目を覚ました時、絢斗は自分がどこにいるのかわからなかった。
 白い天井。ぼんやりとした視界の端に点滴の袋が見え、あぁ、とようやく合点がいった。自宅で意識を失い、病院に搬送されたのだ。
 ベッドの(かたわ)らには母がいた。午前中はパートタイムの仕事に出ている母だが、幸い、午後二時にはいつも家に帰っていた。二階の寝室で倒れた絢斗を保護してくれたのは母だろう。
 パニック障害の症状が出て過呼吸になったことが倒れた原因だと説明され、その日のうちに自宅へ帰った。母から「志さんから何度も電話がかかってきていたけど」と渡されたスマートフォンは、手にしたその時に電源を落とした。

 体調は回復していたが、心は沈み切っていた。
 風呂に入ってもさっぱりしないし、食欲もない。ひたすらに無気力で、心配した母が「志さんとなにかあったの?」と訊いてきても首を横に振るばかりだった。母は絢斗が志と楽曲制作をしていることを知っているが、否定されたり、余計な口出しをされたりしたことは一度もなかった。

 リビングのソファで膝をかかえ、クイズ番組を呆然と眺めていた。クイズは嫌いではなく、いつもなら番組出演者と一緒になって答えを考えるけれど、今は挑戦する気が起きなかった。
 頭の中は志のことでいっぱいだった。大好きな彼の歌声を耳の奥で再生するといつもは心が落ちつくのに、今夜ばかりは耳鳴りがするようだった。
 それでも忘れられなくて、つい志のことを考えてしまう。そうすることを、自分の力では止めることができなかった。

 午後八時を過ぎ、別の番組に変わった。()しくも音楽番組で、絢斗はリモコンを引っ掴み、チャンネルを変えた。
 キッチンのほうから、インターホンの音が聞こえてきた。こんな時間に来客なんて珍しい。父が鍵を忘れて仕事へ行ったとか、そんなところか。
 母が応答する。「はい」「まぁ、そうですか。ありがとうございます、ご心配いただきまして」「少々お待ちください」などと言ってから、絢斗を振り返った。

「絢斗、志さんが」

 一瞬、聞き間違いを疑った。
 そんなバカな。あの人が、ここへ?

 けれど母は「ほら、早く出なさい」と無理やり絢斗の腕を取ってソファから立たせ、高校時代から愛用している濃紺のロングダッフルに袖を通させると、玄関へとつながる廊下まで押しやった。
 ここまで御膳立てされると行くしかなくなり、絢斗は裸足のままスニーカーを引っかけ、玄関扉を押し開けた。
 目の前に、モスグリーンのモッズコートを羽織った志が立っていた。

「大丈夫?」

 志の第一声は、絢斗を気づかう一言だった。絢斗が外へ出て扉を閉めると、「心配したよ」と続けた。

「こんな時間にごめん。連絡してもつながらないから、またどこかで発作起こして倒れてるんじゃないかって、気が気じゃなくてさ」

 志はいつもどおりだった。心から絢斗の身を案じ、都心からわざわざ駆けつけてくれた。
 絢斗の視線が下がる。志の傾けてくれる優しさに、涙がこぼれそうになる。
 絢斗の頭に触れようと、志の右手が伸びてきた。
 近づいてくる志の手首を、絢斗は掴んだ。指先さえ絢斗に触れられなかった志は驚き、「絢斗」と漏らした。

「どうしたんだよ。なんか、いつもと違う……」

 そこまで言って、志はなにかに気づいたように小さく息を飲んだ。

「絢斗……おまえ、礼音(れおん)に会ったな?」

 顔を上げ、絢斗は志から手を離した。
 礼音。それが大学まで押しかけてきたあの男の名であるらしい。絢斗が黙って志の目を見つめると、志はかすかに舌打ちをした。

「なにを言われた?」

 絢斗は答えない。

「俺から離れろって言われたんだろ。俺は歌い手じゃなく、ピアニストになる男だからって」

 意図せず瞳を揺らしてしまった。「やっぱりね」と志は言った。

「ごめん、絢斗。あいつの言うことには耳を貸さなくていい。俺は俺の決めた道を行く。あいつの願いと、今の俺の願いは重ならない。それだけのことだから」

 言いたいことはわかる。そして志ならそう言うだろうと絢斗は薄々感じていた。
 だから、絢斗は首を横に振った。人差し指を立てた右手で自らの右耳を差し、それから両手でピアノを弾く真似をした。

「聴いたのか、俺のピアノ」

 志はすぐに絢斗の意図を察してくれた。絢斗はうなずき、もう一度首を横に振った。すごすぎて言葉にならない。ピアノを聴いた時も、彼の歌をはじめて聴いた時と同じ気持ちになったと伝えたかった。
 志はため息をつき、両手をコートのポケットに突っ込んだ。

「おまえも、礼音と同意見か」

 右のポケットから出てきた志の右手には、スマートフォンが握られていた。

「おまえもピアニストになれって言うのか、俺に。歌手じゃなく、ピアノのプロに」

 メモ帳アプリを開いた志は、絢斗にスマートフォンを差し出して回答を求めた。絢斗は素直に彼の白い端末を受け取った。
 目を閉じる。
 答える前に、志に訊きたいことが山ほどあった。
 彼自身は、進路についてどう考えているのか。これまで絢斗と過ごしてきた時間は、どこまでが本当で、どこからが虚構だったのか。
 呼吸が次第に浅くなる。なにもかもが儚い夢、現実ではない世界の中で起きていたことのように思えてきた。
 頭の中がまたこんがらがり始めているのが自分でもわかり、絢斗は志のスマートフォンを握ったまま胸に当て、顔をしかめた。上手に息ができない。

「絢斗」

 志の右手が、大きく上下に揺れ始めた絢斗の左肩に触れる。絢斗はそれを払いのけた。
 優しくされたくなかった。彼の優しさに甘えれば、また彼の人生を狂わせることになってしまう。
 そう考えている時点で、答えは出ているも同然だった。神が導いてくれる明るい未来が待っている志を、絢斗という脇道に逸らせてはいけない。

 まぶたを上げ、絢斗は志のスマートフォンに文字を打ち込んだ。短く、一言で伝わる言葉を選んだ。

〈世界一のピアニストになってください〉

 これで、終わりだ。志と見た短い夢と、幸せだった時間の終わり。

 液晶画面を志に見せ、絢斗は精いっぱいの笑みを浮かべた。最後くらい、笑っていたいと思った。
 笑顔の絢斗が好きなのだと、志は言ってくれたから。

「そう」

 絢斗の手からスマートフォンを抜き取り、志は深くうなずいた。

「わかった」

 志から返ってきたのは、たったそれだけの言葉だった。音もなく、絢斗に背を向けて歩き出す。
 一歩、また一歩と遠ざかっていく志の背中を、追いかけたくてたまらなかった。今にも踏み出してしまいそうになる足を、絢斗は必死になって押さえつける。

「あぁ、そうだ」

 不意に、志が足を止めて振り返った。コートのポケットから引き抜いた右手に握られているスマートフォンを、顔の高さで軽く振る。

「おまえが書いた詩のデータ、消してほしければ消すけど、どうする?」

 彼のスマートフォンの中には、絢斗が赤いノートに書き溜めてきた詩をデータ化したものが保存されている。全部志にあげると言った日に、絢斗は本当に志にすべてを預けた。
 絢斗はなんのリアクションもしなかった。志の自由にしてもらってかまわない。所詮は素人のお遊びで書いたものだ。残しておいてもいいことなんてないし、それに、詩ならまた新しいものを書けばいい。

「だんまりかよ」

 答えずにいる絢斗に、志は怒気を孕んだ声で言った。

「どうでもいいってことね、俺のことなんて」
「……っ」

 無意識に一歩踏み出し、一瞬、声が漏れかけた。
 志の表情がかすかに変わる。絢斗は息継ぎに失敗して()せた。

 違う。そんなわけがない。
 志さんのことをどうでもいいなんて思ったことは、僕、一度も――。

 そう伝えたかったのに、声は出ず、乾いた咳ばかりが(くう)を切る。いつもの志なら背中をさすってくれただろうけれど、今はただ黙ったまま、絢斗の呼吸が落ちつくのを待つだけだった。

「よくわかったよ、おまえの気持ち」

 顔を上げた絢斗にそれだけを言って、今度こそ志は絢斗の前から姿を消した。別れ際の彼の顔は、どこまでも無表情だった。

 気温五度の冷え切った夜の中に、絢斗は一人取り残された。
 漆黒の闇ばかりが眼前に広がる。見えない誰かに背中を押されて表通りへ出てみたけれど、志は立ち去ったあとだった。

 終わった。
 池袋駅で出会い、確かに交わったはずの志との時間が。ありがとうも、さようならもないままに。

 絢斗はアスファルトにくずおれた。両の瞳から、大粒の涙があふれ出す。

「…………ぁ」

 絢斗の口から、かすれた嗚咽(おえつ)が音になってこぼれ落ちた。

「あぁ……ああぁ……っ!」

 十二年間、ずっと出すことができなかったはずの声が、絢斗の喉をこれでもかと震わせる。
 わめくように、絢斗は声を上げて泣いた。十二年ぶりに聞いた自分の声に驚くこともなく、ただ、去ってしまった最愛の人だけを想って泣いた。

 オリオン座が瞬いてもなお真っ黒な夜空に、絢斗の悲痛な叫びが溶けていく。
 同じ空の下にいるはずの志に、その声が届くことはなかった。