池袋駅のホームに降り立った時、突然、高波にのまれて息ができなくなる映像に頭の中を支配された。
呼吸のリズムが一気に崩れる。深い海の水底へとどんどん沈んで、このまま誰にも引き上げられずに死んでしまうのではないか。そんな風に思い始めて、指先が震えた。
不規則に入り乱れる人いきれの中で、絢斗は立ち止まることを余儀なくされた。最近は落ちついていたから大丈夫だと思ったのに、少し遠出をした今日に限って発作が起きた。
絢斗と同じように電車を降り、改札口へと急ぐ人たちが、うつむいたままその場に固まっている絢斗を鬱陶しそうに睨んでいく。次の電車を待つ人にはわざと肩をぶつけられた。
ホームドアが閉まり、乗ってきた列車が動き出す。歩き出さなきゃいけないのに、絢斗はきつく目を閉じた。
自ら作り出した暗闇の中で、赤や青、黄、白、さまざまな色がチカチカと光り、歪な円を描いて回る。耳の奥で、キィンと甲高い音が鳴り出した。
どうしよう。息ができない。
誰か助けて。
死んじゃう。僕、死んじゃう――。
「大丈夫?」
不意に、背中に優しいぬくもりを覚えた。
「苦しい?」
かけてもらった声は、透きとおった沖縄の海のように澄んでいた。柔らかく、落ちつきのあるテノールボイス。耳の奥で鳴り続けていた不快な音が少しずつ小さくなっていく。
気づかうように、後ろから両肩に手を置かれる。顔に近づいたその人の腕から、かすかに柑橘系の香りがした。
見知らぬ誰かが、深海へ落ちていく絢斗に手を差し伸べてくれている。絢斗は閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。
ぼやけた視界の中で、ほとんどゴールドに近いアッシュグレーのショートヘアが一番に目に映った。トップはストレートだがワックスで束感を出してあり、サイドと襟足を少しだけ刈り込んだ、男らしい流行りのスタイル。
本来の視力を取り戻し、絢斗は青年の横顔に目を向ける。
大きくはないが、はっきりと線の走った二重まぶたで切れ長の瞳。整えられた眉に、低すぎない鼻。口もとはきゅっと形よく締まっていて、顔全体のバランスが極めていい。髪型を踏まえると少々やんちゃな印象を受けるが、端的に表現するならば、その青年は男前だった。
「ここじゃまずいな」
小さくつぶやいた青年は真剣な表情で行くべき先をじっと見据え、絢斗の耳もとで「少し歩ける?」とささやいた。まだ肩で息をしていた絢斗がうなずくと、彼は「こっち」と絢斗を支えるように肩を抱いて歩き出した。
中央改札口を出て、なるべくひとけのない場所を彼は懸命に探してくれた。西武百貨店の入り口からやや離れた壁に背を預け、二人は並んでしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
彼が背中をさすってくれる。ちょっと時間はかかったけれど、彼のおかげで深海の映像は消えてなくなり、正常な呼吸のリズムを取り戻すことができた。
絢斗の調子が落ちつくと、青年は自販機へと走り、ドリンクを二つ買って戻ってきた。
今になって気づいたが、彼は背中に黒いギターケースを背負っていた。白いカットソーの上に黒いマウンテンパーカーを羽織り、下も黒のスキニーパンツ。足もとは黒いスニーカーと、どこまでもオシャレだ。バンドマンなのかもしれない。
「どっちがいい?」
右手にペットボトルのミネラルウォーター、左手にミルクティーの缶が握られている。なんだか真逆の選択肢だなぁ、と絢斗はひそかに思いつつ、ミルクティーの缶を指さした。
はい、と手渡された缶はあたたかかった。ホットミルクティー。十月にしては暑い午後だったけれど、甘いものは好物なので嬉しい。
青年は手もとに残ったミネラルウォーターの封を切り、ぐびぐびと豪快に喉の奥へと流し込んだ。たったそれだけの仕草がかっこよくて、ついじっと見つめてしまう。
吸い込まれるように、絢斗はすっかり青年の横顔に見入っていた。だから、不意に視線を投げられた時、その場で飛び上がりそうになった。
「飲まないの?」
ドキッとして、絢斗は慌てて缶のプルタブに指をかけた。手が震える。缶が思いのほか熱くて、とっさに指を引っ込めた。
「ごめん、熱かった?」
青年は絢斗の手からするりと缶を抜き取った。彼の指先がかすめていった部分が軽く痺れる。さっきから心臓が跳ねっぱなしだ。乱れた呼吸は落ちついたはずなのに。
「はい、どうぞ」
代わりにふたを開け、もう一度手渡してくれた缶を受け取る前に、絢斗はやるべきことをした。緊張してあちこち震えているけれど、彼にきちんと伝えたいことがあった。
右手の小指側の側面を、手のひらを下に向けた左手の甲に軽く当て、そのまま右手を顔の前まで持ち上げる。
〈ありがとうございます〉
感謝を伝える時に使う、手話だ。軽く頭を下げながら、絢斗は優しい青年にジェスチャーでお礼を言った。
青年は目をまんまるにして絢斗を見た。初対面なのだから仕方がない。絢斗のことを知らない人は、みんな同じ反応をする。
絢斗は口を閉ざしたまま缶を受け取り、ミルクティーに口をつけた。ふわりと広がるミルクの甘味と、優しく鼻を抜ける紅茶の香りが心をほんわかとあたためてくれた。おいしいミルクティーだった。
「あのさ」
緊張のほぐれた絢斗とは対照的に、青年はわかりやすく動揺していた。自分の右耳に右の人差し指を突きつけ、おそるおそるといった風に絢斗に尋ねる。
「耳、聞こえないの?」
よくされる勘違いだった。絢斗は首を横に振り、右の指で右耳を差してから、人差し指と親指の先をくっつけて丸を作るオーケーサインをしてみせた。
「耳は、聞こえる?」
彼が言葉にしてくれる。正解です、と絢斗はもう一度オーケーサインを出した。
「じゃあ、どうして」
どうしてきみは、手話を使うの?
そう問いたかったらしい彼のために、絢斗は黒いトートバッグにつけている、水色でやや大きめの缶バッジを見せた。
〈声が出せません〉
絢斗のために、母が作ってくれたものだ。文言を見て、彼はいっそう驚いた顔をした。
「しゃべれないの?」
絢斗はうなずく。
「だから、手話?」
もう一度うなずく。彼は「そっか」とつぶやいた。
「それは、その……病気で?」
病気。そうだと言えばそうだし、違うと言えば違う。少なくともからだは元気で健康なので、絢斗は首を横に振った。彼はもう一度「そっか」と言った。
「だったら俺、声かけて正解だったんだな。しゃべれないんじゃ、自分から助けを求めることも難しいだろ」
つらかったな、と彼は幼子をあやすように、絢斗の頭にそっと手を載せてくれた。
ドキッとした。指の長い、けれど節はしっかりと目立つ男らしい手が、優しく頭をなでてくれる。こんなことをしてもらうのは何年ぶりだろう。家族でも、大学生になった息子にはもう誰もやってくれない。
絢斗は緊張気味にミルクティーの缶を足もとに置き、バッグの中からA5サイズのリングノートとシャープペンを取り出した。ノートは二冊持っていて、今手にしているのは筆談をするときに使う青いノートだ。
スマートフォンのメモ帳アプリを使ってもいいのだが、相手を待たせていると思うといつも焦って、打ち間違いや誤変換が増えてしまう。文具を持ち歩く手間をかけてまで筆談をするのは、結局は早く、正確に気持ちを伝えることができるからだ。
絢斗がノートに文字を書き始めると、彼の視線も自然と絢斗の手もとに注がれた。
なるべく早く、その上で読みやすく、絢斗は伝えたいことを端的に書き記し、彼に見せた。
〈助けてくれてありがとうございました。パニック障害をかかえていて、発作が起きてしまいました〉
原因はよくわからない。けれど絢斗は今日のように、突然息苦しさや眩暈に襲われ、このまま死んでしまうのではないかと不安になるほどひどいパニック状態に陥ってしまう。誰かに助けてもらわなくてもいつの間にか治まっていたりするのだが、彼に声をかけてもらったときには心の底から嬉しかった。男らしさよりも、透明感があって繊細な印象を受ける彼のテノールボイスは、荒波にのまれた絢斗の心を落ちつかせるのにとてもよく効く薬だった。耳に優しく、リラックスできる声だった。
「そうだったんだ」
彼は深くうなずいて、「大変だったな」と絢斗の背中をさすってくれた。
「もう大丈夫? 顔色はよくなったみたいだけど」
絢斗はこくりとうなずいた。右手で左肩に触れ、そのまま胸の前でスライドさせて右肩まで持っていく。〈大丈夫〉の手話だ。たぶん彼はよくわかっていなかっただろうけれど、首を縦に振ってくれた。優しい人だ。
絢斗は再びシャープペンを握った。
〈引き留めてしまってごめんなさい〉
彼の顔色を窺いながら、左手首の腕時計を指さす。――時間、大丈夫ですか?
「平気。たいした用じゃないから」
彼は微笑んで返してくれた。
「きみのほうこそ、どこかへ行くつもりでここへ来たんじゃないの? もしくは、誰かに会いに来たとか」
二つめの質問から先に答えた。右の人差し指で自分を差してから、左手の人差し指で漢数字の一を表しつつ、その下に右手で人という文字を書く。
「へぇ、おもしろいな」
彼は興味深そうに両眉を上げた。
「今のはわかるよ。〈一人〉だろ。一と、人」
彼は絢斗の真似をして、〈一人〉の手話をやってみせる。絢斗は右手でオーケーサインを作った。大正解だ。「やった」と彼は嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「こんな時間に、一人でどこへ?」
時は平日、昼の二時である。さすがに手話では伝わらないだろうと、絢斗はノートに行き先を記した。
〈サンシャイン水族館〉
「水族館? 一人で?」
こくりとうなずく。寂しいヤツだと思われるのは不本意だが、事実、絢斗はどんな時でも一人で行動することがほとんどだった。
けれど彼の表情は、一人ぼっちの絢斗を憐れむのではなく、心配しているようだった。
「一人で大丈夫? また発作が起きたりしない?」
たぶん。……いや、わからない。
絢斗は曖昧に首を傾げた。彼の言うとおりだ。また発作が起きないとも限らないし、今日はあきらめたほうがいいかもしれない。
ひとりでに首が横に振れる。一時間も電車に揺られ、はるばるここまでやって来たのだ。あきらめたくない。なんの収穫もなしに帰りたくない。
根拠はないけれど、今日はものすごく調子がいいような気がしているのだ。きっといいものが書ける。そう思えてならない。
ノートとペンをバッグにしまい、ミルクティーの缶を持って立ち上がった。隣の彼もギターを背負って腰を上げた。
彼のほうが、視線が十センチほど高かった。一八〇センチ近くあるようだ。顔もきれいで、スタイルもいい。平凡に平凡を塗り重ねたような絢斗とはまるで正反対だった。
彼に対し丁寧に頭を下げようとしたけれど、絢斗が動き出すよりも先に、彼が「あのさ」と口を開いた。
「どうしても行きたいなら、俺、付き合うよ」
なんだって?
唐突な申し出に、絢斗は驚いて目を大きくした。
心臓が妙な音を立てて鳴る。発作の時とは少し違う鼓動のリズム。これまで感じたことのない、新しい刺激。
「だってさ」と彼は言った。
「心配じゃん。水族館でもさっきみたいな発作が起きたら、今度は誰も助けてくれないかもしれないぞ?」
わかっている。リスクは覚悟の上でなお、一人で行くつもりだった。
だけどもし、彼が一緒に来てくれるのなら、それ以上に心強いことはきっとない。申し訳なさを感じつつ、ありがたい声をかけてもらえたと思う気持ちも強かった。
彼はグレージュの頭をかきながら言葉を選び、もう一度絢斗に提案した。
「ごめんな、突然。俺、困ってる人を放っておけないタチなんだ。きみみたいな……その、か弱そうな子は、特に」
か弱そうな子。彼は絢斗を小学生の女の子かなにかだと思っているらしいが、表情はどこまでも真剣だった。
「邪魔しないように、後ろをついてく。俺なんていないと思ってくれてかまわないから。満足できるまで、とことん魚を見て回ってよ。苦しくなったら振り返って。俺、いるから」
嬉しかった。彼の優しさには押しつけがましいところがない。
でも、本当にいいのだろうか。絢斗は彼の背後に視線を向ける。
時間には余裕があると言ったけれど、用事がないとは言っていない。ギターを背負って絢斗と同じ電車に乗っていたのだから、なにかやりたいこと、やるべきことがあって池袋を訪れたことは間違いないのだ。
「あぁ、これ?」
絢斗の視線に気づいた彼が、背負っている黒いギターケースに触れた。
「いいのいいの。気分転換にちょっとスタジオで歌おうかなーと思っただけで、誰かと待ち合わせとか、そういうんじゃないから」
俺も一人なんだ、と彼は外国人がよくそうするように肩をすくめた。回答を聞いて安心できた一方で、彼の発言には興味をそそられるものがあった。
歌う。
趣味なのか、本業なのか、やはり彼は歌手、ボーカリストであるらしい。
聞いてみたいな、と思った。彼の美しいテノールは、どれほどきれいな歌を奏でるのだろう。
「で、どうする?」
彼は絢斗に決断を迫った。
「行く?」
断る理由が見つからなかった。できれば今日じゅうに水族館に行っておきたいし、なにより、彼の厚意を無駄にしたくないという思いが強い。
絢斗はうなずき、握った右手を鼻先に当て、少し前に突き出す。その手を開き、ゆっくりと下へ動かしながら一緒に頭を下げた。
〈よろしくお願いします〉
ちゃんと伝わったようで、彼ははにかみ、「じゃ、行こっか」と絢斗をエスコートするように歩き出した。
「あ!」
けれど彼はすぐに立ち止まり、勢いよく絢斗を振り返った。
「そういえば、名前聞いてなかった」
確かに。絢斗もあぁ、という顔をした。言われてみれば、名乗った記憶がない。声に出して名を告げることはできないけれど。
まだ中身の残っているミルクティーの缶をいったん彼に預け、絢斗は彼の左手を取り、手のひらを上向けて開かせた。その上に自らの右の人差し指をすべらせ、ファーストネームをひらがなで書いた。
「あやと?」
うなずいて、今度は漢字で書き直す。
「絢斗」
もう一度うなずく。「絢斗ね」と彼はしっかりと覚えてくれた。
「俺は、ユキ。志すっていう漢字一文字で、志」
志。音の響きは優しいのに、当てられた漢字は凛々しく、男らしい。かっこいい名前だ。
歩き出した志の背中を、絢斗はゆっくりと追いかけた。
なにもかもが予想しなかった展開で、ちょっとだけ混乱している。胸の鼓動の高鳴りが治まらないままだけれど、気分は不思議と晴れやかだった。
今日は本当に、いいものが書けそうだ。
改めてそう思えたことが、心から嬉しかった。
呼吸のリズムが一気に崩れる。深い海の水底へとどんどん沈んで、このまま誰にも引き上げられずに死んでしまうのではないか。そんな風に思い始めて、指先が震えた。
不規則に入り乱れる人いきれの中で、絢斗は立ち止まることを余儀なくされた。最近は落ちついていたから大丈夫だと思ったのに、少し遠出をした今日に限って発作が起きた。
絢斗と同じように電車を降り、改札口へと急ぐ人たちが、うつむいたままその場に固まっている絢斗を鬱陶しそうに睨んでいく。次の電車を待つ人にはわざと肩をぶつけられた。
ホームドアが閉まり、乗ってきた列車が動き出す。歩き出さなきゃいけないのに、絢斗はきつく目を閉じた。
自ら作り出した暗闇の中で、赤や青、黄、白、さまざまな色がチカチカと光り、歪な円を描いて回る。耳の奥で、キィンと甲高い音が鳴り出した。
どうしよう。息ができない。
誰か助けて。
死んじゃう。僕、死んじゃう――。
「大丈夫?」
不意に、背中に優しいぬくもりを覚えた。
「苦しい?」
かけてもらった声は、透きとおった沖縄の海のように澄んでいた。柔らかく、落ちつきのあるテノールボイス。耳の奥で鳴り続けていた不快な音が少しずつ小さくなっていく。
気づかうように、後ろから両肩に手を置かれる。顔に近づいたその人の腕から、かすかに柑橘系の香りがした。
見知らぬ誰かが、深海へ落ちていく絢斗に手を差し伸べてくれている。絢斗は閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。
ぼやけた視界の中で、ほとんどゴールドに近いアッシュグレーのショートヘアが一番に目に映った。トップはストレートだがワックスで束感を出してあり、サイドと襟足を少しだけ刈り込んだ、男らしい流行りのスタイル。
本来の視力を取り戻し、絢斗は青年の横顔に目を向ける。
大きくはないが、はっきりと線の走った二重まぶたで切れ長の瞳。整えられた眉に、低すぎない鼻。口もとはきゅっと形よく締まっていて、顔全体のバランスが極めていい。髪型を踏まえると少々やんちゃな印象を受けるが、端的に表現するならば、その青年は男前だった。
「ここじゃまずいな」
小さくつぶやいた青年は真剣な表情で行くべき先をじっと見据え、絢斗の耳もとで「少し歩ける?」とささやいた。まだ肩で息をしていた絢斗がうなずくと、彼は「こっち」と絢斗を支えるように肩を抱いて歩き出した。
中央改札口を出て、なるべくひとけのない場所を彼は懸命に探してくれた。西武百貨店の入り口からやや離れた壁に背を預け、二人は並んでしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
彼が背中をさすってくれる。ちょっと時間はかかったけれど、彼のおかげで深海の映像は消えてなくなり、正常な呼吸のリズムを取り戻すことができた。
絢斗の調子が落ちつくと、青年は自販機へと走り、ドリンクを二つ買って戻ってきた。
今になって気づいたが、彼は背中に黒いギターケースを背負っていた。白いカットソーの上に黒いマウンテンパーカーを羽織り、下も黒のスキニーパンツ。足もとは黒いスニーカーと、どこまでもオシャレだ。バンドマンなのかもしれない。
「どっちがいい?」
右手にペットボトルのミネラルウォーター、左手にミルクティーの缶が握られている。なんだか真逆の選択肢だなぁ、と絢斗はひそかに思いつつ、ミルクティーの缶を指さした。
はい、と手渡された缶はあたたかかった。ホットミルクティー。十月にしては暑い午後だったけれど、甘いものは好物なので嬉しい。
青年は手もとに残ったミネラルウォーターの封を切り、ぐびぐびと豪快に喉の奥へと流し込んだ。たったそれだけの仕草がかっこよくて、ついじっと見つめてしまう。
吸い込まれるように、絢斗はすっかり青年の横顔に見入っていた。だから、不意に視線を投げられた時、その場で飛び上がりそうになった。
「飲まないの?」
ドキッとして、絢斗は慌てて缶のプルタブに指をかけた。手が震える。缶が思いのほか熱くて、とっさに指を引っ込めた。
「ごめん、熱かった?」
青年は絢斗の手からするりと缶を抜き取った。彼の指先がかすめていった部分が軽く痺れる。さっきから心臓が跳ねっぱなしだ。乱れた呼吸は落ちついたはずなのに。
「はい、どうぞ」
代わりにふたを開け、もう一度手渡してくれた缶を受け取る前に、絢斗はやるべきことをした。緊張してあちこち震えているけれど、彼にきちんと伝えたいことがあった。
右手の小指側の側面を、手のひらを下に向けた左手の甲に軽く当て、そのまま右手を顔の前まで持ち上げる。
〈ありがとうございます〉
感謝を伝える時に使う、手話だ。軽く頭を下げながら、絢斗は優しい青年にジェスチャーでお礼を言った。
青年は目をまんまるにして絢斗を見た。初対面なのだから仕方がない。絢斗のことを知らない人は、みんな同じ反応をする。
絢斗は口を閉ざしたまま缶を受け取り、ミルクティーに口をつけた。ふわりと広がるミルクの甘味と、優しく鼻を抜ける紅茶の香りが心をほんわかとあたためてくれた。おいしいミルクティーだった。
「あのさ」
緊張のほぐれた絢斗とは対照的に、青年はわかりやすく動揺していた。自分の右耳に右の人差し指を突きつけ、おそるおそるといった風に絢斗に尋ねる。
「耳、聞こえないの?」
よくされる勘違いだった。絢斗は首を横に振り、右の指で右耳を差してから、人差し指と親指の先をくっつけて丸を作るオーケーサインをしてみせた。
「耳は、聞こえる?」
彼が言葉にしてくれる。正解です、と絢斗はもう一度オーケーサインを出した。
「じゃあ、どうして」
どうしてきみは、手話を使うの?
そう問いたかったらしい彼のために、絢斗は黒いトートバッグにつけている、水色でやや大きめの缶バッジを見せた。
〈声が出せません〉
絢斗のために、母が作ってくれたものだ。文言を見て、彼はいっそう驚いた顔をした。
「しゃべれないの?」
絢斗はうなずく。
「だから、手話?」
もう一度うなずく。彼は「そっか」とつぶやいた。
「それは、その……病気で?」
病気。そうだと言えばそうだし、違うと言えば違う。少なくともからだは元気で健康なので、絢斗は首を横に振った。彼はもう一度「そっか」と言った。
「だったら俺、声かけて正解だったんだな。しゃべれないんじゃ、自分から助けを求めることも難しいだろ」
つらかったな、と彼は幼子をあやすように、絢斗の頭にそっと手を載せてくれた。
ドキッとした。指の長い、けれど節はしっかりと目立つ男らしい手が、優しく頭をなでてくれる。こんなことをしてもらうのは何年ぶりだろう。家族でも、大学生になった息子にはもう誰もやってくれない。
絢斗は緊張気味にミルクティーの缶を足もとに置き、バッグの中からA5サイズのリングノートとシャープペンを取り出した。ノートは二冊持っていて、今手にしているのは筆談をするときに使う青いノートだ。
スマートフォンのメモ帳アプリを使ってもいいのだが、相手を待たせていると思うといつも焦って、打ち間違いや誤変換が増えてしまう。文具を持ち歩く手間をかけてまで筆談をするのは、結局は早く、正確に気持ちを伝えることができるからだ。
絢斗がノートに文字を書き始めると、彼の視線も自然と絢斗の手もとに注がれた。
なるべく早く、その上で読みやすく、絢斗は伝えたいことを端的に書き記し、彼に見せた。
〈助けてくれてありがとうございました。パニック障害をかかえていて、発作が起きてしまいました〉
原因はよくわからない。けれど絢斗は今日のように、突然息苦しさや眩暈に襲われ、このまま死んでしまうのではないかと不安になるほどひどいパニック状態に陥ってしまう。誰かに助けてもらわなくてもいつの間にか治まっていたりするのだが、彼に声をかけてもらったときには心の底から嬉しかった。男らしさよりも、透明感があって繊細な印象を受ける彼のテノールボイスは、荒波にのまれた絢斗の心を落ちつかせるのにとてもよく効く薬だった。耳に優しく、リラックスできる声だった。
「そうだったんだ」
彼は深くうなずいて、「大変だったな」と絢斗の背中をさすってくれた。
「もう大丈夫? 顔色はよくなったみたいだけど」
絢斗はこくりとうなずいた。右手で左肩に触れ、そのまま胸の前でスライドさせて右肩まで持っていく。〈大丈夫〉の手話だ。たぶん彼はよくわかっていなかっただろうけれど、首を縦に振ってくれた。優しい人だ。
絢斗は再びシャープペンを握った。
〈引き留めてしまってごめんなさい〉
彼の顔色を窺いながら、左手首の腕時計を指さす。――時間、大丈夫ですか?
「平気。たいした用じゃないから」
彼は微笑んで返してくれた。
「きみのほうこそ、どこかへ行くつもりでここへ来たんじゃないの? もしくは、誰かに会いに来たとか」
二つめの質問から先に答えた。右の人差し指で自分を差してから、左手の人差し指で漢数字の一を表しつつ、その下に右手で人という文字を書く。
「へぇ、おもしろいな」
彼は興味深そうに両眉を上げた。
「今のはわかるよ。〈一人〉だろ。一と、人」
彼は絢斗の真似をして、〈一人〉の手話をやってみせる。絢斗は右手でオーケーサインを作った。大正解だ。「やった」と彼は嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「こんな時間に、一人でどこへ?」
時は平日、昼の二時である。さすがに手話では伝わらないだろうと、絢斗はノートに行き先を記した。
〈サンシャイン水族館〉
「水族館? 一人で?」
こくりとうなずく。寂しいヤツだと思われるのは不本意だが、事実、絢斗はどんな時でも一人で行動することがほとんどだった。
けれど彼の表情は、一人ぼっちの絢斗を憐れむのではなく、心配しているようだった。
「一人で大丈夫? また発作が起きたりしない?」
たぶん。……いや、わからない。
絢斗は曖昧に首を傾げた。彼の言うとおりだ。また発作が起きないとも限らないし、今日はあきらめたほうがいいかもしれない。
ひとりでに首が横に振れる。一時間も電車に揺られ、はるばるここまでやって来たのだ。あきらめたくない。なんの収穫もなしに帰りたくない。
根拠はないけれど、今日はものすごく調子がいいような気がしているのだ。きっといいものが書ける。そう思えてならない。
ノートとペンをバッグにしまい、ミルクティーの缶を持って立ち上がった。隣の彼もギターを背負って腰を上げた。
彼のほうが、視線が十センチほど高かった。一八〇センチ近くあるようだ。顔もきれいで、スタイルもいい。平凡に平凡を塗り重ねたような絢斗とはまるで正反対だった。
彼に対し丁寧に頭を下げようとしたけれど、絢斗が動き出すよりも先に、彼が「あのさ」と口を開いた。
「どうしても行きたいなら、俺、付き合うよ」
なんだって?
唐突な申し出に、絢斗は驚いて目を大きくした。
心臓が妙な音を立てて鳴る。発作の時とは少し違う鼓動のリズム。これまで感じたことのない、新しい刺激。
「だってさ」と彼は言った。
「心配じゃん。水族館でもさっきみたいな発作が起きたら、今度は誰も助けてくれないかもしれないぞ?」
わかっている。リスクは覚悟の上でなお、一人で行くつもりだった。
だけどもし、彼が一緒に来てくれるのなら、それ以上に心強いことはきっとない。申し訳なさを感じつつ、ありがたい声をかけてもらえたと思う気持ちも強かった。
彼はグレージュの頭をかきながら言葉を選び、もう一度絢斗に提案した。
「ごめんな、突然。俺、困ってる人を放っておけないタチなんだ。きみみたいな……その、か弱そうな子は、特に」
か弱そうな子。彼は絢斗を小学生の女の子かなにかだと思っているらしいが、表情はどこまでも真剣だった。
「邪魔しないように、後ろをついてく。俺なんていないと思ってくれてかまわないから。満足できるまで、とことん魚を見て回ってよ。苦しくなったら振り返って。俺、いるから」
嬉しかった。彼の優しさには押しつけがましいところがない。
でも、本当にいいのだろうか。絢斗は彼の背後に視線を向ける。
時間には余裕があると言ったけれど、用事がないとは言っていない。ギターを背負って絢斗と同じ電車に乗っていたのだから、なにかやりたいこと、やるべきことがあって池袋を訪れたことは間違いないのだ。
「あぁ、これ?」
絢斗の視線に気づいた彼が、背負っている黒いギターケースに触れた。
「いいのいいの。気分転換にちょっとスタジオで歌おうかなーと思っただけで、誰かと待ち合わせとか、そういうんじゃないから」
俺も一人なんだ、と彼は外国人がよくそうするように肩をすくめた。回答を聞いて安心できた一方で、彼の発言には興味をそそられるものがあった。
歌う。
趣味なのか、本業なのか、やはり彼は歌手、ボーカリストであるらしい。
聞いてみたいな、と思った。彼の美しいテノールは、どれほどきれいな歌を奏でるのだろう。
「で、どうする?」
彼は絢斗に決断を迫った。
「行く?」
断る理由が見つからなかった。できれば今日じゅうに水族館に行っておきたいし、なにより、彼の厚意を無駄にしたくないという思いが強い。
絢斗はうなずき、握った右手を鼻先に当て、少し前に突き出す。その手を開き、ゆっくりと下へ動かしながら一緒に頭を下げた。
〈よろしくお願いします〉
ちゃんと伝わったようで、彼ははにかみ、「じゃ、行こっか」と絢斗をエスコートするように歩き出した。
「あ!」
けれど彼はすぐに立ち止まり、勢いよく絢斗を振り返った。
「そういえば、名前聞いてなかった」
確かに。絢斗もあぁ、という顔をした。言われてみれば、名乗った記憶がない。声に出して名を告げることはできないけれど。
まだ中身の残っているミルクティーの缶をいったん彼に預け、絢斗は彼の左手を取り、手のひらを上向けて開かせた。その上に自らの右の人差し指をすべらせ、ファーストネームをひらがなで書いた。
「あやと?」
うなずいて、今度は漢字で書き直す。
「絢斗」
もう一度うなずく。「絢斗ね」と彼はしっかりと覚えてくれた。
「俺は、ユキ。志すっていう漢字一文字で、志」
志。音の響きは優しいのに、当てられた漢字は凛々しく、男らしい。かっこいい名前だ。
歩き出した志の背中を、絢斗はゆっくりと追いかけた。
なにもかもが予想しなかった展開で、ちょっとだけ混乱している。胸の鼓動の高鳴りが治まらないままだけれど、気分は不思議と晴れやかだった。
今日は本当に、いいものが書けそうだ。
改めてそう思えたことが、心から嬉しかった。



