羽田空港に着いて手荷物を受け取った後、飛行機内の冷房対策でパーカーを着込んでいた朔太郎がTシャツ一枚になろうと立ち止まった時に急に視界に佐倉が飛び込んできたので、心臓が止まりそうになった。
 声を出す間も与えずに佐倉が抱き締めてきたので、朔太郎は突如に思考停止する。

「なんだ。片想いじゃないじゃないか」
 旭陽が笑いながら言っている言葉はきちんと心に届いた。
「先に行ってる。二人でゆっくり帰っておいで」 
 そう言いながら旭陽たちが離れていく気配を感じながら朔太郎は身動きが取れずにいた。


 世界のど真ん中で抱き締められている気がしてしまう。
 暗闇だったらいいのに。

 朔太郎はパーカーのフードを被り、取り急ぎ男同士じゃありませんという体裁を整えた。
 嬉しさに鼓動を速め、胸をいっぱいにさせながらも世間体に縛られている自分がいて。
 パリのチュイルリー公園だったら男同士でも溶け込めるだろうけど。
 日本だとあと10年待たないとダメかな。

 グレーのフードを被った朔太郎は昼間の陽射しが灰色がかったオレンジに変換されているのを感じながら沸き上がる様々な感情に溺れていた。
 耳に佐倉の声が届く。

「あんた俺のこと嫌いになってない?」

 喜びに酔っていた最中に、思いも寄らない佐倉の問いに朔太郎は覚醒する。

「は?」
「嫌いじゃないまま?」

 抱きしめられていて佐倉の顔が見えないので相手の質問の意図が掴めなかった。

「何言ってんの?嫌いじゃない、じゃないじゃん。そう言って俺を悩ましてんのそっちじゃん」

 朔太郎はすぐ横にある佐倉の頰に向かって、少し拗ねた口調で応じた。
 それでも胸を占める甘い気持ちは甘える態度に還元されて、自然と子供じみた言葉遣いになってしまう。

「俺はずっと好きすぎて悩んでんの!」
「じゃあ同じ。あんたが愛くるしくて苦しい」

 耳元で呟かれた佐倉の言葉が信じられなくて、朔太郎は抱き締められていた身体をほどいて至近距離で相手の目を見上げた。
 今、何て言った?愛くるしい?

「なぁおまえ今日バグってない?」
「そうかも。今はバグってたい」
「え?」

 今だけかよ。
 そう突っ込みたい気持ちと佐倉が日常しなさそうな言動を今は堪能できているという感動が()()ぜになって、朔太郎自身がバグりそうだった。

「ここど真ん中だから端に行こう?ってか帰ろ?」
「うん。家まで送る」
「送ってくれるんだ」
「うん」

 朔太郎が右手でスーツケースを押して歩きはじめると佐倉がそのスーツケースを奪って体を割り込ませてきた。
 朔太郎の右肩が佐倉の左腕に触れる。
 こんな歩き方を人混みの中でするようなやつじゃなかったのに。

「あのさ。なんで急にそんな…愛くるしい…とか言ってくれるのかがわかんない」

 朔太郎は隣の熱を感じながら正直に言う。

「遠回しに好意伝えてもあんたには伝わんないって分かったから」

 そう言って佐倉は少し怒ったような顔をした。
 遠回しに好意?
「何か言ってくれたっけ?」
「登山リュックにあんた入りそうって言ったじゃん」
「は?……それ?」
 朔太郎はつい立ち止まると佐倉が真面目な顔で応じた。
「できるだけ一緒にいたいって気持ちを伝えようとしたんだけど」

 わかんないよ、それじゃあ!

 そう心で吠えて、朔太郎は盛大に笑った。
 心から笑うってこういうことだなと思いながら。
 幸せな気分で笑う自分を真面目な顔で見守っている佐倉を、心から愛しいと思いながら。
 朔太郎は目元に滲んだ涙を人差し指でそっとぬぐって、真顔になった。
 佐倉の目をしっかり見つめて言葉を出した。

「登山リュックに俺を入れてよ。他のものを全部ほおりだしてさ」

 朔太郎が小さな声で呟いてから歩き出すと、並んで歩く右側で佐倉が優しく笑った気配が満ちた。

 自分の家に帰るとき、大切な人が横にいてくれるってなんていいんだろう。
 これは今だけじゃ、ないよな。できるだけ一緒にいたいって言ってくれたよな。
 これから、また。
 去年の秋のように「おやすみ」って言葉をすぐ横で交わせるような時間をまた積み重ねていくことができるんだろうか。
 豆電球だけつけた夕方の中で言う時と、電気を消した暗闇の中で言う時とを交互に繰り返しながら。

 暁の時間まで贅沢にそばにいて。



 あのバグった佐倉と一緒に帰った数日後。
 初めて佐倉がソラアヲに相談電話をかけてきた時のやりとりで約束したとおり、二人で夏山を登った。

 エッフェル塔を階段で登っただけでは言われた通りトレーニングは足りなくて、朔太郎はエネルギーを大量に消耗した。
 それでも語り合うことがたくさんあった二人には、同じ方向を向いて歩く時間がなんだか互いを癒しあっている時間のようで。初心者向きの夏山では物足りないくらい余裕の佐倉の横で朔太郎だけが息を切らしていたわけだけれど。

 朔太郎はこの時にまた新しいことを一つ知った。
 こんなに体が悲鳴をあげているのに、こんなに心が潤っていくことが世の中にはあるんだって。

  

❍ ❍ ❍



 銀杏(いちょう)の黄色い葉が美しく散っている。朔太郎の高校生活最後の秋だった。
 朔太郎は真夏が一番好きだ。だから秋が来ると人肌恋しいような、心もとないような気持ちになることがある。
 それでもバイト先のソラアヲの建物の中から色付いたナンキンハゼを見たり、銀杏並木を歩いたりすると、秋もいいものだなと素直に思う。


 人肌恋しいんだからさ。
 また抱き締めてくんないかな。


「あんたさ、受験生だろ。踊ってていいの」

 新しく設置されたばかりの大きな鏡に背を向けてステップの練習をする朔太郎をわざと見ないようにして、佐倉は感情の起伏のない声で話しかける。
 朔太郎は逆に、明るくリズミカルな口調で応えた。

「ダンスも大学受験も。真面目に…」
 ファイブ、シックス…
「やってる」
 セーブン、エイッ。

 朔太郎は部活帰りの佐倉をソラアヲに連れ込んで少しの時間だけ話しながら踊ると元気になる。
「だからちょっとの時間付き合え」と佐倉に最初に頼んだ時は「もともと元気じゃん」と冷ややかに言われてしまった。予想通り、朔太郎を抱き締めながら「愛くるしい」と言ってくれた佐倉は激情Maxにしてくれていたレアで貴重な佐倉であって、普段はやはり無愛想なのが通常モードだ。
 ふたりきりになって佐倉の態度と言葉から棘が抜けていくのを感じる時間と、その落差を自分だけが知っているという優越感に浸る時間がもはや朔太郎にはなくてはならないものになっているのが怖いような幸せなような。 

 今日はトップロックとロッキングの練習。
 ドミコの曲がSpotifyで流れている。
 脚を広げて腕をクロス。ワンエン、ツーで右脚を左前、両手を広げて。
 スリーエン、フォーで今度は左脚を右前。朔太郎は軽やかに跳ねる。視線は佐倉にロックオンしたまま次はロッキング。
 佐倉は座ったままソラアヲの広い窓から通りのナンキンハゼの赤い葉を見ていたが、するっと朔太郎と目を合わせた。

「その動き何。俺にケンカ売ってんの」
「こういうステップなんだよ」

 朔太郎はハァッと大きく息を吐いてからダンスを中断した。
 そろそろ休憩時間を終えないと。 
 秋なのに夏の陽射しの下にいたかのような汗を流して、朔太郎は座っている佐倉の側に寄る。
 佐倉が無愛想な顔のままリュックからタオルを出して朔太郎の頭にかぶせた。

「ダンス中に相手を威嚇するような技。殴る真似したり銃を撃つ真似するBボーイもいるけど俺は平和主義だから」
「だから?」
「威嚇する振りして誘惑してんの」
「誰をだよ」
「おまえだよ」

 いや、そう言われるの分かってて今おまえ聴いただろ。

 朔太郎が顔からタオルを外して佐倉を見ると、切れ長の目を眩しそうに細めて朔太郎を見ていた。
 あぁこの表情も好きだな。
 来週ロッキングする時は、抱き締めてってジェスチャーをさり気なく入れてやる。

 ドミコの『噛むほど苦い』が、秋の人恋しい夕暮れ時にそっと流れ込んできた。朔太郎の心は甘く甘く充たされていたのだけれど。



❍ ❍ ❍



「瀧センパイ」
「ん?」
「瀧くん」
「何?」
「朔太郎」
「…何なんだよ」 

 佐倉の部屋で朝を迎えた朔太郎がまだ明るくならない暁の時間を窓辺で味わっていた時、初めて下の名前で自分の名前を呼ばれた。
 誰にも呼ばせないようにしていた本名のほう。

 ベッドで半身を起こして朔太郎に呼びかけた佐倉を大きく振り返って見る。
 佐倉は離れている半年でさらに背を伸ばした。顔付きも大人っぽくなったように見える。

 この三度のしつこい呼びかけ。
 一年前の体育祭のときに俺がしたよな。

 朔太郎はゆっくりと目を閉じ、自分の胸に柔らかく弾けた幸福の種のようなものをそっと味わってから笑みを浮かべた。
 一度閉じた(まぶた)をそっと開けると佐倉と柔らかく視線がぶつかった。
 佐倉の唇がゆっくり開かれた。 
 

「好きだよ」


 どストレートに言葉を手渡されて朔太郎は赤面してしまう。
 こいつは外では仏頂面をしているのに、二人きりになると甘い言葉もフツーに使っちゃう男なんだよ。

 そして。
 そのことは俺だけが知ってる。

「俺も。噛みつきたいくらい」

 そう言いながら朔太郎は佐倉に身を寄せて、モカのように佐倉の左手の人差し指に嚙みついた。
 本当は相手の喉元に噛み付きたかったけど。
 それも時々ぎりぎりのところまではしちゃいそうになってるんだけど。
 今は一年前みたいに自分の手のひらを佐倉の首筋に当てて思い留まっている。
 三か月待とうと言い聞かせながら。
 今は明るい気持ちで佐倉の首元にある自分の手の甲を見つめることができる。
 海に溺れて沈んでいってしまいそうな、あの日の気持ちのちょうど真反対。

 もう一年前みたいに相手から離れようともがくことはしない。
 それに。
 きっともうできないよ。

 
 一応朔太郎は現役合格をねらう受験生でもあるから、これ以上の接触はオーバーヒートになって耐えられない。
 その事実は佐倉いわく、すぐに朱を帯びる朔太郎の肌の色がリトマス紙みたいに証明しているようだ。
 朔太郎が大学に受かったらお互い愛を好きなだけ炸裂させようか、だなんて冗談を言いながら今はハグだけに留めている。

 
 でも。
 それがいつまでもつのか。
 朔太郎にも分かるわけがない。