無気力な日々は、それから何日も、延々と続いた。
 絢斗は音楽を聴くことをやめた。ランキングをチェックして流行を追いかけることもせず、YouTubeにアクセスすることもなくなった。近所のスーパーで流れている有線放送の曲を耳にすることさえ億劫で、絢斗の生活は自宅と大学を往復するばかりになった。

 志と最後に顔を合わせた日から三週間が経っていた。(こよみ)は十二月に変わり、新しい一年がすぐそこまで迫っている。
 あの夜以来、志からの連絡は一切なかった。絢斗に近づいてきた礼音という青年もあれからさっぱり音沙汰がなく、つまるところ、志は再びピアノと向き合うことに決めたのだと推測された。
 それでよかった。そのために絢斗は志から離れたのだ。
 彼の人生にあたたかな光が降り注ぐことを、絢斗は心の底から願った。夢の途中に置き去られた自分のことは、どうとでもなれと半ば自棄(やけ)になっていた。

 詩ならまた書けばいいと思っていたのに、あの日から、絢斗は詩が書けなくなった。
 描きたい情景も、使いたい言葉も浮かばない。心が動いていないせいだ。動かないどころか、ぽっかりと穴が開いてしまったように、胸の中はからっぽだった。無。真っ白。
 抜け殻のような毎日だった。大学に行っても講義に身が入らず、家に帰ってきてもぼんやりとテレビを見ているだけ。
 この先の人生をどうしようかなんてことは考えようともしなかった。泣きわめくことはできたけれど、結局言葉を取り戻すことはできず、絢斗はこれまでとなんら変わらない、声を失った憐れな青年のままだった。

 四時限目の終わる午後五時過ぎには、外はすっかり宵闇に包まれる季節になった。おまけに今日は雪までちらついている。八王子駅前を彩るクリスマス仕様のイルミネーションが、舞い散る粉雪をきらきらと白く照らし出し、幻想的な夜を演出していた。
 そのまばゆさから目を逸らすように、絢斗はうつむいたまま家路をたどった。()てつく風が、孤独を(あお)るように頬を強くたたいてくる。
 帰宅し、風呂に入り、夕飯を食べる。それ以外にはなにをする気も起きなかった。明日のことを考えると気分が悪くなっていた小学生時代よりはマシだった。ただ、「明日なんて来なければいい」と思えていたあの頃のほうがまだ、生きているという感覚があったような気もした。

「絢斗」

 午後八時になろうというタイミングで、母が「ちょっとこっちへいらっしゃい」とソファへ絢斗を呼び寄せた。
 素直に母の隣に座る。手前味噌だが、絢斗の母親は五十二歳にしてはきれいな肌をしていた。血色がよく、くるりと丸い瞳は絢斗そっくりだった。

 午後八時ジャスト。母は黙ってテレビのリモコンを操作した。
 三十年以上の歴史を誇る、生放送の老舗(しにせ)音楽番組が始まった。司会進行役は代々、放送局の男性アナウンサーと女優がコンビを組んで務め、現在は浅木(あさぎ)美菜(みな)という、優しい母親から極道の妻までどんな役でもこなせるベテラン女優が番組の顔役を担っていた。
 浅木が穏やかな声音で番組のタイトルコールをすると、相方の男性アナウンサーが「今夜の放送は、動画サイトで人気に火がつき、今もっとも勢いのあるアーティストの皆さんをお迎えし、楽曲を披露していただきます」と番組の趣旨を説明した。
 カメラが切り替わり、ステージ横のひな壇に座る四組の出演者が映し出される。見覚えのある顔ばかりで、そのうちの一人の姿を目にした瞬間、絢斗は思わず息をのんだ。

「カナデさん、村上(むらかみ)美雨(みう)さん、桃缶(ももかん)シロップの皆さん、そして、Yuki1092さんです。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

 男声アナウンサーの紹介に続き、女性ソロシンガー二人と男性三人組ロックバンド、そして志が、それぞれ椅子に座ったまま丁寧に頭を下げた。
 絢斗は目をまんまるにし、口は半開きになった。

 志が出ている。
 テレビの音楽番組に。アーティストとして。歌い手として。
 あり得ない。だって彼は、ピアニストになるべくして生まれてきた人なのに。
 歌を歌っている場合じゃないのに。

「志さんに頼まれたのよ」

 前のめるようにテレビ画面を凝視している絢斗の隣で、母がまっすぐ画面を見つめたまま言った。

「絢斗に見ていてほしいんだって。なにか、伝えたいことがあるんだそうよ」

 伝えたいこと。
 志さんから、僕に?

 母から液晶画面へと視線を動かす。楽曲披露のトップバッターは、アニメ声などと呼ばれる一度聞くと簡単には忘れられないハイトーンボイスが特徴のシンガーソングライター・カナデだ。
 二番手の村上美雨、三番手の桃缶シロップと、司会者や他の出演者を(まじ)えたトークを経て順に楽曲を披露していく。番組が折り返し地点を超えた午後八時三十分過ぎになり、ようやく志の出番が回ってきた。

 司会者の女優・浅木美菜が「Yukiさんは、厳密に言うとシンガーソングライターではないのですよね」と台本どおりと思われる話題を志に振った。

「そうなんです。今ここにはいないですけれども、相方のAyatoが書いてくれた歌詞にぼくが曲をつけるという形でやらせてもらっているので、ソロアーティストでもないんですよ」
「Ayatoさんとお二人で音楽活動をなさっていると」
「はい。Ayatoは身体的な都合で、ぼくみたいにこうしてステージに立つことは難しいんですけど、歌う時はいつもAyatoが隣にいてくれるっていう気持ちでやってます。ぼくたちはあくまで二人組なので」

 ひな壇に座る桃缶シロップのボーカルがうんうんと深くうなずく姿がカメラに抜かれる。収録スタジオにさえ出向けていない絢斗の話題がテレビで取り上げられていることに違和感と緊張を覚え、絢斗の心臓は今にも口から飛び出しそうなほどバクバクと激しく鳴った。

 相方。二人組。
 捨て去ったはずの(いと)おしい言葉たちが、志の口を次々と衝いてあふれ出す。

 何度も忘れようとした大切な思い出。二人で音楽を作っていた時間。
 志の中では、まだ終わっていなかった。終わらせるつもりもないようだった。

「Yukiさんご自身で歌詞を書かれることはないんですか?」
「ないです」

 浅木の問いに志が即答すると、会場がささやかな笑いに包まれた。

「ぼく、Ayatoの書いた歌詞を歌いたくて曲作りを始めたので、自分で書いたものを歌おうっていう気にはならないんですよね。Ayatoが書いてくれるから、今のぼくがあるっていう感じで。彼の書いた歌詞以外を歌うつもりはなくて、ずっと彼と一緒にやっていきたいと思っています」
「Ayatoさんのことを心から信頼していらっしゃるのですね。お二人の今後のさらなるご活躍、楽しみにしています」

 ありがとうございます、と志は言い、男性アナウンサーに促されてひな壇を離れ、演奏の準備に入った。

 いよいよ頭が混乱してきた。
 あの日、志との時間は終わったはずだったのに。ピアニストになってほしいと、ちゃんと伝えたはずなのに。
 それなのにどうして、志はこんなにも堂々と歌手としてステージに立っている?
 絢斗と二人でずっとやっていきたいと宣言している?
 絢斗が呼吸を揺らす中、浅木と二人でカメラに抜かれた男性アナウンサーが解説を入れた。

「動画サイトではギターでの弾き語りがイメージとして定着しているYuki1092さんですが、実は現役音大生という一面も持ち合わせているのだそうです。そこで今夜は、配信リリースでさらなるファンを獲得したヒットナンバー『きみの好きなもの』のピアノアレンジバージョンと、十二月二十五日に配信開始となる新曲『スウィーテスト・シンフォニー』をメドレーで披露していただきます」

 なんだって?
 絢斗は思わずソファから腰を浮かせた。

 スウィーテスト・シンフォニー。
 絢斗が書いた、一番新しい詩のタイトルだ。志と別れ、書けなくなる直前に書いたもの。

 まさか、あの詩を歌に?

「ピアノの腕前もかなりのものだと伺っていますので、楽しみですね」

 浅木美菜が笑顔で言うと、男性アナウンサーが曲紹介をした。

「それでは、Yuki1092さんで『きみの好きなもの』『スウィーテスト・シンフォニー』スペシャルメドレーです。どうぞ」

 絢斗の心臓が早鐘を打つ。
 カメラが切り替わり、ステージ中央に設置されたグランドピアノの前に座る志の姿が映し出された。以前と少しも変わらないグレージュの明るい髪に、ターコイズブルーのオーバーサイズジャケット、白いインナーに黒のスキニーパンツ。ピアノのペダルにかけた足には、愛用している黒いスニーカー。
 礼音に見せられた、タキシード姿の志とは違う。ピアノの前に座っているのに、そこにいたのは、歌い手としての志だった。
 ふわりと羽根が舞うような動作で、志の両手が鍵盤の上に載せられる。一瞬の間を取り、演奏が始まった。

 低い音から高い音へと駆け上がるように奏でられたイントロは、壮大な物語のプロローグを思わせた。しかし次の瞬間には、ギターで弾き語りをする時と同じポップな弾き方に変わる。メリハリのあるピアノ演奏と高らかで伸びやかな歌声は、視聴者を一気にYuki1092の描き出す音楽の世界へと引きずり込んだ。
 一番だけを歌った『きみの好きなもの』が終わると、途切れることのない圧巻のピアノが、いよいよ新曲『スウィーテスト・シンフォニー』のイントロを奏でる。二曲とも長調だが、シャープの数が増える『スウィーテスト・シンフォニー』は、より人々の感情に訴えかける曲調に仕上げられていた。
 叙情的なイントロが終わる。志はその顔に心を映し、絢斗の綴った(うた)を歌い始めた。


 赤く色づく季節の中で
 道端にコイン 見つけたように
 僕らの出会いは偶然だった
 惹かれ合ったのはなぜだろう

 手をつなぐことさえも
 はじめは恥ずかしくてぎこちなかった
 今ではもう 互いの胸の音
 誰よりも近くで聴けるようになったね

 重なり合う 僕らの未来
 同じ空の下 どこまでも二人で
 紡いでいこう 僕らの交響曲(シンフォニー)
 世界を愛の()で満たして

「永遠って信じる?」ときみは訊き
「信じれば叶うよ」と僕は答えた
「そうだね」ときみは笑って
「あの星に誓おう」と僕は夜空を指さした

 限られた時間の中で
 あと何度 きみに伝えられるだろう
「いつか胸の鼓動が()んだとしても
 僕はきみだけを愛し続けるよ」と

 走り出した 僕らの未来
 きみと二人なら どこまでも行ける
 奏でていこう 僕らの交響曲(シンフォニー)
 かけがえのない一瞬(いま)をともに生きよう


 短いCメロと、二つのサビを組み合わせた最後の大サビを、志は感情を込めて歌い上げた。
 アウトロのピアノ演奏が終わり、一瞬の静寂が訪れる。
 志の指先が鍵盤を離れると、テレビから盛大な拍手の音が聞こえてきた。
 志が笑顔でお辞儀をした映像を最後に、番組は九十秒間のCMに入った。このあとは四組のアーティストが二組ずつに分かれてのコラボレーション企画が放送され、番組は終了となる。志は村上美雨と組み、村上が大ファンだというディズニーの名曲『A Whole New World』をデュエットする予定になっていた。

「……っ」

 絢斗はソファに座ったまま、腿の上に載せた両手を握りしめた。
 目尻にたまっていた涙が、すぅっと頬をすべり落ちる。
 胸の奥が熱くなり、なりふりかまわず大声で叫びたい衝動に駆られた。

 ――バカだ、僕は。

 絢斗だけがあきらめていた。儚い願いを、叶わないと決めつけた。
 志はあきらめていなかった。夢という名の消えない火は、今も彼の胸を焦がし続けている。
 礼音に押しつけられたDVDの中にいたピアニストの志と、絢斗の詩を誰よりも丁寧に、大切に歌ってくれる志。絢斗の脳裏で、ぴったりと二つの影が重なった。
 点と点がつながり、一本の線を描き出す。
 美しく輝くその線は、渡久地志というミュージシャンの輪郭をはっきりとなぞっていく。
 どちらも志だった。
 彼はピアニストであり、歌い手だった。彼はそれを、絢斗にわからせたかったのだ。ギターを手放し、ピアノで歌を歌うことで。

 呼吸が震える。
 会いたい。
 志さんに、会いたい――。

 絢斗はソファから立ち上がり、二階の寝室へと走った。パジャマを脱ぎ捨て、適当な普段着を引っ掴んで袖を通す。
 濃紺のロングダッフルを着込み、財布とノートの入ったトートバッグを持って一階に下りると、廊下で母が待っていた。

「一つ、伝えておかなきゃいけないことがあるの」

 ダイニングテーブルに置き忘れていた絢斗のスマートフォンを手渡しながら、母は言った。

「志さんは、全部知ってる。絢斗のこと。あなたがどうして、しゃべれなくなってしまったのか」

 絢斗は両眉を跳ね上げた。志にせがまれたのか、あるいは母が自主的に教えたのか。どちらでもいい。大切なのは、志がすべてを知っているということだけだ。

「行きなさい、絢斗」

 母はいつになく真剣な目をした。

「全世界が敵に回ったとしても、志さんだけは、最後まであなたの味方でいてくれるはずだから」

 もちろん、私もね。そう言って、母は笑顔で絢斗の背中を押してくれた。
 靴を履き、母と目を合わせてから、絢斗は真冬の夜へと飛び出した。