━それで、どう思う?
「僕が思ってることでいいんですか?」
━えぇ。だって何が正しいか、何が正しくないか分からなくなってしまって。私、麻痺してるのかも。

「僕は…自分が好ましいと思える相手にだけ、自分を触れさせてますね。例えば、同性の後輩がこの前僕を抱きしめてきたり、髪の匂いを嗅いできたりしたんですよ。恋愛対象じゃないです。でも僕、好きじゃない相手は自分に近付けさせません。恋愛とか抜きにしても、好きだなぁと思える相手の近くに行きたいと思う。側で声を聴いたりしたいと思う。安心できない相手には、僕は決して心も身体も明け渡しはしない。好きなヤツにしか身体は触れさせない。だから、僕は殴られることが愛だとは、思えない。それが、僕の、正直な思いです」

━そっかぁ…。いつも聴いてもらってるばかりだったけど、こうやってあなたの意見聴いてみるのもいいものね。そうね、私は安心したい。今日もありがとう。



 一ヶ月バイトを休む朔太郎はソラアヲの建物に心の中でいつも以上に愛を込めて挨拶をして、今日の相談電話で自分が答えたことを反芻しながら自宅まで歩いて帰ってきた。
(共感できない話題で寄り添うの難しいな。俺だったら…恋人からもし殴られたら殴り返すよなぁ)
 朔太郎は鞄から鍵を出して、門に植えられているオリーブの大きな影が映った玄関の前に立ってふと動きを止める。

(恋人…俺やっぱ女子は想定してねぇな)

 朔太郎が「マジかマジかやっぱりなぁ」と呟きながら玄関の扉に鍵を差し込んでいると、内側からゆっくり扉が開いた。
「おっかえり〜また独り言!」
 中学2年生の紗穂子が朔太郎の目を見て笑う。
「サホ早くね?」
「今日部活なかったもん」
 紗穂子は既に制服から朔太郎のTシャツとハーフパンツに着替えていた。普段からこの妹は朔太郎の服を着たがるから最近は勝手に着用されていても気にならなくなった。紗穂子が朔太郎の重たい鞄を受け取る。
「サクにぃの部屋に運んであげる。ジュジュとモカは任せた!」
 紗穂子に「おぅ」と応え、朔太郎は靴を急いで脱いで白い廊下の奥のリビングにダッシュした。
「たっだいま〜」
 朔太郎がリビングの黒いソファにいる白猫の横にダイブする。ペルシャハーフMIXのジュジュは毛並みがふわふわしていて、その毛皮のような尻尾に鼻先を埋めると朔太郎は身体中の力を抜いた。この尻尾に包まれていると哀しい時でも涙がすぐに乾く気がする。
「ジュジュ〜」
 3歳になるジュジュが小さくニャァと鳴いて朔太郎に体を擦り寄せてきた。そのタイミングで寝転んだ朔太郎の右足小指に雉虎模様の小さなモカが噛み付く。
「痛!こらモカ!」
 我が家に来て一ヶ月の生まれたてのモカは朔太郎の手脚を噛みまくって傷だらけにさせている日々だ。朔太郎は笑いながら飛びついてモカを両掌で包んで頬ずりした。
 カワイイ。可愛い。可愛いすぎる。
「サクにぃ。晶子おばちゃんとこでバイトだったんよね?おつかれ」
 紗穂子が二階から降りてきてソファに座ってジュジュを膝に乗せた。
「おぅ。もうソラアヲの住人だ。かなり貯めた」
「私もパリに行きたい!」
「サホも学校にばれないようにしてバイトしろ。晶子さんならギャル手当つけてくれるわ」
「なにそれ」
 朔太郎はパリでブレイキンがオリンピック競技として開催される来年八月の大会を観に行くことを切望している。その場でアツいムーブに触れたい。そのためには資金だ!と心を沸き立たせて過ごしていた。

「夜8時から結陽来る。体育祭用のダンスの相談するんだ」
「え、結陽クン来るんだ。サクにぃ夜食を食べる時私も呼んでね」
「サホ、結陽と仲良くなりたいの?」
「うん。イケメンと過ごすとHP上がるもん」
「あいつ女子にもモテたいけど俺に一番モテたいって言ってるぞ?」
「わぁ。ますますいいね。そういう思いを公言できるのがカッコいい」
 紗穂子が膝の上のジュジュを撫でながら平然と応じたので、朔太郎は少し思案してから声を出した。
「あのさ」
 朔太郎が抱きしめていたモカを脚元に解放して紗穂子に向き合って言葉にしてみる。
「結陽がバイだとかそういうのはわかんないけどさ。おまえの兄ちゃんはどうもマイノリティっぽい」
 紗穂子も朔太郎を見つめる。
「うん」
 それで?というように紗穂子は真顔で頷く。
「嫌だったりしないの?」
「ぜんぜん?」
「え?そなの?」
 何言ってるの?的な表情で瞬きしている妹を見て朔太郎は拍子抜けした。
「といっても恋人はいないんだけどさ」

 1階のリビングの開け放った窓から隣の家のピアノの音が忍び込んできた。父親が帰ってくる19時頃までは兄妹だけだから、二人が黙りこむと静かな空間になる。
 白い壁の前のそこかしこに置かれた観葉植物の間をモカが暴れ回る音とピアノの音色がコラボする。

(この曲知ってる。創太にフランスに行くならコレを聴けって言われたやつだ)

 朔太郎は思考を巡らせながらも父が帰宅するまでに妹に話そうと思って言葉を重ねた。

「中学生の時好きだなぁと思った相手はずっと彼女いるからさ。もう今は恋愛感情じゃないと言い切れるけど。片想い的な時期はあった気がする」
「うん、旭陽さんでしょ?」

 朔太郎は紗穂子の言葉に15㌢仰け反って、それから素早く30㌢顔を近付けた。髪型が違うだけでよく似た顔が、至近距離で並ぶ。

「さーちゃん!なんで分かった?」
「さーくん!わからいでか!」

 紗穂子がそう関西弁で応えてフフフと笑い出した。
「さくにぃ私と同じくらいの成績なのに旭陽さん居るから東高受けたでしょ。無謀すぎ」
「それな。なんで受かったのか謎だわ。今は底辺にいる自信しかない」
「私も狙いたいけど無理。愛が足りないのかな」
「無理じゃないよ。サホは愛に溢れてるし」
 朔太郎は心を込めて紗穂子に言う。


 そうだ、『ジムノペディ』だ。思い出した。
 エリック・サティ。1年生の夏に創太に何回も聴かされた曲。『あなたが欲しい』もいいけど、この曲の優しいメロディーが好きだ、と思ったんだった。
 朔太郎は夕闇色に染まった窓の外の景色に顔を向けて、リフレインされるフレーズに耳を傾けていた。
 一緒に聴いたもうひとつの曲のメロディーを思い出しながら、ちょっとだけ切なく思う。

 俺は「あなたが欲しい」と想える相手に、出会えるんだろうか。

 …ん。
 待った。
 なんで今、アイツの笑った顔が浮かんだんだろう。


❍ ❍ ❍


 ダンスレッスンに週イチだけスタジオに通う朔太郎は、ダンス仲間の中ではスタジオで過ごす時間が圧倒的に少ない。
 朔太郎とダンスとは学ぶという世界ではなくて遊びの世界で出逢ったからかもしれない。
 道ばたで、自分の家の庭で、校庭で。
 仲間の真似をして新しい振りを覚えて踊って、わくわくして、笑う。
 ダンスに最初に出逢ったのは小学生の時。
 母親に命じられてローカル新聞の日曜版を数件の家に自転車で配らされている春に、中学生の旭陽と小さな結陽が土手の近くで踊ってるのを見て魅了された。その日に2人に声をかけて朔太郎も加えてもらった。
 結局、その日から朔太郎は春夏秋冬、そしてまた春夏秋冬、踊ることに飽きずに生きているのだから人生は不思議なものだ。今でもスタジオ以外の場所でダンスをすることが好きだ。

 あの日、旭陽と結陽がダンスをしていなかったら、俺はどうなってたんだろう。
 すごく大人しい勉強好きな高校生とか?
 まさか。


「サク、水またこぼしてる」
 結陽がそう言って、ガレージの隅に置いた椅子に座ってぼんやりしながら水を飲んでいた朔太郎に近付いてきた。結陽は自分のTシャツの裾を朔太郎の口元に引っ張ってきて、座った朔太郎を包みこむようにして(こぼ)れた水の跡を拭う。
「またイーストサイドストーリー妄想に浸ってんの?」
「ん〜。旭陽と結陽のダンス観てから俺は愛を知ったなぁって」
「うっわ。この前からどうした?」
「いや。ソラアヲに住んでるといろいろ突きつけられるワケ。俺が俺たるゆえん、俺のアイデンティティ、俺の…」
 朔太郎に最後まで言わせずに結陽は朔太郎の頭をグワッと抱え込んで言った。
「サクのお父さん10時までにしとけよって言ってただろ、アイデンティティの話はまた今度な」

 五月でも夜風は冷たく、ダンス後の朔太郎たちの熱くなった身体を今もすぐに冷やしはじめている。結陽はガレージ横のシマトネリコの枝に引っ掛けていたパーカーを無造作に羽織りながら朔太郎を振り返った。
「そうだ。D(デー)-HERMES(エルメス)の1階でさ、上のスタジオから降りて来た数人の中に東高の制服来たヤツいてさ。話しかけられた。サクの話題で」
 結陽の言葉に折畳み椅子を手にした朔太郎は動きを停めた。
「俺のこと?」
「うん、ギターかベース背負ってたぜ?1年生だって。『ダンスしてるんだったら噂の瀧朔太郎って知ってる?』って声掛けられたんだ」
 朔太郎たちが通うダンススタジオは地下にあり、その建物の地上階は全て音楽関係の教室と練習スタジオになっている。
「ちょっと待て。瀧朔太郎って名前を1年生が言うわけない。この名前知ってんのは2年生の一部だけ。俺先生に頼んで学校の名簿も朔太にしてもらってんの」
 朔太郎は担任に粘り強く交渉し、今までおおいに大正ネームで傷付いてきたかを力説し、高校生活を全うするために名簿の一文字を消すことが如何に大切かを論じてみせた。朔太郎はこの進学校の中で成績は最下位かもしれないけれど、プレゼン能力は首席だと思っている。
「いや、朔太郎って言ったから俺もムッとしてさ、『瀧先輩がどう噂になってるんすか?』って詰め寄ったの。俺以外が朔太郎って言うのムカつくからさ」
 その時のことを思い出したように結陽は眉間に皺を寄せつつリュックを背負った。
 いや、おまえは言っていいのか?
 一瞬心で突っ込んだが今は黙っていた。
「んで俺が怒ったもんでめちゃ大笑いされた」
「笑ったぁ?」
「悪い噂なんかじゃなくていい噂だってさ。去年の体育祭の応援合戦で1年生でカッコいいパフォーマンスしてたって耳にしたから興味あって聴いただけだから怒るなって優しい顔でなだめられたわ」
「噂はいい。悪くたっていい。なんで闇に葬った朔太郎って名前が浮上してきたんだ。そいつ誰?」
「サクラって言ってたな」
 朔太郎は結陽を送りがてらガレージを出て門まで歩きながら頭に疑問符が浮かんだ。

「佐倉?」

 1年に佐倉が二人いたのか。
 俺の隠したい本名知ってるって、気になるだろ。
 でもってなんだって気になる男が揃いも揃ってサクラって苗字なんだよ。

「俺が知っている佐倉は大笑いはしそうにないから、もう一人いるんだな」
 朔太郎がそう言うと門の前に停めていたロードバイクから鍵を外していた結陽が身体を起こした。
「しそうにない?」
「大笑いはしないけど仔犬にはすんごい優しく笑いかける」
 そう朔太郎が言うと結陽が朔太郎に詰め寄ってきた。
 朔太郎が結陽に詰め寄る時は大抵結陽に掴みかかってTシャツなり制服の喉元を締め上げているが、結陽の場合は逆だ。静かな声でゆっくり近付いてくるので逆に迫力がある。

「サクが愛を教えてくれてありがとうって叫んでた相手じゃん」

 結陽が朔太郎を見下ろして真面目な顔になった。朔太郎はやっぱり結陽は真っ直ぐだなぁと思う。

「俺への愛じゃないってば。小さきものへの愛。同じ紫団の団員なんだよ」

 朔太郎はそう言って、結陽の頭を撫でる。それでもこれだけは言っておかなければならない。

「俺がもしこれから誰かに想いを寄せるようになったらおまえに遠慮せずに全力でいく」

 朔太郎がきっぱりとした声で言うと、結陽は目を見開いた。
「朔太郎、かっけぇ」
 結陽はコーダブルームのロードバイクにまたがって笑顔になった。
「全力で行く朔太郎を俺も全力で追いかけるわ!」
 そう言って手を振った後に結陽が振り返りもせずに帰っていくのを、朔太郎はある感慨を持って見送っていた。

 前向き思考ができる奴は本当に凄い。
 ってか、よく堂々とそんな言葉を使えるよな。追いかけるって言われちゃったよ。
 前向きが過ぎてない?
 生まれつきそうではない自分は、そうなりたいと願うココロを糧にして光の当たる道を選ぶようにしよう。

 あと1日で満たされる月が、今も朔太郎を柔らかく照らし続けていた。祈るような心の奥までを見透かすようにして。


❍ ❍ ❍


 五月に開花した紫陽花がひとつきの時間を経て密度と濃さを増し、駅前から高校へと続く細い路が紫色に染まる季節になった。
 小雨が降る夜明け前の道をダンスの自主練をするために河川敷へと向かう。
 傘をささずに歩きながら、朔太郎は美しく咲き誇る紫陽花に見惚れてしまった。
 朔太郎は高校へ徒歩通学できる距離に家があり、この道は自宅から高校までの通学路とは真逆になる。だから電車通学をしている生徒が歩くこの道を朔太郎が歩くのは朝だけだ。
 人通りの少ない時間帯にしかここを歩かない朔太郎は、世界の中で自分だけがこの紫色の海に漂っている感覚に浸る。
 前髪から雫が鼻の頭に落ちてくる感触を楽しみながら小走りで土手横の高架下に向かっていた朔太郎は、水無月に存在感を誇示するこれらの紫陽花たちが紫団を応援してくれているように感じて気持ちが高揚した。
 あれ?
 朔太郎はふと不思議なことに気付く。
 去年はここ通った時は紫陽花が俺の青団にエール送ってるって感激したよな?去年は確か青色ばかりだった。
 今年は紫色になってる。
 紫陽花って一年経ったら色変わるのか。すごい。

 朔太郎が右拳を握ってガッツポーズを決めながら駅前通りから逸れて左折しようとした時、別の脇道から柴犬を散歩させている白髪の男性が小径に入ってきたので足を停めた。
 朝にこの道を歩いている時はまた朝練の佐倉とすれ違わないか、朔太郎は実のところ意識して歩いている。
 佐倉が歩いてくるだけでは駄目で、そこには小さな生き物がいるのが必須要件だ。ここは駅前では一番閑静で緑が豊かな道だから飼い犬を散歩させている人がよく通る。

 朔太郎は妄想する。
 2.0の視力を活かして佐倉を捉えたら即座に物陰に身を潜める。そこに小型犬を散歩させる人を投入し、近付いてくる佐倉にあの甘い笑顔がまた出てくるかを見届ける。そんな妄想。探偵のように息を潜めて気配を殺している自分。
 別に佐倉をからかいたいとか弱みを握りたいとかではない。ただ単にもう一度見たいのだ、あの顔を。
 木漏れ日みたいな温かな慈愛を。
 ひっそりと自分だけが知っているという優越感に浸されながら。

 でも今日もいない。

(あれは日蝕なみに貴重なタイミングだったんだな)

 駅の方を見て人影がないのを確認してから、予想はしていたけれども残念に思いつつ肩を落として朔太郎は踵を返した。
 その流れでなんだか切なくなって、朔太郎は久しぶりにエリック・サティの『あなたが欲しい』をスマホで聴きながら歩いた朝だった。


 六月二週目金曜の夜、学校の正門を入ってすぐ左側にある赤松会館で紫団の生徒たちは泊まり込み練習をした。
 月曜日から各団がそれぞれに仕上げをするために学校側が赤松会館を解放してくれる貴重な1週間の最後が紫団だった。
 この会館は食堂と柔道部・剣道部の鍛錬場が入った三階建ての建物だ。2階の剣道部が練習する広いフロアには鏡がある。だから皆がここで23時近くまで練習する。男子がそのまま、ここで修学旅行さながらレンタル布団を敷いて就寝。女子は3階の畳の上。0時には消灯、翌朝8時には撤収、そしてもちろん「男子3階に上がるべからず」がルールだ。
 朔太郎はもちろんダンスの練習指導には去年同様に力を入れたいわけだけれど、今年は“笑わない佐倉が同級生と一緒にいる時は笑うのか?”という、他の奴からすればどーでもいいことが気になってしまって視線がついつい佐倉を追ってしまう。
 結果。
 やはり笑ってない。
 …はやく友達作れよ。
 まぁ余計なお世話なんだろうけど。

 「サク」
 綾大が衣装の紫色のネクタイをほどきながら朔太郎の側に来た。
「優等生グループが踊る時のあの曲、何?」
 糊をパリッと効かせた白いカッターシャツを脱ぎ捨てた綾大は、Tシャツ1枚になって朔太郎の横で就寝準備を始める。
「Fuxkin' Perfect だよ。p!nkの」
 業者から届いた布団の上にシーツを手際よく被せ、朔太郎はパーカーを着込みながら返事をした。
「創太が優等生グループがまんまエリートっぽい曲で踊るより意外性のある曲で踊るのがガツンと来ていいんだって力説してた」
「へぇ。歌詞は分かんなかったけど仲川先輩がこの曲素敵って言ってたからさ」
 綾大は歯ブラシを手にしていない左手を朔太郎の耳元に当てて、小声で勢いよく続ける。
「そう言った麻美ちゃんが素敵だっつの!めちゃくちゃ可愛いくねぇ?委員長っぽくテキパキしてる時もあるけどダンス間違えた時のテヘペロがまた!」
「おまえ…また?年上が好きなの?」
「年上が好きなんじゃない。凜凜しさと可愛いらしさを併せ持ってる女子が好きなの」
「はいは〜い」
 朔太郎は気のない返事を返したが、綾大はそんな親友の態度を意にも介さず機嫌良く鼻唄を歌いながら洗面所に向かった。その後ろ姿を見て朔太郎はひっそりと笑う。
 好きなものを好きと言えるの、なんかすっごくいいよな。


 朔太郎が目を覚ましたのは夜明け前。
 だだっ広い空間の入り口の非常灯の緑のランプが冴え冴えとして見えて、学校に泊まり込んだことを思い出した。馴染みのない赤松会館のコンクリートの壁がよそよそしく冷え切っている。紫色団員の男子生徒は朔太郎以外熟睡しているようだった。
 朔太郎は朝のダンス練習で早起きが習慣になっているだけではなく、早朝4時頃から雄の仔猫に布団に入ってこられて母猫の乳替わりに腕を吸われたりしているので普段から目が覚めやすい。
 ただ今回に限っては目覚めた理由は別だったようだ。

 朔太郎がぼんやりしたまま大海原のように広がっている布団の群れの真ん中あたりで半身を起こしたとき、うなされる声が低く聴こえてきた。
 さっきも夢の中にこの声が忍びこんできたような気がする。
 朔太郎は頭にかぶっていたパーカーのフードを下ろして暗闇の中をそっと立ち上がる。耳を出した朔太郎が声を頼りに猫のようにしなやかな足取りで近付いていくと、入り口近くに固まって寝ている5人の1年生集団の端にいる佐倉が身を硬くして唸っていた。

(こいつ、熱?)
 苦しげに顔をしかめた佐倉の手が掛け布団から出ていて、強く握り締められているのを朔太郎は見た。
 力入れすぎじゃね?他人とコミュニケーション取るのに興味もないのに団員に立候補しちゃって、対人関係に疲れ切って発熱したとか?
 心配になって佐倉の額に右手で触れた。
 熱は…ない。
「おい、おまえ大丈夫?」
 朔太郎が身をかがめて佐倉の肩を揺さぶった時、朔太郎は一瞬何がどうなったのか分からなかったが波に呑まれて海中に引きずり込まれた、と思った。
 寝ていたはずの佐倉が自分を抱え込んで海に沈めている…と頭の片隅で非現実的に考える。
 もちろん海なんかじゃなくて頭の下は赤松会館の冷たい床で。抱き締められて覆いかぶさられているので相手の顔は見えない。
 なんだなんだ何なんだ?
 海面に顔を出して息を吸うように相手の左腕と左胸の間から朔太郎は必死で頭を出し、非常灯の灯りが届かない場所でなんとか佐倉の顔を見た。目をきつく閉じたままの佐倉の左のこめかみに汗が浮かんでいるのを見届けた刹那、背中に廻された腕に力が入ったのと同時に朔太郎の左脇腹に鋭い痛みが走った。パーカーとTシャツ越しに佐倉の指先の強張りを感じていたが、シャツがまくれた辺りで直接佐倉の爪が朔太郎の肌を傷付けたようだった。

 悪夢。
 それも年季の入っていそうな手強いやつ。

 朔太郎は気付いてしまう。相手が抱えている闇みたいなものを。
 しがみついてくる力の激しさと切迫した鼓動にダイレクトに触れてしまった朔太郎は、自分の痛みなんかどうでもよくなって呼吸を深めた。
 左腕が佐倉の身体の重みで動かせなかったので相手に抱え込まれた右腕を佐倉の背中に回して肩甲骨あたりになんとか伸ばす。朔太郎は自分の深い呼吸のリズムに合わせて背中を柔らかく叩き続けた。
 大丈夫、大丈夫だから、安心していい…と、この言葉だけを小声で繰り返しながら自分が寄せては返す波になったような心持ちでそこに居た。
 朔太郎は自分の吐く息が波の音みたいだなと思いながら抱きしめられていた。佐倉の身体からゆっくりと力が抜けていき、朔太郎を抱え込んだ腕が緩む。するっと静かに身を起こした朔太郎は、相手が柔らかい表情になっていることを確認してからそっとその場を離れた。


 今度こそ。気付かなかったふりをしなければ。

 それは置いといて。
 あいつ。なんかよくわかんないことで苦しんでるっぽいのに。
 俺は最低かもしれない。

 抱きしめられたことで胸をこんなに騒がせちゃってるなんて。

 …どうしたらいいんだよ。