「じゃあな、絢斗」

 黒いハットで顔を隠し、全身を黒いトレンチコートで包んだ志が、転がしていたシルバーのキャリーバッグを自分のからだの横に引き寄せ、凛々しい笑みを絢斗に向けた。

「いってきます」
「いってらっしゃい。ご武運を」
「固いなぁ。決闘に行くわけじゃあるまいし」

 二人の脇を忙しなく通り過ぎていったロリータファッションの若い女性が、キャリーバッグの上に積んでいた小ぶりのボストンバッグを志の足もとに落としていった。志はすかさず拾い上げ、振り返った女性に手渡した。

「あ、ありがとうございますっ」
「いいえ。お気をつけて」

 絢斗にとってはすっかり見慣れた微笑みを向けられると、ロリータの彼女はポッと頬を赤らめた。慌ただしくお辞儀をし、慌ただしく去っていく。あれは惚れたなぁ志さんに、と絢斗はひとごとのように思った。

 ゴールデンウィークも終盤を迎えた成田空港は、朝から大勢の人でにぎわっていた。旅を終えた日本人、自国へと帰っていく外国人観光客。皆どこか浮かれ気分のふわふわした空気に満ちる中、一人、勇ましい立ち姿をしているのは志だ。今日の彼はピアニストとして、これからベルギー・ブリュッセルへと()つ。歴史ある音楽コンクールで、ピアノ部門の頂点を目指す戦いに挑むのだ。

「でも、(いくさ)をすることには変わりないです。ピアノとピアノのぶつかり合いですから」
「うーん……。そいつはちょっと違うかなぁ」

 少し考えるような表情を見せ、志は視線を遠くへ投げた。

「俺のピアノは、他の参加者を倒すための武器じゃない。聴き手の心を揺さぶるためのものだからさ」

 志の横顔は清々しく、どこまでも前向きだった。切れ長の瞳に映るのは、指先で観客を魅了する未来の志自身の姿。

「いい音楽って、そういうものだろ」

 志の視線が、再び絢斗をとらえる。

「他者との争いじゃなくて、どっちかっていうと、自分との闘い。俺の武器で、どれだけ多くの人を感動させられるか。いい気持ちにさせられるか。俺が目指すのはその一点だけだよ。それが評価されたら最高で、明るい未来につながればいいなって」

 語る姿は楽しげで、コンクールがどのような結果に終わっても後悔しないとすでに心に決めているような口調だった。
 (いさぎよ)くて、かっこいい。人生、なるようにしかならないと割り切っているようにも見えるけれど、そういうさっぱりとした性格、ポジティブ思考に絢斗は惹かれた。悩んでも、苦しんでも、自分を曲げない強さを持っている志は、どちらかと言わずとも後ろ向きで内向的な絢斗にとって、あこがれの存在でもあった。

「信じます」

 志の目を見て絢斗は言った。

「志さんの音楽が、世界じゅうの人に届くことを」
「ありがとう。いい結果報告ができるようにがんばるよ」
「志さんなら大丈夫です。なんと言ったって、あなたは音楽の神様に見初められた男ですから」
「なんだよそれ」

 志が声を立てて笑う。絢斗も笑うと、志がわしゃわしゃと派手に頭をなでてくれた。

「留守番、頼むな。ギターの練習、ちゃんと毎日やれよ」
「はい。がんばります」

 最大で丸八日間日本を離れる志の代わりに、絢斗が志の借りている江古田の部屋を管理することになっていた。四月に迎えた二十歳の誕生日に志がギターを買ってくれたので、成人したことを機に、絢斗も本格的に音楽を始めることになったのだった。

「それじゃ」

 志が軽く右手を上げる。しばしの別れの時が迫る。
 たった一週間、されど一週間。いつだってそばにいたい大切な人が海を(へだ)てた先へ行ってしまうと思うと、胸がきゅっと締めつけられる。
 寂しさが顔に出てしまったようで、志は困ったように笑い、絢斗にそっと顔を近づけた。
 顎に右手を添えられる。絢斗は反射的に目を閉じた。
 けれど志は期待したことをしてくれなくて、近づけた口をスッと絢斗の左耳に寄せた。

「キスされると思った?」

 わざと低く出した声が意地悪に告げる。睨むように薄く目を開けた絢斗の頬に紅が挿した。

「ひどい人。最後の最後にからかうなんて」
「安心しろ。帰ってきたらたっぷりしてやる」

 そう言いつつ、志は絢斗の赤らんだ頬に軽く唇を寄せてくれた。

「浮気するなよ」
「ご心配には及びません。僕はモテないので」
「そんなことない。おまえ、自分のかわいさにまだ気づいてないのか?」
「志さんだけですよ、そうやって僕のことをほめてくださるのは」
「そういう無自覚なヤツほど心配なんだよなぁ」
「志さんこそ、浮気しないでくださいね。あなたは僕と違ってモテるんだから」
「安心しろ。俺はおまえしか見てないから」

 互いに照れた笑みをこぼし、ぎゅっときつく抱きしめ合うと、志はいよいよ絢斗に背を向けて歩き出した。
 少しずつ遠ざかっていく志の大きな背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、絢斗は穏やかな目つきでその陰を追い続けた。
 志ならきっと大丈夫。望んだ未来を必ず掴んで帰ってくる。

 我知らず微笑み、絢斗は羽織っているライトグレーのパーカーからスマートフォンを取り出した。ワイヤレスイヤホンを耳につけ、YouTubeにアクセスする。
 ゆっくりと、志とは反対方向に歩き出す。搭乗口に向かう人波に逆らって進んでも、今はもう悪い夢に悩まされることはない。
 スマートフォンで流す志の歌声が励ましてくれる。前を向き、まっすぐ進む力を与えてくれる。

 志と出会うまで、なにもかもがうまくいかなかった。死んだように生きていた。
 でも今は、志がいる。志といれば、叶わない願いなんてない。新たな夢さえ見させてもらえる。

 志はギターの練習をしておけと言ったけれど、絢斗には他にも、志が帰る前までにやっておきたいことがあった。
 Yuki1092名義で発表する新作の歌詞を準備すること。できれば三つほど候補を用意しておきたい。
 日々が充実すると自然と前向きな詩を書くことが増えるけれど、あえて失恋ソングを書いてみようとか、夢を目指す人のための応援ソングにチャレンジしようとか、絢斗の心にある作品の種が次々と元気に芽吹き始める。どのくらい水を()いたら、どんな花が咲くだろう。匙加減はいつも手探りだ。

 そうやってあれこれ迷う瞬間が大好きだった。一人で自由気ままに書いていた時とは違う。今はもう、志が歌うことを前提に言葉を紡ぐことが当たり前になっている。
 そう。今はもう、一人じゃない。
 そう思えるだけで力が(みなぎ)る。足取りが軽くなる。
 誰かのために、自分の力を尽くせること。それがなによりも幸せだった。

 ふと、歌詞よりも先にタイトルが浮かんだ。語感を確かめたくて、足を止め、周りに聞こえないくらいのボリュームでつぶやく。

「……『きみの声で愛を歌え』」

 悪くない。どれだけ苦しくても、ありったけの声と勇気を振り絞れば、心にある愛は大切な人に届く。そんな前向きな歌にしたい。絢斗の声は、志が取り戻してくれたものだから。

 使いたい言葉たちが次から次へとあふれてきて、せっつかれるように、絢斗は空港内を駆け出した。
 書こう。志のために。
 その先にいる、志の歌声を待つ大勢の人たちのために。

 前だけを見つめて走る絢斗の横顔に、柔らかな五月の陽射しが降り注いだ。
 明るい未来へと続く滑走路から、二人で見る夢が飛び立った。


【スウィーテスト・シンフォニー/了】