ペンギンが、空を飛んでいた。
 真昼の東京・池袋に現れたその幻想的な光景を、絢斗は食い入るように見つめていた。トートバッグからデジタル一眼レフのカメラを取り出し、時折写真を撮った。心に焼きつけるだけでなく、記録としてこのきらびやかな景色を残しておきたかった。

 池袋駅から少し東へ行った先にあるサンシャイン水族館は、日本ではじめてビルの屋上に設けられた水族館だ。中でも目玉展示の一つである『天空のペンギン』ブースは、壁から天井へ向かってドーム状に続いている水槽でペンギンが泳いでおり、青空が透けて見え、プリズムのように乱反射する太陽の光が差し込む中、まるでペンギンたちが池袋上空を飛び回っているかのような、大人も子どももわくわくできる景色を拝むことができる。
 水族館全体がリニューアルされ、この『天空のペンギン』ブースが登場してから、絢斗ははじめてこの場所へ足を運んだ。いつか見ておきたいとかねてから思ってはいたものの、高校生になったばかりの頃、電車通学を始めたことで発症したパニック障害のおかげでなかなか思うような外出が叶わず、三年半という時間をかけてようやく実現させるに至った。
 さすがは池袋。平日の午後二時でも館内はそれなりににぎわっていた。人の集まる場所は苦手だが、空飛ぶペンギンにすっかり夢中になっている今の絢斗にとって、人混みなどたいした敵じゃない。

 ファインダーを覗く。シャッターを切る。
 目を閉じて、想像する。心の中に、描きたい景色を思い浮かべる。
 一つ一つ、使いたい言葉が降ってくる。(つづ)りたい想いが、胸の奥で少しずつ形になっていく。
 この瞬間が好きだった。伝えたい言葉が泉からあふれてくるような、感情が自然と心を衝いて出てくる感覚。
 こうした刺激を得るために、絢斗ははるばるこの場所までやってきた。自宅と大学を往復するだけの生活では、心はちっとも動かない。心が揺れ動かなければ、書けるものも書けないのだ。

「絢斗」

 声をかけられ、絢斗は背後を振り返った。三メートルほど離れたところにいたはずの志が、心配そうな顔をして絢斗のすぐ後ろに迫っていた。

「大丈夫?」

 絢斗が目を閉じて立ち止まったからだろう。また気分が悪くなったのではないかと気づかってくれたようだ。
 絢斗は右手でオーケーサインを作り、頭上を悠々と泳ぎまわるペンギンを指さした。すごいですねと伝えたかったのだが、志はすぐにわかってくれて、「うん」と笑ってうなずいた。

「すごいな。俺、生まれが岐阜でさ。大学に入った時に東京へ出てきたんだけど、ここに来るのははじめて」

 岐阜にはペンギンがいないんだ、と志はやや大仰(おおぎょう)に肩をすくめた。知らなかった。生まれも育ちも東京である絢斗は素直に驚いて目をぱちくりさせ、もう一度、小さな翼をはためかせて空を泳ぐペンギンたちを見上げた。
 屋外から差し込む自然な陽光が水槽を透過して、通路を華やかに(いろど)っている。行き交う人の熱も、話し声も、普段ならしつこいくらいにまとわりついてくるのに、今はなに一つ不快に感じない。
 たぶん、安心しているからだ。隣に彼がいてくれるから。
 ちらりと右に目を向ける。志はほんの少しだけ目を細くし、寄り添うように並んで泳ぐ二羽のペンギンを見つめていた。
 きれいな横顔だった。耽美という言葉がしっくりくる、完成された美しさ。雰囲気があり、彼の周りだけ他とは違う、新鮮で清潔な空気が(ただよ)っているようにさえ感じる。(けが)れを知らない、澄み切った世界の中に彼はいた。
 絢斗はカメラをかまえた。一、二歩志から距離を取り、一心にペンギンを見上げる彼の姿を撮る。
 横顔のアップ。バストショット。もう三歩下がると、ギターケースを背負い、パーカーのポケットに両手を突っ込む全身の写真を撮影した。
 構図を変えて、志とペンギンが見つめ合っているような写真も撮った。被写体に人を選んだことはこれまでなかったけれど、こんなにも絵になるものかと感心した。

 僕とは、全然違う――。

 くたびれて色の()せたジーンズに、ジャストサイズのカーキのフーディーを着ているだけ。髪を染めたこともなく、生まれつき色素の薄い猫っ毛はいつもペタンと頭にくっついてボリュームがない。
 オシャレとは無縁で、顔もスタイルも平々凡々。自分と比べて、志はなんと鮮やかな存在だろうと心底思う。かっこいいという言葉では言い尽くせない魅力を彼から感じてやまないのは、いったいどういうわけなのか。

 そこまで思って、ハッとした。
 気がつけば、幻想的なペンギンの存在を忘れて志ばかりを見ていた。わけもわからずドキドキして、頭が少し混乱した。
 絢斗が離れたことにようやく気づいた志が、驚いた顔で駆け寄ってきた。

「ごめん、次行く?」

 志の声で我に返った。絢斗は首を横に振り、撮りたての写真をカメラの液晶画面に表示させ、志に見せた。

「えっ、俺じゃん」

 志が前のめり気味に画面を覗き込んでくる。
 カメラを支えていた右手に、志の右手が重なった。一瞬、ふわりとシトラスがまた香った。
 胸の鼓動が速くなる。顔は近いし、右手の甲に触れている志の手はあたたかい。優しいぬくもりが染み込んできて、指先が震えた。

「全然気づかなかった、撮られてたの」

 志はついに絢斗からカメラを奪い取って、何枚か撮影した志の写真を順に見始めた。勝手に撮るなよ、なんて怒られるかと思ったけれど、志はただ熱心に、絢斗の撮った写真を見ているだけだった。
 その隙に絢斗は青いノートとシャープペンを取り出し、志に伝えたいことを綴った。
 志の肩を指でつつく。志の視線が絢斗をとらえると、絢斗はノートを見せた。

〈ごめんなさい。かっこよかったので、つい撮ってしまいました。迷惑でしたか?〉

 志の写っていない写真も含め、今日撮ったものをSNSなどに投稿する予定はなかった。そもそも絢斗の持っているアカウントは発信用として機能させておらず、情報を得るためのツールとして利用しているに過ぎない。
 仮に誰にも見せる予定がなかったとしても、写真を撮られることそのものが嫌いな人だっている。志がそうだったかもしれない。志の表情は穏やかなのでそうではないと信じたいが、嫌な気持ちにさせたのなら、データを削除しなければならない。
 やや縮こまった絢斗を見て、志は吹き出すように笑った。

「素直なんだな、絢斗って」

 素直? 絢斗は両眉を跳ね上げた。

「だってさ、『かっこいいから撮っちゃいました』なんて、普通言えないだろ、そんな簡単に」

 そういうものだろうか。かっこいいと思ったのは本心で、伝えたらきっと喜んでもらえると思って言葉にしたのだが、間違いだったか。
 絢斗は〈ごめんなさい〉と手話で伝えた。親指と人差し指で眉間(みけん)をつまむような仕草をし、指先を揃えて開いた手を上から下へと下ろしながら、同時に頭も下げる。
 最後の動きは〈よろしくお願いします〉と似ているが、最初が違うので志にも別の手話だとわかったらしい。絢斗の表情から謝罪であると察してくれたようで、志は首を横に振った。

「ありがとう。迷惑なんかじゃないよ」

 駅でしてくれたのと同じように、志は絢斗の頭をなでた。恥ずかしくなって頬が赤らむのを感じたけれど、心はほかほかとあたたまった。

「むしろ嬉しいよ、こんな風に撮ってもらえて。ねぇ、この写真、俺にもちょうだい」

 志はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出した。絢斗は快諾し、カメラとスマートフォンをBluetoothで接続して写真を転送した。
 ありがとう、と言った志は、スマートフォンを握った右手で忙しなく画面をタップした。文字を打ち込んでいるらしい。
 やがて顔を上げると、志は液晶画面を絢斗に見せた。

「じゃーん」

 志が操作していたのはインスタグラムだった。志の全身とペンギンを横から撮った写真に、コメントをつけて投稿されていた。

〈友達が撮ってくれました! Thank you, Ayato! 〉

 インスタ映え~、と志は鼻歌まじりに笑った。その声を(なか)ば聞き流した絢斗の目は、志の綴った文章に釘づけになっていた。

 友達。
 なにげなく打ち込まれた文字を、吸い寄せられるように見つめる。

 もうずっと、その言葉とは無縁だった。七歳の頃に声を出すことができなくなってから、閉じた世界の中で、いつも一人きりだった。
 半年前に卒業した高校でも、今かよっている大学でも、声を持たないせいで煙たがられた。気づかってくれる人はいるものの、()れ物に触るような扱いになってしまうことは避けられないようだった。
 迷惑な存在なのだと、絢斗は自分の意思で(から)にこもった。どうせ誰ともうまくやっていけないのだから、いっそのこと透明人間にでもなってしまえばいい。それが絢斗の生き方だった。一人でも、僕は全然寂しくない――。

「おい」

 不意に、志の声がした。

「なんだよ、なんで泣いてんだよ、絢斗」

 志の右手が、左頬に伸びてくる。
 いろんな意味で驚いた。いつの間にか、絢斗は涙を流していた。
 慌てて拭い、首を振る。違う。悲しくて、つらくて泣いているんじゃない。

 嬉しかった。
 都合のいい言葉を使ったに過ぎないのかもしれない。それでも、志に友達だと言ってもらえたことが嬉しくてたまらなかった。こんな気持ちになれる日が来るなんて、少しも想像したことはなかった。
 胸に熱いものが込み上げる。同時に、頭の中でいくつかのワードが光り輝いて浮かび上がった。
 それらはすぅっと収束し、一つの情景を形成していく。暗闇の中に、一条の光が差し込む場面。

 気持ちが高ぶる。心の中にある言葉たちを外界へ放出したい衝動に駆られる。

 書きたい。書ける。
 今ならきっと、いいものが書ける。

 絢斗は青いノートとシャープペンを取り出し、志に伝えたいことを書き記して見せた。

〈どこか、座れる場所へ移動したいです〉
「えっ、大丈夫? 気分が悪い?」

 絢斗は首を横に振り、ノートに新しい一文を記した。

〈やりたいことがあります〉
「やりたいこと?」

 絢斗ははっきりとうなずいた。志は突然のことに戸惑っているようだったが、絢斗の要望を聞き入れ、ペンギンのブースから少し離れた通路で見つけたベンチに並んで腰かけた。「ここでいい?」と確認され、絢斗は右手でオーケーサインを作った。
 青いノートをバッグにしまい、今度は赤い表紙のリングノートを取り出す。揃えた足の上にノートを置き、絢斗はゆっくりとペンを走らせ始めた。

 ページの一番上に、『The light fall(仮)』と記す。罫線を無視し、次々と単語を書き出していく。
 空。光。太陽。輝き。きらめき。幻想的。非日常。ペンギン。泳ぐ。寄り添う。出会う。くっつく。離れる。孤独。海。青。
 マインドマップのように、単語から単語を連想して線でつなげていったり、それぞれ独立したものをいくつも書き並べたり。

 絢斗は夢中で作業を続けた。隣に座る志が覗き見していることなど、さっぱり気に留めていない。
 満足すると、今度は書き出したワードを短い文章にし始めた。
 小説のようなそれではない。詩だ。メロディーをつければ歌詞になるような。

 絢斗が高校生になったばかりの頃、とある日本人シンガーソングライターの楽曲が世界的に流行したことがあった。音楽性もさることながら、絢斗はその曲で歌われた歌詞に感銘を受け、以来、自分でも書いてみるようになった。
 言葉を声にすることができない絢斗にとって、詩は自らの心を表現する方法として自然とからだに馴染(なじ)んでいった。誰かに見せたり、ネット上で発表したりといったことはまだしたことがないけれど、趣味としてこのまま長く続けていきたいと思っていた。
 絢斗の感じた素直な気持ちやささやかな願いが、少しずつ、一つの(うた)になっていく。何度も消しゴムをかけた箇所は紙が黒ずみ、それでも絢斗の手が止まることはない。形になるまで一気に駆け抜けるのが絢斗流だ。

 納得のいく出来映えになった頃には、どれくらい時間が経っていただろう。
 絢斗はとてもいい顔をして、まとめ上げた詩を新しいページに書き写した。タイトルははじめにつけた仮題『The light fall』をそのまま採用した。

「すごいな」

 ペン先がノートから離れると、隣から驚きを多分に含んだ声が上がった。志を待たせてしまっていたことを今になって思い出して、絢斗はハッとして志を見た。

「見せて」

 志の視線は完成した詩に釘づけになっていた。絢斗がなんのアクションも起こさないうちに、志は絢斗の左手から赤いノートをそっと奪った。
 あたふたする絢斗の隣で、志は夢中になって絢斗の綴った詩を読んだ。一語一語、(いつく)しむように指でノートの文字をなぞりながら、うっとりと目を細めている。

「これ、歌詞?」

 志が問う。絢斗は曖昧に首を振った。
 歌詞のつもりで書いたわけではないけれど、詩を書き始めたのは例の楽曲に影響されたからだ。音楽は作れないが、もしも歌にするならAメロはこうで、サビはどうで……といった風に、一つの曲としての構成を考えながら綴ることはある。
 今回もどちらかというとそういう書き方になった。志がギターを背負っていたからだろうなと絢斗はひそかに思った。

「ここがサビ?」

 志がノートの中央あたりを指で示す。まさに絢斗がサビを想定して書いた部分だった。右手でオーケーサインを作ってみせる。

「じゃあ、他はこうなるね」

 志が右手を広げて差し出してきたので、絢斗は彼の手のひらの上にシャープペンを載せた。
 志はペンを握り、Aメロ、Bメロ、サビと、絢斗の書いた詩をいくつかにブロック分けし始めた。そのうち「ここにちょっと長めの間奏入れたいなぁ」なんて言葉が聞こえてきて、絢斗の胸が弾み出す。

 まさか、彼はこの詩に曲をつけるつもりなのか。
 無意識のうちに生唾を飲み込む。わけもなくドキドキしてきて、頬が熱を帯びていく。

「……The light fall」

 ついに志が、絢斗の綴った詩にメロディーをつけて歌い始めた。

「降り注ぐ愛とぬくもりを」

 その短いフレーズを聴いただけで、全身が震えた。

 うまい。
 話す時よりもなお透明感のある歌声。正確にとらえられた音程。ふわりと響かせるビブラート。

 まだサビの半分にも到達していない。たったそれだけの短い歌で、絢斗は志の歌声の(とりこ)になった。
 自分の書いた詩を歌ってもらえたことも嬉しい。けれどそれ以上に、志の歌声をもっと聴きたいと強く思った。
 鳴りやまないでほしい。彼の奏でる音楽にいつまでも身をゆだねていたい。
 絢斗の求めるような視線に気づいた志と目が合う。志はそっと口角を上げ、即興でサビの部分を最後まで歌い切ってくれた。

「どう?」

 志が感想を求めてくる。

「いい感じ?」

 絢斗はこくこくと、何度も何度もうなずいた。
 いいなんてもんじゃない。最高だ。フラット一つの明るめなメロディーラインはエモーショナルで、アップテンポでもスローバラードでも映えそうだった。バックミュージックがついたら間違いなく泣いてしまう自信がある。
 すでに潤んでいる目もとを拭い、絢斗はなにか言いたそうにもぞもぞとからだを動かした。こういう時、声が出せないことがもどかしくてたまらない。
 仕方がなく、トートバッグから取り出した青いノートに書きなぐるようにして感想を綴った。

〈すごいです〉

 一言目から、語彙力が消失していた。

〈歌、すごい。歌声きれい。上手!〉

 思ったままを言葉にした。これ以上、なんと書けばいいのだろう。興奮していて、頭がうまく回らない。

「素直だなぁ、ほんと」

 志は照れたようにはにかみ、「ありがと」と言った。男らしい顔つきの中に、幼い少年のようなかわいらしい表情が浮かんでドキッとした。

「いい詩だな。趣味なの? 詩を書くの」

 絢斗はまだ興奮のさなかにいた。志の問いかけにはひとまずうなずいて、それより、といった風に志の腕をトントンとたたいた。
 握った右手を顎に添え、少し前に出しながら人差し指を立てる。そのジェスチャーが終わると、今度は立てた右手の人差し指と中指をくっつけて口もとに寄せ、ゆっくりと開きながら右斜め上へと手を動かした。

〈もう一度、歌って〉

 そう伝えるための手話だ。しかしうまく伝わらなかったようで、志は顔をしかめながら、今絢斗がやったとおりに自分でも手を動かした。

「最初のは……数字の一?」

 絢斗はうなずき、両手の人差し指を右胸の前あたりでくるくると回す。〈くり返す〉を表す手話だが、わかってもらえただろうか。

「一を……くるくる。で、次が、こう……」

 立てた二本の指を口もとから遠ざける仕草。そこまで実践して、ようやく志は「あ!」とピンときた顔をした。

「わかった、〈リピート〉だ! もう一回歌えってことか」

 絢斗は笑顔でオーケーサインを出し、〈お願いします〉の手話をした。

「えぇ、ここで?」

 絢斗は一瞬うなずきかけ、やめた。慌ただしく荷物をまとめ、ベンチから腰を上げる。
 志を手招きするように、指で出口のほうをさす。もっと広い場所で、人の目を気にすることなく、大きな声でのびのびと歌ってほしかった。

「えっ、行くの?」

 絢斗はうなずき、志の(かたわ)らに立てかけられているギターケースを指さした。どうせなら、ギターで伴奏もつけてほしい。
 図々しいと自覚しながら、好奇心と欲望がとめどなくあふれて止まらなかった。
 もっと、もっと志の歌を聴きたい。自分の書いた詩を歌にするんじゃなくてもいい。ただ志の歌を、優しくて美しい歌声を、誰よりも近くで感じたい。それだけだった。

「参ったな」

 志は困ったように苦笑しながら、グレージュの頭をかいた。

「じゃ、行くか。せっかくだし、サビだけでもちゃんとした曲にしてみるよ」

 OKをもらえ、さらに絢斗の心は弾んだ。志もどことなく嬉しそうで、二人は揃って水族館を出た。

 絢斗はわかりやすく浮かれていた。
 誰かとこうして同じ時間を共有するのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。