寒さが苦手だ。
 冬に体調を崩しやすくなるのは大抵の人は実感しているだろうけれど、朔太郎は体調を崩した時のメンタルの落込みっぷりがヤバい。
 小さな頃から冬場の発熱後だけは陽気な朔太郎が調子を崩す。このことは今のところ家族だけが知っている。数日でいつも通りの全方位にエネルギーを向けられる明るい朔太郎に戻っているから。

 だけど、今回は勝手が違った。
 恋煩いをしているという病を抱えていたんだった。今まで経験したことのない超弩級のヤツ。

 発熱の予感があった朝に心臓に悪い佐倉の一言を聴いてしまっていたというのも原因のひとつだったかもしれない。
 佐倉本人は意識していないだろうけど、普段不愛想な佐倉は自宅で緩んだ時に言葉の棘も抜けて柔らかくなる。そんな何気ない言葉に朔太郎はやられてしまうことがある。

 最後の前向き家出の翌朝。
 いつもは佐倉が寝ている早朝に朔太郎は静かに早起きして退散していたが、その日が土曜日だったこともあってうっかり寝過ごした。多分、発熱前の身体のだるさもあって本調子じゃなかったんだろう。
 シュラフから抜け出して「10分だけ」と言い訳しながら佐倉のベットに潜り込んだ後に寝落ちしてしまった。
 ハッと目覚めて「やばッ」っと叫びながら6時頃に蒲団から這い出すと、既に起床していた佐倉と目があって石みたいに固まった。気恥かしくて気まずくて。
(潜り込んでたのバレた…)
 頭の中でゲームオーバー的な悲壮な曲が流れた朝。
 バレなかったらいいってわけでもないんだけど。
 いつかは打ち明けるつもりだったけど。
 朔太郎が頬骨の辺りを熱くしながら「ごめん」と謝ったら佐倉に「なにが?」と不思議がられた。
 いや勝手に横で寝てたことじゃん…とほとんど聞き取れないくらいの声で目も合わさずに口ごもってたら「知ってたから平気」と佐倉が爆弾発言をした。
「あんたが泊まったあと香りが残ってるから」
 その言葉が思いも寄らないものだったので、聞いた後は頭の片隅がしびれるような気がした。
「かおり…」
「2回目来た時あんたの髪に顔近付けたときに甘い花の香りがしたから。ベッドに残ってた香りはこれかって分かった」
「俺そんな甘いかおり?」
「うん。あと自分のことは猫だと思えって言っただろ。まぁそう思ってるから気にしてない」
 これらのやりとりは朔太郎が発熱時に(これ自分の妄想で生み出しちゃったやりとりだっけ?)と思うくらいで。
 佐倉が朔太郎にそっと近寄って髪の匂いを嗅いだりした?偶然?意図的に?
 そんなことを考えて妄想で作り上げた映像が何度もループして脳内再生されることになって大変だった。
 この流れで重症化しちゃってるところにメンタルの揺れが来てしまったので、手に負えないくらいネガティブな方向に拗らせてしまった。
 

 喉を痛めた1週間が終わり、声が出せるようになっても後向きな気持ちはなかなか回れ右をしてくれなかった。
 佐倉からだいたい10日ごとに「この夜は大丈夫」と事務連絡みたいに素っ気ないLINEが入るが、年明け一月に「風邪ひいて声出ないから家出しない」と初めて断る返事をした。
 普段は泊まりに来てもいいと言ってくれるだけで御の字だったから、事務連絡風のメッセージでも恋文みたいに感じられて胸を騒がせていたのに。
 朔太郎は入浴中に様々な想いを頭に巡らせがちで普段だと楽しいことばかり連想して心を緩めるのだけれど、今は湯舟に浸かりながらどんどん気持ちを沈めてしまう。
 瞑想が過ぎて湯当たりしないようにしろと幼馴染の兄弟によく言われていることが頭をよぎるほど、今日は湯舟で心を飛ばしていた。
 朔太郎は濡れた黒髪を振り、無理やり体を湯から引きはがして立ち上がった。


 迷惑なのかもしれない。
 あいつがボランティア精神を発動させて相手してくれているのかもしれない。
 俺が年上という立場を利用して一緒に過ごすという時間を強いているのかもしれない。
 え、これ。職場だったらハラスメントってやつ?
 言葉をしばらく出せなくなって心の中だけでグルグル廻していたネガティブな思考が、少しずつ朔太郎の心を蝕んでいく。
 嫌いじゃないって程度の俺。
 言動で失敗したら、拒絶されてしまうんじゃないんだろうか。
 排除や拒絶だなんて今まで心配したことなかったのに、自分が能天気過ぎたんだろうか。

 LINEを見ると会いたくなるし話をしたくなるっていう、この想い。ひたすら一方通行なんだよな。
 真冬に手先が冷たくなるのと比例するように、朔太郎は冷え冷えとした気持ちで自分を痛みつけることを止められずにいた。
 相手に我慢させているのに自分ばかりが欲求のまま振る舞っているなんてことが事実だったら悲しくなる。そんな気持ちを微塵も見せずにやり取りできるだろうか。どう返事してよいか分からず迷子になるなんて未踏の大地。
 未踏だからこそ一歩踏み出していただろう。
 今までの朔太郎であれば。
 でも今は。会えば会ったで自分の態度を振り返って、後でダメ出しを自分にしまくるのではなかろうか。ネガティブの海で溺れてしまうのじゃないか。そう考えてしまうようになっている。
 こんなに自分が臆病になるなんて。
 想像の中で朔太郎はどうしようもなくなって、幻の佐倉の喉元に噛み付いてしまいそうになった。

「これ、モカと同じじゃね?」

 朔太郎は歯磨きをしながら意識を飛ばしていたが鏡を見て我に返り、溜息と共に掠れた声を出した。
 風呂上がりの体が熱を失い、濡れた前髪から雫が一筋落ちてきている。
 こんなふうに煩悶して、メッセージが届いているのに気付いても佐倉からのLINEを1週間以上見ることができずにいた。


 水曜日の夕方、朔太郎はソラアヲから出てきたところで佐倉が扉の陰に立っているのに気付いた。
 一月下旬の17時は既に夜の暗闇を纏っている。
 朔太郎の顔を見て、佐倉は白い息を吐きながら少しだけ目を細めて言った。
「声出るようになった?」
 朔太郎はギンガムチェックのマフラーを首に巻こうとしていた手を止めた。アウターを身につけず制服だけの薄着の相手を見て驚いてしまう。
 こいつ…小学生のとき真冬でもTシャツ一枚だったタイプ?
「なんでそんな薄着で待ってんだよ。風邪ひくだろ、バカ」
 朔太郎は自分の首元にあるマフラーを外して乱暴な手つきで佐倉の首に巻き付けた。
「見てるだけでこっちが凍えるじゃん」
 そうぶっきらぼうに言ってから、朔太郎は小さな声で付け加えた。
「寒くなると俺はダメみたい」
 朔太郎は参っている気弱な自分を開示する。
「人肌恋しい想いが爆走しておまえに噛み付きそうになるから近寄れなかった」
 朔太郎が素直に言うと佐倉はなんでもないように答える。
「噛み付いてきたらいいじゃん」
 そのなんでもなさに、今の朔太郎は傷付いてしまう。
 軽っ!何だよ。この社交辞令的なノリは。
 自分との温度差を突き付けられて朔太郎は悲しくなってしまった。
「嫌がることはしたくない」 
 朔太郎が掠れた声で言うと佐倉は表情を変えずに小さな声で言った。
「嫌じゃないよ」
 それを耳にして朔太郎は吠えた。

「じゃないって言葉だともう足ンないの」

 マフラーの隙間から見える佐倉の制服の襟元を掴み、朔太郎は佐倉の喉元まで自分の顔を近付けて、止める。そして佐倉の制服から右手をほどいて相手の喉を乱暴に覆った。こうでもしないと自分の渇望を表現できない。でも同時に咄嗟にこんな衝動に翻弄された自分自身に戸惑う。
 自分への怒りなのか相手への怒りなのか精査もできないし腑分けしようとも思えないくらい混沌としている凝縮された感情。
 佐倉を見上げると冷静な表情をしていた。

 こういうの、独り相撲って言うんだっけ?
 だってどう考えたって相手は1㍉だって悪くない。勝手に拗らせて一方的に喧嘩を吹っかけているみたいな構造の中にいる自分が朔太郎はひたすら悲しかった。

「嫌いじゃない、(いや)じゃないってのがもう苦しい。安心しない。それだと俺は踏み込めない。何言ってんの俺?って思いながら声を出してる、今。否定文ばっか言ってるから今も言ってることが伝わってない予感しかない。俺は混乱してる」

 ここまで言って、朔太郎は俯いていた自分の前髪が、佐倉の喉元を覆っている自分自身の右手の甲に触れていたことに気付いた。

 どれだけ接近しちゃってるんだろう。 
 境界線越えてるヤバい思春期男子の典型か。

 朔太郎は体を起こして佐倉の目を見て、ゆっくり相手の喉元にある右手を離した。
 左脚で一歩後退る。あ、まだ近かったなと思い、右脚もさらに一歩後ろ。

 佐倉と距離を取りながら冷静になっていく頭で朔太郎は自分の本心にも気付く。

 相手の喉元に噛み付きたいだけじゃなく、触れられたいという想いが溢れているのに取り扱えていないから拗らせちゃってんだよなぁ。
 思春期以前のお子様かよ。

「ごめん。叶わないことが世の中にはたくさんあるという現実を直視しないとダメだよな。今ならまだ間に合うよな?」

 朔太郎は自分のマフラーを巻き付けた佐倉の喉元に視線を落とした。黄色と灰色の格子柄が気分を明るくしてくれそうだと一目惚れして秋口に自分で買ったやつ。
 寒い冬の間、佐倉が身に付けてくれたらいいと一方的に想う。

 自分は距離を取るから。

 俺を今まで温めてくれたもので暖かくなってくれたらいい。 

「踏み込んだらダメなやつだったわ。おまえがウザがるのを見ちゃったら今度こそ終わる。だから嫌われてないってだけで満たされる俺になりたい。精進したいって今すんごく真剣に思う。混乱してる中でこれは真実。これもうまく伝わンないだろうけど」

 朔太郎は精進するためにしばらく相手から離れようと夜の匂いに包まれながら想う。
 しばらくで済むのか、これから以降ずっと距離を取るのかはひとまず保留。
 そう考えられただけ上等だと思えた。

 突き進んで失恋を自覚するのが怖かっただけ、かもしれないけど。
 佐倉は何も言わなかった。

「そのマフラー使っててほしい」

 朔太郎の言葉にようやく頷きで応じた佐倉を見て、朔太郎は背中を向けた。

 マフラーをつけていない首元の冷えが、この日だけは気にならなかった。





 初詣に行っていないという朔太郎の言葉を聞いた結陽が「行くぞ!」と朔太郎のブルゾンを掴んで小さな神社に足を運んだ日曜日。 
 朔太郎は人生初の大凶の御籤を手にしたまま石のようになっていた。
 凶なんて今までひいたことないよ。
 しかも大って何?

 朔太郎が顔を上げると結陽と目が合った。

「サクひどい顔してる」
「縁起悪そう?」
「俺の大吉わけてやろうか」
「吉をくれ。大はいらない」
「玲伊君と喧嘩してんの?」

 結陽の問いに朔太郎は次の言葉がすぐ出せない。
 結陽はなんだって俺の心の風邪にも気付くんだ。
 マフラーをつけていない首元に手を当てて、朔太郎は首を大きく回した。

「なんだかなぁ。近くにいるのに自分ばかりが触れたくて触れられなくて、触れてこないから人肌恋しさで自分の中の我儘な部分が暴れ出してドス黒くなんの。自分がイヤになるのが嫌。真っ直ぐに自分を好きでいたい」

 朔太郎がそう言うと結陽が背後に回って抱きしめてきた。朔太郎のブルゾンと結陽のダウンジャケットが重なって、人肌は感じなくても柔らかな毛布の中でかくれんぼをしているような安心感が瞬時に広がった。

 愛されてるなぁと自信を持って寛いでいられる相手との時間はなんて心地よいんだろう。
 触れていることで相手が心を震わせて幸せな気持ちになっていることがわかる自分を、傲慢だとか自意識過剰だと自分自身が責めることもない。
 朔太郎は後ろから優しく抱きしめられたまま、身体の力を抜いて小さな声で言う。
「この安心感に揺らぎそう…」
「揺らいで揺らいで!」
 結陽が弾んだ声を出した。
「こういうのをぬるま湯に浸かるって言うのかな」
 朔太郎が結陽の廻した腕に手を添えて物憂げに問うと、背後の結陽が右手だけほどいてポケットに手を突っ込む。
「ちょお待って。ニュアンスきちんと調べなきゃだから」
 結陽が慌ててスマホを覗き込む。それでも中学生の左腕は朔太郎をロックしたままだった。
 
 このままロックされてたら?
 こんなに温かい腕の中に居たら不幸になりようがないのに、わざわざ(いばら)の道を選ぶのか?

 …茨の道を選んじゃうんだよなぁ。
 取り替えがきかないって、これか。

「えっと。現状に甘える・・・これは違う。飼い慣らされる・・・微妙だな。安住する。あ、これいいな。丸め込まれる・・・丸めこんでねぇよ」
 結陽が熱心にぶつぶつ言っている呟きを頭上に聴いて、朔太郎は気付かれないように一人で笑った。
 なんか、ちょっとだけ元気になった。
 自分の言葉一つを熱心に受け止めている歳下の中学生にまるごと寄りかかりたくなる衝動を感じながら、この幼馴染を幼馴染としていつまでも大事にしようと決意する。

―同性との関係性をワンゲルしろよ。
 ワンゲルって心身鍛練や語りあいや挑戦を目的とする青年活動だろう?
 俺のことをもっとワンダーしろ。

 こんなふうに冗談が言えていた三ヶ月前の自分が本当に愛しくて、遠い。


❍ ❍ ❍


「琉伊。俺は前線から退こうと思う」

 休み時間、初めて佐倉兄のクラスに顔を出した朔太郎は、後輩の琉伊をここでもまた見上げながら切り出した。前置きも何もなく。

「たぶん俺が何言ってるか分かんないだろうけど」

 この言い方を佐倉にもしたな。この兄弟、俺のこと言葉の通じない異星人みたいに思ってたりして。
 朔太郎は2月の肌寒い廊下で窓から入ってきた隙間風に一度身震いしてから早口で続けた。

「これは勇気ある撤退だ」

 琉伊が目を瞬きさせて頷き、静かな声で応じた。

「わざわざ会いにきてくれたと思ったら、そんな報告?それでいいの瀧くんは?」
「あ。通じてる」

 朔太郎が驚いてみせると普段は笑顔の琉伊が眉間に皺を寄せる。
 お。少しだけ佐倉っぽい。
 あ、こいつも佐倉か。ややこしいな。

「何かあった?」
「残念ながら何もない。何もないから進展なさすぎて限界を感じた結果…っつうか」

 朔太郎なりに可能な範囲で本音を伝える。

「恋する者はときどきは忘れることがないと記憶の過剰と疲労と緊張とで死ぬって言ったフランス人がいるらしい。こういう本を読み始めちゃうくらいには悩んだかな」

 朔太郎が小さな声で言うと琉伊がまた柔らかい表情に戻って呟いた。

「ロラン・バルト。『恋愛のディスクール・断章』」
「わ。なんでバレるんだ」

 ちょっぴり焦り、かなり気恥ずかしくなり、同時におおいに安心する。琉伊には少し話すだけで余さず理解してもらえるという安堵。

「バンドのメンバーでオリジナルの曲を作ってる仲間がいるんだけど。自分は恋愛してないからインスピレーションを得るために読んだって言いながら貸してくれたから」 
「俺は新聞。1面に“ひとたび出会えば取り替えのきかない存在になっている”って言葉が書かれてるの見て目が離せなくなって。哲学者の言葉が気になる自分がマジ怖かった」

 “つまりは、自分が排除されたこと、自分が攻撃的になっていること、自分が狂っていること、自分が並の人間であることを苦しむのである”

 そうだ。
 俺は相手への恋心で翻弄されて攻撃的になっているのがみっともなくて苦しくて。
 成就しない恋で苦しむくらいだったら確実に自分を好きでいてくれる幼馴染との関係をこのまま深めていった方がいいんじゃないか。そう狡く悩むくらい自分は狂ったと言えるかも。
 揺れながらも佐倉への恋心は取り替えが効かないことだけは明確になったので、幼馴染への友愛を恋愛にしようという一瞬の気の迷いもきちんと消去させることができた。良かった、と朔太郎は素直に思う。幼馴染への愛はまた特別なもので、恋心には切り替えられなくても、これは心の別の場所で大切に温め続けたいんだと気付けた。
 結陽にそれを告げると「またいつでも揺らげ!」と真剣な顔で言われてしまったけど。
 自分の中の夕陽を使いきってしまった気が、する。
 陽が傾いていく黄昏時。
 自分がまだ幼かったころ。暗くなる前に、夕陽の明るさを頼りに出来ることをする。短い時間にやれることを子どもなりの必死さで味わいつくしていた。子ども時代は夕陽の時間を慈しみながら、日々目の前のやりたいことに没頭していたように思う。朔太郎の場合はそれがダンスだった。
 幼馴染と一緒に夕陽を使いきって。

 そして先日のあの瞬間に幼馴染を選ばなかったという行為で、人生の夕陽の時間も使いきったかもしれない。
 人はこうやって大人になっていくんだ。
 未熟なりに。手探りをして。
 消えた夕陽の温かさを胸に秘めたままで。