「あーもう!」

 志の暮らす部屋のグランドピアノが、わざとらしい不協和音を奏でた。

「なんか違う!」

 悲鳴にも似た志の叫びも重なって、和音の響きはさらに混沌(こんとん)としたものになる。

「少し休憩しませんか、志さん」

 ピアノのすぐ脇に置かれているセミダブルのベッドから腰を上げ、絢斗はゆったりとした口調で話しながら、キッチンに向かって歩き出した。

「コーヒー、()れてきますね」

 間仕切り代わりの扉を引き開け、廊下へと出る。閉める時に目の端に映った志は、悔しそうにグレージュの髪をかきむしっていた。

 新しい年を迎え、一ヶ月が過ぎた。大学の定期試験を無事に乗り越えた二人は二カ月間の冬休みに入り、Yuki1092名義の音楽活動に専念していた。
 先週、『空を泳ぐ』というタイトルの新曲を新たに配信リリースしたばかりの二人だが、三月に初のミニアルバムを発売することが決まっている。活動は順調だ。
 YouTubeに投稿した『The light fall』と『紫陽花』も含め、これまで発表してきた五つのオリジナル曲と、新たに一曲、新作を加えた六曲入りのCDを制作する。今志が頭を悩ませながら取り組んでいるのは、まだ世に出していない新作の作曲作業だった。

 勝手知ったる我が家のごとく、絢斗は二畳しかない手狭なキッチンに立ち、コーヒーミルを操作する。豆を挽き、湯を沸かし、同じデザインのマグカップを二つ用意した。
 江古田にある志の自宅に来ることにもすっかり慣れた。九畳ある主寝室が防音仕様になっている、音大生を主要ターゲットとした賃貸マンションの三階。南側に窓のある主寝室の三分の一はグランドピアノが占め、残り三分の二をベッドやテーブル、二十インチの小さなテレビなどが所狭しと並べられている。クローゼットには必要最低限の衣類だけが収まり、無理やりあけられたスペースには楽譜と教科書で高い山が築かれていた。
 これまでは八王子まで出向いてくれていた志だったが、今は絢斗をこの部屋に呼んで楽曲制作に取り組むことが当たり前になった。交通費の代わりに志は食費を負担してくれたり、新しい服を買ってくれたりして、持ちつ持たれつのいい関係が築けている。

 そうして志と過ごす時間が増えるたび、絢斗は声を求められるようになった。最初のうちは自信がなくて手話に頼りがちだったけれど、志が根気よく訓練に付き合ってくれて、ゆっくり話すこと、口の形をはっきりと作ること、話したいことをあらかじめ頭の中にイメージすることなど、いくつかの課題を一つずつクリアしていきながら、徐々になめらかな発声を取り戻していった。
 気持ちが焦ると吃音の症状が出てしまう時があるものの、今ではゆっくりしゃべることでほとんど言葉につまることはなくなった。意識的にペースを落として話すことは芝居に似ていて、人より少しおっとりした話し方をする人格を演じるように、絢斗はおおむね自分の思いどおりに言葉を操っている。

 全部、志のおかげだ。
 志の言ったとおりだった。志といれば、志が隣にいてくれれば、夢が夢で終わらない。一生声を取り戻せないことを覚悟した絢斗のもとへ、生まれ持った自身の声は戻ってきた。
 人間とは欲深いもので、一つ願いが叶うと、新たな願いがすぐに生まれる。絢斗にはまだまだ、ほしいものがたくさんある。
 それらはこれから、志と二人で探しに行く。同じ景色を見、同じ出会いに感動し、感謝する。
 そんな日々がいつまでも続くことも、絢斗の新たな願いの一つだ。志と二人なら、きっと叶えることができる。

 腕時計に目を落とすと、午後六時を回っていた。このマンションは楽器の演奏可能時間が朝八時から夜の十時までと決められていて、今日は午後八時には切り上げてディナーに行こうという話になっている。
 淹れたてのコーヒーを持って主寝室に戻ると、志はピアノを離れ、ベッドの端に腰かけていた。表情はさっぱり冴えず、疲れの色をにじませている。

「どうぞ」

 白黒の太いボーダーが入ったマグカップを差し出すと、志は力なく「さんきゅ」と言って受け取った。
 彼は焦っていた。というのも、この新曲の制作にかけられる時間が、レコーディングまで含めて残り二週間しかないからだ。
 志は五月にベルギーで開かれる国際ピアノコンクールにエントリーすることを決めていて、その練習時間を確保するために二月の後半からは歌手活動を休止する。それに合わせてミニアルバム制作を進めねばならず、できれば今日中に仕上げて編曲担当者に投げたいと考えているのだ。

「僕は、いいと思いましたよ。さっきの曲調」

 Bメロからサビにつながる三、四小節分のメロディーを、志は何度も書き直していた。サビに向かってどう盛り上げるか、曲全体の出来映えに大きく絡んでくる部分だけに、志が慎重になる気持ちは絢斗にも理解できた。

「さっきのって、具体的にどれ」

 志はムスッとした表情のままカップを傾ける。「うーん」と絢斗はのんびりとした口調で言った。

「最後の。……いえ、やっぱり最初の、かなぁ」
「どっちやねん」
「志さん、方言」
「あ」

 志が慌てて口もとを押さえる。彼は普段、意識的に標準語を話すようにしていて、気を抜いたり、感情が高ぶったりすると出身地である岐阜の言葉が出てしまう。岐阜県の中でも北のほう、滋賀県や福井県に近い地域では関西(なま)りで話す人が大半を占めるという。志もそのうちの一人だった。

「どっちでもいい、という答えではダメでしょうか」
「はぁ?」

 志に睨まれる。絢斗は穏やかに笑った。

「志さんが作る曲なら、僕、どんなものでも好きになれます」

 肌に合うのだ。そもそも志の歌声に惚れ込んだから、志がのびのびと歌える、歌いやすい曲を自分で作って歌えば、彼の歌声をさらに好きになれることは疑いようがない。
 せっかくほめたのに、志は険しい表情でため息をついた。

「おまえに意見を求めた俺がバカだった」
「ですが、僕の意見、イコール、Yuki1092のファン代表としての意見ですからね。真摯に耳を傾けるべきだと思います」

 志はいよいよ不機嫌になり、絢斗にぐっと顔を寄せた。

「ようやく上手にしゃべれるようになったと思ったら、途端に口が達者になるんだな」
「志さんが相手でなければ、こんなに饒舌にはなれませんよ」

 ゆったりと話すせいで緩い愛情表現に聞こえてしまうことが非常に惜しいが、絢斗なりに、志の前だから素の自分を出せるのだと伝えたかった。池袋で出会った時から見せてくれていた志の勘の良さを信じて紡いだ言葉だった。
 志はわずかに頬を赤らめ、絢斗の手の中からコーヒーの入ったマグカップをそっと抜き取り、自分のものと並べてテーブルに置いた。

「出会った頃から思ってたけど」

 言うなり、志は右手で、絢斗の口を覆うように両頬をぶにゅ、と押しつぶした。

「おまえって、ちょっと小生意気なとこあるよな」
「ぅゆ……?」
「でも」

 志の手が離れ、絢斗の瞳の奥を覗き込むようにじっと見つめられる。

「そういうとこ、嫌いじゃない」

 志が目を閉じ、唇を重ねてくる。
 頭を撫でられ、髪を()くようにすべる指から柔らかな熱が流れ込む。
 どくん、と心臓の飛び跳ねるこの感じ。あたたかく、なににも代えがたい、志と一番近くで交われるこの時間。
 はじめはただ恥ずかしいばかりだったのが、今ではどんな瞬間よりも愛おしいと思える。他の誰にも許されていない、志をゼロ距離でひとりじめできる、絢斗の特権。
 ゆっくりと口づけを交わす傍ら、志は絢斗の手を握る。指を絡ませ、時折官能的な呼吸を漏らす志のにおいは、ブラックコーヒーの苦味の中に、確かな甘さがほんのりと香る。

 口を離し、志が額をくっつけてくる。目を閉じ、静かに呼吸をしながら、絢斗の熱をしっかりと受け取ってくれている。
 あたたかい。慣れたはずの彼のぬくもりも、これだけ近くで感じていると胸がドキドキして止まらない。

「きた」

 やがて志がそっとつぶやき、目を開ける。そのまままっすぐピアノへと向かう志の背中はいつになく凜々しい。
 椅子に腰かけ、自信に満ちた両手で志は鍵盤を迷わずたたく。ずっと悩んでいた新曲のワンフレーズを、彼は一直線に弾ききった。

「これだ。これでいこう」

 ようやく答えが出たようだった。絢斗と交わったおかげでアイディアがまとまったらしい。
 絢斗は微笑む。また少し志の役に立てたことが素直に嬉しい。

 できたてのメロディーを譜面に記していく志の姿が、絢斗の瞳に愛おしく映る。
 この人と一緒にいられたら、怖いものなんてないと思えてくる。

 絢斗も静かにベッドを離れる。志の背後に立ち、大きな背中にそっと抱きつく。

「絢斗」

 志が半分振り返る。絢斗はなにも言わず、ただ志にしがみつくように抱きしめ続ける。
 離れたくない。ずっと一緒にいたい。
 そう。これが愛だ。
 この気持ちを表現するために必要な言葉が、次々と頭の中に浮かんでくる。

 志のからだに回している腕に、志がそっと手をかけた。

「やめるか、外へ食べに行くの」
「え?」

 絢斗が腕の力を緩めると、振り返った志は穏やかに微笑んで言った。

「俺も、おまえと二人きりで過ごしたくなった」

 まるで絢斗の心を見透かすように、志は握っていたシャープペンを譜面台に置き、絢斗と向き合って立った。

 口づけを交わす。何度でも、最高の気分を味わい尽くす。
 夜の帳の下りる窓の向こう側で、淡い三日月が白く輝く。
 二人だけの甘い時間は、瞬く間に過ぎていく。