スニーカーの靴紐がほどけたことに気付き、朔太郎(さくたろう)が横にずれて紫陽花の植込みの傍でかがんで紐を結んでいた時だった。
 高校2年生になって先輩だけではなく後輩も溢れる学校での生活にも馴染んできた春の終わり。
 ちょうど朔太郎が先程追い抜いたばかりの、小型犬を連れて散歩させていたおばあちゃんがゆっくりと脇を過ぎていく。猫派の朔太郎でも可愛いと思える愛らしい仔犬につい目を奪われていたら、向こうから歩いてきた同じ高校の制服を着た男子生徒の脚元が目に入った。
 こんな早くから学校で朝練かよ、と普段着の朔太郎が何気なく脚の持ち主を見上げたら、その男子がすれ違いざまの仔犬を目で追って溶けるような笑みをしていたのが目に飛び込んできて驚いた。
 小柄な朔太郎が植込みの陰で身を屈めていたので、相手の視野に入っていないのは明らか。
(見てしまってごめん!)
 そう思ってしまうほどの甘い表情を見た朔太郎は、意図せず目に入ったのに盗み見をしてしまったような気分を刹那味わう。

 しかしそれは一瞬の出来事で。

 仔犬に優しい目を注いで歩いていた男子が、前を向く途中のスローモーションのひとコマで靴紐を結びかけたまま自分を見ている朔太郎に気付いた。
 コンマ1秒の早さで笑顔を消して無表情、さらに仏頂面を通り越して朔太郎をきつく睨みつけてから顔を逸らして通り過ぎていく。
「はぁ!?…なんなんだよ」
 朔太郎は靴紐の蝶結びをいつもより力を込めて結び、立ち上がりながら小さくなる背中を振り返って声に出す。
「朝からムカつく!…消えろ」
 おそらく誰にも見られたくないだろう顔を見ちゃって悪かっただなんて一瞬でも思ってソンした。そう思った途端に朔太郎は(あ、しまった)と首をぶんぶんと横に振った。
 ふわっと言葉使うんだったじゃん、俺。言葉だけじゃなくて思考も変えるんだったじゃん。
(損をしたんじゃなくて…) 
 朔太郎は艶のある黒髪を自分でガシガシかき混ぜながら、回れ右をして頭を巡らしつつ幼馴染で年上の旭陽(あさひ)のいる場所に速足(はやあし)で向かい始めた。
(普段目に出来ないデレからツンが見られて得した〜)
 朔太郎は心の中で前向き思考に変換してみる。
「…ってこれ、正解?」
 つい独り言を呟いていた。

 この答え合わせは旭陽としよう。
 週に何回か朝一番にダンスの練習をするのが朔太郎のライフワークだ。朝日が出る方角で、今朝も旭陽が待ってくれている。おそらく弟の結陽(ゆうひ)も。
 いや、アイツは寝坊してるかもしんない。昨晩かなり遅くまで一緒にダンスの練習をしたし。



「うっわ結陽起きてる!旭陽〜おはよう!」

 河川敷の横にある幹線道路下の秘密基地みたいな場所に走り込んだ朔太郎は、二人の姿が目に入ったとたんに叫んだ。
「朔太郎、無駄に元気すぎ」
 短く髪を刈り込んだ結陽は、胡座(あぐら)で焼きそばパンを食べながら声変わりしたばかりの低い声でモソモソと言う。
「朔太郎って呼ぶなっつってんだろ!」
 こう呼ばれると必ず朔太郎が怒るとわかっていて、わざと結陽は時々こう呼ぶ。
「オマエだって兄ちゃんのこと旭陽って呼び捨てしてんじゃん」
「だから呼び捨てはいいの。サクかサクタと呼べって」
「朔太郎ってのがいいんじゃん可愛くてさ」
「よくねぇわ」

 中学生になったばかりの結陽は、高校2年生の朔太郎の背を追越して七㌢上から目線になったあたりから急に生意気な口をきくようになった。
「いや可愛い。振ってる尻尾が見える気がする」
 そう言いながら結陽は焼きそばパンの残りを口に放り込み、結陽のTシャツの襟首を締め上げた朔太郎を「よっ」と抱え込んで自分の胡座の上に乗せた。朔太郎は首を捻って、口をモグモグさせている背中側の結陽を見る。
「尻尾って何の?猫?」
 猫になりたいくらい猫好きな朔太郎は、距離感がバグっている中坊に鉄槌を下すのを一時的に保留にしてそう尋ねた。
「犬。ヨークシャテリヤあたりじゃね?」
「マジか猫じゃねえの?残念」
「そう。シャンプーしたての犬。いい匂い」
 抱えこんだ朔太郎の髪に後ろから結陽が鼻先を突っ込んでいたら、それまで黙ってストレッチをしていた旭陽が弟の頭を鷲掴みにして言う。
「犬はオマエだユウ。発情してる犬になってんぞ。いつまでジャレてんだ」
 大学生の旭陽に注意されて、ようやく結陽は朔太郎を解放した。
 結陽は朔太郎の前では大人っぽい表情でカッコつけるが、兄に向き合うと幼さが滲み出る。
「発情…」
 年相応の中学生の表情になって、結陽は脇に置いていたペットボトルの水を煽りながら立ち上がった。
 馬鹿なこと言い合ってる場合じゃない。
 朝のダンスレッスンは時間が短いんだから。


 朝の静寂の中にカウントを口ずさむ朔太郎たちの声が溶けていく。
 ボリュームを抑えた音楽は、多分自分たち三人しか耳にしていないだろう。
「サク。その立ち位置次は後ろにずらしてユウの動き見ながらもう一度。体もうチョイ斜め前に向けないと腕組みしたそのポーズ、客からは見えない」
 春から髪の色を少し明るくした旭陽が手にしたスマホの音楽を止めて朔太郎に向き合うと、結陽と朔太郎はハァッと同時に息を吐く。朔太郎は速めた呼吸と鼓動をシャツの中に風を送り込みながら整えた。
 朝日が河川敷横の倉庫の隙間から顔を出し、五月の柔らかい光で旭陽の髪を薄い茶色に透かせた。それを見て、朔太郎は家に来たばかりのほうの雉虎猫を連想して一瞬でエナジーチャージする。
「えっと…これくらいの角度!?」
 こめかみに流れる汗を自分のTシャツで素早く拭ってから、再度ステップを踏んだ。
「ワンエン、ツーエン、スリーエン、フォーエン」
 朔太郎は朝の短い時間の中で、最大限に旭陽からの助言を吸収したい気持ちが溢れて暴れて湧き立っている。(おの)ずと集中力が上がって、周りが止めるまで休憩も入れず、水さえ口にしない。
「ファイブ、シックス…」
 ポーズのあと体を沈めて左脚から前に出て。
「セーブン、エイッ」
 直立して左腕を横、右手を頭上に滑らせてから開脚してヘッドシェイク。
「うん、その角度。跳ねて前に出る前にもっと体沈めて。サクのポーズ決めた腕全体が見えるように。どうやったら格好良く見えるかを四六時中考えんの。…なぁ、そろそろ水飲めよ」
 旭陽にそう言われて、朔太郎は「ウィ」と返事をして倒れるように自分の荷物が置かれていた地面に覆いかぶさった。
 水筒を出し、冷たい水を熱くなった身体に注ぎ込む。

 あ、ほんとだ。かなり喉渇いてた。

「サク。言われなくても水は飲め。この前みたいに倒れるぞ」

 結陽とはまた別の細やかな気配りを朔太郎にしてくれる旭陽は、血が繋がっていなくても兄のような存在だ。ダンスがうまくてお洒落で優しくて。こんな兄がいる結陽を心底羨ましく思う。
 朔太郎が旭陽から言われたことは、朔太郎の“やることリスト”に大切に刻まれている。

「旭陽みたいにダイナミックなムーブができるようになりたいのに何度やっても無理だから焦るんだ。わくわくしたいのに自分のダメさ加減に悲しくなる」

 朔太郎は地面に座って、飲んでいた水が口から溢れて首筋をつたった冷たさを感じながら呟いた。この兄弟二人には素直に心をさらけだせる。

「サク。ユウのポジティブ思考を見習うんだっただろ?無理じゃない駄目じゃない。おまえの軽やかな動き、目を奪われるよ。派手なムーブだけが全てじゃない」

 背の高い旭陽が身体を屈めて、三角座りをしている朔太郎に目線を合わせた。旭陽は朔太郎の右手にあった水筒を奪って水を飲む。
 朝の涼しい風がトンネルのような空間を吹き抜けていく。頭上の幹線道路を通る車の音が徐々に増えていくのを聞きながら、兄弟は朔太郎を挟んで地面に腰を下ろした。

「サクはさ。女子から綺麗な顔してるとか端整な顔立ちが好きだとか言われた時はいつも怒るだろ?ダンスするのに関係ないって。でも顔立ちだってサクの一部だろ。おまえの強みにすればいい」
 旭陽が右横の朔太郎の顔を覗きこむ。
「おまえの見た目に惹かれて踊ってる姿見たいって思ってもらえたら、まずはそれでいいの。ダンスでさらに魅了してやれ。相手の魂をそこから揺さぶれ。だから、こんどおまえ誰かからツラ褒められたらありがとうと思えよ。プラスに考えろ」
 旭陽は朔太郎に水筒を手渡しながら、朔太郎と目が合うと少し口角を上げた。
「ユウの前向き思考エピソード聴かせろって言ってただろ。先週末も最高だったよ」
 そう言って旭陽は、音楽が止んだとたんにリュックから出したおにぎりを食べていた結陽に視線を向けて優しい顔をした。
 ダンサーというより野球少年のように日焼けした結陽は、部活後の腹ごしらえをしている運動部員に見える。
 結陽は次のカレーパンにかじりついて咀嚼することに全神経を向けている。

「長くなるから省略するけど訳あって久しぶりに遠い親族と会ったんだ。話の流れでユウの名前が話題になったワケ。そのオバサン遠慮なく『アサヒは昇るから縁起いいけどユウヒなんて沈むような名前、よく親がつけたもんだ』って俺らに言ってきてさ。ユウなんて返したと思う?」

 旭陽の語りを聞いて朔太郎はその親族とやらに一瞬で憎しみを抱く。眉根をギュッと閉ざして怒気を漲らせた朔太郎の左肩を、旭陽が柔らかく掴んだ。

「怒んなくていいの。ユウが言った言葉聴いて。笑うよ」

 そう言われた朔太郎は、旭陽の言葉を受け入れて意識して呼吸を深め、力の入った肩を落として振り返って結陽を見た。

「なんて言ったの?」

 そう問われた結陽は右頬だけ膨らませながらモキュっとした声を出す。

「ん〜〜と。朝陽見て喜ぶのは山登りしてる人かあんたみたいなジジババが多いけど、夕陽はたくさんの人が綺麗だってわざわざ海岸に行って見てる。夕陽の方が女子にモテる!ってドヤ顔してみた」

 朔太郎は飄々とした表情をしている結陽を見て、吹き出してしまった。明るい気持ちが初夏の早瀬のようにすばやく朔太郎に流れ込んでくる。

「くははは。やっぱ女子からモテたいんだ?結陽だったらかなりモテるだろ?」
 朔太郎は結陽の前向きさにはいつも救われていた。
「うんモテる。春から三人に告られた。でも俺は朔太郎に一番モテたい」
「・・・・・・」

 朔太郎は一瞬動きを止め、背中側に置いていた斜め掛けポーチからタオルを出して自分の首に掛けながら結陽の真面目なんだか不真面目なんだか分からない発言を吟味した。朔太郎は旭陽に顔を向けて問うてみる。

「あのさ。最近結陽の俺に対する言動は何?中1なのに中二病になっちゃってこじらせて、で、その後遺症的な?何なの?」
 そう尋ねられて旭陽は苦みを少し溶かせた笑顔になった。
「ユウは家ん中ではサク命的なことは前から言ってたよ。身長越したら本人に言うって宣言しててさ。朔太郎より早く大きくなりたいっていう気持ちが純粋すぎて叶えられたって、ユウは本気で信じてる」
「何ぃ〜!?おまえか!おまえのポジティブシンキングが俺の成長を阻んでんのか!」

 朔太郎は振り向いて結陽の襟元をまた締め上げた。本日二回目の朔太郎のシバキに結陽は動じず、ヴォルビックを飲みながらVサインを出した。

 ピースじゃねぇわ平和じゃねぇわ。
 結陽だったら、真っ直ぐな気持ちで非現実なことも可能にしそうだ。俺の身長伸びないまま?
 本気で心配している朔太郎自身が自分で滑稽なくらい、結陽のポジティブさは筋金入りだ。
 結陽は笑った顔がかわいいんだよな。神様だってあの顔見たらハート掴まれるわ。

 そう思った朔太郎はすっかり汗がひいて冷たくなったTシャツの内側を感じながら、この刹那に心の深いところに生じた何かに意識を向けた。

 今まで見たことがないくらい優しく笑った顔と甘い眼差しと温かな仕草を、今朝見た気がする。
 自分に向けられたわけじゃないのに、目が離せないほどに愛が込められた視線。相手を心から慈しんでいるのが一瞬にしてわかってしまうくらいの。


 あ〜、あいつだ。あの顔だ。
 朔太郎は1時間前の光景を心で反芻した。
 その途端に何故か鼓動が早まって頰が熱くなったことに戸惑いながら、ゆっくりと朔太郎はその場で立ち上がる。
 なんだ。この時間差でくるドキドキは?
 え?俺マジむかついたって腹立てたあいつの笑顔思い出して、今ときめいてない?
 俺、大丈夫?
 ここまで朔太郎は真顔で自分に突っ込みを入れていたが、プラスに考えろと再び優しく言われたことを思い出した。
 ネガティブ思考とはサヨナラする。結陽に続け、俺。
「愛を教えてくれてありがとう!」
 そうポジティブに言葉にしてみた。
 かなり突拍子もない発言だったけど。

 旭陽と結陽が座ったまま、驚いた顔をして朔太郎を見上げた。
「サク?」
 なんかよくわかんないけど。
 俺、わくわくしてる。
「旭陽。前向き思考の法則的に合ってるかどうか答え合わせしてくんない?俺の靴紐が解けたあとに起こったあれやこれやで沸き起こってるこの思考が健全かどうかさ」
 そう言って、朔太郎はとびっきりの笑顔になって二人に笑いかけた。


❍ ❍ ❍

 
 週に3回、帰宅部の朔太郎は「ソラノアオヲ」略称ソラアヲに寄る。
 伯母と年上の従兄弟が関わっているNPO法人で、この法人のコンセプトはこういうものだ。

  あなた自身の物語を
  青空を見上げながら
  風の声を聴きながら
  もう一度紡ぎなおす場所

 ふぅん。
 で、どんな場所なんだ? 

 最初に来た時、朔太郎はこう思った。
 よく分からないが、いろんな大人と子どもが出入りしている。建物の入り口に長めの木のベンチが置いてあって、部活帰りの高校生が座って仲間と喋っていることもある。
 昼間は一階の広いスペースで数人が何か手作業していたり、放課後に子どもがやってきて勉強するのを近所からふらっとやってきた高齢者が見守っていたり、勉強を嫌がっていた子どもがスタッフと一緒に料理をしていたりとさまざま。
 月に2回はコーラスグループが集まって合唱しているし、週末に若い女性が集まってヨガのレッスンを受けていたりする。リノベーションされたばかりの明るい空間には、誰でも立ち寄って良いスペースがあり、大きな窓から道行く人が見える開放的な場所だ。
 夕方6時を過ぎると子どもたちが大きなテーブルに集まって、大人と賑やかに夕食を食べているのが日常の光景。
 マイペースに一人で静かに過ごしている子どもや大人もいるが、一人なのに、独りじゃない。
 そんな場所。


 このソラアヲでアルバイトをすることになったのは、朔太郎が中学3年生の時にここを訪問したときにスタッフの従兄弟が腹痛で苦しみだした、という出来事がたまたまあったから。この時は朔太郎がダンスの練習をする屋内スペースを探していて、従兄弟の遥樹に相談するために2階の事務所に初めて入らせてもらっていた。
 従兄弟は大学を卒業して自分の母親が運営している法人のスタッフになって一年目だったから冬を迎えてようやく仕事に慣れてきたという時期で、その日は電話相談を担当している日だった。
 電話相談は二つの回線があり、かかってきたら事務所内の机で取った後、相談ブースに入って静かな環境で電話を繋げる。相談員2名が入れ替わり立ち替わり、電話がかかるたびにブースに入る。一つの回線は朝9時から夕方5時まで。もう一つの回線は365日24時間繋がるようになっている。ソラアヲがココロツナグラインと呼ぶ相談事業だ。
 電話番号は違ってもかかってくる場所は同じ。ブースは左が女性相談、右が性別年齢関係なく誰でも相談できる24時間繋がる相談窓口。非常勤の相談員が体調不良や有給休暇等で休んでいる時は、常勤の法人スタッフも一緒に電話を受ける。朔太郎が初めて事務所に顔を出した時は遥樹がちょうど右の相談ブースから出てきた時だった。

「お〜サクタ来たな。ダンスレッスンする場所のことだよな。それ検討した結果の報告したいんだけどちょっと待て」
 遥樹が声をどんどん小さくしながら右手で腹を押さえ、左手を朔太郎に向けて“ちょっとたんま”のポーズをした。
「ココロン受けてる間にどんどん腹痛ヤバくなってきてさ、マジ脂汗かいたわ」
「ココロン?」
「ココロツナグラインをそう呼んでんの、ってヤバいトイレ行く。悪い!サクタ。もし電話かかってきたら大人びた声出して相談電話出といて」
「はぁ!?」
「今相談ブース入ってる有本さん電話終わって出てきたら対応してもらえっから」
「出てこなかったら?」
「ここで電話出ていったんこの保留ボタン。で、ブース入ってこのインカムマイクな。相談内容は簡単にメモっといて。じゃ!」
「遥樹さ〜ん…ムチャぶりしすぎ」

 そんな経緯で結局この日相談電話に出てしまった朔太郎は、なぜかその後も遥樹の替わりに電話対応を数回する羽目になった。
 その流れでココロン利用者から(これまたなぜか)カリスマカウンセラーと呼ばれ、高校生になってからアルバイトで相談電話を受けることになったのだった。
 不思議なことに。
 ド素人の朔太郎は話を聴くことしかできない。人生の先輩に気の利いた助言なんかできやしない。朔太郎より年下の学生からの相談は今のところない。若くて大学生、上だと80代の女性からの相談もある。相手と一緒に「う〜ん、どうしたらいいんっすかね?」と悩むことしかできない。
 それでも朔太郎の天性の共感力と瑞々しい感性が、なぜか相談者のココロに効く…らしい。朔太郎には分からない。
 いやカウンセラーじゃないし専門家でもない。いたってフツーの高校生なんだけど。
 朔太郎は他の相談員がココロン利用者の常連さんから「新しい若い男性の相談員さんと話したあとに前に進めたわ」「言葉掛けにグッときたのよ。カリスマカウンセラー雇った?」と言われたと後から聞いて戸惑ったくらい。
 ソラアヲの責任者である伯母はきっぱりと言う。
「うちは行政機関でもないしカウンセリングルームでもないの。専門家かどうか聴かれたら違うって答えたらいい。でも、わざわざ高校生だとも言わなくていい。利用者が君と話していて君をプロだと思い込んだとしたら否定もしなくていい。フツウの高校生。だから何?この法人はアタシの理想詰め込んでんの。私は朔太郎の瑞々しさを愛してんのよ」
 
 初回のあの日。
電話がかかってきてしまい、朔太郎が初めて心臓をバクバクさせながら出た一年半前の電話は、猫好きで動物愛のある朔太郎だったから共感できたともいえるかもしれない。50代か60代だと思われる女性からの電話だった。

━初めてこちらにかけさせてもらいました。今、話してもいいですか?
「は、はい。どうぞ」
━相談というかなんというか。この寒い季節になったら思い出して寂しくなってしまって。一昨年、甥が亡くなりましてね。彼を思い出してしまうんです。
「甥っ子さん…」
━そう。あのコ、会社でパワハラを受けながらもがんばって家電を売ってたんですよ。うちの冷蔵庫も甥の会社のものなんです。若い甥の感性でお洒落な素敵な冷蔵庫を選んでもらって。あなたも声が若いわね。あなたくらいの若い甥。あなた、おいくつ?
「あ、あの。齢は…秘密ってことでいいですか?」
━ごめんなさいねぇ、詮索して。忘れて下さいね。甥がね、結婚して家を建てて、子どもが生まれて。それなのに。ねぇ。私より若い甥が先に亡くなってしまうなんて思いも寄らなくて。私、何もしてあげられなかったって思うと辛くてね。
「……辛いっすね」
━そう。ほんと。辛いわ。2年経って、先月ね、甥のお嫁さんが仔犬を飼いはじめたんですって。息子がねだるからって。
「仔犬ですか」
━えぇそう、仔犬。かわいかったわ。先週、寄らせてもらったのよ。甥の家に。私もね、犬を飼っていたこともあるから、好きなんですよ犬が。でも私、会いにいった仔犬には吠えられてしまって。なんだか悲しかったわ。懐いてくれるものだと思ったのに。
「吠えられたのが悲しい?」
━そうなの。すり寄ってきてくれるかと思ってたのよ。私の犬好きはすぐ犬には伝わるみたいで。今まで散歩してるワンちゃんとすれちがっても、すぐ尻尾振ってくれたりしてたのにねぇ。吠えられるだなんて。
「あなたに、何か言いたかったんじゃないですか?」
━私に?何かを?あら、そんな風には考えたことなかったわねぇ。そうね。その仔犬は死んだ甥と同じ誕生日なんですよ。
「誕生日が同じ?」
━そうなの!だからそのコを家族に迎えることにしたってお嫁さんは言ってたわ。甥は自分で命を絶ってしまったんです。追い詰められてたんでしょうね。甥がその豆太、あ、そのコの名前ね、豆太になって、家族に会いに来たのかもしれないわね。そして、さらに私にも何かを伝えようとしてくれたのかしらね?
「……」
━そう考えると、私、嬉しいわね。また吠えられにいこうかしらね。ありがとうございます。今日はあなたの声を聴いて、久しぶりに甥と話せたような気持ちにもなったわ、ありがとう。さようなら。
「…さようなら」


 俯きなから相談ブースから出てきた朔太郎を見て、遥樹と有本さんという女性相談員が驚いたというエピソードは、今もソラアヲで語り継がれている。
 
 顔を上げた朔太郎は涙を流していた。

 

 高校2年生になった朔太郎は帰宅部なのをおおいに活用して週3回アルバイトスタッフになる。一階のスペースが空いているタイミングでダンスの練習をさせてもらったり、通ってくる子どもにダンスを教えたりも、する。
 でも、メインはこの相談電話の対応だ。電話がかかってこない待機の時間に学校の宿題をしてもいいことになっているし、なんなら事務所の中で踊ってくれててもいいよ?と伯母から言われている朔太郎だった。

 そして、時々今でも相談を受けた後に朔太郎は泣いている。
 朔太郎は見ず知らずの相手に心を寄せて愛を紡ぐことが出来る、そんな力があることに自分では気付けないでいた。それでも朔太郎は、言葉だけで見知らぬ人と手を繋いで心を繋いでいく感覚に浸されることで、最終廻り廻って自分が力づけられることに気付きはじめていた。

 ここで、泣いてもいい。

 あなたも、そこで、あなたが今居るその場所で、泣いてもいいんだ。
 こう思える朔太郎だから、このあとに嵐の勢いで翻弄される甘くて苦い恋心をなんとか抱えていけたといえるかもしれない。
 この時はまだ、何も知らなかった。