――貴方の将来の夢は?

 いつからだろう。
 その質問をされることが嫌になったのは。

永宮(ながみや)さんは、教員志望でよかったのよね?」

 高校三年生に進級して、初めての進路面談。
 空き教室で向かい合った先生が、そう聞いてきた。

 ――あのね、茉白(ましろ)ね、大きくなったら……!

 幼いころの私の声が、ふいに聞こえてくる。
 あのころの私は、無邪気に、周りの大人に夢を語っていた。
 笑って聞いてもらえるのが嬉しくて、何度も話した。
 でも、小さな私は、もういない。
 私は大人になったんだ。

「はい。でも、小中高、どこにするか迷ってて……」
「そうね……」

 先生は真摯に、私の問いに答えてくれる。
 だけどそれは、右から左に流れていった。
 ちゃんと聞かないといけないことは、わかってる。
 でも、なんだか私に関係ないような気がしてきて、頭に入ってこない。

「……とまあ、いろいろ話したけど、一番は永宮さんがやりたいって思う選択をすることだからね。もう少し時間はあるし、たくさん悩みなさい。いつでも相談聞くから」

 先生の言葉は、この進路面談のまとめのように聞こえた。
 今回もまた、あっさりと終わってしまった。
 これなら、わざわざ時間を取らなくてもよかった気がする。

「ありがとうございました」

 そして私は、空き教室を出た。
 私がやりたいと思うこと、か……

「……そんなの、私が知りたいし」

 無人の廊下で独り言をこぼし、自分の教室のドアを開けた。
 そこには、スマホを見ている由花(ゆか)と、なにかを描き続けている笹原(ささはら)君がいた。

「あ、茉白。おつー」

 私に気付いた由花は、軽く手を振っている。

「はやかったね」
「相談するほどのこともないからね」

 由花とそんなやり取りをしながら、自分の席に向かう。
 放課後になってすぐ、面談の時間になったから、まだ荷物の整理もできていない。

「茉白は先生になるんだっけ?」

 帰る支度をしていると、由花がそう聞いてきた。

「いいなあ……めちゃくちゃ似合ってる夢見つけてて」
「そうかな」

 似合ってる夢。
 その言葉に引っかかりながら、私は笑って誤魔化す。
 教師という職業が、本当に私の夢なら、今の言葉も受け止められたんだろうけど。
 私はただ、無難な職業を選んだだけ。
 誰にも否定されない、いいねって言ってもらえる目標。
 だから、そんなふうに憧れ的なことを言われても、困る。
 そのとき、唐突にドアが開いた。

「笹原君、次どうぞ」

 さっきまで面談していた先生が顔を覗かせ、そう呼びかけた。
 笹原君は静かにスケッチブックを閉じ、席を立つ。

「次って、笹原だったんだ」

 笹原君が教室を出ていくと同時に、由花は呟いた。
 なにか思うところがあるのか、由花は少し怖い顔をしているように見える。

「どうかしたの?」
「いや……笹原って、いつもスケッチブックになにか描いてるじゃん? それがなんか、不気味……? 気持ち悪い……よくわかんないんだけどさ」

 よくわからないという理由で、誰かを遠ざけようとしていることのほうが、私には不気味に思える。
 でも、由花がそう言ったことで、さっきの笹原君の机に向かう姿が頭に過ぎった。
 由花が同じ空間にいるのに、一切気に止めず、一心不乱になにかを描いている姿。
 静かな空間で響いていた、鉛筆が紙をなぞる音。
 たしかに、笹原君のまわりが現実離れしているように感じたけど……
 集中するとは違う、自分の世界に没頭する、みたいな。
 由花の感覚に感化されたのか、私も、不気味だと思っているような気がしてきた。
 私が閉じ込めた思いの蓋が、開けられるような……

「茉白? 帰らないの?」

 私の手が止まってしまったのを、由花は不思議そうに見ている。

「ごめん、すぐ準備する」

 そして荷物を片付けたとき、面談を終えた笹原君が戻ってきた。
 私たちのほうは、まったく見ない。
 机の上に置いてあったスケッチブックを無言でカバンに入れると、笹原君は教室を出ていった。

「……ね。なんかやな感じするでしょ?」

 小声で言う由花は、不満そうに眉をひそめた。
 私は、笹原君が出ていったほうを見つめる。
 そうだね、とは言えなくて、言葉を濁した。

   ◆

 あれから何日か経った放課後。
 志望校が未だに定まらなくて、私は進路相談室でいろんな大学のパンフレットを見繕った。
 どこがいい大学なのか、私にはわからない。
 決めることだって、できない。
 いっそのこと、先生に決めてもらおう。
 そう思って、私は資料を手に、職員室に向かう。

「笹原君、あれから考えてみた?」

 どうやら、先客がいたらしい。
 椅子に座った先生と向かい合っている笹原君は、心底面倒そうな顔をしている。

「何度言われても、変えるつもりはありません」

 静かだけど、意志の強い声。

 ――なんかやな感じするでしょ?

 笹原君の声に反応するように、由花の言葉を思い出した。
 やな感じ、か……

「でも……絵本作家なんて」
「……え」

 先生の言葉に、私は反応してしまった。

 ――イラストレーター? そんなの無理よ。

 かつて、私が大人に言われた言葉。
 それが蘇ってきて、つい声が出てしまった。
 小さな声だったはずなのに、笹原君は私のほうを振り向く。

「……盗み聞き? 趣味悪いね」

 無表情で、低い声で言った。
 呆れた物言い。
 
「ごめんなさい、そういうつもりじゃ……」

 笹原君は大きなため息をついた。
 そして「失礼します」と言って、職員室を出ていった。
 私は、その背中から目が離せない。

「永宮さん?」

 先生に名前を呼ばれ、進路相談のためにここに来たことを思い出した。
 だけど、今はそんなことどうでもいい。

「あの、また、相談に来ます。これ、返却します」

 私は手にしていた資料を先生に渡して軽く頭を下げると、笹原君を追った。
 やな感じ。
 それは私も感じた。
 でも、由花の感覚とは違う。
 拒否感ではなく、神経が逆撫でされている感覚。
 どうして。どうして笹原君は。

「……なに」

 私が追いかけていたことに気付いた笹原君は、階段を登る途中で足を止めた。
 振り向いたその表情には、不満が見える。
 私は踊り場で立ち止まり、笹原君を見上げる。
 蔑まれるような目を向けられて、ようやく私は、勢い任せに行動していたことに気付いた。
 でも、ここまできて後戻りもできない。

「……笹原君は、どうして絵本作家になろうって、思ったの?」

 一瞬、笹原君の眉頭が寄った。
 空気がピリついて、言うんじゃなかったと、すぐに後悔した。
 でも、言ってしまった以上、後の祭り。
 どんな反応をされようが受け止めるしかない。

「永宮さんには関係ないと思うけど」

 笹原君の言う通りだ。私には関係ない。
 それはちゃんとわかってる。
 でも、気になって仕方なかったんだ。
 あんな反応をされていながら、まっすぐに夢を語る、その理由が。

「……永宮さんこそ、どうして教師になろうって思ったの」

 私の諦めの悪さを感じ取ったのか、笹原君はため息混じりに言った。
 私の心を見抜こうとしているような視線。
 それが少し、恐ろしかった。

「私は……」

 笹原君から目を逸らし、言葉に詰まる。
 教師になる理由。
 そんなもの、みんなに否定されないから以外にない。
 だけど、それを笹原君に伝えるのは、気が引けた。

「永宮さんって、無難な目標を掲げてるだけだよね」

 鋭く刺さる声色で続けられ、私はますますなにも言えなくなる。
 私が、笹原君の内側に土足で踏み込もうとしたせいだろうか。
 やけに攻撃的に感じる。
 それも、的確な言葉を使って。
 ……気付いてないふりを、していたのに。
 立ち止まらないように、前だけを見て、ここまで来たのに。

「……そんな生き方、楽しい?」

 怒り。
 ……いや、違う。
 呆れ?
 それも違う……
 軽蔑。
 そうだ、それがしっくりくる。
 心に冷たい刃が刺さった感覚に、私は立ち尽くすことしかできない。

「僕は永宮さんみたいなつまらない生き方はごめんだね」

 笹原君は改めて私を睨むと、踵を返す。
 その瞬間、なにかが弾ける音がした。
 ……なに、それ。
 なにそれ、なにそれ、なにそれ!

「笹原君になにがわかるの!」

 私の声は、思ったよりも廊下に響いた。
 いつもの私なら、もう冷静になるところだけど、今は落ち着いていられなかった。
 この感情を、簡単に抑えられる気がしなかった。

「私だって、なりたくてこうなったわけじゃない!」

 叫ぶ中で、つい拳に力が入る。
 ……私には、夢があった。
 無謀だと、大人に嘲笑われた夢。

 ――絵は、趣味でしょ?

 お母さんも、本気だと思ってくれなかった。
 違うよ、本当にイラストレーターになりたいの。
 そう思っても、言えなかった。
 また否定されるのが怖くて。
 それでも、私なりに夢を目指した。
 ……だけど。

「……私には、才能がなかったの」

 世の中には、すごい人がたくさんいて。
 私自身が無理だと判断してしまうくらい、私には、イラストレーターになれるほどの才能がなかった。
 結果がすべての世界で、上手く結果が残せなくて。
 お母さんの言葉が頭から離れない中で、私はとうとう、絵を描くことができなくなった。

「才能、ね……」

 笹原君は、冷たくこぼした。

「僕からしてみれば、才能がないってのは、努力しない言い訳と甘えだと思うね」

 どうして、こんなにも他人を見下す言い回しができるんだろう。
 他人を思いやるような、優しい言葉を使ってくれないんだろう。
 そのせいで、私が感情を抑えることは、どんどん難しくなっていった。

「……だから! 私が頑張ってないみたいに言わないで!」

 笹原君からしてみれば、私がしてきたことなんて、努力にもならないのかもしれない。
 でも、絵に夢中になっていた日々は、否定されたくなかった。
 それを否定されたら、夢を見失った私の存在価値がなくなってしまう気がした。

「……いいよね、夢を追う自信がある人は」

 少し落ち着いてその言葉をこぼしたとき、涙が頬を伝った。
 泣くつもりなんてなかったから、自分でも驚いてしまう。

「私だって……夢を諦めたくなかった」

 イラストレーターという夢。
 それを諦めてしまった過去が受け入れられなくなって。
 どんどん自分のことが嫌いになって。
 今では、夢がないと語る由花を見て、安心する始末。
 本当、最低なヤツだ。

「周りに否定されたくらいで諦めるなら、その程度だったんじゃない? 僕は、本気でなりたいって思ってるから、周りにバカにされても、諦めるもんかってなるけど」

 やっぱり笹原君は、強い。
 ……ううん、覚悟がある。
 夢を追う覚悟。
 それがきっと、私に足りなかったもの。

「……もう、無理だよ」

 私がもう一度後ろ向きな言葉を言ったせいか、笹原君は改めて私を軽蔑する目を向けてきた。

「……私の夢は、もう灰になった。追いかけられない。夢を追いかけたいって気持ちも、もうないの」

 冷静に言葉を置いていくことで、私の気持ちも落ち着いてきた。
 心の内に溜めていた言葉が吐き出されて、わずかにすっきりしたみたい。

「……諦めることしかしてこなかった私が教師なんて、笑っちゃうよね」

 私は自嘲した。
 そうすれば、さっきまで声を荒らげていたことが誤魔化されないだろうか、なんて思いながら。
 だけど、笹原君はつられて笑ってはくれない。
 ただまっすぐに、私を見据える。

「……別に、笑わないけど。これから先、なにかを選ぶ場面で諦めなきゃいいんじゃない?」

 簡単に言ってくれる。
 だけど、笹原君らしいと受け止めようとする私がいた。

   ◆

 笹原君と言い争いをして、数日。
 あれ以来、笹原君とは話していない。
 少しは気まずい空気になるのかと思っていたけど。
 なにもなかったかのように、自分の世界に没頭する笹原君を、何度も見かけた。
 笹原君にとって、あの日のことは、取るに足らない出来事だったんだろう。

「茉白、帰ろー」
「ごめん、今日も先に帰ってて」

 私が言うと、由花はつまらなそうに「またね」と言って、教室を出る。
 独りになった私は、校舎裏にある花壇に向かう。
 絵を、描きたくなって。
 間違いなく、笹原君に感化された。
 でも、由花に知られて、無理って言われてしまうのが怖くて、独りで花壇に来た。
 ここにベンチでもあれば、便利なのに。
 少し不満を抱きながら、花壇の傍にしゃがみ込む。
 笹原君みたいにスケッチブックはないけど、ノートを取り出して、美しく咲き誇る花たちをスケッチしていく。
 だけど、思うように描けなくて、何度も描いては消してを繰り返した。
 やっぱり、何年も描いていなかったことで、腕が落ちているみたいだ。
 もともとそんなに実力はないけど。

「……なに、してるの」

 唐突に、横から声がし、私は肩をビクつかせた。
 顔を上げると、呆れた表情を浮かべる笹原君がいる。
 その手には、スケッチブックがある。
 笹原君も、ここの花を描きに来たみたいだ。

「久しぶりに絵を描いてみようと思って。でもダメだね。前よりずっと下手になってる」

 ずっと努力している笹原君に見られたくなくて、私は笑って誤魔化しながら、ノートを閉じる。
 これで上手く描けていたら、私はどうするつもりだったんだろう。
 またイラストレーターを目指そうと思えただろうか。
 ……ううん、きっとない。
 ただなんとなく、過去の私の努力にすがって、私を慰めようとした。
 結局思うようにはいかなかったけど。

「……永宮さんは、どうして描くのをやめたの?」

 笹原君が私に興味を持つなんて、意外だ。
 まあ、私が夢を諦めない笹原君が気になったのと同じように、笹原君も夢を諦めた私のことが気になったのかもしれないけど。

「私らしさを失ったから、かな……」

 私は、視線を落とした。
 目の前に咲き誇る花は、風に揺れる。

「……大人は、美しい花畑の中に枯れた花があれば摘み取るように、子供たちの夢を潰す。無理だよって言って。私も夢を潰された一人」

 その美しさに隠れた、枯れた花はどれだけあるのだろう。
 そう思うと、目の前の花畑が、ただ美しいだけのものには見えなくなってきた。

「そのうち、好きだった絵も楽しくなくなって……どうやって絵を描けばいいのか、わからなくなっちゃったの」

 才能がないのはたしかで。
 でも、夢を諦めたのは、それだけじゃなかった。
 今の私は、ゼロからイチを生み出すことができない。
 だから、イラストレーターになれないんだ。
 ちらりと笹原君を見ると、なにか言いたそうに口を開いたけど、静かに顔を背けた。
 少し暗い話をしすぎたかな……

「……でも、そろそろ時間が解決してくれたかなって、描いてみようと思ったんだけど……そう上手くはいかないね」

 ぎこちなく笑っても、笹原君がこちらを見てくれない。
 こんなの、道化だ。
 でも、私の話はもう終わり。これ以上話すことなんてない。
 私は立ち上がり、私たちの間を駆け抜ける風を感じながら、笹原君の反応を待つ。

「……ごめん」

 聞こえてきたのは、小さな謝罪。
 笹原君は視線を落としたままだ。

「永宮さんは、僕に夢を追う自信があるって言ったよね」

 それは記憶に新しく、私は小さく頷く。
 今振り返ってみれば、ただの八つ当たりでしかなかったから、恥ずかしくて忘れてほしいところだけど。

「……僕だってないよ。自信なんて」

 あの日とは違う、不安に染まった瞳。
 その表情から、目が離せない。

「僕の場合は、無理だって言われただけじゃない。バカにされたこともある」

 悔しさが滲むその顔を見ていると、胸が締め付けられる。
 そっか。だから笹原君は、私が笹原君の夢に踏み込もうとしたとき、あんなに敵意を向けてきたんだ。
 私もほかの人たちと同じだと思って。

「でも……どんなに笑われても、僕の中にある憧れが消えなかった。子供たちが絵本に夢中になる姿を見て、僕もそんな物語を生み出したいっていう、強い気持ち」

 笹原君は、ただ強いだけじゃなかった。
 どれだけ折れそうになっても、負けないで立ち向かってきたから、強いんだ。
 私には、あっただろうか。
 絶対に曲げられない、憧れや、強い思い。
 思い返してみれば、絵が好きだからという理由で、イラストレーターを目指していた気がする。
 だから、夢を追い続ける意思が簡単に消えたのかもしれない。
 やっぱり私には、夢は向いていない。
 久しぶりに絵を描いて思っていたけれど、改めて、そう感じた。

「私……やっぱり夢じゃなくて、目標を選ぶよ」

 教師という目標。
 ずっと、波風を立てないためのものだと思っていたけれど。
 こうして笹原君と話していることで、霧が晴れていく気がした。

「……そっか」

 笹原君はあの日のように否定するのではなく、そっと受け止めてくれた。
 時間を置いたことで、お互い冷静になれているのかもしれない。

「私はずっと、大人に無理だって言われて、夢を諦めちゃったことが、トラウマ、というか……もっと応援してくれたら、頑張れたのにって思うことが何回かあって」

 頑張らなかった理由を他人になすりつけようとしていたなんて、恥ずかしくてたまらない。
 だけど、笹原君の前で本音を取り繕うのは、なんだか違う気がした。

「だからこそ、これから出会う子供たちが、諦めないで頑張る道を進めるように支えてあげたいって思って」

 言葉にしてようやく、教師という職業を目指す理由が見えてきた気がした。
 誰かに否定されないからじゃない。
 私がこれから、なりたい姿。
 それが明確になって、私の未来の道標になってくれそうな予感がした。

「いいんじゃない?」

 笹原君は、ほんの少し微笑んだ。
 無関心のようだけど、不器用な物言い。
 なんだか、笹原君らしい反応だ。

「永宮さんは、道を決めた。たとえそれが夢を諦めた結果だとしても、その道を諦めなかったら、僕はいいと思う」

 やっぱり笹原君は、夢に対してまっすぐな人だ。
 私の小さな不安を、簡単に吹き飛ばしてくれる。

 ――僕は永宮さんみたいなつまらない生き方はごめんだね。

 あの日、そんな冷たい言葉を言ってきた人とは思えない。

「ありがとう、笹原君」

 私がお礼を言うと、笹原君は照れたのか、視線を合わせてくれなくなった。
 その反応を微笑ましく思いながら、私は空を見上げた。
 青い空は、どこまでも高く、澄んでいる。
 笹原君が背中を押してくれたし、頑張ろう。もう、自分に失望しないように。
 そう、胸に誓った。

   ◇

「あれ。永宮先生、なにを読んでいるんです?」

 職員室の自分の席で本を読んでいると、背後から声をかけられた。
 そこにいたのは、紺野(こんの)先生。
 赴任した小学校で一番歳の近い先生だ。

「来年から教科書が変わるので、教材研究です」

 見せたのは、一冊の絵本。

『たんぽぽ畑のチューリップ』

 作者は、笹原(とおる)
 笹原君はやっぱり、才能があったみたいだ。
 ……なんて、笹原君の努力をなかったことみたいに言うと、また怒られそうだけど。

「笹原透! いい物語を書きますよね」

 紺野先生の言葉に、私が嬉しくなってしまう。
 今度、同僚が褒めていたって、教えてあげよう。

「そういえば、永宮先生、また将来の夢の掲示をされていましたよね」
「ええ」
「永宮先生のクラスの子たち、いつも希望いっぱいの夢を書いてるじゃないですか。なにか特別な指導をしているんですか?」
「んー……」

 私は言葉を濁しながら、絵本のページをめくる。

『どんな場所で咲いてもいいのです。美しく咲くまで、わたしは花のお世話をやめません』

 そんな文章が目に入った。
 あの日のやり取りが蘇るような、心に残る文章。

「特別なことは、なにもしていませんよ」

 みんなの夢が咲くまで、私にできることは全力でやる。
 そう思っているだけだ。

「えー? 絶対秘訣ありますよね!?」

 紺野先生の言葉に笑って返しながら、私は自分のクラスに向かった。