ポップでキュートな仕上がりになった三作目『きみの好きなもの』がちょっとしたブームを巻き起こすことになったのは、すっかり冬を迎えた十一月末、二人が出会って一ヶ月半が過ぎた頃のことだった。
チャンネル登録者数一千万人を超える大人気YouTuberが、自身のツイッターで「『きみの好きなもの』にハマっている」と動画のリンクを貼ってツイートしたらしく、彼のファンがこぞって志の歌を聴きに来たのだ。そこから人気に火がつき、動画の再生回数は瞬く間に百万回を超えた。
〈すごいな。こんなことってあるんだ、ほんとに!〉
現在進行形で伸び続けている再生数に、志はすっかり舞い上がっているようだった。絢斗のスマートフォンに送られてきたメッセージが弾んでいる。
〈信じられないよ。他の動画もめちゃくちゃ見てもらえてるし、嬉しすぎてやばい〉
自宅の部屋に一人でいた絢斗も、ニヤニヤしながら〈僕も嬉しいです〉と返す。きっと志も同じように笑っているはずだ。
実際、飛んで喜びたいくらい嬉しいことだった。志の歌はもっと多くの人から評価されるべきだと以前から思っていたのだ。その願いが叶ったことも嬉しい。
それから一週間ほどが経ち、絢斗は突然志に呼び出された。なんでも、大事な話があるという。
大学の講義が終わり、その足で志に会いに池袋まで赴いた。志と二人で何度も来た音楽スタジオを今日も志は予約してくれていて、いつものように二人で入る。
「結論から言う」
背負っていたギターを下ろすなり、志はいつになくまじめな調子で絢斗と向き合った。自然と絢斗の背筋が伸びる。
一呼吸置き、志は絢斗に告げた。
「配信限定だけど、プロの音楽レーベルから曲を出すことになった」
絢斗は目を大きくし、閉じていた口を薄く開いた。
志の言葉を、胸の中でくり返す。
音楽レーベルから、曲を出す。
それって。
それって、つまり。
「……っ」
本当ですか。そう声に出して尋ねたかった。もう少しで音になりそうだったけれど、そんなことより、心臓がドキドキと高鳴って止まらない。
「本当だよ」
絢斗の気持ちを察した志が、白い歯を見せた満面の笑みで両手を広げた。
「俺たち、正式に歌手デビューするんだ!」
志は絢斗に抱きついた。全身から伝わる熱に、絢斗の体温も急上昇した。
歌手デビュー。
志が。ついに。
絢斗の瞳が潤む。これまで生きてきた中で、こんなにも嬉しかったことがあっただろうか。
志の背中にしがみつき、彼の胸に顔をうずめた。志が頭を撫でてくれて、「ありがとうな」と優しく声もかけてくれた。
志の夢が叶った。それは絢斗の夢でもあった。
音楽の世界で、歌い手として生きていきたいという大きな夢。そのための第一歩を踏み出すチャンスが巡ってきたのだ。絢斗自身のことはどうでもいい。志がその夢を掴めるところまで来られたことが一番の喜びだった。
詳しく話を聞かせてもらうと、今回志に声をかけた音楽レーベルは絢斗も当然のように名前を知っているアーティストが多数所属している会社だった。曲を出すと言っても、今回は手始めに今ノリにノっている楽曲『きみの好きなもの』を有料配信しないかという打診だという。
志は絢斗の返事を待たずにOKしたわけではなく、今、絢斗の目の前で返事の電話を入れた。詳しいことは後日改めて打ち合わせを、とのことで、契約周りのこともあるため絢斗にも同席してほしいと先方の担当者は言っているらしい。
断る理由もなく、絢斗は二つ返事で志とともに話を聞きに行くことを了承した。どうせなら新曲も準備していこうよ、と志が言うので、その日はスタジオで次の楽曲の選定作業もおこなった。
家路につき、ひとり電車に揺られながら、絢斗はジト、と全身にまとわりつく爽やかな疲労感に身をゆだねる。
あまりにもとんとん拍子に話が進んで、嬉しさをかみしめると同時に、足が竦むような思いもした。
満足感と多幸感は確かにある。けれど、まだなにも始まっていないというのに、これからのことが少し不安に思えていることもまた事実だった。
このままの調子でいけば、滑り出しはうまくいきそうな気がする。けれど、ずっと同じように進んでいける自信はまだ持てない。
志はいい。大学で音楽を学んでいる人だ。
でも、絢斗は違う。自分勝手に詩を綴っているだけの凡人に過ぎない。
指先にかすかな震えを覚える。まばゆすぎる現実に目が眩み、どこかで待ち受けている落とし穴に気づかないまま、底のない闇に落ちるまでバカみたいに走り続けてしまうのではないか。一度そんな風に考えてしまうと、途端に呼吸が難しくなった。意識的に頭を振り、深呼吸をくり返す。
この気持ちを、志に打ち明けてしまおうか。いや、きっと不安なのは自分だけだ。せっかく盛り上がっている志の心に水を差すことはできない。絢斗は一度取り出して握ったスマートフォンを、そっと鞄の中へしまう。
志は本気なのだ。いつか暗闇に落ちるのだと仮にわかっていたとしても、それでもなお、彼はその日まで踏み出した足を止めることはないだろう。
その背中に、ついていくことができるだろうか。優しい志は、きっと絢斗の手を引いて「一緒に行こう」と言ってくれる。
けれど。
やっとの思いで家にたどり着くと、絢斗はまっすぐ自分の部屋へと向かい、明かりもつけないままベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。
昔から、環境の変化に適応することが下手だった。今もそうだ。これから激変するであろう未来で、正しく息をして生活できている自分の姿が一ミリも想像できずにいる。
枕に深く顔をうずめる。
このままじゃダメだ。後ろばかり見ていると、いつか志に捨てられる。
そんなのイヤだ。志とずっと一緒がいい。
顔を上げていなくちゃ。彼とともにありたいのなら。
彼は、こんなちっぽけな僕のことを選んでくれたのだから。
ゆっくりと起き上がる。一つ、大きく息をつく。
大丈夫。彼にすべてを捧げると決めたのだ。
ベッドから降り立ち、絢斗は階下のリビングにいる両親のもとへと向かう。
プロの作詞家になれるかもしれないと告げると、両親は手放しで喜んでくれた。
傾けられた二つの笑顔に、絢斗ももう一度笑うことができた。大丈夫。今は志を信じて進んでいくしかない。
不安を払拭し、絢斗はいつもの青いノートと向き合った。
志のために、もっといい詩を。
そう思えば、自然と顔を上げていられた。
チャンネル登録者数一千万人を超える大人気YouTuberが、自身のツイッターで「『きみの好きなもの』にハマっている」と動画のリンクを貼ってツイートしたらしく、彼のファンがこぞって志の歌を聴きに来たのだ。そこから人気に火がつき、動画の再生回数は瞬く間に百万回を超えた。
〈すごいな。こんなことってあるんだ、ほんとに!〉
現在進行形で伸び続けている再生数に、志はすっかり舞い上がっているようだった。絢斗のスマートフォンに送られてきたメッセージが弾んでいる。
〈信じられないよ。他の動画もめちゃくちゃ見てもらえてるし、嬉しすぎてやばい〉
自宅の部屋に一人でいた絢斗も、ニヤニヤしながら〈僕も嬉しいです〉と返す。きっと志も同じように笑っているはずだ。
実際、飛んで喜びたいくらい嬉しいことだった。志の歌はもっと多くの人から評価されるべきだと以前から思っていたのだ。その願いが叶ったことも嬉しい。
それから一週間ほどが経ち、絢斗は突然志に呼び出された。なんでも、大事な話があるという。
大学の講義が終わり、その足で志に会いに池袋まで赴いた。志と二人で何度も来た音楽スタジオを今日も志は予約してくれていて、いつものように二人で入る。
「結論から言う」
背負っていたギターを下ろすなり、志はいつになくまじめな調子で絢斗と向き合った。自然と絢斗の背筋が伸びる。
一呼吸置き、志は絢斗に告げた。
「配信限定だけど、プロの音楽レーベルから曲を出すことになった」
絢斗は目を大きくし、閉じていた口を薄く開いた。
志の言葉を、胸の中でくり返す。
音楽レーベルから、曲を出す。
それって。
それって、つまり。
「……っ」
本当ですか。そう声に出して尋ねたかった。もう少しで音になりそうだったけれど、そんなことより、心臓がドキドキと高鳴って止まらない。
「本当だよ」
絢斗の気持ちを察した志が、白い歯を見せた満面の笑みで両手を広げた。
「俺たち、正式に歌手デビューするんだ!」
志は絢斗に抱きついた。全身から伝わる熱に、絢斗の体温も急上昇した。
歌手デビュー。
志が。ついに。
絢斗の瞳が潤む。これまで生きてきた中で、こんなにも嬉しかったことがあっただろうか。
志の背中にしがみつき、彼の胸に顔をうずめた。志が頭を撫でてくれて、「ありがとうな」と優しく声もかけてくれた。
志の夢が叶った。それは絢斗の夢でもあった。
音楽の世界で、歌い手として生きていきたいという大きな夢。そのための第一歩を踏み出すチャンスが巡ってきたのだ。絢斗自身のことはどうでもいい。志がその夢を掴めるところまで来られたことが一番の喜びだった。
詳しく話を聞かせてもらうと、今回志に声をかけた音楽レーベルは絢斗も当然のように名前を知っているアーティストが多数所属している会社だった。曲を出すと言っても、今回は手始めに今ノリにノっている楽曲『きみの好きなもの』を有料配信しないかという打診だという。
志は絢斗の返事を待たずにOKしたわけではなく、今、絢斗の目の前で返事の電話を入れた。詳しいことは後日改めて打ち合わせを、とのことで、契約周りのこともあるため絢斗にも同席してほしいと先方の担当者は言っているらしい。
断る理由もなく、絢斗は二つ返事で志とともに話を聞きに行くことを了承した。どうせなら新曲も準備していこうよ、と志が言うので、その日はスタジオで次の楽曲の選定作業もおこなった。
家路につき、ひとり電車に揺られながら、絢斗はジト、と全身にまとわりつく爽やかな疲労感に身をゆだねる。
あまりにもとんとん拍子に話が進んで、嬉しさをかみしめると同時に、足が竦むような思いもした。
満足感と多幸感は確かにある。けれど、まだなにも始まっていないというのに、これからのことが少し不安に思えていることもまた事実だった。
このままの調子でいけば、滑り出しはうまくいきそうな気がする。けれど、ずっと同じように進んでいける自信はまだ持てない。
志はいい。大学で音楽を学んでいる人だ。
でも、絢斗は違う。自分勝手に詩を綴っているだけの凡人に過ぎない。
指先にかすかな震えを覚える。まばゆすぎる現実に目が眩み、どこかで待ち受けている落とし穴に気づかないまま、底のない闇に落ちるまでバカみたいに走り続けてしまうのではないか。一度そんな風に考えてしまうと、途端に呼吸が難しくなった。意識的に頭を振り、深呼吸をくり返す。
この気持ちを、志に打ち明けてしまおうか。いや、きっと不安なのは自分だけだ。せっかく盛り上がっている志の心に水を差すことはできない。絢斗は一度取り出して握ったスマートフォンを、そっと鞄の中へしまう。
志は本気なのだ。いつか暗闇に落ちるのだと仮にわかっていたとしても、それでもなお、彼はその日まで踏み出した足を止めることはないだろう。
その背中に、ついていくことができるだろうか。優しい志は、きっと絢斗の手を引いて「一緒に行こう」と言ってくれる。
けれど。
やっとの思いで家にたどり着くと、絢斗はまっすぐ自分の部屋へと向かい、明かりもつけないままベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。
昔から、環境の変化に適応することが下手だった。今もそうだ。これから激変するであろう未来で、正しく息をして生活できている自分の姿が一ミリも想像できずにいる。
枕に深く顔をうずめる。
このままじゃダメだ。後ろばかり見ていると、いつか志に捨てられる。
そんなのイヤだ。志とずっと一緒がいい。
顔を上げていなくちゃ。彼とともにありたいのなら。
彼は、こんなちっぽけな僕のことを選んでくれたのだから。
ゆっくりと起き上がる。一つ、大きく息をつく。
大丈夫。彼にすべてを捧げると決めたのだ。
ベッドから降り立ち、絢斗は階下のリビングにいる両親のもとへと向かう。
プロの作詞家になれるかもしれないと告げると、両親は手放しで喜んでくれた。
傾けられた二つの笑顔に、絢斗ももう一度笑うことができた。大丈夫。今は志を信じて進んでいくしかない。
不安を払拭し、絢斗はいつもの青いノートと向き合った。
志のために、もっといい詩を。
そう思えば、自然と顔を上げていられた。



