借りたシュラフの暖かさに別れを告げて、朔太郎は夜明け前の冷ややかな空気を纏う。
デジタル時計もスマホの時間も確認していないけれど5時前頃だろうと見当がついた。馴染みのある静けさと、暁に向かう空気の揺れ。
朔太郎は音をたてずに隣のベッドの中を覗きこんで腕を差し入れた。
(モカごめんな。次は俺の番)
そう心の中で雉虎柄の仔猫に呼び掛け、そっと丸まった温もりを抱き上げる。
モカを今まで自分が入っていたシュラフの上に置いてタオルケットで優しく包むと、モカがするっとシュラフの奥に潜りこんだ。尻尾だけが見えているのが可笑しくて朔太郎は笑ってしまう。
そんな笑みを残したまま、朔太郎はモカがさっきまでいた場所に自分を滑り込ませる。
最初からそこに居たような、そんな自然な仕草だと我ながら感心した。
躊躇も煩悶もないのが清々しいくらい。
眠っている佐倉を起こさないように、触れるか触れないかぎりぎりのところで。
隣で眠る相手の熱を手に入れた10分。
朔太郎はまたすぐにそっとベッドを離れた。
佐倉の寝顔を見たかったけど。今は壁を向いて寝ているから頬骨のあたりのラインが晒されていて。
これ。
朝から見て一日始めんの贅沢すぎねぇ?
世の中の恋人たち。
朝から心臓どうなってんの。
一日保つの?
朔太郎はあれこれ疑問を巡らせながら眠ったままの仔猫をキャリーバッグに移した。佐倉に借りたシュラフを畳んでローテーブルの上に置く。朔太郎は足音をたてずに佐倉の部屋を出て階段を降りていった。
家出はたったの10時間。
静かに玄関の扉を開け、パーカーのフードをかぶって朔太郎は淡い小さな照明だけが灯った家に向かってささやくように言った。
「お邪魔しました」
始発電車がもうすぐ来る駅へ向かって歩きながら薄ピンクに染まる東の空を見上げ、朔太郎はこの10時間を温かく反芻していた。
一学年下の片想いの相手に想いは既に伝えてある。そしてそれが単なる友愛ではないことは、普段の会話に自分のSOGIがマイノリティだということを溶け込ませて伝えているから賢い佐倉なら理解しているはずだ。
その上で朔太郎が「前向きに家出してくる」宣言をして佐倉の部屋に押しかけることを受け入れてくれたのだから、好意を寄せられている現状を不快には思っていないのだと解釈している。
―嫌いじゃないよ、残念ながら。
佐倉は先月そう言ってくれたし。
残念ながらって付け足すのマジむかつくんだけど。
この初前向き家出で朔太郎は佐倉だけではなく琉伊とも話した。佐倉の兄。年子だけれど同じ学年の兄弟。
佐倉はレイで兄の方がルイ。
名前似すぎ。ややこしすぎるだろ。
顔は似ていない。雰囲気は似ている時がある。佐倉は超無愛想で冷静。兄の琉伊は超社交的で陽気。
初対面の時はそれぞれの極端さに面食らった朔太郎だったが、この二人と交流していくと相手がこちらに気を許せば許すほどに二人が入れ替わっていくような錯覚に陥ることがある。外では見せていない面をそれぞれ持ち合わせていて、それが兄弟で鏡みたいになっているような気もする。
朔太郎の第六感が二人のグレーゾーンを感知して人間の奥深さを面白がっている日々。
昨晩は夜の八時過ぎにモカを佐倉の部屋にぶっ込んでから同じ二階の角部屋をノックしたのだった。
この押しかけ女房ならぬ押しかけ彼氏状態を兄の琉伊はどう感じてるのかを知りたかったから最初が肝心だと思った。家族を嫌な気持ちにはさせたくない。
いや、押しかけてるけど彼氏じゃないよな。押しかけ彼氏候補?いやいや、候補でもないか。立候補者?いやいやいや。
超低レベルな煩悶をしていると琉伊が扉を開けて笑顔を見せてくれた。
「お、来たね」
琉伊がそう言ってくれたことで佐倉が朔太郎の泊まりを予め伝えておいてくれたのだと知った。
「10分ほど喋っていい?」
朔太郎が尋ねると「もちろん。1時間でも2時間でも」と返ってきて一安心した。
琉伊の部屋の中に初めて足を踏み入れ、エレキギターやベースなどの楽器が壁に掛けられているのを見た。床には見慣れない装置やコード。これがアンプとかシールドとかってヤツなんだろうか。先に覗いた佐倉の部屋との大きな相違が興味深かった。
「あいつ瀧くんのこと名前で呼ぶの照れくさいみたいだよ」
そう言って琉伊は笑いながら机の前の椅子を朔太郎に勧め、自分はベッドの端に腰掛けた。
「え?なんて呼んでた?先輩?あいつが押しかけてきやがる…とか?」
朔太郎は前のめりになって慌てて尋ねた。座った椅子が高くて浅く座らないと足が床に着かない事実に内心傷付いたが、もうどうでもよくなる。
「ソラアヲの住人が一日我が家の住人になるって」
琉伊が優しく言ったので朔太郎は脱力した。
「なんだそれ…。でもなんか嬉しい」
朔太郎はホッとして琉伊に聴きたいことをすぐに尋ねることができた。
「俺の押しかけ愛。兄として琉伊はどう思う?」
「やっぱり愛だったんだ?」
「どうもそうらしい」
「初めて俺と喋ったとき、あいつとデートしたいって言ってたもんね」
「それはおまえが!先にデートしようだなんて気恥ずかしいワードを普通にぶち込んできたからだろ」
畳みかけるように言うとにこやかに笑っていた琉伊が真面目な顔をした。普段学校では軽い口調で軟派な印象を受ける佐倉の兄は、自宅で会うと軽さが消えて穏やかに笑っているのが通常モードだ。さらに時間を積み重ねると無口になっていく。
本当にこの兄弟は謎すぎる。たぶん素をさらしてくれている結果なんだろうけど。
「玲伊が体育祭で応援団に入った理由、あいつから聴いた?」
そう琉伊から聞かれて朔太郎は面食らった。
うわ。知りたかったやつ。佐倉に尋ねたけど答えてもらえなかったやつだ。
「聞いてない。聴いたけどはぐらかされちゃった」
佐倉が応援団に入っていなかったら、今みたいに普段から話できる間柄にはなれなかっただろう。
体育祭。
佐倉と一緒の応援団で俺の人生変わっちゃった。もちろん、アオハルまっしぐらの方面に。俺にとっては大事なきっかけだったイベントとしては重要で。
「玲伊と同じ高校に受かったときに4月の誕生日のプレゼントにリクエストしたんだ。一緒に高校生活満喫しようって。だってあいつほっておいたら勉強だけしかしないと思ったし。いろいろ体験してもっと柔軟になってもらいたかったんだ」
訥々と話す琉伊の言葉を聞いて朔太郎は驚いた。
そういうことだったんだ。
えええ。俺の人生。自分で掴む以前にいろんな恩恵があって今があるのか。靴紐を結びなおしたタイミングであいつの本領発揮の笑顔を見ることができたことといい、同じ団員になれたことといい、いろいろ。
神様的な何かの恩恵が繋がって目の前に差し出されたってことなのだとしたら、もう掴んでるこれを手放したくはない。
「佐倉が応援団を志願してくれてよかった。俺が背伸びして先にこの高校に入ってて良かった。普段笑わない佐倉の笑ってる顔、俺だけが目の当たりにできてよかった。あんな顔、他のやつには見せたくねぇもん」
朔太郎が本音を吐露すると玲伊が少し頬を緩めて笑って言った。
「うまくいけばいいと思う」
「うまくいく予感がしない」
「でも押しかけてしまうんだね?」
「そう。見通しのなさが半端ない」
朔太郎が心底心細いといった表情で打ち明けると、琉伊が声を出して明るく笑った。
❍ ❍ ❍
11月は霜月と言われるだけあって、肌寒い空気が登校したての生徒の周りに纏わりついて朝一番の教室がひんやりしている。
朔太郎たちのいる2年生の教室は校舎の2階にあり、窓側の席からは校庭の大きな楠が見える。夏の終わりに緑色をしていた小さな実も今は紫色や黒色に変化してきた。朔太郎の目に映る楠は緑の葉を持ったままなのに、そんな小さな実の色の変化を散らして秋を体現しているようだ。
「なぁサク」
1年以来クラスメイトの永田綾大が朔太郎の席の前に来て椅子にまたがり、真面目な顔を向けてきた。
「仲川先輩から返事ないまま五か月目に突入しちゃったんだけど。これ脈無しだと思う?」
6月の体育祭のときに一学年上で同じ応援団で活躍していた女生徒の名前を綾大が挙げる。告白したことは綾大から聴いていた。春は委員長をしていたはずだが今はどうだか分からない。なにせハキハキした、ボブの似合う魅力的な3年生だった。
「綾大。ネガティブ・ケイパビリティを鍛えろ」
「ん?なんて?」
「答えの出ない事態に耐える力のことだよ」
「え?耐えろっての?」
「そう。解決を急ぐな。宙ぶらりんの状態のままでどれくらい耐えられるか男を試されてんだよ。いやこれは性別関係なく大切な力みたいだけど」
朔太郎はアルバイト先でベテランの先輩たちから言われた言葉をそっと伝えた。
「ムリー。きついわ」
そう言って綾大は頭を下げて椅子を抱え込む。
朔太郎自身が今まさに宙ぶらりんであることや綾大と同じ切なさを抱えていることを、ここで話せたらどれだけいいだろう。
「なんかさ。そんな参ってる顔の綾大がカッコいいなって思う。いい加減な気持ちじゃないじゃん。振り向いてほしいって心が本物だって伝わってくる」
「え?ほんと?」
綾大が顔を上げた。短く切った髪と秋を迎えても日焼けしたままの肌をした綾大は朔太郎より背も高く、見た目も中身も体育会系で普段は堂々としている。それなのに何故か今日は寄る辺なさそうな表情をして朔太郎を上目遣いで見上げた。
「うん。これは相手のある話だからうまくいくかどうかは分からないけど。綾大が仲川先輩が好きだって気持ちがおまえの人間性をどっしりさせてる印象を受ける」
「マジか」
「マジよ」
綾大と自分の顔の距離が近付いて、少しギラついた綾大の瞳が野性味溢れて見えた。
朔太郎はそれを見て想う。
自分の瞳もあいつを求めてギラついているんだろうか。悪い意味じゃなくて。
自分はどうもメタファーで表現するなら狩られたい側なんだけど。
朔太郎は体育祭前の合宿練習の夜に悪夢にうなされた佐倉に強く抱きしめられた時のことを何度も想い返してしまう。
相手はそのことを知らないし(朔太郎が何度も「大丈夫」と囁いた声は覚えてると聞いたけれど)、ましてや佐倉の爪痕の傷が消えたのを名残惜しんだ朔太郎のちょっとM的気質は予想もしてないだろうと思う。
狩られたいという気持ちはどこまでが健全で、どこから倒錯的なんだ?
これはやはりM気質?
こんな風に煩悶していても好きだと思う相手に1ミリバールの影響さえも与えないので自分で狩りに行くしかないだろ。
「あれ?おまえも同じだったりする?」
朔太郎が心を飛ばしていると顔が目の前にある綾大が揺らぎない視線で朔太郎を見たまま問うてきた。
「さっきサクが言ってくれたやつ。答えが出てない状況で耐えてるって話」
綾大にそう言われて朔太郎は慌てた。
こいつ。成長してやがる。
いつも自分のことばかりだったのに。
「えぇっと…」
朔太郎は瞬時に思考を巡らせた。
「SHRまでの短い時間でどこまで話せるか自信ない…ってのが建前。まだ言う準備が俺にないってのが本音」
朔太郎は机に頬杖をついて目を閉じ、自分の内側に降りていくような感覚を一瞬で捉えてから目を開けた。
「しかし今の綾大になら言ってしまってもいいかもしんないと喋りながら今感じてる。いや“しかし”だなんて古風な接続詞を初めて使ったな俺。もとい。夏までの軽い感じのおまえだったらこんな風には思えないけど。あ、“もとい”も古風?」
「ひっど。でもって今日も全方位に会話が炸裂してる。それで?」
綾大が傷付いた顔をして、笑って、それから真面目な顔に戻った。
あ、やっぱりこいつ大人になってる。
愛は人をここまで成長させるんだ?
「端的に詩的に言うと。俺は今、狩りをしている」
朔太郎は頬杖をやめて椅子に背中を預けて腕組みをしてこう言うと、綾大は笑わずに「うん」と頷いた。
「でも本当は俺、狩られたい。その相手から。俺のメンタリティはどうもそうらしい。おまえや多くの男みたいには雄じゃない。今言えるのはこれだけ。あ。でも話しちゃった。言えない話だと思ったのに。なんだかおまえ大人になったなと思ったら言葉がこぼれちゃったじゃん」
朔太郎がそう言うと、綾大も椅子の背もたれに乗せていた両腕をほどいて短い髪をわしわし掻き混ぜてから返事した。
「あのさサク。おまえ詩人みたいにオブラートに包んでポエティックに表現したんだろうけどさ。なんかたぶんだけどわかったかもしれない」
チャイムが鳴ってSHRの時間になり、廊下にいた生徒たちが教室に入ってきて周りがざわつく。綾大は席を立って朔太郎を見下ろしながら小声で言った。
「サクの顔は綺麗だなって思う。あとさ。心もな。心も綺麗で性格も変わってて面白い。おまえが狩りたい相手もそう思ってくれたらいいな」
担任が慌ただしく教室に入ってきて「席につけよ~」と綾大に言う。綾大は振り返って「は~い」と返事して、もう一度朔太郎を見て力強く頷いてから席に戻っていった。
今、綾大から大切な言葉を手渡された気がする。
温かくて勇気づけられる言葉。
朔太郎の小柄な体は気温が下がる秋になると手先が冷え、身長さえ縮んだような気がしてしまうくらいこわばってしまうことがある。そんなふうに小さく、硬くなった体を内側から温めて心を膨らませてくれるようなぬくもり。
朔太郎はたまらなくなり、担任が教壇で喋っているのにガタンと音を立てて立ち上がってしまった。
廊下側の前から2番目の席に座っている綾大の頭を見て、朔太郎は大きな声を出した。
「湯たんぽみたい。おまえ男前。綾大ありがとう」
朔太郎がそう言うと綾大が振り返って笑い、担任も笑った。
「いや、そう言える瀧も男前だよ」
担任は30代の陽気な国語教師で桜井という名前だ。一部の女子からサクちゃんと呼ばれている。朔太郎も幼い頃そう呼ばれていたのもあって勝手に親近感を持っていた。桜井の言葉で教室に笑い声が広がった。朔太郎は「あざす」と言いながら後ろから2番目の席に座ったが、すぐにまた立ち上がったのでクラスメイトが笑った。
「桜井センセ。俺、心がざらついてる。言い直していいですか?」
朔太郎が立ったまま挙手すると桜井が笑顔で頷いた。
「アンコンシャスバイアス。気を付けてんのに無意識にやっちゃった。世の中の女性に謝んないと。男前って言葉ダメだったよね。だから言い直します」
朔太郎はこちらを振り向いていた綾大をもう一度見て、また大きな声で言った。
「綾大。おまえ、いい男」
「瀧。おまえもいい男だよ」
桜井も苦笑しながら言い直してくれる。朔太郎は席に座って担任に微笑みを向けた。
「ソラノアオヲで働いてるだけある。瀧はしっかりしてる。ありがとう」
桜井はSHRの時間が終わったことを時計を見て理解したようだが言葉を続けた。
「うちの学校がアルバイト許可してる方針で良かったと僕は思う。今日は僕もその恩恵にあずかれた」
一時間目の理科の先生が教室に入ってきたので、担任の桜井は手を上げて挨拶しながら皆から提出されたプリントをかき集めて教室を出ていこうとして振り返った。
「瀧は喋ってると頭いいよなって思うんだよ。なんで成績は優れないんだ?」
桜井は首を傾げて不思議そうに言う。理科の先生も笑いながら頷いている。
「ほっといてください」
朔太郎が微笑みを消して仏頂面になって応じると、クラスの皆が大きな声で笑った。



