初めて一年一組の教室で彼と目が合ったとき、びっくりした。
 昨日、転校前に先生と話をするために学校に来たのだけれど、職員室の場所が分からなくて困っていたところを、声をかけてくれたのが彼だった。

『職員室なら、西棟の一階の端だけど』


 ぶっきらぼうな物言いの中に溢れる、困っている人を助けたいという思いやり。優しさを感じて、転校先で不安だった心がぽっと温かくなった。
 
 翌日、一年一組の教室の扉を開いて、窓際の一番後ろの席にいる彼を目にして、運命だ! って思っちゃった。学校という小さな社会にいることも忘れて、自己紹介の間じゅう、ずっと彼のことを見つめていたんだけど、彼は終始俯いていて、一度も目が合わなかった。
 運良く彼と隣の席になって話しかけてみたけれど、やっぱり私の名前すら覚えていないことを知ってちょっとがっかり。でも、できるだけ明るくまた自己紹介した。第一印象ってすごく大事だって言うし。この時点ですでに、私は坂倉光希くん——みっきーのことが、気になっていたのかもしれない。
 
 だけど、彼は私の自己紹介を聞くや否や、こう言った。

——悪いんだけど、俺とは極力関わらないようにしてほしい。

 ものすごく真剣な表情をしてほぼ初対面の私にそうお願いをする彼は、何か、とんでもなく大きな傷を抱えているように見えた。
 隣の席なのに、関わるなだって?
 そんなの。

「無理に決まってるじゃん!」

 思わず心の声が口から漏れていることに気づき、はっと口を手で押さえる。
 しまった。今、現代文の授業中だった。
 転校してきて二日目。
 現代文の授業を受けるのは今日が初めてで、教科担当の先生の声が子守唄みたいだなって感じて、昨日のことを思い返していたんだけれど……。

「“無理に決まってる”って、ヒロトがアキに想いを伝えても無謀だってことですか?」

 先生が私の目をじろりと見つめて問う。
 ちょうど小説の読解の授業をしていた。主人公のヒロトとその友人のアキの間で関係が揺れ動く……そんな話だ。
 突如として声を上げた私を、不可解そうに見つめる先生。周りからは、くすくすと小さな笑い声が聞こえてくる。ようやく自分が恥ずかしい状況に置かれていることを理解して、ぼふん、と頭が爆発したような感覚に陥った。

「す、すみません……今のはその、独り言です」

「そうですか。あなた、確か転校生の渡会さんね。途中から授業に参加して分からない部分も多いと思いますけれど、隣の片町くんや坂倉くんに助けてもらってください」

 先生にそう言われて、ちらりとみっきーの方を見やる。
 彼は瞬時に私から目を逸らし、窓の方を向いた。
 私……なんかすごい嫌われてない?
 昨日、無理に明るく話したのかダメだったのかなあ……。だって彼、なんだかとっても辛そうな顔をしながら「関わらないで」なんて言うんだもん。そりゃ、心配にもなるし、気になるよ。
 内心凹んでた私だけれど、授業が再開すると、置いていかれないように先生の話を聞くのに必死になった。
 それでもみっきーのことはずっと気になっていて、なんとか彼の心を開きたいと思ってしまう。
 だって、せっかくお隣さんになったんだし。
 一昨日、困っている私を助けてくれたあの優しさは本物だと思うし。
 もし彼が、私以外のクラスメイトのこともこんなふうに避けているのなら、何か理由があるはずだ。教室の隅でひっそりと過ごすだけなんて、きっと寂しいに違いない。
 客観的に見ればすごく……ものすごーくおせっかいすぎる考えのもと、私は彼、坂倉光希くんと友達になりたいと、思った。


 その日の昼休み。

「ねえみっきー、私と一緒にお昼ご飯食べない!?」

 昼休みの開始を告げるチャイムが鳴ると同時に、私は彼に瞬時に話しかけた。周りのクラスメイトたちが、積極的すぎる私の行動を目にしてぎょっとしている。きっとこのクラスの誰も、普段彼に話しかけることはないんだろう。横目で見た片町くんなんて、引き攣った表情を浮かべているんだもん。

「は……お昼って、お、俺と?」

「うん、みっきーって言ったじゃん。他に誰がいるの?」

「いや……いないけど。なんで俺と」

「だってお隣さんだもん」

「お隣さん」という都合の良い立場を利用し、無理やり理由をつけた。

「女子の友達と、食べれば?」

「残念ながら、まだ仲の良い友達がいなくて……」

 そう答えた矢先、教室の前の方から、「青葉ちゃーん!」と私の名前を呼ぶ女の子の声がした。ぎくりと肩を揺らす。昨日、体育の時間に仲良くなった橋本杏(はしもとあん)ちゃん。転校初日からしっかり女子の友達ができて嬉しかった。けれど、今話しかけられるのは、なんと間が悪いこと……!

「杏ちゃんごめん、今日私、お腹が痛くて……」

「え、そうなの!? それなら保健室行く? 場所わかんないよね。一緒に行こうか?」

「だ、大丈夫! み——坂倉くんもお腹痛らしいから、二人で行く!」

「そっか。お大事に」

 杏ちゃんは一瞬みっきーの方を見て意外そうな顔をしていたけれど、腹痛だという私の嘘を信じてくれたのか、それ以上は何もつっこんでこなかった。

「みっきー、行こう」

「行くってどこに?」

「保健室——という名の食堂。案内してよ」

「なんで俺が」

「さっきの会話聞いてたでしょ? 教室から出ないと不自然だって!」

「それは、あんたが勝手に——」

「もう、いいからとにかく行こっ」

 周りの人に聞こえないくらいの囁き声で押し問答をした後、強引に彼を教室から連れ出した。

「俺、お弁当なんだけど」

「そうなの!? じゃあお弁当持ってきてよ」

「今教室に戻ってお弁当持っていく方が不自然じゃないか?」

「確かにそうだね……う〜ん、どうしよう」

「……もう、今日は食堂でいいよ」

 観念した様子で彼が答える。

「え、それだとお弁当もったいなくない?」

「大丈夫。家帰るまでに食べるから」

「そ、そう……。なんか、ごめんね」

 なんだかんだ言って、私と食堂でご飯を食べることに付き合ってくれるというみっきーは、やっぱり優しい人だ。
 お弁当を作ってくれたはずの彼のお母さんには申し訳ないと思いつつ、なんとか二人で教室を抜け出すことができた。
 
「食堂は別棟だっけ?」

「そう。去年建て替わったらしくてめちゃくちゃ綺麗だよ」

「へえ〜楽しみ」

 二人きりになると教室にいる時より話しやすいのか、彼は落ち着いた声色で話してくれた。
 
「言っておくけど、あんたと友達になったわけじゃないから」

「分かってるって〜」

 嘘。全然分かってない。私、みっきーと友達になろうとしてる。でも、あえて口には出さない。警戒されても困るしね。

「わ、本当に綺麗だ。ホテルのレストランみたい」

 いざ食堂に足を踏み入れて、清潔なテーブルや椅子、暖かな暖色のライトに照らされる室内を見て素直に驚く。
 ここでお昼を食べることができるの!
 なんて素敵な食堂なんだろう。

「……ぷっ」

 私がまじまじと食堂を見回していると、隣でみっきーが吹き出した。
 なになに、なんで笑ってるの?
 というか、みっきーって笑えるんだ。

「ホテルのレストランは言い過ぎだって。普通に綺麗なただの食堂じゃん」

「いやいや……! 私の前の学校の食堂、すごい使い古してる感じで、こう言っちゃなんだけど汚なかったよ。だから本当は食堂に行きたいけれど、購買やお弁当で我慢してた」

「へえ、そうなんだね。じゃあうちの学校では食堂で食べることにしたら? あ、もちろん女の子の友達とね。俺とは今日限りの付き合いで」

「え〜ケチ。明日もみっきーを誘う」

「おい、俺の話聞いてた? 俺とは関わらないでって昨日言ったでしょ」

「聞いてなーい。知らなーい」

 おかしくなって、あはは、と笑いながら彼に返事をする。みっきーはそんな私を呆れた様子で見返してきた。彼にべーっと舌を出しながら、食券を買いに列に並ぶ。オムカレーライスが人気らしく、私もそれを頼んだ。
 みっきーは唐揚げ定食にしたらしい。
 二人で出来上がった食事をもらいに行き、空いている席に座る。ちょうど窓際の席が空いていて、窓から差し込む麗らかな日差しが心地よかった。
 
「いただきます! ん……お、美味しい!」

「オムカレーライスは人気投票で一位だったからな。俺の唐揚げ定食は二位」

「へえ、どっちも人気なんだね! こんなに美味しいご飯が食べられるなら、やっぱり食堂通いしようかな」

「誰と?」

「もちろん、みっきーと」

 揶揄うようにそう言ってやると、彼は困ったようにため息をついた。でもここで引くわけにはいかない。いつしか私の中で、「いかに彼と友達になるか」を考えるようになっていた。

「ねえ、私、転校前の学校とこっちの学校の授業進度が違くて困ってるの。今度勉強教えてくれない?」

「え、俺が?」

「うん、いいでしょ。お隣さんのよしみで。アイス奢るから」

「あのなあ、だからそういうのは女友達に聞けって」

「やだー! 私はみっきーに教えてほしいの」

「……」

 もう、呆れを通り越して抵抗することもやめたのか、彼は「はいはい」「しゃーねえなあ……」とあまり納得していない様子で頷いた。

「最初だけだぞ」

「わ、ほんとにいいの!?」

「いや、あんたが強引に頼んできたんじゃん」

「へへ、ラッキー。ありがとっ」

 ぱちん、と両手を合わせて喜びを表現する。本当は小躍りしたい気分だったけれど、さすがにやめておいた。転校早々、食堂で踊り出した伝説の女子生徒とか言われたら、この先学校に通えないし、将来お嫁にもいけない。

「じゃあ、早速今日の放課後からお願いします!」

「今日? 急だな」

「あ、ごめん。部活とかあるよね?」

「……いや、部活には入ってないから大丈夫」

「そっか。良かった。じゃあやっぱり今日からお願いね〜」

「今日“から”って、一回だけだって言ったのに」

 彼は不服そうだったけれど、無事に約束を取り付けることができてほっとした。
 どうしてこんなにも、彼のことが気になってしまうのだろう。
 ふと、オムライスをすくいながら考える。
 ……そうか。
 私、無意識のうちにみっきーを弟——颯太(そうた)に重ねてたのかも。
 教室の端っこで、寂しそうに、ひっそりと一人で殻に閉じこもっているところが。
 だから声をかけずにはいられなかった。
 彼が、颯太みたいにならないかって心配だったのかもしれない。

 食堂の喧騒の中で、ふと目の前にいるみっきーに視線を移す。彼は一生懸命唐揚げを口に運んでいて、私の視線には気づかない。
 彼と、友達になれるかな。
 ドキドキとした鼓動を感じながら、吹き始めた秋風を感じようと、窓に手を伸ばした。