わたしの兄はなんだってできた。
 勉強は常に学年トップ。
 サッカー部ではエース。
 絵だって習字だって上手い。
 おまけにコミュ力も高い。
 こんな非の打ち所がない人間がいていいのかって何度も何度も思った。

 そんな兄とよく比べられてきた。

 中学生のとき、クラスメイトの子と勉強会をしていたら疑問が飛んできた。
 しかもそれに悪気はない。

「お兄ちゃんのなおくんはあんな完璧なのに、凪優(なゆ)ちゃんはなんでそんな要領悪いの?」

 は? そんなのこっちが聞きたいよ。
 そんな本音が思わず零れそうになった。
 でも、そんなの言えない。言えるわけがない。
 空気を壊す存在になるだけ。

「お兄ちゃんが異次元すぎるんよー」

「たしかにそれはそうかも! 凪優ちゃんくらい抜けてたほうがかわいいよ」

 よしよしと頭を撫でられる。
 ほんとは鬱陶しいけどにこにこしてる。

 これがわたしの生き方。
 いつもにこにこしてまわりに共感して優しくする。
 本音なんて一切言わない。

 そんな生き方は高校生になっても変わらなかった。



 
 わたしは昔から要領が良くない。
 だから、勉強だって理解するのに人一倍時間がかかる。
 そんなわたしに嫌気をさしてまわりの席の人たちはだれも教えてくれなくなった。

 一番不得意なのは数学。
 ある日、いまやってる問題を全員終わらせないと連帯責任として宿題を増やすと言われた。
 終わるわけがない。
 でも、終わらせないとみんなに迷惑がかかる。

「凪優ちゃんいたら無理じゃない?」
「教えても全然理解してくれないし」

 そんな声がヒソヒソと聞こえて思わず涙が出そうになった。
 

「わたしが教えるよ」

 その声と共に一人の女の子がそばにきてくれた。

芽依(めい)、さすが!」
「優しすぎ!」
「やっぱり芽依頼りになる」

 そんな声がまわりから聞こえてくる。
 そんなことないよーと言いながらもすごく満足そうな表情を見せた。

「大丈夫だからゆっくり落ち着いてやればおわるよ。
 一緒にがんばろ!」

 こんな優しい言葉をかけられたことなんて生まれてはじめてで今度は嬉し泣きしそうだった。
 このときから芽依ちゃんはわたしの憧れだった。


「あ、凪優! けがしてる!」

「凪優! それどーしたの?」

「凪優のノートだれか知らない?」

 それ以来、わたしがドジしたり物をなくしたりしても、芽依ちゃんがすぐにきてくれるようになった。
 わたしがだめだめでも一切否定しないで、手を差し伸べてくれる。
 こんなにもわたしを見ててくれる人がいるなんて、視える世界が変わった。

 いつからかふたりでいるのがあたりまえだった。

 たぶんそこに友だち以上の気持ちがあった。
 芽依ちゃんがたとえわたしのことなんとも思っていなくたって、バカにしてたって。
 なんだっていい。
 芽依ちゃんの瞳にわたしが焼きついているのなら。
 芽依ちゃんがわたしのおかげで生きていけるなら。

 そして、芽依ちゃんはお兄ちゃんのことを嫌っていた。
 あからさまな態度をみせる彼女に安堵した。
 芽依ちゃんはわたしを見てくれる。
 兄じゃなくてわたしのことを。

 はじめて兄のことを気にならないくらい自分のことを肯定することができた。




「凪優は好きな人いる?」

「えー、てか、芽依ちゃんはいるの?」

「ひ、ひみつ!」

 いつの日か話した恋バナ。
 結局、芽依ちゃんの好きな人はわからなかった。
 けれど、芽依ちゃんに好きな人がいるという事実が耐えられなかった。

 かといって、わたしが彼女のとなりを歩けるほどの自信はなかった。

 そんなことを思い出しながらカメラロールにある写真を一枚一枚スクロールしていく。


「なぁ、凪優」

「なあに」

 ノックをしてから兄がわたしの部屋に入ってくる。
 いつもは休日でも完璧に服装は整えているのに、珍しく髪もセットせず、服もまだパジャマのままだった。

「お前さ、ほんとに事故で死んだの?」

「……」

 一瞬で彼が言いたいことを理解してしまった。
 だから、そんな格好でわたしの元へ来たんだろう。

「事故で死んだならなんで遺書なんかあんの?」

「……お兄ちゃん、いつわたしの部屋漁ったの?」

 鋭い視線を向けると、バツが悪そうに持っていた遺書をわたしのそばにゆっくりと置いた。

 これは元の世界でわたしが書いていた家族宛ての遺書。

「そ、れは……悪い」

「そうだよ。わたしは自殺した」

 あのとき、たしかに車同士の事故は起きたけど、逃げることは容易だった。
 けれど、死が迫ったあの瞬間、これでいいと思った。
 どっちにしろわたしはこの歳で終わりにするつもりで前からこっそりと遺書を綴っていた。
 それなら、事故でもなんでもいい。

「……知らなかった? わたし、ずっとずーっと死にたかったもん」

「な、なんでだよ」

 お兄ちゃんが珍しく焦っている。
 わたしの考えが読めないのか、あたふたしているのが新鮮で笑みを隠すように下を向いて答える。

「芽依ちゃんの忘れられない人になりたい」

「……は? どういうこと?」

 自分でもわけのわからないことを言っている自覚はある。
 でも、これがわたしの本心だ。


 芽依ちゃんは明るくて優しくて、頭も良くて、頼り甲斐があって、だれからも好かれる太陽みたいに眩しい存在だ。
 学級委員でクラスをまとめたり、だれも解けない問題をサラッと解いたり。
 だれもが一度は目標にしたい存在なはずだ。

 そんな彼女ならきっとこれからたくさんの友だちができたり彼氏をつくったりするだろう。
 そんな大勢の中のひとりでいたらきっといつかわたしのことは忘れられる。
 高校生で一緒に過ごした日々なんて色褪せていく。
 特に目立った特徴もないわたしが記憶に残るわけがない。

「わたしが死んだら芽依ちゃんは絶対覚えてくれるでしょ」

「…そ、なんことで死んだのかよ。
 じゃあ俺は? 俺の気持ちとか! 母さんや父さんの気持ち考えたことあったか?」

「は?」

 声を荒げる兄に今度は冷たい視線を向ける。

「お母さんとお父さんはいっつもお兄ちゃんばっか。
 わたしのことなんてなーんも見てない。期待もしてない」

「……」

「お兄ちゃんと双子じゃ、どこにいても比べられる
 そんなんもう耐えられないよ!
 だから、家族がどう思うかなんて知らないよ!」

 わたしの怒鳴り声が家中に響く。

「……ごめん。気づいてやれなくて悪かった」

 ゆっくりと近づいてぎゅっと優しく包み込んでくれる。
 久しぶりにこんな暖かい温もりに触れた。

 こんなときでも素直に謝れて、人に優しくできる。
 わたしには真似できなくて嫌い。

「なに、いまさら遅いよ」

 そっと胸を押して離れてまっすぐ見つめる。

「もうとっくにわたしの世界は、芽依ちゃんが中心なの。
 芽依ちゃんに忘れられたらわたしはだれからも認知されない、きっと死んでるのとおんなじなの。
 だから、自殺した」

 人の死は一生忘れられない傷をつける。
 仲良かったなら尚更だ。

 だから、わたしは芽依ちゃんを傷つけることを選んだ。
 自分の意思で。





「凪優、一緒にゲームしようぜー!」

「凪優、お菓子いる?」

「なぁ、凪優ー!」

 わたしが自殺したことを知ってから兄のだる絡みが増した気がする。
 元々しつこいところはあったけど。 

「いきなり家でもくっつかないでよ。暑苦しい」

「凪優って心の中ではそんなこと思ってたんだな。
 知れてよかった」

 うれしそうな笑みを浮かべた。
 なんて、ポジティブ思考なんだ。

 
 それから家にいるときはなるべくお兄ちゃんと共に時間を過ごした。
 一緒にゲームしたり、映画を観たり、些細なことだったけどうれしかった。
 もうニコニコと自分を取り繕わなくていいのも楽で、もっとはやく自分の心を見せればよかったとちょっとだけ後悔に似たなにかを感じた。
 前の世界でできなかった自分らしく生きることができた。



【わたしは自分の意思で死ぬことを決めました。
 家族にはほんとのことを言いますが、まわりには自殺ということは伏せてください。
 特にわたしの友だちだったあの子には。

 ごめんなさい。
 最期まで弱くてごめんなさい     なゆ】

 自分が書いた遺書を読んで、そのままビリビリに破く。
 やっぱりこれは必要ない。
 
 最期にお兄ちゃんに一言だけ、メモを残そう。
 そう、決心した。





「凪優」

 大雨の夜、こっそりと外に出ようと靴を履いていると、玄関の電気が点くとともに後ろから声が聞こえた。

「……お兄ちゃん」

「もう最期なんだな」

 寂しそうな、哀しそうな声色をする彼の言葉に静かに頷く。


「芽依は、お通夜にお葬式、めちゃくちゃに泣いて哀しんでた。学校でも哀しみを隠しきれていないくらいに。
 だから、お前のこと一生忘れないよ」

「……うん。それならわたしが死んだ意味あったね」

 芽依ちゃんが泣いてくれるなら。
 そして、願わくば、芽依ちゃんがわたしの存在を糧にして、自分らしく生きようとしてくれたらいい。
 芽依ちゃんの生きる理由になれたなら。


「……お兄ちゃん。ばいばい」

 目線を上げてはじめてお兄ちゃんの顔をみたとき、一瞬息ができなかった。
 お兄ちゃんが、あのお兄ちゃんが泣いてるんだ。

 ほんとは家族の中でお兄ちゃんがわたしのことをいつも心配してくれていたことはわかってた。
 心を通わせてからは気持ちも楽になった。
 でも、もうすぐ結末(おわり)

 ありがとう、お兄ちゃん。
 ごめんね。





 大雨の中、路地裏の近くは閑散としていた。
 こんな土砂降りの中傘もささずにフードを被ってるのはわたしくらいだろう。

 あたりはあたりまえのようにだれもいない。

 ふと少し遠くのほうに見慣れた傘が見えた。
 間違えるはずがない。
 わたしも同じのを持ってるおそろいの傘。
 
 芽依ちゃんだ。

 やっぱり、来てくれたんだ。
 芽依ちゃんなら絶対来てくれるって信じてたよ。