秋雨前線の影響で、二日間、雨が降り続いた。ようやくやんだかと思えば途端に気温が急降下し、街は一気に秋の装いになった。
念願の晴天に恵まれた週末、絢斗は八王子駅で志の到着を待っていた。二人ではじめて作る曲『The light fall』を志がいよいよ完成させ、今日、これからレコーディングをするのだ。
志がいつも使っているのは池袋の音楽スタジオだというが、今日は絢斗の地元である八王子までわざわざ足を延ばしてくれた。乗り換えも含めて一時間以上の道のりになるというのに、志は嫌な顔一つせず「俺がそっちに行くから」と言った。一緒に音楽をやると決めた日から、曲作りの進捗状況を毎日連絡してくれるし、本当に優しい人だった。
都心部に比べればたいしたことはないとはいえ、休日の午後の八王子駅も人出は多い。いつもなら行き交う人の波にのまれて気分が悪くなるのだが、今日はしゃんと背筋を伸ばして立っていることができた。
両耳にイヤホンを装着し、スマートフォンでYuki1092のカバー歌唱動画を流していた。あれから毎日、欠かすことなく志の歌を聴いている。
本名を知ると、アーティスト名『Yuki1092』がまさに志のことを表しているのだとわかる。『1092』。苗字を数字に置き換えた名だった。
池袋で志と出会ってから今日まで、絢斗は暇さえあれば志の歌を聴いていた。『The light fall』が楽曲として完成することももちろん楽しみだったけれど、志の歌を、志の声を聴いていればそれ以上に幸せなことはないとさえ思えた。心が落ちつき、一人で出歩くのも怖くなくなった。
今、SMAPの『夜空ノムコウ』の弾き語りを聴いている。しっとりと柔らかな歌声が心とからだに沁み渡り、嫌なことをすべて忘れさせてくれるようだった。
一つだけ気になることと言えば、志の投稿した歌唱動画のすべてが、ギターによる弾き語りであることだ。音大でピアノを学んでいるのだから、ピアノ伴奏での弾き語りがあってもおかしくない。
もちろん、ピアノはクラシックしか弾かないだとか、彼なりのこだわりみたいなものがあるのだろうとは思う。けれど、彼の選択したカバー曲の中にはギター伴奏よりもピアノ伴奏のほうが合いそうなものがいくつかあった。それでさえ頑なにギターによる弾き語りをするのはなぜだろう。音大生ゆえのプライドなのか、あるいは、なにか特別な理由があるのか。
「絢斗」
肩をたたかれ、絢斗は背後を振り返った。
「よっ」
ギターケースを背負った志が八王子に到着した。先日と同じ黒いマウンテンパーカーに、今日のボトムスは濃紺のストレートデニムだ。
「ごめん、待った?」
絢斗は首を横に振り、スマートフォンの画面をタップして動画を停止した。
「あ、また俺の歌聴いてる」
イヤホンをはずす絢斗に顔を寄せ、志が手もとを覗き込んでくる。距離が近くて、彼の体温が空気を伝って頬に触れた。
「そんなに好き? 俺の歌」
もちろんだ。絢斗は素直にうなずいた。ずっとリピートしているのだと、右胸の前で両の人差し指をくるくると回す手話をする。
志は黙って笑みをこぼすと、不意に、絢斗の顎に手を添えた。顔が近づき、視線を志へと固定させられる。
「じゃあ、俺のことは?」
痺れるような美声で問われる。鼻先が触れそうになり、呼吸が止まる。
心臓が早鐘を打つ。全身が熱くて、頭がうまく働かない。
すぐ目の前に志がいる。
彼のことは。
志さんの、ことは――。
瞳をぐらぐら揺らしていると、志の妖艶な表情がふわりと緩んだ。さわやかな笑みを浮かべ、絢斗から離れる。
「行こう。スタジオ、すぐそこだから」
なにごともなかったかのように、志は絢斗をその場に残して歩き始めた。パーカーのポケットに両手を突っ込み、長い足をゆったりと動かす志の背中を、絢斗は吸い込まれるように見つめる。
――俺のことは?
志の問いかけが、耳の奥でリフレインする。
――俺のことは、好き?
歌だけじゃなくて、彼のことも?
立ち止まり続ける絢斗を、志がそっと振り返った。視線だけで「早く」と訴えかけてくる。
もつれそうになる足を懸命に動かし、絢斗は志の背中に続いた。志は絢斗が隣に追いつくまで待ってくれて、二人並んでスタジオまでの短い道のりを歩いた。
見慣れた街並みが、急にきらびやかになったように感じた。隣に志がいるだけで、世界が鮮やかに彩られる。
不思議な気持ちだった。心拍数は上がりっぱなしで、落ちつく気配はまったくない。
けれど、悪い意味での緊張でないとはっきりわかる。志の隣を歩けることを喜んでいる自分がいる。
ちらりと右隣を窺うと、志はさわやかな笑みを浮かべていた。
端正なその横顔を見て、考える。
もし、先ほどの問いにイエスと答えたら、彼はどんな顔をするだろうか。
「オッケー。一回チェックするわ」
人生ではじめて足を踏み入れた音楽スタジオの一室で、絢斗がカメラの録画停止ボタンを操作すると、志は肩の力を抜き、腰を落ちつけていた椅子から立ち上がった。
三脚にセットしたカメラにマイクをつないだだけのシンプルな機材で、志はいつも投稿動画用の演奏を撮影・録音していた。音大でピアノを学んでいる都合もあり、賃貸マンションながら防音室のある家に住んでいるそうだが、ちゃんとしたスタジオで演奏したほうが気合いが入るらしく、自宅で歌うことはないという。
志のパフォーマンスをただ座って見ているだけでは申し訳ないと、絢斗は録音作業を手伝わせてほしいと自主的に願い出た。ならばと志がカメラの操作をまかせてくれて、絢斗は緊張しながら録画開始ボタンを押し、たった今、録画停止ボタンを押した。志の歌声に聴き惚れて、うっかり操作をまかされていたことを忘れかけたことは志には内緒だ。
録画した映像を再生し、熱心に精査している志の隣で、絢斗はやっぱり放心状態になっていた。
素晴らしいという言葉では足りないくらいの出来映えだった。絢斗の綴った詩の情景以上の美しい絵がスタジオじゅうに広がった。
間奏などで時折入るフェイクの鮮やかさ、歌詞に合わせて揺れ動く感情によって色を変える声。どこを切り取っても、渡久地志は絢斗の相方としてもったいない歌い手だった。
胸がいっぱいで、その場にくずおれそうになる。
こんなにも幸せなことがあっていいのか。これまでずっと、孤独な深海を漂うことばかりだったのに。
幸せすぎる。
誰よりも近くで、大好きな彼の歌声をひとりじめできるなんて。
「うーん」
撮りたての動画をチェックし終えた志の表情は冴えなかった。
「もうワンテイクだなぁ」
どうやら気に入らなかったらしい。なにが不満だったのか、絢斗にはさっぱりわからなかった。
「どうだった、絢斗?」
志に感想を求められる。絢斗は青いノートにペンを走らせた。
〈感動して言葉になりません〉
「いつもそれだな、絢斗は」
〈本心です。こんなにも素敵な曲にしていただけて、なんとお礼を言っていいのか〉
「いいよ、お礼なんて。誘ったのは俺のほうだし、礼を言わなきゃいけないのは俺だから」
違う。礼なんて言われたくない。
床に投げ捨てるようにペンを手から離し、絢斗は志の腕を掴んだ。
志が驚く。その顔を、絢斗はやや見上げるようにじっと見つめた。
伝えたい。
ちゃんと、気持ちを声にして。
口を「あ」の形にする。息を吸い、喉に力を入れて音を絞り出そうとする。
吐息が震えた。唇も。
七歳の頃の記憶がよみがえる。もっとも古く、つらく、悲しい過去。
目を閉じる。息が苦しい。
下唇をかみしめる。
怖い。声を出すのが、まだ、僕には。
「絢斗」
志の穏やかな声がした。視線を上げた瞬間、志の顔が近づいた。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。柔らかく、あたたかな感触に口を塞がれている。
志の唇が、絢斗の唇と重なった。
静寂に支配される。呼吸とからだの自由を奪われ、絢斗は目を見開いた。
どのくらいの間、そうしていただろう。やがて志は、ゆっくりと絢斗から離れた。
「もしかして、って、ずっと思ってたんだけど」
鼻先が触れ合いそうな距離のまま、志は憂いを帯びた目をして絢斗に尋ねた。
「絢斗が声を出せないのって、声帯を失ったせいで物理的に出すことができないとか、そういう理由じゃないんだよな? 本当は出せるけど、気持ちが追いつかなくて出せない。そうだろ?」
認めるように、絢斗は静かに目を閉じた。
病気の治療などのために一部でも声帯を切り取ってしまえば、通常の発声は困難になる。だが絢斗の場合、声帯は今でも喉に残ったままだ。
志の見立てどおりだった。絢斗は声が出せないのではない。絢斗の心が、声を出すことを拒否しているせいだ。
まだ小学生だった頃の話だ。絢斗にはクラスメイトから虐げられた過去があった。その理由が声と言葉に関する問題で、当時のつらく苦しい記憶が絢斗に声を出すことをできなくさせた。やがて言葉を発しようとして口を動かすことさえままならなくなり、手話と筆談を駆使して生活していくしかなくなった。
それから十二年。閉ざされた心の扉が開いたことは一度もない。
今も昔も、絢斗は言葉を声にして伝えることができないままだ。気を許せるはずの家族の前でさえ、しゃべることができなかった。
「無理しなくていい」
うつむいた絢斗の頭に、志はそっと右手を載せた。
「俺に伝えたいことがあるのはわかった。それで十分だよ」
絢斗は首を横に振る。十分なわけがない。絢斗の気持ちはきっと半分も伝わっていない。
すがるように志を見上げる。今度は志が首を横に振った。
「俺、イヤだから。絢斗にそんな顔をさせたくて、あの詩を曲にしたわけじゃない」
ハッとした。志の両腕が、絢斗を優しく抱き寄せた。
「見たくないんだよ、そんなつらそうな顔をするところ。絢斗が好きだって言ってくれたから、俺は歌おうって思ったんだ。喜んでもらいたくて。絢斗に笑顔になってほしくて」
志の腕に力が入る。「絢斗」と志が耳もとでささやいた。
「嬉しかった。俺の歌を、好きだって言ってもらえて。絢斗のために歌いたい。他の誰でもない、おまえのために。そう思った」
だから、と志は続け、絢斗の頭に右手を添えた。
「俺の歌がいいと思ったら、笑って。それで十分だから。言葉にして伝えてくれなくていい。おまえが笑ってくれたら、俺、幸せだから」
絢斗からそっと離れ、志はまっすぐに絢斗と目を合わせて告げた。
「俺、絢斗の笑顔が好き。絢斗の笑った顔、そばでずっと見ていたい」
そう言った志も、照れたように笑っていた。
あぁ、もう――。
絢斗はくしゃくしゃの顔をうつむける。
嬉しかった。誰かに好きだと言ってもらえたのはこれがはじめてのことだった。
胸が高鳴り、張り裂けそうになる。
なんだ、これ。この気持ち。心の奥がくすぐったくてたまらない。
「笑ってよ、絢斗」
志の声に、絢斗はそっと顔を上げた。
「笑って」
志が先に笑ってくれる。その美しい笑みを映すように、絢斗も笑った。
そうだ。こうやって笑っていればいい。
笑顔が好きだと言ってもらえたのだ。だったら、笑っていよう。
意識すると、ぎこちない笑顔になってしまう。それが自分でもおかしくて、気づけば自然と笑えていた。
「それそれ」
志も嬉しそうに微笑み返してくれた。
「かわいいんだよ、笑った絢斗。はじめて会った時からずっと思ってたんだ」
わしゃわしゃと頭をなでられる。途端に恥ずかしくなって、絢斗はじゃれ合うように志の手を振り払った。
もう一度歌い直すと言って、志は準備にとりかかった。カメラの前に絢斗を立たせ、再び録画ボタンを押す役目をまかせる。
マイクの前でギターをかまえる志。それだけでもう雰囲気があって、彼の作り出す空気感、世界観に引き込まれる。
志と目が合う。彼がうなずいたら録画ボタンを押す約束になっているが、志はうなずくどころか「ちょっと待った」と言い、絢斗のもとへと歩み寄ってきた。
絢斗がなにごとかと一歩退いた瞬間、志に唇を奪われていた。今日二度目の、キス。
「さんきゅ」
唇を離した志が、ささやくように言って笑った。
「パワーチャージ完了。さっきより絶対うまく歌える」
突然のできごとに驚き固まる絢斗の頭にポンと手を載せ、志は上機嫌でマイクの前に戻っていった。
唇が痺れている。からだもどこかふわふわしていて、足に力が入らない。
なにがなんだかわからないまま、絢斗は志の合図を受けてカメラの録画ボタンを押した。
志による二度目の歌唱は、一度目よりも本当によくなっていた。
念願の晴天に恵まれた週末、絢斗は八王子駅で志の到着を待っていた。二人ではじめて作る曲『The light fall』を志がいよいよ完成させ、今日、これからレコーディングをするのだ。
志がいつも使っているのは池袋の音楽スタジオだというが、今日は絢斗の地元である八王子までわざわざ足を延ばしてくれた。乗り換えも含めて一時間以上の道のりになるというのに、志は嫌な顔一つせず「俺がそっちに行くから」と言った。一緒に音楽をやると決めた日から、曲作りの進捗状況を毎日連絡してくれるし、本当に優しい人だった。
都心部に比べればたいしたことはないとはいえ、休日の午後の八王子駅も人出は多い。いつもなら行き交う人の波にのまれて気分が悪くなるのだが、今日はしゃんと背筋を伸ばして立っていることができた。
両耳にイヤホンを装着し、スマートフォンでYuki1092のカバー歌唱動画を流していた。あれから毎日、欠かすことなく志の歌を聴いている。
本名を知ると、アーティスト名『Yuki1092』がまさに志のことを表しているのだとわかる。『1092』。苗字を数字に置き換えた名だった。
池袋で志と出会ってから今日まで、絢斗は暇さえあれば志の歌を聴いていた。『The light fall』が楽曲として完成することももちろん楽しみだったけれど、志の歌を、志の声を聴いていればそれ以上に幸せなことはないとさえ思えた。心が落ちつき、一人で出歩くのも怖くなくなった。
今、SMAPの『夜空ノムコウ』の弾き語りを聴いている。しっとりと柔らかな歌声が心とからだに沁み渡り、嫌なことをすべて忘れさせてくれるようだった。
一つだけ気になることと言えば、志の投稿した歌唱動画のすべてが、ギターによる弾き語りであることだ。音大でピアノを学んでいるのだから、ピアノ伴奏での弾き語りがあってもおかしくない。
もちろん、ピアノはクラシックしか弾かないだとか、彼なりのこだわりみたいなものがあるのだろうとは思う。けれど、彼の選択したカバー曲の中にはギター伴奏よりもピアノ伴奏のほうが合いそうなものがいくつかあった。それでさえ頑なにギターによる弾き語りをするのはなぜだろう。音大生ゆえのプライドなのか、あるいは、なにか特別な理由があるのか。
「絢斗」
肩をたたかれ、絢斗は背後を振り返った。
「よっ」
ギターケースを背負った志が八王子に到着した。先日と同じ黒いマウンテンパーカーに、今日のボトムスは濃紺のストレートデニムだ。
「ごめん、待った?」
絢斗は首を横に振り、スマートフォンの画面をタップして動画を停止した。
「あ、また俺の歌聴いてる」
イヤホンをはずす絢斗に顔を寄せ、志が手もとを覗き込んでくる。距離が近くて、彼の体温が空気を伝って頬に触れた。
「そんなに好き? 俺の歌」
もちろんだ。絢斗は素直にうなずいた。ずっとリピートしているのだと、右胸の前で両の人差し指をくるくると回す手話をする。
志は黙って笑みをこぼすと、不意に、絢斗の顎に手を添えた。顔が近づき、視線を志へと固定させられる。
「じゃあ、俺のことは?」
痺れるような美声で問われる。鼻先が触れそうになり、呼吸が止まる。
心臓が早鐘を打つ。全身が熱くて、頭がうまく働かない。
すぐ目の前に志がいる。
彼のことは。
志さんの、ことは――。
瞳をぐらぐら揺らしていると、志の妖艶な表情がふわりと緩んだ。さわやかな笑みを浮かべ、絢斗から離れる。
「行こう。スタジオ、すぐそこだから」
なにごともなかったかのように、志は絢斗をその場に残して歩き始めた。パーカーのポケットに両手を突っ込み、長い足をゆったりと動かす志の背中を、絢斗は吸い込まれるように見つめる。
――俺のことは?
志の問いかけが、耳の奥でリフレインする。
――俺のことは、好き?
歌だけじゃなくて、彼のことも?
立ち止まり続ける絢斗を、志がそっと振り返った。視線だけで「早く」と訴えかけてくる。
もつれそうになる足を懸命に動かし、絢斗は志の背中に続いた。志は絢斗が隣に追いつくまで待ってくれて、二人並んでスタジオまでの短い道のりを歩いた。
見慣れた街並みが、急にきらびやかになったように感じた。隣に志がいるだけで、世界が鮮やかに彩られる。
不思議な気持ちだった。心拍数は上がりっぱなしで、落ちつく気配はまったくない。
けれど、悪い意味での緊張でないとはっきりわかる。志の隣を歩けることを喜んでいる自分がいる。
ちらりと右隣を窺うと、志はさわやかな笑みを浮かべていた。
端正なその横顔を見て、考える。
もし、先ほどの問いにイエスと答えたら、彼はどんな顔をするだろうか。
「オッケー。一回チェックするわ」
人生ではじめて足を踏み入れた音楽スタジオの一室で、絢斗がカメラの録画停止ボタンを操作すると、志は肩の力を抜き、腰を落ちつけていた椅子から立ち上がった。
三脚にセットしたカメラにマイクをつないだだけのシンプルな機材で、志はいつも投稿動画用の演奏を撮影・録音していた。音大でピアノを学んでいる都合もあり、賃貸マンションながら防音室のある家に住んでいるそうだが、ちゃんとしたスタジオで演奏したほうが気合いが入るらしく、自宅で歌うことはないという。
志のパフォーマンスをただ座って見ているだけでは申し訳ないと、絢斗は録音作業を手伝わせてほしいと自主的に願い出た。ならばと志がカメラの操作をまかせてくれて、絢斗は緊張しながら録画開始ボタンを押し、たった今、録画停止ボタンを押した。志の歌声に聴き惚れて、うっかり操作をまかされていたことを忘れかけたことは志には内緒だ。
録画した映像を再生し、熱心に精査している志の隣で、絢斗はやっぱり放心状態になっていた。
素晴らしいという言葉では足りないくらいの出来映えだった。絢斗の綴った詩の情景以上の美しい絵がスタジオじゅうに広がった。
間奏などで時折入るフェイクの鮮やかさ、歌詞に合わせて揺れ動く感情によって色を変える声。どこを切り取っても、渡久地志は絢斗の相方としてもったいない歌い手だった。
胸がいっぱいで、その場にくずおれそうになる。
こんなにも幸せなことがあっていいのか。これまでずっと、孤独な深海を漂うことばかりだったのに。
幸せすぎる。
誰よりも近くで、大好きな彼の歌声をひとりじめできるなんて。
「うーん」
撮りたての動画をチェックし終えた志の表情は冴えなかった。
「もうワンテイクだなぁ」
どうやら気に入らなかったらしい。なにが不満だったのか、絢斗にはさっぱりわからなかった。
「どうだった、絢斗?」
志に感想を求められる。絢斗は青いノートにペンを走らせた。
〈感動して言葉になりません〉
「いつもそれだな、絢斗は」
〈本心です。こんなにも素敵な曲にしていただけて、なんとお礼を言っていいのか〉
「いいよ、お礼なんて。誘ったのは俺のほうだし、礼を言わなきゃいけないのは俺だから」
違う。礼なんて言われたくない。
床に投げ捨てるようにペンを手から離し、絢斗は志の腕を掴んだ。
志が驚く。その顔を、絢斗はやや見上げるようにじっと見つめた。
伝えたい。
ちゃんと、気持ちを声にして。
口を「あ」の形にする。息を吸い、喉に力を入れて音を絞り出そうとする。
吐息が震えた。唇も。
七歳の頃の記憶がよみがえる。もっとも古く、つらく、悲しい過去。
目を閉じる。息が苦しい。
下唇をかみしめる。
怖い。声を出すのが、まだ、僕には。
「絢斗」
志の穏やかな声がした。視線を上げた瞬間、志の顔が近づいた。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。柔らかく、あたたかな感触に口を塞がれている。
志の唇が、絢斗の唇と重なった。
静寂に支配される。呼吸とからだの自由を奪われ、絢斗は目を見開いた。
どのくらいの間、そうしていただろう。やがて志は、ゆっくりと絢斗から離れた。
「もしかして、って、ずっと思ってたんだけど」
鼻先が触れ合いそうな距離のまま、志は憂いを帯びた目をして絢斗に尋ねた。
「絢斗が声を出せないのって、声帯を失ったせいで物理的に出すことができないとか、そういう理由じゃないんだよな? 本当は出せるけど、気持ちが追いつかなくて出せない。そうだろ?」
認めるように、絢斗は静かに目を閉じた。
病気の治療などのために一部でも声帯を切り取ってしまえば、通常の発声は困難になる。だが絢斗の場合、声帯は今でも喉に残ったままだ。
志の見立てどおりだった。絢斗は声が出せないのではない。絢斗の心が、声を出すことを拒否しているせいだ。
まだ小学生だった頃の話だ。絢斗にはクラスメイトから虐げられた過去があった。その理由が声と言葉に関する問題で、当時のつらく苦しい記憶が絢斗に声を出すことをできなくさせた。やがて言葉を発しようとして口を動かすことさえままならなくなり、手話と筆談を駆使して生活していくしかなくなった。
それから十二年。閉ざされた心の扉が開いたことは一度もない。
今も昔も、絢斗は言葉を声にして伝えることができないままだ。気を許せるはずの家族の前でさえ、しゃべることができなかった。
「無理しなくていい」
うつむいた絢斗の頭に、志はそっと右手を載せた。
「俺に伝えたいことがあるのはわかった。それで十分だよ」
絢斗は首を横に振る。十分なわけがない。絢斗の気持ちはきっと半分も伝わっていない。
すがるように志を見上げる。今度は志が首を横に振った。
「俺、イヤだから。絢斗にそんな顔をさせたくて、あの詩を曲にしたわけじゃない」
ハッとした。志の両腕が、絢斗を優しく抱き寄せた。
「見たくないんだよ、そんなつらそうな顔をするところ。絢斗が好きだって言ってくれたから、俺は歌おうって思ったんだ。喜んでもらいたくて。絢斗に笑顔になってほしくて」
志の腕に力が入る。「絢斗」と志が耳もとでささやいた。
「嬉しかった。俺の歌を、好きだって言ってもらえて。絢斗のために歌いたい。他の誰でもない、おまえのために。そう思った」
だから、と志は続け、絢斗の頭に右手を添えた。
「俺の歌がいいと思ったら、笑って。それで十分だから。言葉にして伝えてくれなくていい。おまえが笑ってくれたら、俺、幸せだから」
絢斗からそっと離れ、志はまっすぐに絢斗と目を合わせて告げた。
「俺、絢斗の笑顔が好き。絢斗の笑った顔、そばでずっと見ていたい」
そう言った志も、照れたように笑っていた。
あぁ、もう――。
絢斗はくしゃくしゃの顔をうつむける。
嬉しかった。誰かに好きだと言ってもらえたのはこれがはじめてのことだった。
胸が高鳴り、張り裂けそうになる。
なんだ、これ。この気持ち。心の奥がくすぐったくてたまらない。
「笑ってよ、絢斗」
志の声に、絢斗はそっと顔を上げた。
「笑って」
志が先に笑ってくれる。その美しい笑みを映すように、絢斗も笑った。
そうだ。こうやって笑っていればいい。
笑顔が好きだと言ってもらえたのだ。だったら、笑っていよう。
意識すると、ぎこちない笑顔になってしまう。それが自分でもおかしくて、気づけば自然と笑えていた。
「それそれ」
志も嬉しそうに微笑み返してくれた。
「かわいいんだよ、笑った絢斗。はじめて会った時からずっと思ってたんだ」
わしゃわしゃと頭をなでられる。途端に恥ずかしくなって、絢斗はじゃれ合うように志の手を振り払った。
もう一度歌い直すと言って、志は準備にとりかかった。カメラの前に絢斗を立たせ、再び録画ボタンを押す役目をまかせる。
マイクの前でギターをかまえる志。それだけでもう雰囲気があって、彼の作り出す空気感、世界観に引き込まれる。
志と目が合う。彼がうなずいたら録画ボタンを押す約束になっているが、志はうなずくどころか「ちょっと待った」と言い、絢斗のもとへと歩み寄ってきた。
絢斗がなにごとかと一歩退いた瞬間、志に唇を奪われていた。今日二度目の、キス。
「さんきゅ」
唇を離した志が、ささやくように言って笑った。
「パワーチャージ完了。さっきより絶対うまく歌える」
突然のできごとに驚き固まる絢斗の頭にポンと手を載せ、志は上機嫌でマイクの前に戻っていった。
唇が痺れている。からだもどこかふわふわしていて、足に力が入らない。
なにがなんだかわからないまま、絢斗は志の合図を受けてカメラの録画ボタンを押した。
志による二度目の歌唱は、一度目よりも本当によくなっていた。



