『じゃあ、あとでな』
志が調子のいい声で言った。C大学構内のメインストリートを一人で歩いている絢斗の右耳にはスマートフォンが押し当てられている。
『気をつけて来いよ。改札出たとこで待ってるから』
返事をする代わりに、絢斗はスマートフォンのマイク部分を一度たたいた。「はい」を表す時は一度、「いいえ」と伝えたい時には二度マイクをたたく。それが志と電話をする時のルールだった。絢斗は話すことができないので、急ぎの用がある時にだけ音声通話をし、志が一方的にしゃべった。
電話が切れ、絢斗は時刻の表示されたスマートフォンの画面にそっと目を落とした。
配信リリースが決定した楽曲『きみの好きなもの』だが、実は今日がその配信開始日だった。すでに多くの人がダウンロード、ストリーミング再生をしてくれたらしく、配信楽曲チャート上位のランクインが確実視され、くだんの音楽レーベルの関係者から「ぜひ次回作を」との連絡を受けたと志は電話をかけてきたのだ。
善は急げと、今日、さっそく打ち合わせの予定を組んだのだそうで、絢斗にも同席してほしいと志は言った。二つ返事でOKし、午後五時に四ツ谷駅で待ち合わせることになった。
三時限目の講義を終えた、午後三時十五分。一度家に帰る余裕はないかなぁとウキウキしながら、絢斗は大学の最寄り駅へ向かってゆったりと歩いた。八王子に住んでいるとなにかと不便だと改めて思う。エンターテイメントの世界は常に東京の中心部で動いていて、二十三区外にいてはタイムロスが大きい。
次回作に、志はどの詩を選ぶだろうか。あるいは、新しく書いてほしいと依頼されるかもしれない。
どんなテーマで書こうかなぁ、なんてことをぼんやりと考えているうちに、正門の影が見えてくる。迷うことなく歩を進めていたが、不意に後ろから肩を掴まれた。
振り返ると、見知らぬ男が絢斗を睨みつけていた。黒いロングコートとさらさらの黒い短髪がいいところのお坊ちゃまを思わせる、育ちのよさそうな青年だった。
「あんたがアヤト? 志兄と曲作ってる」
志兄。志のことか。
突然のことに動揺し、絢斗はうなずくことなく生唾《なまつば》を飲み込んだ。男はあからさまに不機嫌な顔をして、コートに両手を突っ込んだ。
「ちょっとさ、おれに時間ちょうだいよ。二人きりで話せるとこ、案内して」
不躾な態度だった。名乗りもせず、上からの物言い。
だが、断れる雰囲気ではないことは確かだった。逃げ出せば容赦なく追いかけてくるだろうし、大声で叫ばれたりするかもしれない。ここはおとなしく、彼の要求をのんでおくのがよさそうだと判断した。
絢斗は男を連れ、正門を入ってすぐのところにあるちょっとした庭園のような一角を訪れた。テニスコート一面分くらいのスペースに、花壇と通路、ベンチ、噴水が造られていて、その奥には大学図書館があった。
男にベンチを勧めたが、男は立ったまま絢斗と向き合い、口を開いた。
「あんた、志兄のピアノ、聴いたことないだろ」
唐突な質問だった。絢斗が答える前に男は続ける。
「ないよな。ないに決まってる。志兄のピアノを知ってるなら、あんな真似、あの人にさせられるはずがない」
あんな真似?
とっさには理解できなかったが、次第に状況が飲み込めてくる。
絢斗と志の接点といえば『Yuki1092』、すなわち、志の歌だ。男の言う「あんな真似」とは、志がYuki1092名義で歌手デビューしたことであるらしい。ピアノがどうとかと口にするところから推察するに、この男は志と同じ音大にかよう大学生のようだ。
「ズバリ、言うよ」
名乗るつもりはないらしい男は、絢斗に一歩詰め寄り、鋭い視線で絢斗を上から見下ろした。
「志兄を返せ、このクソ野郎」
胸ぐらを掴まれる。一瞬呼吸を奪われて顔をしかめると、男はゆっくりと手を離した。
彼の手は、わなわなと震えていた。
「志兄が、ピアノをやめるって言い出したんだ」
手だけでなく、声も震えている。
「あんたのせいで。あんたがあの人と一緒に、歌を作り始めたから」
髪もあんな色にして、と男は苦しそうに声を絞る。絢斗が瞳を揺らすと、男の目つきはさらに鋭くなった。
「知らないだろ、あんた。あの人は……渡久地志は、日本のクラシック界に絶対に必要なピアニストなんだ。子どもの頃から『神童』とか『ピアノの申し子』とか言われてきて、みんながあの人のピアノにあこがれてる。おれもだ。あの人にだけは敵わない。敵わなくても悔しくない。当たり前のように、あの人はおれたちの二歩も三歩も先を行く。誰にも真似できない、あの人だけのピアノを弾くんだ。それくらいすごいピアニストなんだよ、志兄は。天才なんだよ、紛れもない」
天才。
知っている。彼は間違いなく、音楽の神様に見初められた男だ。
だが、絢斗は確かに、志のピアノを聴いたことがない。気にかけたことはあっても、弾いてほしいとせがんだことは一度もなかった。
なんとなく、そうできない雰囲気があった。弾き語りのための楽器に彼がギターを選んだのは、あえてピアノを避けているのだということを暗に示していたように感じた。
触れられなかった。ピアノの話題には。
そうすることで、志を傷つけてしまう気がして怖かった。他人の痛みに敏感なのは、絢斗自身がそうであるせいだ。心についた見えない傷は、他のどんな傷よりも深く、消し去ることが難しい。
「あの人からピアノを奪うな」
男が地鳴りように低くした声で言う。
「志兄のピアノは、日本音楽界の宝だ。あんたみたいな音楽の『お』の字も知らないような人間に、あの人の才能と未来をつぶす権利はない!」
まくしたてるように言葉を吐かれ、絢斗は軽い眩暈を覚えた。
全身が震える。からだの芯から冷えていく。
日本のクラシック界に必要なピアニスト。
志のピアノは、日本音楽界の宝――。
男がもう一度、絢斗の胸ぐらを掴み上げた。
「消えて。志兄の前から。あんたの存在に、これ以上志兄が惑わされないように。歌なんかに現を抜かしている場合じゃないってこと、あの人にきちんとわからせてやらなくちゃいけないからさ」
冷ややかで、否定を許さない語気を孕んだ口調だった。しかし、最後の一言は、穏やかな絢斗の腹を珍しく煮えたぎらせた。
――歌なんか?
志は言った。ピアノよりも、歌うことが好きなのだと。
それを、歌『なんか』なんて。
志さんにとって、歌は未来への道しるべなのに。
無意識のうちに、絢斗は両手で男の襟首を掴んでいた。生まれてこの方、こんなにも暴力的になったことは一度もなかった。
「なんだよ」
小刻みに震える絢斗の手を、男はいとも簡単に振り払った。手首を掴んできた彼の指は、志のそれとよく似ていた。
志と同じ、ピアニストの指。
重みのある鍵盤をたたくために必要な、しなやかな筋肉のついた指。
「あんた、志兄の人生を台無しにしたいの? うまくいくわけないだろ、素人が歌手の真似事をしてる程度のお遊びが」
頭をガツンと殴られたような衝撃が全身を駆ける。猛烈な吐き気が込み上げてきた。
志の人生。
ピアニストとしての成功を約束された、明るい未来。目の前にまっすぐ伸びた道。
その道を塞ぐように、僕は志さんの前に立ったというのか。
徐々に青ざめていく絢斗の前に、男が一枚のDVD―Rを差し出した。
「一年前、パリで開かれた国際ピアノコンクールの映像。志兄の成績は第三位、日本人の中では他の参加者に圧倒的な差をつけたトップだった。聴いてみな。自分がいかにバカなことをしてるかってこと、よくわかるはずだから」
絢斗に無理やりディスクを押しつけ、男は静かに立ち去った。遠ざかり、やがて姿の見えなくなった彼の背中から、絢斗は視線を手もとのディスクへと移す。
この中に納まる、ピアニストとしての志。
聴かなければならない。だが、どうしようもなく怖かった。パンドラの箱を開けることになりそうで。無意識のうちに目を逸らしてきたなにかと向き合わなければならなくなるような気がして。
それでも、絢斗は志のピアノを聴いた。傷つき、のたうち回ることになったとしても、聴くべきだと思った。志のすべてを知りたいと願ったのは絢斗自身だ。
家に帰り、自室のノートパソコンにディスクを入れ、おそるおそる映像を再生した。
志のピアノは、これまで耳にしたことのない、次元の違う演奏だった。
奏でられる美しい旋律だけでなく、顔の表情、指、腕のエモーショナルな動きにも目を奪われる。黙って耳を傾けているだけで聴覚が研ぎ澄まされていくような、一つ一つの音が輝かしい光の粒子になって会場を包み込んでいくような、そんなピアノ。
課題曲の作曲者・ショパンの胸に秘めた想いを代弁するかのように、志は全神経を指先に集中して演奏していた。今よりもやや長い黒髪に、黒いタキシード。彼の本来あるべき姿がそこにはあった。
これが、本当の渡久地志。
日本クラシック界の未来を担う、天才ピアニスト。
絢斗の頬を、大粒の涙が濡らした。無知であったことを恥じ、志の言葉をすべて鵜呑みにした自分を心の中で罵った。
バカか、僕は。
こんなにもすごい演奏のできる人が、世界的な評価を受けている人が、ピアノ以外の道に進もうとするなんてことがあるはずないのに。
ほんの少し、脇道に逸れてみたくなっただけだ。ただの気まぐれ。ピアノよりも歌が好きだと言った言葉も、どこまで信じていいのかわからない。
今は、歌うことが楽しい。今は、自分たちで作った曲を歌うことにハマっている。そう解釈するべきなのだろう。
本当は、ピアニストの道を進むことが決まっている。絢斗の詩を歌にしてくれたのは、ちょっとした好奇心に過ぎなかった。そうに違いない。そう思うことでしか、心の整理がつきそうになかった。
絢斗は泣いた。机に突っ伏し、ただひたすら涙を流した。
愚かだった。もっと早く、願うだけでなく、志について積極的に知ろうとしていれば。
ショックだった。絢斗と出会っていなければ、あるいは出会ってしまったとしても、絢斗が詩を書いていることを彼が悟らなければ、彼がピアノをやめるなんてバカげたことを言い出すこともなかったのだ。
自分を責めることしかできなかった。大学で会ったあの音大生に言われたとおり、絢斗はただ、志を惑わせてしまっただけだ。進むべき道を見誤らせた。
志はピアノをやめてはいけない。彼のピアノを待っている人が大勢いる。
――じゃあ、あの人の歌は?
彼の音楽はピアノだけじゃない。多くの人が評価したのは、歌も同じだったはずだ。
頭の中がこんがらがった。耳にこびりついて離れない鮮烈なピアノ演奏と、大好きな甘く力強い歌声が、ぐちゃぐちゃに入り乱れて脳内を流れる。
ショパンの旋律と、絢斗の書いた『The light fall』を歌う志の声。どんどん大きくなっていくのは後者だった。
どんな歌声よりも好きで、他のなににも代えがたい宝物。忘れることなんてできない、はじめて彼の歌を聴かせてもらった時の記憶。
絢斗が想いを込めて綴った詩を、志は歌にしてくれた。
嬉しかった。忘れたくない。
離れたくない。
でも。
机の上で、スマートフォンが振動した。志からのメッセージが届いた。
〈今どこ?〉
いつの間にか、待ち合わせ時刻の午後五時を過ぎていた。志はもう現地にいて、絢斗の到着を待っているようだ。
返事をすることができなかった。なんと返せばいい?
あなたは歌手じゃなく、ピアニストになるんでしょう? そう尋ねればいいのか。
焦れた志が、今度は電話をかけてきた。
出なかった。頭がぼーっとする。
一度切れた電話が再び鳴った。三度、四度と、志は絢斗が応答するまで何度でもかけるつもりらしい。
頭が痛い。徐々に意識が遠のいていく。
高波にからだを攫われた。息ができない。
苦しい。すぐ目の前に死が迫り、視界がブラックアウトする。
椅子から床へと転がり落ち、絢斗は意識を失った。
右手からすべり落ちたスマートフォンは、画面に〈着信 渡久地志〉と表示して、けたたましい音をいつまでも鳴らし続けていた。
志が調子のいい声で言った。C大学構内のメインストリートを一人で歩いている絢斗の右耳にはスマートフォンが押し当てられている。
『気をつけて来いよ。改札出たとこで待ってるから』
返事をする代わりに、絢斗はスマートフォンのマイク部分を一度たたいた。「はい」を表す時は一度、「いいえ」と伝えたい時には二度マイクをたたく。それが志と電話をする時のルールだった。絢斗は話すことができないので、急ぎの用がある時にだけ音声通話をし、志が一方的にしゃべった。
電話が切れ、絢斗は時刻の表示されたスマートフォンの画面にそっと目を落とした。
配信リリースが決定した楽曲『きみの好きなもの』だが、実は今日がその配信開始日だった。すでに多くの人がダウンロード、ストリーミング再生をしてくれたらしく、配信楽曲チャート上位のランクインが確実視され、くだんの音楽レーベルの関係者から「ぜひ次回作を」との連絡を受けたと志は電話をかけてきたのだ。
善は急げと、今日、さっそく打ち合わせの予定を組んだのだそうで、絢斗にも同席してほしいと志は言った。二つ返事でOKし、午後五時に四ツ谷駅で待ち合わせることになった。
三時限目の講義を終えた、午後三時十五分。一度家に帰る余裕はないかなぁとウキウキしながら、絢斗は大学の最寄り駅へ向かってゆったりと歩いた。八王子に住んでいるとなにかと不便だと改めて思う。エンターテイメントの世界は常に東京の中心部で動いていて、二十三区外にいてはタイムロスが大きい。
次回作に、志はどの詩を選ぶだろうか。あるいは、新しく書いてほしいと依頼されるかもしれない。
どんなテーマで書こうかなぁ、なんてことをぼんやりと考えているうちに、正門の影が見えてくる。迷うことなく歩を進めていたが、不意に後ろから肩を掴まれた。
振り返ると、見知らぬ男が絢斗を睨みつけていた。黒いロングコートとさらさらの黒い短髪がいいところのお坊ちゃまを思わせる、育ちのよさそうな青年だった。
「あんたがアヤト? 志兄と曲作ってる」
志兄。志のことか。
突然のことに動揺し、絢斗はうなずくことなく生唾《なまつば》を飲み込んだ。男はあからさまに不機嫌な顔をして、コートに両手を突っ込んだ。
「ちょっとさ、おれに時間ちょうだいよ。二人きりで話せるとこ、案内して」
不躾な態度だった。名乗りもせず、上からの物言い。
だが、断れる雰囲気ではないことは確かだった。逃げ出せば容赦なく追いかけてくるだろうし、大声で叫ばれたりするかもしれない。ここはおとなしく、彼の要求をのんでおくのがよさそうだと判断した。
絢斗は男を連れ、正門を入ってすぐのところにあるちょっとした庭園のような一角を訪れた。テニスコート一面分くらいのスペースに、花壇と通路、ベンチ、噴水が造られていて、その奥には大学図書館があった。
男にベンチを勧めたが、男は立ったまま絢斗と向き合い、口を開いた。
「あんた、志兄のピアノ、聴いたことないだろ」
唐突な質問だった。絢斗が答える前に男は続ける。
「ないよな。ないに決まってる。志兄のピアノを知ってるなら、あんな真似、あの人にさせられるはずがない」
あんな真似?
とっさには理解できなかったが、次第に状況が飲み込めてくる。
絢斗と志の接点といえば『Yuki1092』、すなわち、志の歌だ。男の言う「あんな真似」とは、志がYuki1092名義で歌手デビューしたことであるらしい。ピアノがどうとかと口にするところから推察するに、この男は志と同じ音大にかよう大学生のようだ。
「ズバリ、言うよ」
名乗るつもりはないらしい男は、絢斗に一歩詰め寄り、鋭い視線で絢斗を上から見下ろした。
「志兄を返せ、このクソ野郎」
胸ぐらを掴まれる。一瞬呼吸を奪われて顔をしかめると、男はゆっくりと手を離した。
彼の手は、わなわなと震えていた。
「志兄が、ピアノをやめるって言い出したんだ」
手だけでなく、声も震えている。
「あんたのせいで。あんたがあの人と一緒に、歌を作り始めたから」
髪もあんな色にして、と男は苦しそうに声を絞る。絢斗が瞳を揺らすと、男の目つきはさらに鋭くなった。
「知らないだろ、あんた。あの人は……渡久地志は、日本のクラシック界に絶対に必要なピアニストなんだ。子どもの頃から『神童』とか『ピアノの申し子』とか言われてきて、みんながあの人のピアノにあこがれてる。おれもだ。あの人にだけは敵わない。敵わなくても悔しくない。当たり前のように、あの人はおれたちの二歩も三歩も先を行く。誰にも真似できない、あの人だけのピアノを弾くんだ。それくらいすごいピアニストなんだよ、志兄は。天才なんだよ、紛れもない」
天才。
知っている。彼は間違いなく、音楽の神様に見初められた男だ。
だが、絢斗は確かに、志のピアノを聴いたことがない。気にかけたことはあっても、弾いてほしいとせがんだことは一度もなかった。
なんとなく、そうできない雰囲気があった。弾き語りのための楽器に彼がギターを選んだのは、あえてピアノを避けているのだということを暗に示していたように感じた。
触れられなかった。ピアノの話題には。
そうすることで、志を傷つけてしまう気がして怖かった。他人の痛みに敏感なのは、絢斗自身がそうであるせいだ。心についた見えない傷は、他のどんな傷よりも深く、消し去ることが難しい。
「あの人からピアノを奪うな」
男が地鳴りように低くした声で言う。
「志兄のピアノは、日本音楽界の宝だ。あんたみたいな音楽の『お』の字も知らないような人間に、あの人の才能と未来をつぶす権利はない!」
まくしたてるように言葉を吐かれ、絢斗は軽い眩暈を覚えた。
全身が震える。からだの芯から冷えていく。
日本のクラシック界に必要なピアニスト。
志のピアノは、日本音楽界の宝――。
男がもう一度、絢斗の胸ぐらを掴み上げた。
「消えて。志兄の前から。あんたの存在に、これ以上志兄が惑わされないように。歌なんかに現を抜かしている場合じゃないってこと、あの人にきちんとわからせてやらなくちゃいけないからさ」
冷ややかで、否定を許さない語気を孕んだ口調だった。しかし、最後の一言は、穏やかな絢斗の腹を珍しく煮えたぎらせた。
――歌なんか?
志は言った。ピアノよりも、歌うことが好きなのだと。
それを、歌『なんか』なんて。
志さんにとって、歌は未来への道しるべなのに。
無意識のうちに、絢斗は両手で男の襟首を掴んでいた。生まれてこの方、こんなにも暴力的になったことは一度もなかった。
「なんだよ」
小刻みに震える絢斗の手を、男はいとも簡単に振り払った。手首を掴んできた彼の指は、志のそれとよく似ていた。
志と同じ、ピアニストの指。
重みのある鍵盤をたたくために必要な、しなやかな筋肉のついた指。
「あんた、志兄の人生を台無しにしたいの? うまくいくわけないだろ、素人が歌手の真似事をしてる程度のお遊びが」
頭をガツンと殴られたような衝撃が全身を駆ける。猛烈な吐き気が込み上げてきた。
志の人生。
ピアニストとしての成功を約束された、明るい未来。目の前にまっすぐ伸びた道。
その道を塞ぐように、僕は志さんの前に立ったというのか。
徐々に青ざめていく絢斗の前に、男が一枚のDVD―Rを差し出した。
「一年前、パリで開かれた国際ピアノコンクールの映像。志兄の成績は第三位、日本人の中では他の参加者に圧倒的な差をつけたトップだった。聴いてみな。自分がいかにバカなことをしてるかってこと、よくわかるはずだから」
絢斗に無理やりディスクを押しつけ、男は静かに立ち去った。遠ざかり、やがて姿の見えなくなった彼の背中から、絢斗は視線を手もとのディスクへと移す。
この中に納まる、ピアニストとしての志。
聴かなければならない。だが、どうしようもなく怖かった。パンドラの箱を開けることになりそうで。無意識のうちに目を逸らしてきたなにかと向き合わなければならなくなるような気がして。
それでも、絢斗は志のピアノを聴いた。傷つき、のたうち回ることになったとしても、聴くべきだと思った。志のすべてを知りたいと願ったのは絢斗自身だ。
家に帰り、自室のノートパソコンにディスクを入れ、おそるおそる映像を再生した。
志のピアノは、これまで耳にしたことのない、次元の違う演奏だった。
奏でられる美しい旋律だけでなく、顔の表情、指、腕のエモーショナルな動きにも目を奪われる。黙って耳を傾けているだけで聴覚が研ぎ澄まされていくような、一つ一つの音が輝かしい光の粒子になって会場を包み込んでいくような、そんなピアノ。
課題曲の作曲者・ショパンの胸に秘めた想いを代弁するかのように、志は全神経を指先に集中して演奏していた。今よりもやや長い黒髪に、黒いタキシード。彼の本来あるべき姿がそこにはあった。
これが、本当の渡久地志。
日本クラシック界の未来を担う、天才ピアニスト。
絢斗の頬を、大粒の涙が濡らした。無知であったことを恥じ、志の言葉をすべて鵜呑みにした自分を心の中で罵った。
バカか、僕は。
こんなにもすごい演奏のできる人が、世界的な評価を受けている人が、ピアノ以外の道に進もうとするなんてことがあるはずないのに。
ほんの少し、脇道に逸れてみたくなっただけだ。ただの気まぐれ。ピアノよりも歌が好きだと言った言葉も、どこまで信じていいのかわからない。
今は、歌うことが楽しい。今は、自分たちで作った曲を歌うことにハマっている。そう解釈するべきなのだろう。
本当は、ピアニストの道を進むことが決まっている。絢斗の詩を歌にしてくれたのは、ちょっとした好奇心に過ぎなかった。そうに違いない。そう思うことでしか、心の整理がつきそうになかった。
絢斗は泣いた。机に突っ伏し、ただひたすら涙を流した。
愚かだった。もっと早く、願うだけでなく、志について積極的に知ろうとしていれば。
ショックだった。絢斗と出会っていなければ、あるいは出会ってしまったとしても、絢斗が詩を書いていることを彼が悟らなければ、彼がピアノをやめるなんてバカげたことを言い出すこともなかったのだ。
自分を責めることしかできなかった。大学で会ったあの音大生に言われたとおり、絢斗はただ、志を惑わせてしまっただけだ。進むべき道を見誤らせた。
志はピアノをやめてはいけない。彼のピアノを待っている人が大勢いる。
――じゃあ、あの人の歌は?
彼の音楽はピアノだけじゃない。多くの人が評価したのは、歌も同じだったはずだ。
頭の中がこんがらがった。耳にこびりついて離れない鮮烈なピアノ演奏と、大好きな甘く力強い歌声が、ぐちゃぐちゃに入り乱れて脳内を流れる。
ショパンの旋律と、絢斗の書いた『The light fall』を歌う志の声。どんどん大きくなっていくのは後者だった。
どんな歌声よりも好きで、他のなににも代えがたい宝物。忘れることなんてできない、はじめて彼の歌を聴かせてもらった時の記憶。
絢斗が想いを込めて綴った詩を、志は歌にしてくれた。
嬉しかった。忘れたくない。
離れたくない。
でも。
机の上で、スマートフォンが振動した。志からのメッセージが届いた。
〈今どこ?〉
いつの間にか、待ち合わせ時刻の午後五時を過ぎていた。志はもう現地にいて、絢斗の到着を待っているようだ。
返事をすることができなかった。なんと返せばいい?
あなたは歌手じゃなく、ピアニストになるんでしょう? そう尋ねればいいのか。
焦れた志が、今度は電話をかけてきた。
出なかった。頭がぼーっとする。
一度切れた電話が再び鳴った。三度、四度と、志は絢斗が応答するまで何度でもかけるつもりらしい。
頭が痛い。徐々に意識が遠のいていく。
高波にからだを攫われた。息ができない。
苦しい。すぐ目の前に死が迫り、視界がブラックアウトする。
椅子から床へと転がり落ち、絢斗は意識を失った。
右手からすべり落ちたスマートフォンは、画面に〈着信 渡久地志〉と表示して、けたたましい音をいつまでも鳴らし続けていた。



