ソラアヲで受ける研修が面白い。
 学んだことが一つ一つ朔太郎の血肉になっていくように感じる。
 朔太郎が動画研修を見た後も熱心に資料にマーカーでラインをひいていたり、関連する書籍をソラアヲの本棚から手に取って立ちながら読んでいると時間があっという間に過ぎてしまう。
 そんな姿を伯母の晶子が見て「大学は福祉か心理を専攻してソラアヲに定住しろ」と言ってくるようになった。
 ダンスと福祉は共存する。
 …って俺が言ったんだっけ?


 朔太郎がソラアヲの浅煎り珈琲で二度目の目眩を喰らった後、ソラアヲのカウンターの黒板には牧さんの字で「サクタ飲むべからず」とチョークで書かれてしまった。
 二日後の金曜日、白字の文字を横目で睨みながら朔太郎は2階事務所への階段を上がって行った。
 今日は相談電話を受ける前に動画研修のレポートを書く必要がある。
 これらの研修復命書の内容が優秀だったら朔太郎のバイト代が上がる可能性があると晶子にも言われていた。
 気合いを入れて取り組まないといけない。


➖️アルコール・薬物依存
✓使用する量、時間がコントロールできない
 朔太郎はノートパソコンのWordに文字を素早く打ち込みながら自分自身と照らし合わせる。
 もちろん酒もドラッグも無縁。
 俺が依存してるのは多分あいつ。
「俺は話したい気持ちがコントロール不可」

✓薬物を使いたいという強い欲求がある
「会いたいという強い欲求がある」

✓「やめよう」「減らそう」と試みても失敗に終わる
「やめようとは試みない…でもこの気持ちをなかったことにしようと試みたら失敗に終わること必至」

 朔太郎はソラアヲの事務所の中で思考を巡らせた。
 佐倉は朔太郎にとっての薬でもあり毒でもあるという事実の再確認。傷付いたり困難が立ちはだかった時に効く薬だと信じて疑わないあの笑顔。
 あいつの笑顔を見たら俺の病は重症化するだろう。触れたい気持ちも暴走する。
 それでもいい。
 いや。それがいい。

「瀧君ココロの声が漏れてますよ〜。何がそれでもいいの?」
 女性相談員の松本さんが向かいの席から柔らかく声を掛けてくれた。
 ソラアヲの相談員はみんな優しい。
「ん〜と。片想いのこじらせ方について考察してるっていうか。自分は相手を好きでいたいからこじらせたっていいやって考えてたとこなんで」
 朔太郎は正直に言葉にした。
「あらいいわね。おもいきりこじらせなさいよ」
 もう一人の相談員、川畑さんがノートから顔を上げて笑いながら言う。
 朔太郎は「そうしま〜す」と二人に笑顔を向けた。朔太郎の母や祖母くらいの年齢の相談員たちから温かく接してもらって、朔太郎はバイト先でいつもエネルギーをもらっていた。
「次にココロンの方に電話かかってきたら俺出るね」
 レポートの続きに戻った朔太郎が言うと松本さんが「そうそう」と言葉をつなげる。
「今日は珍しくココロン回線の方2回無言で切れちゃったのよ。女性相談回線の方はそんなことないんだけど」
「相談に迷いがあるのかしらね?相談員の声を聞いて選んでる場合もあるしねぇ」
 二人がそう言ったタイミングでココロつなぐラインに電話がかかってきたので朔太郎がワンコールで出た。
「はい、ソラノアオヲです。心つないでます」
 朔太郎が低く、誠実な声で応じるのを女性相談員が見守っている。いつも朔太郎が電話に最初に出るタイミングで、右手をそっと左胸に当てる仕草をするのをソラアヲのスタッフは皆知っていた。ある相談員からその瞬間を見るのが好きだと言われた時に気付かれていたのかと照れくさかったが、朔太郎は常にそうしている。
 朔太郎の儀式みたいなもの。
 左胸の下に心臓があるかと思ってたのに体の真ん中だったなんて。
 今日は初めて右手をそっと鳩尾(みぞおち)に当てた。

「はい…相談回線に切り替えます。お待ち下さい」
 朔太郎は受話器を置いて立ち上がり、右の相談ブースに向かいながら相談員二人に声を掛けた。
「ピョンさんバタさん。俺、初めての男性相談だよ。行ってきます」
 松本さんたちが「いってらっしゃい」と言ってにこやかに手を振ってくれた。

「お待たせしました」
 朔太郎は可能な限り、低くて大人びた声を出す。相手に安心してもらえるように。

―あの…。僕のおばがここに電話したことがあるんです。ソラノアオヲで話を聴いてもらって前向きに生きられるようになったって言ってて。
「…そうですか。それを聞けて嬉しいです」
―彼女の話を聴いてくれたのはあなたじゃないんですか。若い男性の声だったって聞いたから。
「僕かどうかはわかりません。男性スタッフだったらもう一人いますし」
―その人が一緒に泣いてくれたって。おばがそう言ってました。一年半前の桜の季節に。

 朔太郎は鼓動が速まるのを感じた。
 最初はまさかと思ったけれど、今は確信に変わる。
 これは佐倉か琉伊か、どちらかの声だ。

「それは…僕ですね」
 朔太郎はゆっくりと吐息まじりに答えた。
―それから3月にも。ミモザの花を心で受け取ったって。
「……」
 あぁ、あの女性だ。
 朔太郎はすぐに思い出した。
 ミモザの君と心で呼んでいた女性が佐倉たちのおばだったのか。
 おばってあの叔母さんなんだろうか。5歳の佐倉の前で倒れていたという、あの人?

 生きていてくれたんだ。

 朔太郎は知らず知らず目を閉じて、また鳩尾に手をそっと当てていた。
 佐倉の兄の琉伊から二人の叔母が刺された話を聞いた後、その続きを聞けずにいたのはあまりにプライベートな話題でもあったし怖くもあったから。
 佐倉たちの叔母が亡くなっているかもしれないことを考え、密かに一人で胸を痛めたりしていた朔太郎だった。


―僕のおばは昔とても傷付いた体験があるから時々生きづらくなるようなんだけど、そんな時にソラノアオヲの人に救ってもらったって。それを聞いてたから。前からソラノアオヲという場所が気になってた。
「……」
―あと、その電話相談を受けてくれた人のことも。誰だろうって。
 そこまで聞くと朔太郎は目を開け、凜とした声で尋ねた。

「じゃあ、その気になってた俺を登山用リュックに入れて山に連れていってくれる?」

 インカムマイクのヘッドフォンから相手の声が二日前の潮騒のように響いてきた。

―リュックに入れる約束はできないけど。雪の溶けた夏山だったら。あんたでも行けるんじゃない?

 電話口の声が少し明るさを纏い、ゆっくり揺れながら心の柔らかい部分に届いたのを朔太郎は感じた。
「夏休みにパリに行くんだ。帰国したら連れてって。エッフェル塔を階段で登って脚を鍛えとくから」
―そんだけじゃぜんぜん足んない。
「アップロックっていうダンスのステップ。スクワットなみに体力付くからそれで鍛えとく」
―ねぇ。
「うん」
―俺の怖い夢のこと。知ってんだろ?今は大丈夫になってる。
「え?そうなの?」
―怖い場面は今も出てくるんだけど。「大丈夫だから安心してていい」って声が必ず聞こえてくるようになったから。
「・・・・・・」
―だから。感謝してる。顔見て上手く話せないから。今日はそんな悩み相談。切るね。
 

 朔太郎が相談ブースから出ていくと、相談員の松本さんが遥樹を連れてきていた。
 遥樹が朔太郎を見てから事務所奥の扉を開け、首だけ入れて大きな声で言う。
「ちょっと社長〜。またサクタが泣いてる。今度は大粒の涙!」

 朔太郎の体の中には豊かな海があるみたいだ。温かくて滋養に満ちた海水。

 「涙手当て加算するか〜」
 ソラアヲの事務所に晶子の声が明るく響いた。


❍ ❍ ❍


 朔太郎がこの女性の相談電話を取った時、前にも聴いた声だと気付いたことを今でも覚えている。

 とても落ち着いていて賢そうな女性だと感じつつ、女性にしてはやや低めの中性的な声だから朔太郎もなんだか気を緩めて普段の声で喋ってしまったというシチュエーションが前にもあったから。


➖️どいつもこいつも私が好きになる男はろくでもないのばっかり。女友だちには恵まれてると思うわ。一緒にいて互いを思いやれるもの。ほんと男前なやつばっかなのよ。
 あ、いけない。男前って性差別的な発言よね?

「女前って言葉、これから流行らせますか?」

➖️ふふふ、ごめんなさい。
 あなたの声を聞いて歳下だって分かっちゃうから気を抜いて暴走しちゃう。甥っ子たちと喋ってるときと同じね。

「前にも甥っ子さんと喋ってる気分を味わったって言われたことがあります」

➖️そうなの?素敵ね。一人で子育てしてると時々キツくなるのよ。息子は小学生だけど既に思春期みたいで冷たいし。でも甥たちは優しいわ。あの子たちと話してると、生きてて良かったって心から思う。これ本当よ。おおげさじゃなくて。

「生きていて良かったって気持ちは、青空を見上げている時の気持ちに似てますね」

➖️青空?
 あぁ胸が広がって呼吸が深まって嬉しくてって感じかしら。うん確かにそう。いつもそんな風に青空を見上げるように生きていたいんだけどなぁ。私は好きになる相手ができるとどうもダメね。

「好きな相手ができると、青空を見上げられなくなる?」

➖️そう。相手のことしか見えなくなって雁字搦めになっていく。

「絡めとられちゃうんですか」

➖️うん。おまえはおかしい。常識がない。おまえが俺を怒らせるんだって言われ続けると私が悪いのかな、おかしいのかなって思ってしまう。

「あなたはおかしくなんかないですよ」

➖️そう、普段はそう思えているし私は私を好きでいられるんだけど交際相手ができるとダメになっちゃうの。だんだん孤立してしまう。女友だちとも距離を取ってしまう。おまえに味方なんか一人もいないって言われると、本当にそうなのかなって思ってしまったりもする。

「好きな人と一緒にいるのに、苦しい?」

➖️うん、そう。苦しいわね。どうしようっていつも分からなくなっちゃう。

「今、僕の目の前にミモザの花があるんです。小さな花瓶に入ってる。僕はそれを手渡したい気持ちです。あなたには味方がたくさんいるはずです」

➖️ミモザ?黄色い花ね?私にくれるのね。ありがとう。心で、今、受け取るわ。

「じゃあ次に苦しくなっても、この花を思い出してくれますか?」

➖️はい、そうします。あと青空もね。辛くなったら空を見上げるようにするわ。今回も本当にありがとう。いつかあなたに、直接御礼が言えたらいいのだけど。…さよなら。


❍ ❍ ❍


 いつもだったらとっくに自宅に戻っている時間帯に朔太郎は電車に乗り、既に夏に三回訪問したことのある白い家まで来た。
 9月末の金曜日のこの時間はさすがに陽が落ちて暗くなり、チャイムを押す指にも勇気がいった。
 今までは琉伊から保護者のいない時間帯に招待されていたのに、今日はアポ無し突撃訪問だから。
 夕食時間帯の訪問は非常識になるのだろう。でも、朔太郎自身が非常事態なのだから仕方がない。

 救命救急と同じ。1分1秒を争う。
 この制御できない鼓動をどうしてくれよう。


 インターフォンで二人の母親だと思われる女性の声で応答があった。
 朔太郎は琉伊と玲伊と同じ高校の生徒であること、10分程度で良いので弟の玲伊とやりとりをしたい旨を落ち着いた声で伝えた。こんな時間帯まで制服でいるのは高校生活では初めてだった。
 いつもすぐにTシャツとハーフパンツになって、勉強もせずにダンスに明け暮れている朔太郎にとっては。 

 佐倉が玄関から出てきて朔太郎の顔をしばらく黙って見てから、ガレージの端に誘導する。
 車が停まっていないスペースは照明が届かず、薄暗がりの空間だから朔太郎はほっとした。
 赤くなった目を晒すのは勇気がさらに必要だったから。
「急に来てごめん。佐倉とLINE繋げたくて来た。琉伊を通してやり取りするんじゃ俺が()たなくなった」
 朔太郎は誠実に、今の自分の状況を相手に差し出す。
「俺からメッセージは送らないようにするから。連絡くれた時だけ返事する。繋がってるってだけで安心するんだ」
 それは本当のことで。
 声を聴きたいと思う。
 でも、大丈夫。
 いつでもどこでも発作的に相手を求めてしまうのは苦しいものだけれど。連絡をしようとさえ思えばアプローチできるという手段を持っていればそれを御守りにして待つことができる。これはココロつなぐラインのコンセプトと同じなのかもしれない。
 というか。
 恋人同士でもなんでもなくて、今のこの関係を言葉にもできなくて。
 それでも普通の先輩後輩という関係以上、ではあると思う。好きだとぶっちゃけた同性の俺のことを拒絶してはいない、よな?
 (きら)いじゃないって言ったけど。“じゃない”って言葉、曖昧すぎるんだよなぁ。
 でも、その言葉に救われてもいるんだけどさ。
 今は。
「おまえの家に来てもいい日があったら連絡してほしい。見通しがあったら待てる。そうじゃないと今日みたいに突撃しちゃいそうだから」
「うっわ」
「俺自身うっわって思う。重症化しちゃったじゃん」
 朔太郎は今日はいつも以上に、思っていることを正直に言葉に出せた。ただ、泣いた後の顔だったから今日は時々目線を落としてしまう。
 ガレージの灰色に滲むコンクリートの上の、佐倉の黒い大きなスニーカーと朔太郎の白いスニーカー。
「泣いた?」
 佐倉の声はぶっきらぼうに聞こえて何故か優しい。
「おまえがココロつないだからだろ」
 ココロつなぐライン。馬鹿にすんなよ。全身全霊かけてやってんだからさ。
「顔見て上手く話せないっていう悩みの相談をしたんだよ」
「うん。…電話ありがとう。来ていい日を教えてくれたらモカ連れて家出してくる。話できたらそれでいい。会って声聴きたい。夜明け前にひっそり帰るから」
 朔太郎がそう言うと佐倉は驚いたようだった。
「家出って言った?」
「うん。前向きな家出だぞ」
「家出に前向きと後ろ向きがあんの」
「ある。自分の家が大好きなのに出てくる家出が前向きなやつな。学年違って部活も違って会うことないだろ。話したいこといっぱいあるのに話せなかったら苦しくなっちゃうから。たまには相手して。おまえに好きな相手ができたら諦めるから」
 佐倉はそれ以上は言葉を出さず、デニムのポケットからスマホを出して連絡先を朔太郎に手渡してきた。
 ライラックの花を手渡してきた瞬間を朔太郎はまた反芻してしまった。
 この病はアオハルにとても似つかわしい。
 若くて瑞々しくてちょっぴり胸が苦しくて、甘い。

「つまり。今は諦めないってこと」

 片想いばかりの人生ってのも、悪くないだろ。

「駅まで送ってく」
 佐倉がデニムにスマホを突っ込みながら、朔太郎の肩からリュックを取って自分が持とうとした。夜に制服を着て教科書をたくさん詰め込んだ重いリュックを背負った朔太郎が“ お疲れモード ”に見えたのかもしれない。
 いや、実際かなりエネルギーは消耗したけど。

「だめ!暗がりで襲っちゃうから。おまえが助け呼ぶはめに陥って通行人が驚く」

 朔太郎が咄嗟に断ると佐倉が呆れたように乾いた声で呟いた。

「誰がどう見てもあんたが襲われてるように見えると思うけど」
 
「一人で帰る。おやすみ」
 朔太郎はきっぱりと踵を返して、駅まで振り向かずに走っていった。
 振り返ったらまた引き返して駆け寄ってしまいそうだった。
 この病、恐るべし。



 朔太郎は初めての家出をした。
 前向きな家出。雉虎柄の仔猫をキャリーバッグに入れて。
 季節は秋になっていた。
 夕食と入浴は済ませてある。勉強道具だけリュックに入れた。
 佐倉たちの母親が夜勤で不在だと聞いていても、玄関先では「お邪魔します」と朔太郎は小さな声で挨拶をした。

「“子どもの時期を子どものように成熟させるがいい”ってルソーも言ってる」
 佐倉の部屋で一緒に勉強しながら朔太郎はソラアヲで受けた研修のテキストを引っ張り出してきた。そして自分が大切と思った箇所に引いた緑のマーカー部分を再度目にして頭に浮かんだことを口にせずにいられない。
「うん。あんた大人じゃないよな」
「そう。だから今まさに熟してる」
 佐倉の顔をガン見して真面目に答えたら、佐倉が目をすいと逸らしてモカの行方を探して身体の向きも変えてしまった。まぁいいや。
 そんなわけで。
 熟している気持ちも含めてゆっくりと扱っていったらいいよな?
 今なんか口にして自分でエロかった…とも思わないでもないけど。
「大人だったら我慢しちゃってたと思う。こんなふうに素直には言えないと思う。恥ずかしいとか世間体が悪いとか考えちゃってさ。でも俺はまだ大人になりきってないから好奇心のままに動いてる。モカと同じ。俺を猫だと思ってほしい」
 佐倉はローテーブル前で胡座の上に乗せたモカを見て、それから向かいにいる朔太郎を見た。
「それから。人権思想は俺みたいなマイノリティの立場の確保を目的としてるらしい」
「…なんでそんなに嬉しそうなの?」
「マジョリティから獲得した譲歩じゃないんだって。俺だって排除されたくねぇもん」
「福祉の研修受けすぎ。進路もそっち系?」
 こんな風に言葉のやり取りを楽しみながら、今は心を繋げていこうって思える自分の前向きさが嬉しい。

 暁ごとに重っていく時間の波間を、今はゆっくりとくぐっていこう。
 時には大きな困難が立ちはだかってくるかもしれない。
 今は迷いなく突き進んでいるこの恋心を、自分自身が受け入れなくなる時期も出てくるかもしれない。

 それでもいいから。
 試行錯誤でもいいから。

 今はこの恋心をなかったことにはしたくないんだ。