さく笑った。
「俺おまえが笑うとこ見るの好き」
朔太郎が小声で言うと佐倉がふいと目を逸らした。
二人きりでいる時に照れくさくて言えないことは第三者がいるところで言い切ることにしている。
今は牧が二人の前に居る。大人だから聴いていない振りをしてくれている。
安心できる場所がいくつもある自分は恵まれている、と朔太郎は思う。



