二学期の中間テストが無事に終わると、教室の空気が一気にぱーっと緩くなった。
 私もその空気に飲み込まれたみたいに、テスト後の解放感を存分に味わう。
 テストが終わったらあれをしよう、これをしよう、とみっきーと約束していたデートに出かけた。水族館、ショッピング、映画、カラオケ。高校生がデートで訪れる場所ランキングトップ10は全部回ったと思う。土日だけじゃ足りなくて、放課後の時間も使い倒した。
 
「ねえ、みっきー。今私、めちゃくちゃ幸せ」

 十月下旬に訪れた海は、少し肌寒くて薄手のコートがなければ鳥肌が立った。
 それでも、靴と靴下を脱いで波打ち際を歩く。彼とこうして海に来るのが夢だった。
 波の音と、さらさら風に乗って動く砂のダンスが、自然の空気に溶けて心地の良い気分にさせてくれる。こんな季節に他に海に来る人間もいなくて、人っこ一人いない広い海岸で、彼とだけ向き合っていた。
 この時間が、たまらなく好きだし、愛しいと思う。

「俺も、幸せだよ」

 みっきーが私の手を取り、転ばないように支えてくれる。優しさが胸に沁みた。
 そうだ。幸せだって返してくれる相手がいて、こんなに幸せなことはない。
 ……はずなのに、どういうわけか、「俺も幸せだ」という彼の言葉を聞いて、初めて胸にぴりっとした小さな痛みが駆け抜けたのを自覚した。

 あれ、今のは何?

 神経を研ぎ澄ませなければ、気づかない程度の細い刺激だった。
 はっとして、少しだけ前を行く彼のうなじを見つめる。
 彼は私の視線を感じたのか、「どうかした?」とこちらを振り返った。

「ううん、なんでもない」

 慌てて取り繕ったけれど、みっきーは私の反応を見て何か思うところがあるかのように、三秒ほど表情を曇らせた。

「本当に、何もないの?」

「うん。貝殻を踏んじゃったみたい。ちょっと痛かった」

 咄嗟についた嘘を本物にするために、右足を上げて「イテテ」と呟いてみせた。

「そっか。大丈夫?」

「だ、大丈夫。尖ってるとこはなかったみたいだから」

「そう」

 いまいち腑に落ちていない様子だったけれど、これ以上何もツッコンではこないみたいだったから、とりあえず安堵のため息を漏らす。

「みっきーって、私が初めての彼女?」

 不意に浮かんだ質問に、彼がぴたりと足を止めた。突然だったので、彼の背中に鼻をぶつける。ひりひりして痛かった。

「……いや」

 何も悪いことなんてしていないのに、いたずらが見つかった小さな子供みたいに、ばつの悪そうな表情でこちらを振り返る。

「そっか。そうだよね〜! みっきー、モテそうだもん。最初は暗いなって思ったけど、優しいし、格好良いし。喋ると明るいって、最近クラスの女子の間でも評判なんだ」

「俺、そんな評価になってんの?」

「うん、気づかなかった?」

「気づかねえ」

 あはは、と鈍感な彼を笑い飛ばす。
 初めての彼女じゃないこと自体、別にどうってことない。いや、少しは……一ミリくらいはちょっと残念だなって思ったけれど、今彼が好きなのは私だから、気にしない。
 それより、さっきみっきーが見せた翳りのある表情の方が気になってしまった。
 前の彼女と、何かあったんだろうか?

「なあ、渡会」

 みっきーが私の顔をじっと見つめる。潮風が頬を温かく撫でる。髪の毛がさっと視線の先を覆って、またすぐに視界が開けた。

「何かあったら、絶対にすぐに言えよ」

 見たことのないぐらい真剣なまなざしに、どきりとさせられた。
 何かあったら。
 何かって、なんだろう?
 私はこんなにも今、幸せなのに。
 満たされすぎて心が追いついていかないぐらいなのに。
 彼の揺れる視線の先に映る私の表情は、今どんなふうになっているのか、自分で分からなくなっていた。

「隠しごととかしない主義だから、安心して」

「……ああ」

 頑張って、にんまり、と笑顔をつくってみせる。でも、みっきーの表情は固いままで、変わらなかった。上手く笑えなかったかな? みっきーの複雑な顔つきが、弟の颯太のそれに重なる。
 時間が経つごとに、海風はどんどん冷たくなっていった。
 私は、幸せを噛み締めるように——いや、幸せだと言い聞かせるように、みっきーの手をぎゅっと強く握りしめる。彼も、応えて握り返してくれた。

「俺、渡会のこと本当に好きだ。だからこれからもずっと、そばにいてくれ」

「うん、もちろん」

 陽は次第に沈み、海から上がった私たちの足元に影を落とす。私は、彼と並びながら、揺れる二人の影をじっと見つめていた。どうかこの二つの影が、これからもずっと重なって離れませんように。強く、祈りながら歩いた。

 けれど、この時すでに、幸せいっぱいだった毎日に、ひびが入り始めていることに気づかなかったんだ——……。



 その日を皮切りに、みっきーと話す時や隣を並んで歩いている時、ある違和感を覚えるようになった。
 彼のことがたまらなく好きで、もっと一緒にいたいと思うのに、腹の底からじわりと恐怖のような感情に襲われる。
 みっきーの彼女になれて、すごく幸せ。
 こんな気持ちになれるなんて、恋って素敵だな。
 最初はそんなふうに感じて幸福感に満たされていたはずなのに、いつしかその感情にのまれるみたいに、心臓をきゅっと掴まれてがんじがらめになっている心地がした。

「……ばちゃん、青葉ちゃん、どうしたの?」

 教室で名前を呼ばれてはっと顔を上げる。
 昼休み、杏ちゃんが私に声をかけてくれているのに気がつかなかった。
 机の上には先ほどまで授業をしていた数学の教科書とノートを出したままで、片付けるのも忘れてぼうっとしていた。
 一週間前に席替えをしたから、隣はみっきーではない。彼は、教卓の真ん前の席に座っていた。私は廊下側の席の、前から三番目。中途半端な位置だった。

「わ、ごめん。お昼ごはん食べなきゃだよね」

「うん、大丈夫? なんかすごい思い詰めた顔してぼーっとしてたけど」

「だ、大丈夫大丈夫! それより早くお弁当食べよっ」

 取り繕って、そそくさと教科書類を片付ける。杏ちゃんといつものように前後の席でお弁当を広げたけれど、彼女との会話にどうしても集中することができなかった。

「青葉ちゃんってさ、坂倉くんとどんなデートしてるの?」

「普通に海とか映画とか……」

「楽しそうだねっ。坂倉くん、クールだけど青葉ちゃんのこと大切にしてるのが伝わってくるし」

「うん……」

「このまま結婚しそうだねってクラスのみんな噂してるよ」

「……」

 ああ、だめだ。
 やっぱりどうしても、彼女の言葉が右耳から左耳へと素通りしていく。その代わりに、「坂倉くん」と彼の名前が出るたびに、じわじわと押し寄せる息苦しさが、胸を焦がしていく。

「青葉ちゃん……?」

 ハッハッ、と短く吐いた息と共に、背中に嫌な汗が滲む。目の前に座っている杏ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「杏ちゃん、ごめんっ」

 ガタリ、と派手な音を立てて椅子から立ち上がる。どうしても、いてもたってもいられなくなって、杏ちゃんの前から逃げたくなった。

「青葉ちゃんどうしたの?」

 心配そうに声をかけてくれる彼女を残して、私はその場からざっと立ち去った。
 教室の扉の方へと一目散に向かって、廊下へと出る。どこだ。どこに行けばいい。そもそも私、どうしてこんなにも苦しくなってるんだろう。
 
 無意識のうちに、足は階段の方へと動いていく。一階まで降りて、ぜえぜえと息を吐いた。そのまま外へ——と下駄箱の靴へと手を伸ばしかけた時、その手をガシッと誰かに掴まれる。

「おい、渡会、どこに行くんだ」

「みっきー……」

 他でもない彼が、ものすごい勢いと剣幕で私の正面へと回り、私を制止した。

「ちょっと、外の空気を吸いに……」

 咄嗟に嘘をついた声は自分でも呆れるくらい震えていて、これでは彼を誤魔化すことなんかできないって、すぐに分かってしまった。

「適当なこと言うな。何か、隠してることがあるんだろ」

「隠してることなんて、そんなこと」

 ない、とはっきり言い切ることができなかった。
 隠しごと、というつもりで秘めているものではないけれど、今彼に向かって腹を割った話をしたくないと正直に思ってしまう自分がいて。
 彼に掴まれていた腕を、咄嗟に振り解こうともがく。

「私は、大丈夫、だからっ」

 思ったよりも強い力で掴まれていて、振り解くことができない。痛い。腕がひりついている。でも一番痛いのは、彼に本音を打ち明けられない心なのだとはっきり理解した。

「こっちを見ろ。俺の方を、見てくれ」

 今度は私の肩を掴み、真正面から見つめ合うような体勢にさせられる。彼の瞳には何か強すぎる意思のようなものが滲んでいて、目を逸らすことなんてできなかった。

「みっきー……」
 
 呟いた声が、あまりにか細くて自分らしくないことに気づいた。きっと彼も、同じだったんだろう。ぱっと目を見開き、それからすぐに心配そうな表情になった。

「ごめん、渡会。ちょっと威圧的だったかも」

「ううん、私のほうこそ、ごめん。ちゃんと話すね」

 思いの外私があっさり心のうちを打ち明けようとしたことに、彼は驚いている様子でじっとこちらを見る。その双眸に向かって、まとまりのない感情をなんとか言葉にして紡ぎ出す。

「みっきーのこと、大好きで、好きな気持ちがどんどん大きくなって、幸せなの。幸せなはずなのに……最近どうしてか、苦しくなる」

「……ああ」

「この幸せが、いつか壊れてしまいそうで怖いの。一度怖いって考えたら、もうずっと頭の中が恐怖で支配される感じがあって……。ごめん、私って面倒な女だよね。愛が感じられないとか、そういうことを言ってるんじゃなくって」

 言いながら、本当に重い女だと思われていないか、心配になった。
 彼の反応がまた怖くなって、一瞬ぎゅっと両目を瞑る。

「自分でもなんでこんなこと言ってるのか分からないの。私、もっと自分はさっぱりした恋愛をするんだと思ってた。みっきーのことが好きで、それがすごく嬉しいことなのに、いつか消えてなくなってしまいそうで怖いだなんて、信じられない。だけどこの気持ちがずっと消えてくれなくて、息が止まりそうになる」

 ドクドクドク、と心臓の音が激しく鳴り響く。
 彼に、呆れられてしまわないだろうか。
 こんなことを言う彼女は嫌だと思われやしないだろうか。
 不安でたまらなくて、でもやっぱり恐怖心は拭い去ることができなくて、背中に冷や汗が伝った。
 とその時、彼の両手がすっと私の背中に伸びて、ゆっくりとさすってくれているのが分かった。

「ごめん、渡会」

「なんで謝るの?」

「だって俺、ずっと慢心してたから。渡会にこんなに好きになってもらえる自分、やるじゃんって。渡会が幸せそうな顔をするたびに、俺はもう大丈夫(・・・・・)だって勝手に思い込んでた」

「もう大丈夫……? どういう意味?」

 彼が言わんとしていることが、いまいち理解できない。ふわふわと飛んでいく雲を掴もうとして、両手からすり抜けてしまうような感覚だった。

「俺のこと、ちゃんと話すから。少しだけ聞いてくれる?」

 何かを決意した彼は、戸惑いの色を浮かべつつ、まっすぐに私の顔を見つめた。
 自然に頷いた私は、彼と一緒に下履に履き替えて、中庭へと向かう。誰にも聞かれたくない。彼の気持ちが透けて見えた気がして、二人きりになれる場所を探していた。