先生を殺した二文字の言葉

 その日は英語の授業がなかった。英語だけが私にとって唯一の救いだというのに。あんまりだ。
 小林の数学の授業は相変わらず。教科書を読み上げるだけの退屈で無駄な時間。
(すめらぎ)、お前、化粧してるだろ。校則違反だぞ」
 そんなことを思っていると、名前を呼ばれて世界に亀裂が走る。ああ、まただ。このクソ教師は、クラスで排除されている私を使って、里香に媚を売ろうとしている。喉に真っ黒な空気が張り付く。
「してません」
 怒りを隠そうと高い声にしたつもりが、思ったより低音になってしまった。メイクなんてするわけない。そんなの、また里香たちのおもちゃにされるだけだ。
 それをわかっているだろうに。いや、こいつにはメイクしているしていないの区別もつかないのかも。
「唇が赤いじゃないか。口紅を塗ってるんだろ? 素直に言いなさい」
 塗ってないし。ってか、「口紅」って言葉選びからしてキモい。
「センセ? さっきその人色つきリップ使ってましたあ」
 里香がわざとらしい声で言う。小林はニヤッと笑った。
「ほんとか? じゃあ取り上げなきゃだな」
 モヤモヤしたものがお腹の真ん中あたりでぐるぐるする。
 小林がニヤけながら近づいてきた。
「ポーチ開けろ。口紅は俺が預かるから」
 奥歯をギリリと噛み締める。
 は? 意味わかんない。なんでこいつなんかに見せなきゃいけないわけ?
 教室から飛び出したくなる衝動を抑え、お守りとなる言葉を心で何回も繰り返し唱える。
(死ねよ、こんなキモいジジイ。この世から消えていなくなれ)
 死んだように椅子に座ったまま時が過ぎるのを待つ。
「おい、皇、なんか言ったらどうだ」
 もちろん、無視。
「もうこれ以上は授業が進まないから後にしよう。皇、授業終わったら指導室来い」
 呆れた顔をして小林は教壇に戻って行った。教壇に登る時、ダンっと大きな音を立てながら。うるさい、体重減らせよ。
 そんな些細なことですら、私の世界を真っ黒に染める。
 死ねって言葉がいけないのはわかってる。でも、言わないとやってられない。何度心の中で相手を殺したことだろう。グサって刺せば、私の中でそいつは死ぬ。私は清々しい気持ちになって——。
 でも、世間はそんなこと認めてくれない。きっと、心の中で人を殺すことだって許されないのだろう。
 そんなのおかしい。この世界から私を殺しているのは、他でもないあんたたちじゃないか。それなのに、私が心の中で里香や小林に死ねって言うのは、いけないこと?
 里香たちが後ろの席でクスクス笑っているのが聞こえる。
 あーあ、もう嫌。
 グラウンドを見ると、楽しそうに体育をしている他クラスがいる。胸がざわつく。学校なんてクソ喰らえ。みんな死ねよ——。

 授業が終わって、私はもう一度小林に呼ばれたが、無視して逃げた。トイレだけだから、顔を歪めるのが許されるのは。
 すると案の定、里香たちの一軍集団がやってくる。
「あの個室、全然開かないからスメルじゃね?」
「うっわ、絶対そうじゃん。いっつもあそこに逃げてるよね。ってかさっきおもろくなかった?」
「それな? 小林騙されててマジウケる。スメルみたいな顔面でメイクしても意味ないし、してるわけないじゃんね」
 スメルというのは私のあだ名だ。皇と「匂う」という意味の"smell"をかけてつけられたらしい。
 仕方ないじゃん。うちは2週間に1回くらいしか洗濯できないんだよ。あの母親が許してくれないんだよ。私が悪いわけじゃないし。
 私は息を潜めて、里香たちがトイレから出ていくのを待った。
 ——今日別に授業出なくてもいいかな。英語ないし。
 普段ならそんなこと考えない。こんなに生きづらい学校でも、家よりはマシだから。授業を受けるのは当たり前のことだし。
 でも、何かがぷつんと切れてしまったみたいに、私の足は動かなかった。始業のチャイムが鳴る。
 あんなヤツらに邪魔されて授業に出られないということは悔しいけれど、それ以上に、もうどうでもいいという気持ちが大きくなりすぎた。
 泣くこともせず、ただトイレの汚い壁を見つめて、時間が過ぎるのを待つ。
 どれくらい経っただろうか。終業のチャイムを聞きたくなくて、私はトイレを飛び出し、ダッシュで屋上に向かった。
 別に飛び降りなんかしない。自殺なんて負けるみたいじゃないか。私はただ、心の中であいつらを殺すために屋上に来た。
 みんな綺麗なお伽話しか信じてない。この世界は綺麗ですよ、いじめなんてありません。頑張れば頑張っただけ結果がついてきます。中高の学校生活はキラキラしていて、快晴の青空みたいな色です!
 うるさい、そんなの全部嘘じゃないか。