8月上旬、朔太郎は旭陽たち大学生と一緒に初めて海外に来ていた。
パリでの3日目。
早朝のカルチェラタン地区のホテル。
昨日ブレイキンの試合を会場で観たことでテンションがあがり、寝つきが悪かった。睡眠不足になっても昼間にどこかで休息を取ったらいいかと旅先なのに早起きした朝。
佐倉から半年ぶりに届いたLINEのメッセージに気付いて心臓がひっくり返りそうになって深呼吸をした。
ドキドしながらスマホの画面を見て、朔太郎はまた度肝を抜かれた。
「顔見たい」
「声が聴きたい」
「元気?」
え?
これ誰?
このメッセージアカウント、佐倉だよな?
成りすましLINE?
朔太郎はしばらく窓辺の椅子に座って、ホテルの向かいの棟の部屋を見ながらぼんやりしていた。
初めての海外旅行で俺の頭どうかしちゃったかな。
本気で朔太郎が心配しかけた時にようやく気付いたことがあった。
あ。
俺がバイト先で不審者に襲われた話を耳にしたのか。それで心配してくれてるのか。
パリに向かう前日の夜のことだった。
朔太郎はソラアヲでの相談電話のアルバイトを終えて建物を出たところで被害にあった。
翌朝の7時10分羽田空港発のフライトに間に合うように帰宅したら即寝!と慌てていた時。ソラアヲの前の街路樹を背中にして立っていた若い大学生風の男に「すみません」と声を掛けられたので立ち止まると、相手が小さな刃物を手にして笑っていたので血の気が一気に引いた。
ヤバいヤツだ。
相手の背も低くてガタイも小さい男だったから警戒なんて全くしていなかった。心臓が跳ね上がったけれど、今人生を終わらせるわけにはいかないと必死に警戒モードをオンにした。
俺、まだ片想いが終わんなくて宙ぶらりんの人生なんだ。
死んでたまるかよ。
おまえ誰かのストーカーだろ。
俺追いかけんの我慢してんのにざけんなよ。
朔太郎は咄嗟に怒りを覚えて逆に冷静になれた。
笑顔を作って「なんだよびっくりしたじゃん。誰を探してるの?」とわざと馴れ馴れしい声を出して相手に迫った。
男が笑顔をひきつらせるようにして一歩後ろに下がったタイミングで朔太郎は相手の両手に掴みかかっていった。
いちかばちか的な判断。
向こうだってやぶれかぶれっぽいんだからこっちだってやってやると捨て身で。
「牧さん!来て!!」
朔太郎は腹の底から声を出した。小さな朔太郎が吼えるとたいていの人はビビるが、この時も夜の通りに響き渡った大声に若い男が体を竦めたのが分かった。
そこからかなり時間の流れが歪んで記憶されている。月がなくて星が綺麗な夜だったという記憶は確かにある。
朔太郎の叫ぶような声にソラアヲの建物の中に居た牧が直ぐに気付いて走り出てきたのを見た相手が「やば」と刃物から手を離して一目散に駆けていって。
「牧さんアイツに珈琲豆ぶつけてッ!」って吠えて。
それからどうしたっけ。
朔太郎は両掌に残った小さく光る物を見て今度は一気に頭に血が昇り、アスファルトにナイフを叩きつけた…ところまではしっかり覚えている。
呆気なく恐怖から安堵に転換した3分間の後にしばらく混乱した時間があった。
牧に「珈琲が飲みたい」とごねたり、交番から駆け付けた警察官に被害届を出さないと言ったりしていた記憶はなんだか膜がかかったみたいに霞んでいる。
多分あの不審者は恋愛の縺れで、姿を消した彼女が時々ソラノアオヲに電話相談していたのを知って逆恨みで云々…という話をNPO法人の責任者である伯母が警察官に話していたような。
翌朝、旭陽たちの乗るタクシーが自宅前に迎えにきてくれて、空港に行って、人生初の飛行機に乗って。
気が付いたらパリのシャルルドゴール空港だったから。
頭を整理する暇もないまま自分を包み込む空気と言語が違う異国の地にいたから、なんだか夢だったような気さえする被害体験だった。
佐倉が顔を見たいって言ってくれているのは純粋に嬉しい。
心配かけたな。
悪かったな。
この話聞いてあいつミモザの君の怪我した時のこと思い出しちゃったかな。
悪夢見てないか?
朔太郎は少しずつ夜明けの光を纏っていく石造りの建物を見上げながら、時差のある日本で明るい陽射しの下にいる佐倉に思いを馳せる。
今日どこかで返事をしよう。
顔見たいって言ってくれてるんだから、旭陽に一枚どこかで俺を写してもらおう。
元気すぎるくらいだよって伝わるように。
その日、朝一番に旭陽たちと一緒にエッフェル塔を登った。
エレベーターは使わずに外階段を使って。自分の脚と目をフルに使って地上からどんどん高くなっていく景色をダイレクトに体に放り込みながら高みを目指した。
やっぱり前みたいに佐倉の側に居ることが出来たらいいのに。
声聴きたいって言われたら会いにいっちゃいそう。
恋心を見せないようにただの先輩みたいなフリが出来ないから、こうやって距離取って悪あがきしてたんだけど。
朔太郎は旭陽たち大学生の後ろをついて登っていきながら、頭の中ではずっと佐倉との距離感を考えていた。
自分が盛大にフラれて傷付きたくないから離れようともがいたけれど、物理的に会わなくなって余計に自分の気持ちが揺るぎなくアイツに向かってることを思い知らされた半年だったよな。
世界の恋人たちはこんなにエネルギー使いながら恋愛してんの?
もう好きすぎて死にそう。
朔太郎はこの日久しぶりにメッセージを送った。
「夜中にうなされて目覚めたらこれを見ろ」
そう短くメッセージを書いて添付した一枚の写真。旭陽に撮ってもらった見るたびに笑えるショット。
旭陽はフィルムカメラで撮る時もスマホで手軽に撮る時も、仕上げて朔太郎に写真をくれる時は全てモノクロームだ。色彩がないのに温度が伝わってくる写真。
この時の写真も。
エッフェル塔を降りた時に旭陽が朔太郎の足元にかがみこんできて、朔太郎が表情を作る間もなく一瞬で真下から見上げるように写真を撮ったものだから。前髪で隠れた自分の顔の後ろにあるエッフェル塔の普段見慣れない角度の鋼鉄が鳥かごみたいに見える不思議なモノクロームになっていて。
アイツだって笑うだろ。悪夢のあとでも。
メッセージを送りながら、朔太郎はブレイキンの予選をいくつか観た後に寄ったチュイルリー公園での光景を反芻していた。
その光景とは男性二人のキスだ。
アムールの国、フランスで男女のキスはセーヌ河にかかる橋の上で何度も目にしたけれど、同性同士のものは初めてだった。
旭陽たちとダンスを観たあとの興奮を言葉にしながら歩いていたら、朔太郎のすぐ横で若い男性二人がお互いに歩み寄って自然にキスを交わした。それを見てどぎまぎしながら「いいな」と呟いた朔太郎を旭陽は放っておかなかった。
「サク。今好きな男いるんだな」
旭陽には自分の性志向も恋も何も打ち明けてなかったのにさらりと言われてしまったので朔太郎は素直に頷いて答えたのだった。
「うん。片想いして一年過ぎちゃったよ」
そう言って笑った朔太郎を、旭陽と旭陽の恋人の美晴は二人して優しい眼差しで包み込んでくれたから。
優しい気持ちが連鎖して温かい気持ちのまま、朔太郎は半年ぶりに素直な心持ちで前みたいな距離感に戻って佐倉にメッセージを送ることができたのかもしれない。
パリに居ながら、心はあの佐倉の部屋に一瞬で飛んでいく。
夕焼けにしないで暗闇にしてくれた、佐倉のあの部屋に。



