体育祭が終わり梅雨明けが宣言された夏休み前、学校の広報に一枚の写真が掲載された。
 卒業生からの投稿だと記載されたその写真は体育祭のもので、朔太郎のクラスでも大きく引き伸ばされて教室の後ろに掲示された。
 紫団の応援合戦を写したモノクロームの写真を見て、朔太郎は直ぐに分かった。
 これ、旭陽の写真だ。

 紫団の団員の応援合戦が終わったところ。
 手前に紫団長と副団長が大きく映っている。その二人の隙間からのアングル。
 膝まずいた綾大の斜め後姿の奥にいる、花を受け取る麻美にピントがあっている。その後ろに少しぼかしが入った朔太郎。
 二人の驚いた表情が巧みに切り取られていて写真なのに映像のように動きも感じて一種のドキュメンタリーのようだ。麻美を撮っているように見せて実は朔太郎を撮っていることが自分には分かった。今までたくさん旭陽の白黒写真を見てきたから。
 朔太郎のことを知らない1年生はこの写真の朔太郎を女子だと思った者もいるようで、花を差し出されてびっくりしてる女子二人の顔が可愛い、自然な演技がいいねと話題になっていた。

 いや、演技じゃないし。
 あと、女子でもないし。

 「この仲川先輩のカオすっごくいい。女神。早く麻美ちゃんって呼べるようになりたい。このあと告ったけど保留されてんの。で、おまえの驚き顔もウケる。これ佐倉にポジション替わってもらった俺の功績かな」
 横で喋る綾大には本当は御礼を言いたいのだけど、素直に自分のマイノリティな性指向を親友に打ち明けられるほど朔太郎はまだ大人ではない。

 旭陽は芸術大学の映像学科に籍を置いていて、高校生の時から写真を撮り続けている。
 朔太郎が旭陽の家に遊びに行った時、結陽と二人で6畳の部屋をシェアしながら押入を暗室にしていることを教えてくれた。中学生だった朔太郎は旭陽の話が難しかったけれど、聞いているだけでわくわくしたものだった。そのとき自覚はなかったけれど、憧れだと自分に言い聞かせながら年上の幼馴染に恋心的なものを持っていたから一緒にいられるだけで毎日が楽しかったんだと思う。
 スマホで写真が撮れる時代だけどOLYMPUS -PEN sという重たいカメラにネオパンというフィルムを入れて撮るのが好きだと旭陽が話してくれながら、さっと朔太郎をそのハーフカメラで撮った時の話は今では笑い話だ。
―フォーマットを24✕18㍉にすることで規定枚数の倍撮れるからハーフカメラって言うんだ、映画のシネサイズと同じだぜ。
 そう言われてもよく分からなくて、早くさっき写した写真を見せてよと旭陽の掌の中のカメラを覗き込みながらねだったら大笑いされた。
 フィルムカメラだと現像しないと写真が見られないだなんて知らなかった頃。

 体育祭を旭陽が観に来てくれていたことは、3日後の朝に知った。
 いつものように朝のダンス練習を再開した時に旭陽が笑顔で言ってくれた。
「紫団クオリティ高かったよ。ダンスの演出も良かった。でも…サクのあの顔が一番良かったなぁ」
 そう言って旭陽が声を出して笑い始めたので珍しく結陽が「何の話してんだよ!教えてくれよ」とむくれていたんだった。
「また撮った写真見せるな」
 そう言ってくれてたけれど、これだったのか。



 体育祭が終わってしまうと、帰宅部の朔太郎は1年生との接点がなくなった。
 それでも今の朔太郎は受け身ではいられない。自分が今できることを、する。
 ダンスとソラアヲに注いでいた朔太郎の情熱のようなものは減らさないまま、手に入れたいと思うものへの湧き立つ鼓動に導かれるままに。

 佐倉の兄である琉伊とは、体育祭の時に連絡先を交換して七夕の夕方に会って話をした。
 軽音学部に入ってエレキギターを弾いているという琉伊は月に一回ダンススタジオD(デー)-HERMES(エルメス)の入っている建物の音楽スタジオを借りて練習するという。だから7月のバンド練習が終わった後に時間を作ってもらって一階フロアで待ち合わせた。
 佐倉の個人的な話を尋ねるわけだから人がいないところがいいかと最初は考えたりしたけれど、朔太郎も週に一回は通っている馴染みのある場所のほうが落ち着いて聴けると思った。
 それに人の出入りがある一階は賑やかだから逆に小声で話す二人の声がかき消されていたようだ。

 朔太郎が琉伊に聴きたかったのは、佐倉が悪夢に苦しんでいるのがおそらく日常的に継続されているようだから何か手立てがないかということ。
 佐倉が抱えているものがきっと大きなものだろうから無闇に触れたり暴いたりはしたくないけれど、それでも朔太郎が少しでも肩を貸せるのであれば一緒にその荷を背負って佐倉の心の負担のようなものを軽くしたいのだということ。
 佐倉が悪夢を見ている時に体を傷付けてしまってないか心配なあまりに我が家の猫を連れて佐倉の部屋に夜に忍びこむ妄想をしているということ。
 頼まれてもいないのに何かしたいだなんて余計なお世話だけど。
 それでも、気になる相手がなんか抱えてそうだったら気になりすぎるし放っておけないじゃん。
 
 真面目な顔で聞いていた琉伊は途中で驚いた顔をしたり真剣な表情になったりしたが、朔太郎が妄想の話をしたら急に笑った。

「俺、変なこと言った?」
「玲伊の部屋に猫と忍びこむって瀧くん」

 琉伊が朔太郎のことを名前で呼ぶのを許さなかったことで、ぎりぎり後輩として礼儀を保ちながら親しみを込めた君付けで琉伊は呼ぶようになっていた。
「なんで猫なの?」
「うちの2匹目の仔猫すごく人懐こくてさ。あのコ抱きしめて寝たら力抜けないかなぁって」
 朔太郎が自分の妄想を他人に語るのは珍しいことだった。でも佐倉に向き合うために琉伊に知恵を貸してもらいたかった。
「それにしても合宿の一晩で玲伊の悪夢のこと、よく気付いたね。ずっと続いていることも玲伊が爪で自分の腕とか傷付けちゃうことも。先月は怪我してなかったのにな。…どうして?」
 朔太郎はあの暁方に自分が佐倉に組伏せられた話だけは琉伊にせずにいた。
「今、先月は(・・・)って言った?」
「うん。毎月一回くらい。その一晩だけ怖い夢を見てしまうんだって」

 そのあとに琉伊がゆっくり語った話が衝撃的で、朔太郎は言葉を失ってしまった。

 二人の父方の叔母が赤ん坊を連れて実家に帰ってきている時に5歳の玲伊と6歳の琉伊も両親に連れられて祖父母宅に遊びに行った、そんなある日。
 叔母が夫からのDVで避難していたことは大人だけが知っていた中で、兄の琉伊だけが父と外に遊びに行っていた。その時間帯に妻の実家に押し掛けた夫に玄関先で叔母が刃物で刺され、血の海の中にいる叔母を玲伊が見てしまったのだという。それを目撃した日から、玲伊がその時の夢を見て唸されるようになった。回数は齢を重ねるほどに減っては来たが、今は月の満ち欠けみたいにひとつきに一回くらい。
 そう琉伊が言った時に朔太郎は少し震える声で言ってしまった。
「もうすぐその夜が来てしまうじゃん…」

 その七夕の夜は曇り空を見上げながら幼かった頃の佐倉玲伊のことばかり考えていた。


 だからといって今すぐは何も出来ない。
 でも出来ないことを数えるのはもう止めた。あいつに心を寄せることは出来る、そう思おう。

 教室の壁に貼られた、旭陽目線で見たモノクロームの佐倉の後姿を眺めながら朔太郎は自分を鼓舞する。
 モカと一緒にあいつの部屋に行くのはやってみよう。ほんと一回モカを抱きしめてみたらいいんだって。
 あわよくば佐倉の甘い微笑みも引き出せるかもしれない。

 そこまで考えて朔太郎は写真に手を触れながら壁を向いたまま一人で叫んだ。
「うわぁ、どこまで欲深いんだ俺は!」
 背中にクラスメイト数名の視線を感じたが、朔太郎は気にしなかった。
 熱くなった頬と高まった鼓動を感じている今の自分に、俺は俺だけのエールを送ろう。


❍ ❍ ❍


 昼休みに弁当を食べ終え、衣替えした身軽な体で1年7組の教室を覗いた朔太郎は奥の窓際で一人の男子生徒と話している佐倉をすぐに見つけた。
 優等生グループの二人だ。佐倉が柔らかい表情で同級生と話しているのを初めて見た。
 おお!ぼっちっじゃない。
 仲良くなれて良かったなぁ。団員やっておまえ良かったなぁ。
 朔太郎が目を細めて保護者のような気分を味わっていると、あっという間に数名の男女に取り囲まれた。

「瀧先輩、髪切ってる〜」
「学ラン脱いだら腕傷だらけだなんて喧嘩?マジ不良だったんすか」
「髪長いのもワイルドだったけど!この短さじゃ不良少女にはもう見えない〜」
「その髪型眉ピアス似合いそう!金髪にしてlizzoの曲で踊ってみせて下さいよ〜」
 明るい声が重なって笑い声に包まれる。朔太郎は「不良少女じゃねぇよ。好き勝手言いやがって!」とわざと乱暴に言って後輩たちから触られている腕や髪を解放してもらうべく輪から抜け出した。
 陽気な朔太郎は中学生の時から後輩たちから慕われて囲まれることが多い。笑顔の輪から出て振り向き、丸く固まっている後輩たちににこやかに手を振りながら朔太郎は思う。

 かごめかごめの呪縛、からの解放。

 朔太郎は今日のように賑やかに好意を向けられつつ群がられるのが嫌ではない。そして、こんな風に輪になった人を見ると思い出す特別な出来事が今の朔太郎を形作ったのだとある感慨を持って想う。
 もしかしたら囲まれることが朔太郎にとって脅威になっていたかもしれない傷つき体験を、優しく癒してくれた、大切な旭陽と結陽。

 その出来事は小学三年生が終わろうとしていた春。
 9歳になったばかりの新しい朝。 
 かごめかごめをして男女五人で遊んでいた時だった。朔太郎は小さな時から何故か鬼になった時に目を隠しているのに必ず後ろに立つ相手を当てることができた。気配や息づかいや空気の揺れなどで分かってしまう。そして、そんなことが愉快だと思える年齢でもあった。
 当時は仲良しグループの中でも面白がられたり不思議がられたりして、この古風な遊びがよく校庭や家の近所で繰り広げられていた。普段は朔太郎が数回当てて皆が感心したり予想通りの展開にわくわく胸弾ませたりした後は、子どものことだから別の遊びに自然と移ってしまう。だから朔太郎の特技が時々披露されて皆が高揚する気持ちを分け合うという楽しいひとときでいられた。
 でもその日は、朔太郎がよく知らない転居してきたばかりの年上の男児も交じって遊んでいたので違う流れに持っていかれてしまった。自分は“後ろの正面”が分からないのに朔太郎は鬼になるたびに当ててしまうものだからその上級生はムキになったようだった。
 朔太郎のそんな力が気持ち悪い、名前も古めかしくて大正時代の人みたいで偉そうでムカつくんだと言い出した。なんだその幼稚園児みたいな悪口…と朔太郎は呆れたけれど、周りは朔太郎の味方だったし、馬鹿なことを言う上級生だなと流して終わらせようとした。
 それでも次に朔太郎が鬼になった時に、上級生だからこそできる巧みなコントロールで朔太郎の友だち三人を連れて場を離れ、朔太郎だけを一人にして隠れてしまった。朔太郎はしゃがんで目隠しをしながらも皆の気配が遠ざかっていくのが分かった。その時、感じたのだ。
 思いもよらないことや少しのすれ違いで、今まで当たり前にあったものが消えてしまったり急に悪意を向けられるような日々が始まってしまったりすることが世の中にはあるんだと。
 後から友だちに真剣に謝られた朔太郎は、謝ってもらえずに避けられ続けたかもしれなかった可能性にも気付いてなんだか怖くなってしまった。理由なく敵意を向けてきた上級生がもし同級生だったら、嫌がらせがさらに執拗だったかもしれない。
 その後もこの上級生は朔太郎と二人きりになる場があると一瞬の隙をついて小柄な朔太郎の肩や脇腹に拳を撃ち込んできた。「何すんだよッ!」と朔太郎が噛み付くように言っても相手は薄気味悪く笑って「朔太郎」と名前を呼んでくるだけ。心底ゾッとさせられた。
 誰かがいるときはそんな素振りは全くしないので気付かれることはなかった。近所の友だちと明るい付き合いしかそれまでしてこなかった朔太郎は混乱した。関わらないように意識しても、幼くて狭い社会の中ではこの上級生と顔を合わせてしまう。
 気付くとこの男児が側に立っていて身が竦む。
 「朔太郎」と低い声で呼び掛けられた後、理不尽に暴力を振るわれる。朔太郎という自分の名前が息苦しさと結びつき、こう呼ばれると呼吸が浅くなる。
 今まで無邪気に周りの大人や友だちに言いたいことを言えていた朔太郎でも、殴られているという行為がなぜか息苦しいくらいに恥ずかしくて誰にも助けを求められなかった。

 好意ばかり向けられてそれまで生きてきた朔太郎は、自分に敵意を向けられるとこんなにも魂が傷付くんだと初めて知った。
 その後から朔太郎はかごめかごめをしなくなった。友だちに誘われて囲まれると、殴られている瞬間の記憶が朔太郎の邪魔をする。関わりたくないと思う存在が近所の遊び仲間の中に生じたことの重たさを抱え、服に隠れた青痣を隠す日々。
 高校生になった今、振り返ってみると相手は何か心の病なり鬱屈なりを抱えていたのかもしれない、と思う。
 そんなこともあったから近所遊びを次第に避けるようになった朔太郎が一年後に家から少し離れたところでダンスをしている旭陽たちと交流するようになったとも言える。
 人生何がどうなるかなんて本当に分からない。
 この兄弟と親しく話すようになった時に朔太郎が何気なく「かごめかごめが怖くてできない」と打ち明けた時、旭陽がすぐに言ってくれたのだ。
 「嫌な記憶の上に楽しい記憶を上書きしたらいいじゃん」とさらりと。
 小学生になったばかりの結陽が「しようしよう」とはしゃいで中1と小1の兄弟が手を繋いで朔太郎を囲む。
 小さい輪が早いスピードで廻ってしゃがんでいた朔太郎は立ち上がって笑い出す。
「回るの速いし輪が狭すぎ!」と朔太郎が叫び、そのまま三人が抱き締めあってゲラゲラ大笑いした春。

 避けたから出会えたもの。
 傷付いたから、癒されるという喜びに触れたという体験。
 思い出したくないことが思い出しても平気になったというプロセスと、平気にはなっても逃げ出したいことだって残るんだという気付き。
 だから今も、一時期翻弄された悪意と暴力の記憶が結びついた朔太郎という名前からは逃げてしまっている。そんなふうにかっこ悪くて幼い自分でも、この自分だけは許して受け入れたいと思う。

(あの時の結陽はまだちっこくて可愛かったなぁ)
 当時の光景を脳裡に描くと朔太郎は自然と優しい顔になってしまう。
 想い出が温かすぎて。


「甘いものでも昼に食べた?」
 朔太郎が想い出に浸りながら優等生を演じた二人組に近付くと、佐倉が眩しそうに目を細めてこう言ったので朔太郎はキョトンとした。
「ん?何で?」
「甘ったるい顔してる」
「あぁ。甘い記憶を食べてた」
「…なんだよそれ」
 今は佐倉たちが会話していた中に朔太郎が割り込んだわけだから、朔太郎は二人の前の椅子に座りながら他方の1年生に右手だけで合掌礼をして頼む。
「三分だけ佐倉に話していい?会話中ごめんな」
 優等生2号は両手を顔の前でぶんぶん振って「いいですいいですドウゾドウゾ」と何故か顔を赤らめて言ったので、朔太郎は(可愛いなぁ)と またまた保護者気分を味わった。
 自分の方が背も身体も小さいことは気にしないでおこう。

「もうすぐ夏休みだからさ。佐倉どこか連れてってよ」
「は?どこにだよ」
「俺でも登れる山あるかな」
「ないだろ」
「ハイキングでもいい」
「やだよ」
 佐倉の返事は朔太郎の問いかけに(かぶ)せ気味だ。
 迷いなく否定してきて小気味良いくらい。
「じゃあボルダリングのジムは?おまえがワンゲル部で行ってるとこ」
「いやだ」
「だったら我が家に遊びにこい」
「…なんでそうなるの」
「うちに2匹猫がいるんだ。とくにチビのほうは人懐こいからさ。会わせたいなぁ」
 そう言って机に頬杖をついた朔太郎に佐倉はゆっくりと目を合わせたが何も答えなかった。
 朔太郎たちの流れるようなやりとりを優等生2号がやや呆気に取られて卓球のラリーを観るように目で追っている。それを横目で感じて朔太郎はなんだか可笑しかった。

 俺たちって仲良いんだろうか。
 仲悪いわけじゃないよな。
 俺、なんかいい気分だし。

「俺んちには来ないことは想定してた。琉伊に家においでって誘われてるんだ。佐倉がいるタイミングで仔猫連れていく」
 そう言うと佐倉は驚いた。
「いつの間に仲良くなってんだ」
「体育祭の時に声掛けられた」
 朔太郎は正直に答える。
「あいつに弱み握られてるんじゃなかったの」
「弱みは強みに変わった」
「…あんた、ほんとぶっ飛んでる」
「そう。籠の中から飛び立って空を羽ばたいてる鳥だ」
「なんの話だよ」
「今の俺」


 かごめかごめの詩はなんだか怖い。
 それでも少なくとも朔太郎にとっては、春の陽射しと結びついた明るいイメージの童謡になってくれている。

 籠の中の鳥は、もういないよ。

「三分経ったな。帰るわ」
 朔太郎は2号に御礼の笑顔を見せてから素早く立ち上がり、教室を後にした。
 自分がどこまでも飛んでいける大きな鳥になったような、そんな心持ちで。