二作目のオリジナル曲は『紫陽花』に決まり、楽曲にするにあたって、絢斗は歌詞に大幅な修正を加えることになった。志がより歌いやすいものにするためだ。
志が曲をつけ、歌唱動画にし、YouTubeに投稿したのは次の週末のことだった。季節はずれの楽曲だったが、しっとりと歌い上げた志のテノールはまたしても好評を博し、Yuki1092はさらにファンの数を増やした。
調子に乗る、という表現は適切ではないけれど、志の意欲はうなぎ登りで、次はこうしよう、その次はと、まるで生き急ぐかのようにどんどん先の話をした。瞬きをするひまもないほどハイペースで過ぎていく二人の時間の中で、絢斗も次々と新しい詩を生み出していった。
三作目『きみの好きなもの』を作曲するからと、志は絢斗を誘い、八王子の音楽スタジオに入った。ギターと五線譜を持ち込み、時折絢斗の意見も聞きながら、着々と曲の輪郭を作っていった。
その姿勢はアーティストそのものだった。最初は自己満足から始まった曲作りが、今ではトレンドを意識したり、聞き手の感情をいかに揺さぶるかという点にスポットを当てたりと、ずいぶん本格的なものに変わっている。
悪いことだとはもちろん思わない。ただ、彼が音大にかよう三年生であることを勘案すると、絢斗は少し不安になった。
音大を出た者たちの進む道が、すべて音楽にかかわるものではないことくらい絢斗にもわかる。狭き門、厳しい世界だ。全員の夢が叶うわけではないことは想像に難くない。
志はどう考えているのだろう。彼の進路。彼の進みたい道。『音楽=人生』と位置づける彼の目指す場所とはどこなのか。あるいは彼の見据える先に、絢斗の存在はあるだろうか。
熱心に作曲作業に励む志の腕を、絢斗は指でツンツンとつついた。
「ん? どうした?」
顔を上げてくれた志に、絢斗は青いノートに綴った文章を見せた。
〈志さんは、このまま歌手としての活動を続けますか? いずれはプロになりたい、というようなことを考えていますか?〉
もしかしたら、彼はピアニストを目指しているのかもしれないと思った。音大に進むことができたのだから、相当の実力者であることは間違いない。
でも今の彼は、毎日のようにギター片手に歌を歌っている。ただでさえ忙しいと聞く音大生、それもピアノ専攻だという彼の生活を、余計なお世話と知りながら、絢斗は内心案じていた。
「なりたいね」
だが、志の答えは明確だった。
「なれるものなら、プロの歌い手になりたいよ」
握っていた鉛筆を譜面台に置き、志はゆったりと肩の力を抜いて語り始めた。
「絢斗だから言うけど、俺、昔からピアノよりも歌うことのほうが好きだったんだ。ずっと憧れててさ、歌手っていう職業に。もちろん、そう簡単にいかないことはわかってる。周りの意見なんかも、いろいろあって……」
先を言い淀み、志はかすかに瞳を揺らした。
「それでも、俺はやっぱりなりたいかな、プロの歌い手に。今は昔よりもずっと、その気持ちは強くなってる」
どこか遠くを見ながらしゃべっていた志が、絢斗の姿をその視界にとらえた。
「絢斗と出会えたからさ」
絢斗は両眉を跳ね上げた。
「俺、本当に尊敬してるんだ、絢斗のこと。声が出せなくて、俺なんかよりずっとつらい人生を送ってきたはずなのに、詩っていう手段を選んで、自分の気持ちをちゃんと誰かに伝えようとしてる。塞ぎ込むこともなく、ちゃんと世界とのつながりを持とうとしてる。偉いよ。人として尊敬できる。健気《けなげ》っていうか、その……一生懸命なところが、応援せずにはいられなくて」
志の頬がかすかに赤らむ。こうして彼がわかりやすく照れる姿は新鮮だった。
「気づいたら絢斗のことを考えてる自分がいてさ。今なにしてんだろ、とか、今日はどんな詩を書いたかな、とか、気になって仕方がなくて。……って、なに言ってんだろ、俺。そんな話をしたいんじゃなくて」
邪念を振り払うように首を振り、志は改めて絢斗と目を合わせた。
「叶いそうな気がするんだ、絢斗と一緒にやっていけば。俺一人の力じゃ無理でも、絢斗が隣にいてくれたら、叶わない夢だと思っていたことが、夢で終わらないような気がする」
志は座っていたスツールから腰を上げ、絢斗の手をすくい上げた。
「もちろん、絢斗には絢斗の夢があると思う。だけど、できれば前向きに考えてほしい。これから先、俺と一緒に音楽の道を歩むっていう選択肢を」
冗談なんかじゃない、と志は言った。
「俺、本気だから」
力強い眼差しは、彼の本気度をありありと映していた。
絢斗は無心でうなずいた。嬉しかった。彼が進むと決めた道の先に、自分の存在がある。これ以上の幸せはない。
志のためなら、どんなに忙しくても手を貸したいと思った。彼の人生を支えることは、長い間日陰で生きてきた絢斗がようやく得た生きがいだ。
なにがあっても、志についていく。今改めて、絢斗はそう心に誓った。
志の手を離し、絢斗はノートに言葉を綴る。
〈僕がこれまで書いたもの、すべて志さんにあげます。僕の全部を、志さんに〉
「全部?」
絢斗は首を縦に振る。我ながらおそろしい回答だと自覚しているが、それ以外に適切な答えはないとも思う。スマートフォンがないと生きられない現代人のように、絢斗もまた、志なしでは生きられない人間になりつつあった。
「ありがとう」
志は絢斗に微笑みかけ、当たり前のように唇を奪った。単純な触れ合いからはじまり、大きく食まれ、やがて舌を絡ませてきた。
絢斗ももう驚いたりしない。そうされることを、いつしか期待するようになっていた。
いつもより少し深く交わってから、志は作曲作業を再開した。その真剣な横顔を、絢斗は静かに見つめる。
不思議だ。音楽と真摯に向き合う彼を見ていると、自分にもなにかできる気がしてくる。音楽の才能なんてこれっぽっちもないくせに、彼のためにできることを探してしまう。
前向きな言葉たちが頭に浮かんで、ギターをかかえる志のからだを優しく包み込んでいく。彼の存在が言葉を呼び寄せ、一つの詩へと収束していく。
絢斗は赤いノートを取り出し、それらの言葉を拾い集めた。韻を踏んだり、当て字を使ってみたりして、志の生み出す音楽にマッチする詩に仕上げていく。
永遠なんていう都合のいいものがこの世界にないことくらい、絢斗にだってわかっている。時間は有限で、誰もが少しずつ、命という与えられた持ち時間をすり減らしながら生きている。
それでも、信じるだけならタダだし、自由だ。志と永遠に一緒にいられる夢を見るのは、絢斗の自由。
この命が尽きるまで、あるいは、この命が尽きた先でも、こうして二人で新しい音楽を紡ぎ続けていけることを、絢斗は心の底から願い、信じた。
信じれば叶う夢ばかりじゃない。
けれど、信じずにはいられない夢があることもまた、事実だ。
志が曲をつけ、歌唱動画にし、YouTubeに投稿したのは次の週末のことだった。季節はずれの楽曲だったが、しっとりと歌い上げた志のテノールはまたしても好評を博し、Yuki1092はさらにファンの数を増やした。
調子に乗る、という表現は適切ではないけれど、志の意欲はうなぎ登りで、次はこうしよう、その次はと、まるで生き急ぐかのようにどんどん先の話をした。瞬きをするひまもないほどハイペースで過ぎていく二人の時間の中で、絢斗も次々と新しい詩を生み出していった。
三作目『きみの好きなもの』を作曲するからと、志は絢斗を誘い、八王子の音楽スタジオに入った。ギターと五線譜を持ち込み、時折絢斗の意見も聞きながら、着々と曲の輪郭を作っていった。
その姿勢はアーティストそのものだった。最初は自己満足から始まった曲作りが、今ではトレンドを意識したり、聞き手の感情をいかに揺さぶるかという点にスポットを当てたりと、ずいぶん本格的なものに変わっている。
悪いことだとはもちろん思わない。ただ、彼が音大にかよう三年生であることを勘案すると、絢斗は少し不安になった。
音大を出た者たちの進む道が、すべて音楽にかかわるものではないことくらい絢斗にもわかる。狭き門、厳しい世界だ。全員の夢が叶うわけではないことは想像に難くない。
志はどう考えているのだろう。彼の進路。彼の進みたい道。『音楽=人生』と位置づける彼の目指す場所とはどこなのか。あるいは彼の見据える先に、絢斗の存在はあるだろうか。
熱心に作曲作業に励む志の腕を、絢斗は指でツンツンとつついた。
「ん? どうした?」
顔を上げてくれた志に、絢斗は青いノートに綴った文章を見せた。
〈志さんは、このまま歌手としての活動を続けますか? いずれはプロになりたい、というようなことを考えていますか?〉
もしかしたら、彼はピアニストを目指しているのかもしれないと思った。音大に進むことができたのだから、相当の実力者であることは間違いない。
でも今の彼は、毎日のようにギター片手に歌を歌っている。ただでさえ忙しいと聞く音大生、それもピアノ専攻だという彼の生活を、余計なお世話と知りながら、絢斗は内心案じていた。
「なりたいね」
だが、志の答えは明確だった。
「なれるものなら、プロの歌い手になりたいよ」
握っていた鉛筆を譜面台に置き、志はゆったりと肩の力を抜いて語り始めた。
「絢斗だから言うけど、俺、昔からピアノよりも歌うことのほうが好きだったんだ。ずっと憧れててさ、歌手っていう職業に。もちろん、そう簡単にいかないことはわかってる。周りの意見なんかも、いろいろあって……」
先を言い淀み、志はかすかに瞳を揺らした。
「それでも、俺はやっぱりなりたいかな、プロの歌い手に。今は昔よりもずっと、その気持ちは強くなってる」
どこか遠くを見ながらしゃべっていた志が、絢斗の姿をその視界にとらえた。
「絢斗と出会えたからさ」
絢斗は両眉を跳ね上げた。
「俺、本当に尊敬してるんだ、絢斗のこと。声が出せなくて、俺なんかよりずっとつらい人生を送ってきたはずなのに、詩っていう手段を選んで、自分の気持ちをちゃんと誰かに伝えようとしてる。塞ぎ込むこともなく、ちゃんと世界とのつながりを持とうとしてる。偉いよ。人として尊敬できる。健気《けなげ》っていうか、その……一生懸命なところが、応援せずにはいられなくて」
志の頬がかすかに赤らむ。こうして彼がわかりやすく照れる姿は新鮮だった。
「気づいたら絢斗のことを考えてる自分がいてさ。今なにしてんだろ、とか、今日はどんな詩を書いたかな、とか、気になって仕方がなくて。……って、なに言ってんだろ、俺。そんな話をしたいんじゃなくて」
邪念を振り払うように首を振り、志は改めて絢斗と目を合わせた。
「叶いそうな気がするんだ、絢斗と一緒にやっていけば。俺一人の力じゃ無理でも、絢斗が隣にいてくれたら、叶わない夢だと思っていたことが、夢で終わらないような気がする」
志は座っていたスツールから腰を上げ、絢斗の手をすくい上げた。
「もちろん、絢斗には絢斗の夢があると思う。だけど、できれば前向きに考えてほしい。これから先、俺と一緒に音楽の道を歩むっていう選択肢を」
冗談なんかじゃない、と志は言った。
「俺、本気だから」
力強い眼差しは、彼の本気度をありありと映していた。
絢斗は無心でうなずいた。嬉しかった。彼が進むと決めた道の先に、自分の存在がある。これ以上の幸せはない。
志のためなら、どんなに忙しくても手を貸したいと思った。彼の人生を支えることは、長い間日陰で生きてきた絢斗がようやく得た生きがいだ。
なにがあっても、志についていく。今改めて、絢斗はそう心に誓った。
志の手を離し、絢斗はノートに言葉を綴る。
〈僕がこれまで書いたもの、すべて志さんにあげます。僕の全部を、志さんに〉
「全部?」
絢斗は首を縦に振る。我ながらおそろしい回答だと自覚しているが、それ以外に適切な答えはないとも思う。スマートフォンがないと生きられない現代人のように、絢斗もまた、志なしでは生きられない人間になりつつあった。
「ありがとう」
志は絢斗に微笑みかけ、当たり前のように唇を奪った。単純な触れ合いからはじまり、大きく食まれ、やがて舌を絡ませてきた。
絢斗ももう驚いたりしない。そうされることを、いつしか期待するようになっていた。
いつもより少し深く交わってから、志は作曲作業を再開した。その真剣な横顔を、絢斗は静かに見つめる。
不思議だ。音楽と真摯に向き合う彼を見ていると、自分にもなにかできる気がしてくる。音楽の才能なんてこれっぽっちもないくせに、彼のためにできることを探してしまう。
前向きな言葉たちが頭に浮かんで、ギターをかかえる志のからだを優しく包み込んでいく。彼の存在が言葉を呼び寄せ、一つの詩へと収束していく。
絢斗は赤いノートを取り出し、それらの言葉を拾い集めた。韻を踏んだり、当て字を使ってみたりして、志の生み出す音楽にマッチする詩に仕上げていく。
永遠なんていう都合のいいものがこの世界にないことくらい、絢斗にだってわかっている。時間は有限で、誰もが少しずつ、命という与えられた持ち時間をすり減らしながら生きている。
それでも、信じるだけならタダだし、自由だ。志と永遠に一緒にいられる夢を見るのは、絢斗の自由。
この命が尽きるまで、あるいは、この命が尽きた先でも、こうして二人で新しい音楽を紡ぎ続けていけることを、絢斗は心の底から願い、信じた。
信じれば叶う夢ばかりじゃない。
けれど、信じずにはいられない夢があることもまた、事実だ。



