雉虎の仔猫をキャリーバッグに入れて佐倉の家に向かったのは朔太郎が一年で一番好きな季節、真夏の夕方だった。
 白色クルーネックシャツにグレーの細身のスウェットパンツを合わせて入道雲を見上げながら歩く。これは妹が自分用に買ったものの朔太郎が着た方が似合うというのでもらったもの。
 この格好だといつでも踊れる。強い陽射しの中を黒いキャップをかぶって軽快に歩いた。
 スタバの前で大学生風の二人の男からすれ違いざまに声を掛けられたが今日は立ち止まらない。
 女子に間違えられることは時折あるので慣れている。普段はキャップを取って威嚇ポーズをキメることもあるけれど、優しい気持ちでいられる今日はナンパの声掛けさえ自分へのエールのように感じる。
 信号待ちでは、ついステップを踏んでしまう。
 トップロック。
 それからアップロック。

 バッグが揺れてモカがミャオと鳴いた。


 朔太郎は琉伊に教えてもらった住所を頼りに4駅の区間を久しぶりに電車で揺られた。モカは人生初、いや猫生初の電車。車両では鳴かないでいてくれて助かった。
 駅から歩いてすぐの佐倉の家に辿り着き、門をくぐる。琉伊からは父は単身赴任、母は仕事で不在と聞いていたから気楽に訪問できた。佐倉の家族に猫アレルギーがないことは確認済みだし、モカは瀧家の先住猫のペルシャMIXのジュジュと違って毛が抜けないので迷惑はあまりかけないでいられる、と思う。
(カーテンに登ったりソファに噛みついたりしたらゲームオーバーか…)
 なんのゲームかは分からないけど、朔太郎は今かなりわくわくしている。


 朔太郎を笑顔で招き入れてくれたのは兄の琉伊だったが、リビングには佐倉も居た。
 黒いTシャツにゆったりしたデニム。相変わらず佐倉は琉伊と違って愛想は無いけれど、ラフな服装で自分の家にいるからか普段学校で見るよりは寛いでいるように感じる。
 キャップを取った朔太郎が、額や首すじに伝う汗をそのままに「よぅ」と佐倉に笑って挨拶するとなぜか眩しそうに目を細めた。
 あ、この顔前も見た。
「夕立ちの中歩いてきたみたいになってる」 
 佐倉はそう言ってから手にしていた雑誌を置いて、足元のリュックからハンドタオルを出して朔太郎に向かって投げてきた。
 朔太郎はとっさに右手で掴んだ青いタオルに、そっと顔を埋めた。


「うっわちっさ」
 モカがキャリーバッグから飛び出してダイニングの琉伊に飛び付いて行ったのを見て、佐倉が叫ぶように言った。
 あまり感情を表さない佐倉の声のトーンが跳ね上がっている。それを耳にするだけで朔太郎は嬉しくなった。佐倉の素に近い部分に、もっとたくさん触れてみたい。

 「お茶ここに置いておく。瀧君、暑くない?エアコンの温度下げる?」

 マディソンブルーのシャツと裾に段差のあるカットオフデニムをスリムに着こなした琉伊が、氷の入ったグラスを二つテーブルに置きながら朔太郎に尋ねてくる。
 琉伊は本当に優しい。
 朔太郎が最初に琉伊に会った時の第一印象は最悪で、軽い奴と思ったのが申し訳ないと後日朔太郎はすぐに反省した。
 話せば軽さは彼なりの社交術であることも分かってきて、人柄や誠実さが態度から滲み出てくるから信頼できる。こいつが佐倉の兄で良かったなと思う。
 あ、そういえば佐倉に対しての第一印象も悪すぎて、俺「消えろ」と毒づいちゃったよな。
 この兄弟と俺の相性は良いんだか悪いんだか疑問。

 モカがダイニングの陰から、今度はロケットダッシュで佐倉に向かってきた。
 佐倉がモカを受け止める瞬間、少し笑顔になったのを朔太郎は確かに捕らえた。
「暑くない。エアコン切ってくれてもいい。夏の暑さをダイレクトに感じるのが好きだ」
 朔太郎が琉伊の思いやりの言葉に返事をすると佐倉がモカを膝に乗せながら言う。
「ほんとあんた変わってる」
 モカを撫でる大きな手から朔太郎は目が離せないまま素直に応じた。
「うん。フツウじゃないかも」
 マイノリティなのは自覚したばかりだ。
「でもさ、寒いより暑い方が良くない?世界が明るく見える夏の陽射しが大好きだ」
「夏生まれかよ」
「ううん。春生まれ。おまえと同じ日な」
 朔太郎が答えると佐倉が目を見開いた。
「なんで知ってんの」
 朔太郎が琉伊を指差して「情報源こいつ」と言うと、琉伊が左手を軽く挙げて佐倉に笑顔を向けた。佐倉が少し拗ねたような顔になる。そういう兄弟のやりとりを身近で見て、朔太郎は予想以上に二人が仲が良いことを知った夕方だった。

「瀧君が言ってたとおりだ。ほんと小さくて可愛いなぁ」
 モカが兄弟に挟まれて覗きこまれているのを見ていると面白い。
「3か月前にうちに来たばかりの時はこんなだった」
 朔太郎はスマホの画面を二人に見せた。モカがまだ握り拳くらいに小さくて、餌入れの皿に入っちゃうくらいだった頃の一枚。
「え〜!猫って3か月でこんなに成長するんだ」
 琉伊が驚く。朔太郎のすぐ横にいる佐倉もスマホの写真と現在のモカを交互に見て唸っていた。
 朔太郎自身も仔猫の成長ぶりを目の当たりにして春は驚いた。先住猫は七ヶ月の時に家に来たので既に大きかった。仔猫を迎え入れたのはモカが初めて。
「俺は春から1㍉も伸びてないのに」
 朔太郎が小さな声で呟くと、右横で空気がわずかに揺れて。
 あ、笑った。
 ゆっくりと朔太郎が佐倉を見上げると、さり気なく反対側に顔を向けられてしまった。それでも朔太郎は佐倉の左頬に微笑みの名残りがあるのを見逃さなかった。

 心がふるえる一瞬だった。


 これは効く。
 朔太郎は来てすぐに佐倉から投げてもらった青色のタオルを頭からかぶってしばらく顔を隠した。
 どんなに悲しいことや苦しいことがあっても、この笑顔を見たら乗り越えられるって本気で思えそう。 
 俺だけの薬。

 俺もあいつの薬になれたらいいんだけど。


❍ ❍ ❍


 朔太郎の夏休みが終わり、休みの日は朝から入っていたソラアヲの電話相談も放課後から夕方までの短時間に戻った。
 週3回。月水は3時間。金曜日だけ19時まで頑張って4時間。1週間10時間でだいたい一ヶ月で4万円。来年の夏休みにパリに行くために百万円の貯金が目標だった。
 オリンピックのブレイキンを間近で観るための費用は一年生の時に半分は達成した。安売りの航空券の往復と滞在費であらかた消えてしまうから、夏休みにプラスアルファで働けると嬉しい。海外に行くのは人生初だし食事代とかの相場が朔太郎には全く分からない。旭陽が映像学部仲間と行く撮影旅行に便乗することになっていて、朔太郎一人での渡航じゃないことが本当に救いだった。
 観戦チケットの先着販売は2月から。
 それまでに出来ることをしておかないと。

 出来ることの一つとして、結陽には「想い人ができたので全力で行く。でも玉砕覚悟」と伝えた。
 結陽の春以降の言葉の端々、態度や表情から自分への好意以上のものをビシバシ感じるようになってきていたから。
 結陽も同性を恋愛対象にできるんだなという確信は今年になってから。
 幼馴染としての好意と恋心のスペクトラムについて、言葉以外のところで繊細にキャッチすることが苦手な人と得意な人がいるとすれば朔太郎は得意な方だと思う。
 七年仲良くしてきた結陽の目の光や自分への触れ方の変化。それを感じとっていたからこそはっきりと伝えておいた方がいいと判断した。
 結陽は兄の旭陽が体育祭で撮った写真を後で見せてもらって予感はあったようだ。
 あの写真には続きがあった。
 背中を向けた佐倉の向かいで花を差し出された朔太郎が驚いている、あの写真の次。
 二枚目は手に持った花を見ながら一人で立っている朔太郎。周りの生徒がグラウンドから走って出ていく素早い動きを捉えたモノクロームの一枚。一人だけ動きのない朔太郎が取り残されている。そこにスポットが当たっているような不思議な写真。たちすくむ朔太郎が何かに心を持っていかれてしまっていることを周囲の人の疾走感が際立たせている。
 そして最後の一枚。
 朔太郎を呼び戻すために引き返してきた佐倉の怒ったような顔が、左向こう上を見上げた横顔の朔太郎の背後に映っている。佐倉の右手が朔太郎のTシャツの左裾を掴んでいて。 
 この三枚の連続した写真は現像して旭陽から手渡しされ、朔太郎の登校カバンに御守りのように入れられている。
 三枚目のこの瞬間、シャツの裾を掴んだ佐倉の手が佐倉によって付けられた爪痕の上に乱暴に重ねられたことを知っているのはもちろん朔太郎だけだし、傷の疼きを喚起されて体温を上げた自分自身をしばらく持て余した記憶も自分だけの秘密だった。
 結陽から尋ねられるままに、この笑わない方の佐倉玲伊とその兄の佐倉琉伊のこと、二人の家にも遊びに行った経緯などは結構正直に話している。自分に恋心を持ってくれている歳下の幼馴染に想い人の話をするのはどうなのかと朔太郎も悩みはしたが、結陽がぐいぐい聞いてくれるので甘えてしまっている。
 その上で結陽が「まだ成就してないってとこがお互いさまだな。これからどうなるかなんて分かんないじゃん。不透明で宙ぶらりんの状況ってのも案外よくね?」と真顔で言ってきたので感心したり呆れたり。
 朔太郎は励まされてるんだか玉砕を祈られてるんだか分からなくて戸惑いもしたが、結陽の”諦めません宣言”に幼馴染の美点をまたまた見出した夏の終わりだった。
 

 9月末の水曜日にソラアヲの2階事務所に顔を出すと従兄弟の遥樹が「勤労学生おつかれ」と片手を挙げて朔太郎をねぎらってくれた。

「サクタ。わこちゃんとこ行く前に今日研修動画一本観といて。おまえには社員なみの研修受けさせろってアッコに言われてるんだからさ。前は何の研修受けた?」

 遥樹が研修一覧を見ながら朔太郎用のノートPCを立ち上げる。アッコというのは遥樹の母の晶子のことだ。朔太郎の前でだけ伯母は遥樹にそう呼ばれていた。
「救命救急研修、実技込み」
 朔太郎が壁側のロッカーからソラアヲ職員のシャツを出して手早く着替えながら答える。今は女性相談員が誰もおらず、相談ブースが二つとも使用中になっていた。2回線ともに電話相談がかかってきているということだ。

「ねぇ遥樹さん知ってた?心臓って身体の中心にあるって」
「え?知らなかったの?」
「うん。研修受けるまで左胸の下に心臓があると思ってた」
 朔太郎はブルーのポロシャツの首すじの3つボタンを1つだけしめてPC前に座った。実技ではAEDに触れるのも初めてだった。

「16年生きてきたけど知らないことはたくさんあるね」
「たった16年じゃん」
 遥樹が朔太郎のおでこをチョンと突付いてから、その指で画面を指差した。
「今日これな。依存症の理解と回復アプローチ」
「ねぇ遥樹さん」
「ん?」
「ココロンで恋愛相談受けることある?」
「あ〜。たまにあるな」
「また休憩時間に相談させてよ。『登山用リュックにあんた入りそう』って言われただけで一ヶ月その場面を反芻してるオレ自身について」
「なんかヤバそうな話だなぁ」
 遥樹がそう言って朔太郎を見て、研修用の資料を机に置いてくれた。
「あと。相談電話出た時に心の病を抱えているのかもなぁって感じる相談者だったら、心を寄せながら耳を傾けているだけでいい?」
「どんな電話だったん?」
 朔太郎が尋ねると遥樹は柔らかく腕組みをして事務所の壁に凭れ、朔太郎の話を促した。
「地球が終末に向かっていてドングリを拾わないと食べる物が無くなる。そんな切迫詰まった思いでドングリ拾ったことあるか?って聞かれた」
「お〜。温かく傾聴な。ドングリだって食べたことあるとかギリ食えるとか、おまえの体験談を話してもいい」
「食べたことないよ」

 朔太郎は少し口を尖らせてからヘッドフォンをつけて研修動画を観る体勢を整えた。
 朔太郎がカバンからノートとペンケースを出していると、事務所から出ていきかけた遥樹が立ち止まって朔太郎のデスクを指差して言った。

「サクタ珈琲飲んでんの?めっずらし」

 そう声を掛けられた朔太郎は視線を画面から外し、マウスの後ろに置いたソラアヲ特製の珈琲カップを見つめた。

「あぁこれ?前飲んで体調悪くなったからさ。飲みたいのずっと我慢してたんだ。牧さんの珈琲すっごく香りいいじゃん?さっきカウンターで浅煎りって黒板に書いてあったから淹れてもらって飲んでんの。珈琲飲むの2回目の初心者」

 朔太郎は残りの半分をそっと一口飲んだ。
「珈琲飲んでると大人になった気分がする。前に深煎りってやつで目眩(めまい)したんだけど、これだったら挑戦できるかなって」
 朔太郎がそう言うと、遥樹が盛大に溜息をついた。
「サクタ。やっぱ16年しか生きてないだけあるな。浅煎りの方が深煎り珈琲よりカフェインは多いの」
「え?ほんと?」
「ほんとなの。残念だったな」
 そう言い残して遥樹は背中を向け、手を振りながら1階へ降りていった。



 それが予想通りやってきたのは、わこに新しいステップを教えている時だった。遠くの方からひたひたと目眩がそっと近付いてきた、という感じ。
 半年前はこの時点で気のせいかな、と思った。だけど朔太郎はその後に倒れた体験があるから今回は予習済みの流れだった。
(ソラアヲの建物の中で良かった)
 朔太郎はゆっくりと窓ガラスに右手をつき、左手で顔を覆いながら俯いた。
 景色が回り始めたので目を開けていられなくなる。閉じた瞼の闇がゆっくりと深く、濃くなっていった。
「サクにぃどうしたの?」
 わこが朔太郎の近くに来て背中に優しく触れてきた。
「わこちゃん俺いま揺れてんの。ちょっと5分くらい横になるけど心配しないで。前にもやってる」
 朔太郎はそっと声を出した。
 そして鳥の羽根が落ちていくようにゆっくりとその場に崩れ落ちた。



  わこを心配させたらダメだ。

 横たわりながらも今回は意識をしっかりと保てている。
 それでも頭の中が揺れに揺れているからわこの声が遠く聴こえる。
 朔太郎は目眩の波のうねりに翻弄されながら精一杯言葉を出した。

「大丈夫。大丈夫だから。安心してていい」

 そう言って朔太郎自身も大波に呑み込まれないように呼吸を深める。

「波の呼吸もやってるから大丈夫。大丈夫だから。わこちゃん安心してて」

 朔太郎は濃い暗闇のうねりを凌ぎながら小さな声で自分に言い聞かせるためにも「大丈夫」という言葉を何度も何度も繰り返す。

 その時、朔太郎の耳にそっと声が届いた。

「あの声はあんただったんだ」

 潮騒のような佐倉の声だった。


 朔太郎は目を閉じたまま佐倉の気配を探った。横たわった朔太郎の左側に、かがみ込んできた佐倉の熱を感じた。
 部活早目に終わったのか。
 通りがかって気付いてくれて建物の中入ってきてくれたのか。
 嬉しすぎるだろ。
 目ぇ開けたいなぁ。
 このぐわんぐわん、早く終わってくんないかな。
 そう思いながら朔太郎はそっと左に顔を寄せる。
 相手の手のひらがあることが肌の感触で分かって。

 朔太郎はうっかりを装ってさらに顔を近付ける。唇がそこに静かに、触れた。
 


―救命救急研修の実技の続きみたいじゃん。あいつ自分が受けたばっかなんだぜ?
―もう!遥樹さん早くってば。
―わこちゃんドングリ拾ってきて。サクタにドングリ食わせとけ。
―遥樹さんバカなの?非常識なの?
―サクタ電話相談受ける時もかなり独特だけどさ。あいつよく泣くし、かと思えば俺より大人な対応してたりさ。さっきも世界の終わりにドングリ食うとか食わねえとかいう話を真面目にしてたワケ。それ食べさせたらアイツの目眩おさまるんじゃない?…あれ?君はサクタの友だち?少し横についててくれるかな。あ、ワンゲル部のシャツ…。君が登山リュックの持ち主なのかなぁ。

 遥樹とわこの声が近付いてきて、また遠ざかっていく。
 遥樹さんフライング。その話しちゃダメじゃん。待って。目眩おさまりそう。
「あと…3分…」
 朔太郎は(かす)れた声を出す。
 嫌だなぁ。佐倉いるのに最初の言葉がこれかよ。インスタントラーメン待ってんじゃないんだから。
 朔太郎は冷静に自分に突っ込みを入れた。



 三分経つと朔太郎は目を閉じたまま、ようやく半身をゆっくり起こすことができた。
「わこちゃん、また珈琲にフラれて倒れちゃった。好きなんだけどなぁ」
 右掌(みぎてのひら)で顔を覆ったまま朔太郎がこう言うと、すぐに佐倉の声が返ってきた。
「女の子いないよ今。珈琲飲んでそうなった?」
 朔太郎は目を開けつつ顔を上げる。目の前に心配そうな顔をした佐倉がいた。
 この表情、意外すぎる。怪我の功名?…違うか。
 もう景色は揺れていない。

「佐倉は珈琲と同じだよ」
 朔太郎は静かな声で言う。
「俺のことを好きじゃなくても、受け入れてくれなくても。俺は好きだ」
 横に座って自分を覗きこんでいる佐倉に、朔太郎はきっぱりと告げた。
「笑った顔がさ。俺には薬になるんだ。でもって毒。死にそうになる」
 厨房から遥樹とわこが出てきたのが見えた。遥樹の手には水の入ったグラスがあった。

「好きじゃないなんて言ってない」
 佐倉が呟くように言ったのが耳に届いて、朔太郎はゆっくりと顔を動かして佐倉の目を見た。
「嫌いじゃないよ。残念ながら」
 佐倉が朔太郎にだけしか聞こえない、小さな声で言う。
 え?
 それ。どういう意味だよ?


「残念ながらは余計だっつーの」
 そう言って朔太郎が拗ねた顔を見せると、佐倉が少しだけ笑った。
 最初に会話した日と同じように。