だから生きて、そばにいて。





 ひゅうひゅうと冷たい風が頬を掠める。
 俺は今、誰もいない校舎の屋上の縁に立っていた。
 渡会と別れてすぐ、これが一番の解決策だと信じてやまなかった。いや、そう自分に言い聞かせることで、なんとか心の平静を保とうとしていたのかもしれない。
 ……でも。
 一日、一日と経つごとに、後悔がぶわりと押し寄せてきた。
 本当にこれで良かったんだろうか。
 渡会と別れたことで、彼女は傷つかずに済む。そう思っていたのに、心のざわめきが止まらない。彼女が心穏やかに暮らせるのならそれでいい——はずなのに、胸の中では鋭い痛みが広がっている。
 そうか……俺。
 こんなにも胸が苦しくなるぐらい、彼女のことが好きだったんだ——……。

 そうと気づいてから、毎日が痛みの連続で。
 彼女が教室で俺をちらちらと見ていることは気づいていた。でも、気持ちを鎮めるために気づいていないふりをした。
 ごめんな、渡会。
 俺はきみを幸せにできない。
 こんなに、こんなに好きなのに。

 自分の気持ちを押さえつけ、時が俺たちの行き場のない感情を癒してくれるのを待った。
だけどさっき、教室で水風船が弾けたみたいに涙を流していた彼女を見て、俺は悟った。

 俺という存在がいる限り、一生彼女を苦しめ続ける。
 だったらもう、俺はいない方がいい。
 あまりにも短絡的すぎると笑われるかもしれない。でも、限界だった。他の誰にも、感情増幅体質になった俺の苦しみなど分かるわけがない。
 
 生と死の境目で、一際大きな一陣の風が吹いた。その風に身を任せ、右足を宙に浮かせる。さあ、終わりにしよう。
もうこれ以上、きみが苦しまなくていいように。
俺はこの世界からいなくなる。そしてきみは、別の誰かとまた恋をすればいい。俺との思い出の記憶は、いつか色褪せて消えてなくなるから——。

「ばかみっきー!!」

 はち切れんばかりの声が、冷たい空気を切り裂いた。 
 どうしてきみがここに、と声を上げる間もなかった。右手を掴まれた俺は地面の方へとずるりと引っ張られる。鈍い音を響かせて、コンクリートに身体を打ちつける衝撃が貫く。でもそれは、あの屋上の縁から両足で飛んだ後の衝撃よりは、ずっと優しいはずだった。

「何してるの!?」

 痛む身体を抑えながら身体を起こして顔を上げると、両目にいっぱいの涙を湛えた彼女が、そこに立っていた。ぜえぜえと肩で息をしている。教室で見せたか弱げなまなざしとはまた違う、怒りと悲しみが混ざり合った複雑な表情を浮かべていた。

「俺の存在が、渡会のことを傷つけるなら、もういなくなった方がましだって思って……」

 言いながら、気づいた。 
 本当は俺、渡会を傷つけないためじゃなくて、これ以上自分が傷つかないように、ここから飛ぼうとしたんだ。
 要は、逃げたんだ。
 渡会と向き合うのではなく、自分という人間をこの世から抹消することで、彼女を幸せにすることから逃げた。渡会を傷つけないようにと願ったはずなのに、彼女は今、十分傷ついている。その証拠に、俺の言葉を聞いた彼女の顔がくしゃりと大きく歪んだ。

「なんでそんなふうに考えるのっ!? いなくなった方がましだなんて、そんなことあるわけない! 私はみっきーが、今でも好きなの。恋人じゃなくても、遠くから眺められるだけでもういいって思った。……だけど本当は、それじゃ足りなかった。やっぱり私は、みっきーの恋人でいたい。堂々と好きだって言いたい……」

 たとえこの胸が、不安で押しつぶされそうになるのだとしても。

 彼女の心の声が聞こえた。俺は、すっと彼女に向き直る。震える彼女の瞳を、腕を、足を、痛いくらいに見つめる。

「私の弟がね……颯太って言うんだけど、颯太は中学校でいじめられて、引きこもってしまったの。それで、私は高校生になったばかりだったけど、家族で全く別の土地に引っ越してきたんだ。そこで、あなたに出会って、びっくりした。颯太と同じ目をしていたから。誰とも関わらないで生きていこうって、寂しそうな顔をしてたことが、気になって。でも実際に話してみたら、みっきーは優しいところがたくさんあって、すぐに大好きになった。こんなに本気で恋をしたのは初めてなんだよ。だから、生きてよ。私のそばにいてよっ」

 涙ながらに訴える彼女を見て、俺は切なさで胸が締め付けられた。
 彼女がそんなふうに俺のことを想って好きでいてくれたことが心の底から嬉しくて、だけどそのせいでやっぱり彼女を傷つけてしまうことが、たまらなく怖い。
 そうか、俺……怖いんだ。
 大切な人を自らの手で傷つけてしまうことが、怖くてたまらない。
 はは、一緒だったんだな、俺たち。
 互いを好きでいることに不安を覚えてしまう。だけど、想わずにはいられない。
だって心がきみを、求めているから。

「そばに……いても、いいのか? 俺なんかがそばにいたら、渡会はまた、怖くて不安で仕方なくなるんだろう? 苦しめちまう」

「だったら私が不安にならないぐらい、私を愛してよっ!」

 屋上に響き渡る強く激しい気持ち。彼女の声が、俺の心臓を貫いた。

「私がみっきーを好きだって気持ちが大きくなりすぎて不安になる前に、みっきーが私をたくさん好きでいて。そうすればきっと私は怖くないから」

 彼女の口から紡がれる唯一の解決策と思われるものに、俺の胸はうち震えた。

「……そうか」

 なんで気づかなかったんだろう。
 簡単なことだったんだ。渡会が俺を想う以上に、俺が渡会を想えばいい。それで、彼女は幸せが壊れるんじゃないかって恐れなくて済む。
 
 俺は立ち上がり、真正面で目も鼻も耳も真っ赤にしている彼女に手を伸ばす。ゆっくりと彼女の背中へと腕を回して、その身体を抱きしめた。
 ぴくんと跳ねた彼女の身体がこれ以上震えないように、強く強く抱く。二週間ぶりに触れた彼女の温もりが、冷え切っていた俺の心を温めた。

「俺、渡会のことだけを好きでいるよ。渡会が俺のことを想う以上に、俺が渡会を強く想う。それでも心が壊れそうになったら言ってくれ」

「言ったら、どうなるの?」

「そりゃ、こうするに決まってるだろ」

 言いながら真っ直ぐに彼女の唇を塞いだ。驚いた彼女が、目を大きく見開いたのが分かる。それでもお構いなしに、彼女と密着していた。

「な、これで大丈夫だろ?」

「……み、みっきーのばか」

 真っ赤になった彼女を見つめて、愛しい気持ちが溢れてくる。
 大事なものは、すぐそばにずっとあったのだ。
 見失いそうになったけれど、自分と、彼女が傷つかないように、彼女を愛そう。
 きみのそばで、これからも生きるよ。
 
「みっきー、大好きだよ」

 背伸びをして、今度は彼女の方が俺の唇を捉えた。
 風が、彼女の髪の毛をはらはらと揺らす。ぴたりとその風がおさまったあと、俺はニッと唇の端を持ち上げて言った。

「さっきは……救ってくれて、ありがとう。渡会のことが、世界でいちばん、大大大好きだ」



【おわり】