夕方から降り始めた粉雪が道路をうっすらと白くしている。すべって転ばないように気をつけながら、八王子駅まで駆けた。
 いいタイミングで入線してきた新宿方面の電車に乗り込むと、志の携帯宛てに電話をかけ、着信履歴を残した。生放送の音楽番組は今頃エンディングを迎えているだろう。
 乗り換えを経て、放送局のある六本木に到着するのは一時間後だ。すれ違ってしまわないように、『六本木に向かっています』とメッセージを送った。

 電車に揺られている間、ツイッターで『Yuki1092』と検索し、番組の視聴者がつぶやいた感想を読んだ。
〈Yuki1092の新曲やばいな〉
〈控えめに言って神。ピアノうますぎて引くレベル〉
〈ピアノすげぇ。音大生ってマジ?〉
〈ピアノがプロ級すぎて歌詞入ってこないwww〉
〈Yukiくんの歌声、やっぱ最高! イケメンだしピアノまでうまいとか罪深い〉
〈ギターよりピアノのが合ってる!〉

 楽曲以上に、志のピアノに聴き惚れた人が続出していた。その気持ちは絢斗にも痛いほど理解できた。これまでギター演奏しか聴いたことのなかった人があのピアノの旋律を知ることほど、センセーショナルなことはない。価値観が歪むほどの衝撃を与えるピアノだ。
 絢斗の書いた歌詞をほめてくれる声もあったけれど、そんなものはどうでもよかった。頭の中は志のことでいっぱいだった。

 あの日からずっとそうだ。志とはじめて、池袋駅で出会った日。
 あれから、絢斗の毎日は志の存在で満たされていた。一緒にいても、離れていても、志のことばかり考えた。
 連絡を取り合っていなかったこの三週間でさえそうだった。気がつけば志の顔が脳裏に浮かんで、忘れようとしても無理だった。

 今になって、ようやく気づいた。
 あれがほしい。これをやりたい。あらゆる欲望が尽きない中で、絶対に手放してはいけないものがあった。
 志。
 志と見た夢。志の傾けてくれた想い。志と過ごす時間。志との未来。

 下唇をかみしめる。自分から離れてしまったこの三週間が惜しくてたまらない。
 たった一瞬でさえ、逃してはいけなかった。
 過ぎた時間が戻らないことを(うた)にしたのは僕じゃないか――。

 午後九時三十分、志からメッセージが返ってきた。六本木ではなく、新宿で電車を降りろと指示された。
 ちょうど二つ先が新宿駅というタイミングだった。もともと新宿で電車を乗り換える予定だったが、絢斗は志の指示に従い、乗ってきた電車を降りて改札を出た。
 雪はまだ降り続いていた。新たに届いたメッセージには、駅近くのシティホテルの前に来るようにとあった。
 地図アプリに頼りながら、まだまだ人の往来が多い新宿の街を歩く。くだんのホテルへ近づくにつれて人の波は穏やかになり、やがて、エントランスホールから煌々とした明かりの漏れるホテルの前にたどり着いた。
 エントランスへと続く扉の前に、十段にも満たない階段がある。モッズコートを羽織った志の立ち姿は、階段の下にすぐに見つけた。
 志も絢斗の存在に気づき、目が合う。志の唇が薄く開きかけた時、絢斗は志に向かって駆け出した。
 すらりと縦に長いからだ。その胸にまっすぐ飛び込む。背中に両腕を回し、絢斗は志にすがりついた。

「絢斗」

 大好きな志のテノールボイスが降ってくる。画面越しではなく、生の声。
 感極まった。もう二度と聞けないと覚悟した声が、手の届く場所にある。
 志の胸から上がった絢斗の顔は、涙でいっぱいになった。

「…………ぅ」

 絢斗の口から、かすかな声がこぼれ落ちる。

「……ぁ、ぅ……ん……んー……」

 音にならない息ばかりの声が、だんだんしっかりとした音になっていく。志は一瞬顔色を変えたが、すぐに真剣な表情を取り戻し、絢斗を見つめた。

「ん、んー……、ぅ、ゆ……」

 一つ、伝えたい言葉が音になった。
 あと少し。もう少しがんばれば、前に進める。

「ゆー、ゆゆ、ゆ……」
「焦らなくていい」

 志の右手が、絢斗の左頬を流れる涙をそっと拭った。

「ゆっくりでいいから、一音ずつ、はっきりと口を動かして言ってみて」

 学校の先生のような口調で志は言うと、デモンストレーションとして「あ、や、と」と一音ずつ、口の形をやや大きめに作って発音した。
 彼の両手が、絢斗の両手を握ってくれる。
 母の言葉を思い出す。志はすべてを知ったのだと母は言った。他の誰が敵であっても、志だけは絢斗の味方だと。
 志が微笑んでうなずいてくれる。絢斗はもう一度、なによりも一番い伝えたい言葉を口にした。

「……ゆ」

 一音ずつ、はっきりと。

「き」

 口の形をしっかり作って。

「さん」

 ありったけの想いを、頼りない声に乗せて。

「志、さん」

 言えた。
 せっかく拭ってもらったのに、絢斗の頬はまた涙でいっぱいになった。


 吃音症。
 三歳から六歳頃の未就学児にしばしば見られる、言葉をうまく話せない症例を、絢斗は小学生になっても克服することができなかった。頭の音が何度も重なってしまったり、そもそも言葉が出てこなくて悩んでしまったりと、スムーズな会話が困難だった。おかげで友達からは煙たがられ、いつも一人ぼっちだった。飽きっぽく気の短い小学生に、絢斗が発言を終えるのを根気よく待つということができるはずもなかった。
 そのうち会話をすることや、声そのものを出すことすら怖がるようになり、一時は学校へ行くこともできなくなるほど塞ぎ込んだ。

 それから、十二年。
 こうして再び声を取り戻すまで、十二年の月日がかかった。
 何度も逃し続けてきたチャンス。みんなと同じようにしゃべりたいと願った気持ち。
 やっと叶った。志が手をつないでくれたから。
 志が、そばにいてくれたから。

「絢斗」

 今度は志が、絢斗をおもいきり抱き寄せた。

「よくがんばったな。嬉しいよ、おまえの声が聞けて」

 優しく頭をなでてくれる。本当に、どこまでも優しい人だ。
 胸にうずめていた顔を上げ、絢斗は弱々しい声で懸命に言葉を紡いだ。

「ぅ……ごー、ご、ごめ、ごめんなさい。ぼ、ぼく……ゆー、ゆゆ志さんに、ひ、ひどいことを」
「謝るな。悪いのは俺だ。俺が自分の話を避けてきたから。本当はピアニストじゃなくて歌手になりたいんだって、家族にも、音大の仲間たちにも言えなかった。逃げるように、隠れるようにして歌手活動を始めて、バレて、周りから否定されて……」

 絢斗の頭をうっすらと白く染める粉雪を、なでるように、志は静かに手で払った。

「俺が間違えた。やり方を。絢斗との出会いを言い訳にしようとしてた。最低だよな。ただ迷ってただけなのに、ピアノをやめるって決めたことを、絢斗のせいにしてさ」
「ちが、ち、違う」

 絢斗は訴えかけるように首を振る。

「んー、ん……あ、あの、あの……っ」
「落ちついて」

 志は立てた右の人差し指を、あたふたと忙しなく動く絢斗の唇に押し当てた。

「ゆっくり言ってみな。ちゃんと聞いてるから、俺」

 言われて、冷静さを取り戻す。一度深呼吸をして、絢斗は意識的にゆっくりと話した。

「ぼ、ぼぼ僕がいけなかったんです。だ、だって……ぼ、僕がもっと早く、あ、あの……あの、ゆ、志さんとピアノの話をしていたら……」
「それは関係ないよ。音大のことを話題にされても、俺、たぶんなにも答えなかったと思うから。なんなら、音大に入ったことさえ間違いだったって思ってるしね」
「で、でも志さんには、ピ、ピアノの才能が」

 志はあきらめたように首を横に振った。

「音大なんかに入ったから、迷うことになったんだ。昔から夢は一つだけだったのに、家族とか、周りの連中の期待になんとなくこたえなくちゃいけない雰囲気があって、それに流されてきただけだから。音大に入ったことも、ピアニストを目指したことも、そこに俺の意思はなかった。それは今でも変わらない。俺の願いは、歌手になること。ただそれだけ」
「じ、じゃあ」

 絢斗の声が震えた。

「ピアノは、やめてしまうんですか」

 細かい雪の結晶を、ホテルから漏れ出る明かりが乱反射させる。
 志は首を横に振り、目つきをさらに和らげた。

「絢斗、言ったよな。俺に『世界一のピアニストになれ』って。だから、決めた。俺、世界一のピアニスト目指す」
「う、歌は……?」
「やるよ。続ける」

 絢斗の表情が明るくなる。志もふわりと笑った。

「おまえの書いた詩、勝手に歌にしてごめん。でも、結果を出せばいいんだってわかってたから。結果が伴えば、誰にも否定されなくなる。否定させないような結果を残す。そのために、俺は歌い続ける。おまえの書いた(うた)を。俺たちの歌を」

 なにがあっても、と志は言った。

「歌手とピアニスト、どっちの道でも結果を出す。そうすれば、おまえを取り戻すことができる。もう決めたんだ。俺は、おまえと一緒にいられる未来を選ぶ。どれだけその道が険しくても」

 ピアノはやめない。歌手としての人生も歩み続ける。
 志の答えは、これ以上ない最高のものだった。絢斗は大きくうなずいた。
 今の志の見据える先には、ピアニストとしての約束された未来ともう一つ、別の未来がある。
 絢斗と進む、ボーカリストとしての未来。
 二人で叶える、大きな夢。

「前に言っただろ」

 志は凛々しい笑みを浮かべた。

「絢斗が隣にいてくれたら、夢が夢で終わらない気がするって。ピアニストになることにはたいしてこだわってないけど、絢斗との未来を守るためなら、やるしかない。その上で、俺は俺の夢を追う。おまえの居場所を作ってやらないといけないし」

 自分のことだけではない。志の心に描かれたビジョンの中には、絢斗の存在がちゃんとある。
 嬉しかった。夢の途中に置き去られたわけじゃなかった。
 志はこれまで一度たりとも、絢斗の手を離したことはなかったのだ。
 ただ前だけを見て、志は高らかに宣言した。

「どっちも成功させてみせるさ。誰になにを言われても、どこから邪魔が入っても、俺は俺の道を行く」

 絢斗の前に、志が右手を差し伸べた。

「ついてきてくれるよな」

 細く、美しい指先を、絢斗は慈しむように見つめる。
 一度は離してしまった手。今を逃せば、もう二度と触れることは叶わないだろう。
 絢斗は迷わず、志の右手を取った。志の与えてくれた選択肢、彼とともに行く未来を、今度こそ、自分の意思で選んだ。

「僕も、言いました」

 右手にきゅっと力を込める。

「僕のすべてを、志さんにあげると」

 自分でも信じられないほど、言葉がスムーズに口をついた。
 しっかりと顔を上げ、絢斗は言った。

「ついていきます、志さんに。なにがあっても、もう逃げない」

 季節を彩る粉雪が、二人の肩の上でふわりと溶ける。
 交わる二つの微笑みを、淡い光が包み込んだ。

「絢斗」

 つぶやくなり、志は絢斗に口づけた。人目も憚らず、五秒、十秒と唇を重ね続ける。
 触れた部分が痺れ出す。心で感じる幸福を、からだでも味わう。
 ようやく唇が離れると、志はうっとりと目を細めた。

「好きだ、絢斗」
「僕もです、志さん」
「ちゃんと言って。好きだって」
「……好き、です」

 よし、と言って、志は頭をなでてくれた。

「もう絶対、俺から離れんなよ?」

 当たり前だ。そのために、彼の手をもう一度取るためにここへ来た。
 迷いなくうなずき、もう一度、今度は短いキスを交わした。
 肌に突き刺さるような真冬の寒さが嘘みたいに、二人の間に流れる空気だけがあたたかく、穏やかな丸みを帯びていた。