朔太郎が結陽と河川敷横の秘密基地のような場所でダンスの朝練をした後。自宅への帰り道で美しい猫が通り過ぎたので心を弾ませた、高校3年生になったばかりの春の朝。
 自宅にいるジュジュとモカ以上に可愛い猫はいないと思っている朔太郎だが、不細工な猫でも心を動かされる朔太郎にとっては造形の美しい猫を見て追いかける行為は一般の男性にとって美人を追ってしまうのと変わらない自然な行為なのだった。

 まだ花を咲かせていない紫陽花の植え込みの横を横切ったときは朔太郎も膝をついて追いかけ、その奥の大きな桜の木の横の壁に飛び乗ったタイミングで美しい三毛猫にキスをしようと身体を起こして唇を寄せたタイミングで斜め後ろから声を掛けられた。

「瀧先輩」

 あ、あいつの声久しぶり。
 そう思ったら涙が出そうになった。それでも瞬時に目をぎゅっとつぶって笑顔を作って振り返って言った。

「なんで再会するのがこんなタイミングなんだよ。笑う」

 去年にちょうどこの場所で佐倉と出逢ってから何度この場所であいつに会いたいと願っただろう。
 何度も期待して歩いてみても、この場所では会えないままだった。あいつが散歩中の仔犬に微笑みかける一瞬を、隠れながら自分だけがもう一度だけ目に焼き付けたいと恋焦がれて過ごして叶わなかった一年間。季節がぐるりと巡ってまた春が来た。
 そんな想いの込められた場所でまた偶然一緒になるなんて。
 でもって今度は前回と真反対で、俺が猫に甘い笑顔を見せてたよな。
 どんな顔を(さら)してしまったんだろう?

 朔太郎が声を出せずにいると佐倉の方から声を掛けてくれた。

「背。伸びた?」
「うん」
「少し痩せた?」
「うん」
「元気だった?」
「う~ん。あまり?冬から今まで元気じゃない。おみくじは大凶だったしおまえン家に前向き家出しなくなったし。おまえと喋らないと元気になんねぇもん」

 朔太郎は正直に言葉を紡ぐというスタンスは変えないままで佐倉と対峙した。
 ここまで素直に言葉をあいつに手渡してる。今も。
 朔太郎は頑なになっていた心がどんどん溶かされていってしまう。

「こんなに臆病になるんだって分かってたら、あの時に噛み付いておくんだった」

 朔太郎は一瞬、真面目に、真剣に後悔を味わった。
 その後悔に誠実にコミットした。
 桜の木の下にいるのに目の前に冬の一月の夜の景色が立ち現れて、マフラーを相手に巻き付けた後の首のすぅすぅした冷えの記憶も瞬時に身体が連れてきた。
 でも、それも5秒ほど。
 すぐに春の陽射しの優しさが朔太郎の後悔を包み込み、悔やんだ朔太郎の気持ちごと肯定してくれた。
 そうできなかった自分でも、それでいい。

 朔太郎の目線がスイと上に向かい、佐倉の額の上に釘付けになる。
「あ」
 淡くて薄い桜色の花びら一枚が佐倉の前髪に張り付いていた。
 佐倉に桜。笑える。音が同じじゃん。
 朔太郎は右手を出して指先で触れようとして直前に止めた。
 手に取ってしまえば俺はこの桜の花びらを特別なものとして後生大事に取り扱ってしまいそう。そう咄嗟に気付いてしまったから。
「サクラにサクラ」
 朔太郎は軽い口調で言いながら、差し出した右手を引っ込めて朔太郎自身の黒髪をかきまぜた。自分の心の奥深くから温かい記憶を精一杯持ち出し、できる限り口角を上げる。佐倉は朔太郎の顔を見て困ったような表情になり、斜め横の桜の木を見上げた。

 仔犬に甘い笑顔を向けていた佐倉の顔を見て度肝を抜かれた春。
 ソラアヲの前で初めて会話を交わした日の佐倉の笑顔。
 体育祭前の合宿で佐倉から力強く抱き締められた夜。
 佐倉の爪が体に食い込んで傷付いたことは誰にも言えないまま、傷跡の痛みさえ愛して、記憶を反芻させていた夏。
 ええと、それから?

 俺だけじゃなくて。おまえも切なくなってよ。こうやっていつもぎりぎり本音をぶつけてる俺の気持ちに応えてくれよ。
 そう朔太郎は思いながらも我儘な声は心の中だけで留めておくことができた。そして、斜め上を見ている佐倉の顔を目に映しながら温かい記憶の続きを引っ張り出してきて反芻していく。
 自分なりの儀式みたいに。

 体育祭の当日に佐倉から手渡してもらったライラックの花。
 もうそれだけでいっぱいいっぱいだった朔太郎が動けずにいた後、佐倉がきちんと連れ出してくれた瞬間を切り取ったモノクロームの写真。
 朔太郎が体育祭後に髪を短く切って佐倉の教室に足を踏み入れたときに目を細めて自分を見つめてくれた視線。
 初めてモカを連れて佐倉の家に行ったときに見せてくれた笑みを残した頬と首筋。

 いろいろありすぎだろ、俺。

 朔太郎は自分で突っ込みながら、それでも1メートルの距離を取ったままの佐倉にそれ以上は近付けない自分を知っていた。今だけは目の前にいる本人の体温をぎりぎりキャッチできる最後の時間かもしれない、とも思う。
 だからありのままの自分を制御できずに暴れさせていたいのかもしれない。
 いいじゃん。それで?他には何があった?
 ここまで来ると自分を苦しめるМ気質発動と言われても否定できない。

 目眩で倒れた時に横に居てくれたこと。
 ソラノアオヲにいる俺に電話してきてくれたこと。
 前向き家出と称する押しかけ愛を受け入れてくれたこと。
 うわ…。いっぱい溢れてくる。

「モカは元気にしてる?」
 佐倉が目線を朔太郎に移して、ゆっくり尋ねてきた。今、ようよう気付くのは佐倉ばかりが朔太郎に問うているということ。
 聞かれてばかりというシチュエーションが不思議だ。
 去年の夏から冬まで、いつもいつも朔太郎が佐倉に疑問形をぶつけていたんだった。
「元気すぎ」
 そう言うと佐倉の表情が少し柔らかくなった。
「もうすぐ1歳。あれからまた大きくなってさ」

 佐倉の家に最後に連れていったのが12月末。そこから空白になっているモカの4ヶ月の成長ぶりに引きずられるように、朔太郎は秋から春にかけて5㌢近く背が伸びた。これでやっと160㌢台になったと親から喜ばれる高校三年生ってどうなんだろうと自分でも笑ってしまうけど、朔太郎も中学三年生の妹をようやく見下ろせるようになったのが嬉しい。
「体重なんて雌のジュジュより重くなったのにやってることはまだ仔猫のまま。今朝もこんな風に巻き付いてきて…」
 朔太郎が首の周りに自分の両腕を巻き付けるのを佐倉が目で追う。
 そして、佐倉はまるで大きくなったモカが見えているかのように優しい目をした。
「毎日こうやってモカに喰われてる」
 朔太郎がそう言うと、佐倉が慈しむように空想のモカを見て優しく笑った。

 ずっと焦がれていた愛の込められた笑顔を桜の木の下で目にした刹那、朔太郎の鼓動が瞬時に高まって頬が熱を帯びた。
 その瞬間に目が合った。
 盛大に響く自分の心臓の音を耳元で聴きながら、胸に溢れてくる目に見えない大波の存在を感じる。
 鎖骨から首筋にかけて体温を上げた自分自身に翻弄されながら朔太郎はきっぱりと言った。

「ありがとう。今日声をかけてくれて」
 たぶん、笑顔は作れていると思う。
「うん」
 佐倉の返事を受け取ってから、朔太郎は「じゃあな」と手を軽くあげて背中を向けた。
 
 離れていく過程はとても心が痛い。

 それでも。
 いつか痛みが消えたとき、桜の花びらと一緒に思い出せるこの笑顔だけは残るから。
 きっと俺は大丈夫。
 あー。でも。
 自分からは連絡はもうしないって決めてるけど。

 今日みたいに偶然会えたり、会いにきてくれたり、連絡してくれたら。

 俺はもっと大丈夫になるのに。

 片想いのじたばたぶりと痛みを愛にくるんで。
 未練まるだしの波のような感情を優しく扱って。明るい陽射しみたいに前向きに心に刻めるんだけどな。


 
 こんなふうに佐倉から離れていこうと意識した春から夏にかけて、朔太郎の胸の痛みは半端なかった。
 痛くて苦しくて。
 ますますライフワークのダンスとコミュニティワークのバイトに入れ込んだ時期だった。
 片想いでしかないと思っていた朔太郎を、このあとひっくり返す大波がくる気配なんて感じる余裕はないままで。

 高校生活最後の体育祭が終わり、夏休みに入ってからも学校で二人はすれ違うことさえなくLINEもやりとりすることなく過ごしていた時期だったけれど、実は互いにとっての想いを掘り下げていた時間だっただなんて。

 そんなことに朔太郎は気付きもしなかったけれど、それは相手があの不愛想で不器用な佐倉だから仕方のないことだったんだと、後に朔太郎は思い知らされることになる。