八十年越しのラブレター

「東京で大規模な空襲があったらしいよ!」
 他村とよく交流がある照さんが、その一報を私達村民に教えてくれた。
 畑を耕していた大志さんはその言葉で力が抜けたのか、鍬は地面に落ちた。
「……被害状況は?」
 フラフラとした足取りで、照さんの元に寄っていく。
「焼き野原になったって……」
「そう……ですか」
 また目の光を失った大志さんは、ただ呆然と東京方面の空を眺めた。

 三月十日は東京大空襲が起きた日。空襲の被害として最悪の被害をもたらしたと、歴史で習っている。
 たった一夜のことで十万人が亡くなったとされる史上最悪の被害を、私は知っていたのに何も言わなかった。
 だって、言ったところで何とか出来るわけない。気味悪がられて避けられるだけ。だから、言えなかった。
 ごめんなさい。大志さんの友人が亡くなると分かっていたのに、保身に走ってしまった。

 これから沖縄で兵士や一般人が亡くなり、広島と長崎で原爆が落とされて巻き込まれた人々が亡くなり、日本は降伏し終戦となる。
 私はそれを知っているけど、絶対に口にしてはならない。これだけの犠牲を払わないと間違っていたことに気付けなかった日本。私なんかに止められるわけないのだから。
「和葉! 和葉!」
「……え?」
 呼び声に瞼を開くと私は床に着いていて、目の前には私の体を揺する大志さん。気付けば私は、全身より多量の汗を流し息を切らせていた。
「また、すごい声で叫んでたで? 大丈夫か?」
 部屋は大志さんが付けてくれた電球で明るいも、周囲は暗くまだ就寝時間だった。
 どうやら私の叫び声は相当大きかったらしく、大志さんの部屋まで響いていたようだ。
「迷惑かけてごめんなさい……」
「和葉、やっぱり何かあったやろ?」
「……いえ」
 私は首を横に振る。
 全てを話せてしまえたら、どれだけ楽だろう。
 だけど絶対に、それを口にしない。
 それが、私への罰だから。
 そして何より、大志さんに私の本性を知られたくないから。
 ……どこまで身勝手なのだろうか?
 こんな私だから、許されないのだろう。
「寝る前の一時間、一緒に小説を書かんか?」
 ちゃぶ台に正座しての食事中、大志さんはそう口にした。
 書かないと言っていたのに、なぜ?
「人は……、いつどうなるか分からんからや。だから、悔いのないように小説書こうや」
「万年筆、使ったことないので……」
「慣れたら書ける。そっから練習したら、ええやん」
「私には、書く資格がありません……」
 多くの人を見捨てた、私には。

「俺も、そう思ってたんや。この戦いが始まった時、村の男達が出征した。俺は学生やったから免除されたけど、父と兄二人も取られたわ。だから俺は、まだ生き恥を晒しとる」
「そんな、生きてることが恥なんて……」
 私は全力で首を横に振るけど、大志さんは眉を下げ目の光がない。口にはしないけど、ずっと苦しんでいたのだと分かる。

「だから、俺は小説書けんくなったんや。みんなに申し訳なくて。俺だけ生きてることが……、辛くて。この戦いが終わったらなんて嘘や、本当は書けんだけ。万年筆を握ると、原稿用紙を見ると、自分だけ好きに生きるのが申し訳なくてな」
 ぼんやりと眺める先には、クズ野菜で作った味噌汁。
 だけど大志さんの方には具がほとんど入っておらず、私の方にばかりに入れてくれている。

「だけどな苦しんでる和葉を見たら、それは違うと思えたんや。東京の人が亡くなったのは和葉のせいか?」
 その言葉にビクンとなる体。持っていた茶碗が、カタカタと揺れる。
 そんなの決まってるよ。
 私は小さく息を吐きながら、コクンと頷く。
「違うやろ? 戦争や、全部戦争が悪いんや。みんな巻き込まれただけなんや。だから、そうゆう考え方は辞めようや。亡くなった人に申し訳ないと人生諦めるのは辞めよう。悪夢を見るのは、和葉が自分を責めてるからや。もう、苦しまんでええんやで」
 手元の茶碗から大志さんに視線の先を変えると、そこには柔らかな表情で微笑む姿。
 気付けばその視界はボヤけ、抑え込んでいた感情が流れていた。手をギュッと握り締め目元を抑えるけど、どんどんと溢れてくる。

「辛かったな、一人で抱え込んで。もう気にせんでええんやで。これから何が起きても、和葉のせいちゃうから。分かったな?」
 私の元に近付いて来てくれる気配がしたかと思えば、私はその優しい腕に優しく包まれる。
 私はあの日から毎晩悪夢に魘されるようになり、夜中に大声で叫ぶようになってしまった。
 見る夢はいつも同じ。東京の街が燃え人々が逃げ惑い、逃げ遅れた人が焼かれ、街が一晩で焼き野原になってしまう。
 そして私は、それを助けずに安全な場所で傍観している。そんな本性を丸出しにした姿が。

 大志さんは事情を知らない。知るはずもない。絶対に知られたくない。
 だけど私を包み込んでくれる体は温かくて、こんな冷酷な私でも生きていて良いのだと言ってくれているような気がした。
「戦争に、夢や生きる気力まで奪われたらアカン。な?」
「……はい」
 大志さんの体に腕を回すとその体は細く、明らかに栄養が足りてないと分かる。
 この人こそ、生きなければならないのに。
 私はこの人と生きる。共に。
 食後から寝るまでの一時間。その時間は好きだったけど、一番好きな時間へと変わった。
 食事をした食器や調理器具を洗い、食卓を囲むちゃぶ台を丁寧に台拭きで拭き上げ、綺麗に乾いたところで各々の引き出しから原稿用紙と万年筆を取り出す。
 ちゃぶ台に向かい合うように私達は正座し、黙々と文字を書き綴っていく。その時間は沈黙となるが、気を使うことも何もない。
 それが気持ちが軽くて、心地良くて、温かくて。

 一年振り、この世界に来てからで考えると一年半振りに私は物語を書き始めた。
 普通の女子中学生が戦時時代にタイムスリップしてしまう。何度も読み泣いた話をまさか私も実体験で書くことになるとは、人生分からないものだなっと思いながら。

 ひと段落しふぅーと万年筆の蓋をして置き、チラッと大志さんを見る。すると私の視線にも気付かないほどに原稿用紙と対面する目はキリッとしていて、瞬きもせずただ万年筆を走らせている。
 その姿はとにかくカッコよく、輝いていて、黄金色のオーラを放ってような気がした。
 そして何より目には輝きが戻っていて、今を全力で生きているのだとヒシヒシと伝わってくる。

 そして一番楽しい時間の後は、一番ドキドキする時間へと変わっていく。
 と言うのも、大志さんが布団を横にひき添い寝してくれるようになったから。
 灯りを消せば真っ暗で、聞こえてくるのはドクンドクンとうるさい心臓の音だけ。
 いや、分かってる。特別な意味はない。大志さんは、私を心配してくれているだけ。
 だけど寝付けるわけもなく、目をギューと閉じる。

 すると大志さんがむくりと起き上がる音がして、こっちに近付いてくる気配を感じ取る。
 そんなことは初めてで、襖は大志さんの布団側にあり私の方に来る理由はない。そう思いながら脳内でパニックを起こしていると、温かな手で撫でられる頭。
 嫌じゃない。むしろ嬉しい。だから大志さんの方に顔を向けると暗闇の中で目が合った。
 真っ直ぐな瞳は私だけをとらえているみたいで、吸い込まれそうで、瞬きを忘れるほどだった。

「子守唄でも歌おか?」
「……はい?」
 その言葉に目をパチパチとさせると、私に向ける表情はにこやかで子供に笑いかけるような目付きに変貌していた。
「子供扱いしないでください!」
 布団をガバッと被り、火照った体と心臓の音を聞かれないようにと遮断する。
 何、勘違いしてるの? バカバカバカ。私のバカー!

 そんな日々を過ごす中で気持ちは楽になり、悪夢に魘される頻度は減っていった。

 早く戦争が終わってほしい。
 私は毎日、カレンダーを見つめていた。
 あと四ヶ月。あと百日。九十九日。九十八日。
 ……だけど、とうとうこの日が来てしまった。恐れていた、この時が。
 夕食時。今日もちゃぶ台で顔を合わせながら小説について議論してると、暗い玄関よりダンダンダンと音がする。
 これは訪問者が家主を呼ぶ音。呼び鈴みたいなものだ。
 当初は身をすくませてしまったけど、今は慣れた。そのはずだったが、今はビクッと体を震わせてしまう。
 何かが違う。……これって、まさか。
「あ、誰か来たな」
 体が硬直してしまった私は、大志さんが玄関に向かおうとする気配にようやく気付く。止めないと。
「待って! 出ないで!」
 気持ちのまま後ろから抱き付いてしまった。
「え。ちょっ、和葉!」
 声が一段階高くなり、声が途切れ途切れになる。明らかに戸惑っていると分かるけど、それでも離さない。
「行かないで、お願い……」
「そうはいかんやろ? どうしたん?」

 ダンダンダン。
 そんなやり取りをしている間に、どんどんと大きくなる戸を叩く音。あまりの不穏さに体がガタガタと震えるけど、離さない。力の限り、必死に抑えた。
「……覚悟はしてたよ」
 回していた手をそっと離した大志さんは、玄関に向かって行く。
「待って! 出たらだめ!」
「和葉は奥に行ってなさい。大丈夫だから」
 初めて見た精悍とした表情。標準語で訛りもない、話し方。これが公的な場で出す顔なのだろう。
 押し寄せてくる恐怖に、体が硬直する。
「遅くなりました。今、開けます!」
 大志さんは戸に伸ばした手を一旦引っ込めたかと思えばこちらに振り返り、部屋の奥に指差す。話を聞くなと言いたいのだろう。
 私は頷き、奥に足を進める。だけど意識はそっちに向き、気付けば体まで動いていた。
 ガラガラガラと音を立てて開かれる玄関には、やはり村の人ではなく制服に身を包んだ役所の職員が立っていた。
「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」
 渡される赤紙。まじまじと、それを見つめる背中。
 ねえ、今あなたはどんな表情をしているの? どんな気持ちなの?
「ありがとうございます」
 公的な場での声では、あなたの気持ちは分からないよ。
 食後の片付けが終わると、互いに正座して膝を突き合わせる。その面持ちも硬い。 
「一週間後、俺は家を出て行く。和葉、そうゆうわけだから家と畑を任せて良いかな?」
「お断りします」
 私は唇を噛み締め、真っ直ぐな瞳から目を逸らす。
 男は国の為に戦い、女は家や畑を守る。
 その価値観が当たり前とされる時代に、私はそれを拒否する。
 私は大志さんの身内ではないけど、大志さんは私の居場所がなくならないようにと、私を信じて全てを任せようとしてくれている。
 それなのに私は国の為に戦地に赴く兵隊さんの頼みの一つも聞かず、不義理な発言をしている。

「勿論、一人で管理は無理だから近所の人にも畑を手伝ってもらうように頼む。皆、協力してくれる。こうして男がいない村と畑を守ってきたんだ」
 淡々とこの先について話していく大志さん。
 やめてよ、自分が居なくなってからの話をするのは。

「どうして拒否しないのですか!」
 俯いていた顔を上げ声を荒らげるけど、キュッと口を結ぶ。
 分かってる。拒否なんて出来るわけない。
 そんなことを口にしたら、非国民だと責められ投獄される。だから戦争に行きたくないなんて、誰も言えないんだ。それだけじゃない。夢を奪われても、飢餓に苦しんでも、空爆が落ちてきても、家族や友人が死んでも、自分の命が脅かされても、誰も反対出来ないんだ。
 ここ、本当に日本なの? 八十年前はこんな国だったの? 誰かおかしいと言ってよ! だってこの時代、めちゃくちゃなんだよ?

「……匿います! 大志さんのことは知らないって警察の人に言います! 村の人達に協力を頼みます! みんな分かってくれますから!」
「そんなことしたら村の人にも、和葉にも迷惑かかる。そんな嘘吐かせること、出来るわけない」
「だったら逃げましょう! さすがに追ってくることまではしません!」
「そうしたら生活が出来なくなる。家も畑も捨てて逃げるということは、そうゆうことだから」
 意思の強い瞳で首を横に振る姿に、私は。
「戦争は八月十五日で終わります!」
 絶対口にしないと決めていた、この国の行く末を告げてしまった。
 おかしな人間だと思われる、気味悪がられる。最悪追い出されると懸念し、絶対に口にしないと決めていた言葉を。
 当然ながら私の意味が分からない発言に、大志さんは瞬きをせずにただ呆然としている。
 開いたままの口を閉じたかと思えば、一呼吸置き。
「……そっか、やっと終わるんや。日本は勝つんか負けるんか、教えてくれんか?」
 潤ませた瞳を真っ直ぐこちらに向けてきて、そこには軽蔑も嘲笑もない。
 だからこそ言えなかった。
 この時代の人は勝つと信じてきた。
 だからこそ、どんな理不尽なことにも耐えてきた。
 それなのに……。

「……そうか。そうか……」
 大志さんは私の顔をじっくりと見つめたかと思えば、膝の上に置いた両手を強く握り締め、目を強く閉じ俯く。
 私は今、どんな表情を浮かべていたのだろう?
 今からでも勝つと嘘を吐くべき?
 いや、負けると言えば出征しない?
 そう心付いた私は口を開こうとする。

「俺な、行くわ。国を守りたいなんて大きなこと言うつもりない。やけど、この村と村の人を守りたいんや。……未来を守りたいんや」
「未来……を?」
 突如出てきた言葉に、思わず聞き返してしまった。

「って何言ってんやろな? 大きなこと言ってもたわ。村の男はな、村を守ると言って行きよったんよ。誰も逃げんかった。家族や友人を守る為にな。それなのにここで逃げたら、俺は一生自分を恨む。それこそ小説も書けんくなる。大丈夫、戦争なんてすぐ終わる。和葉が言ったんやろ? 三ヶ月後の八月十五日で終わるって」
 その言葉に、私はゆっくり顔を上げる。

 ……そうだ、あと三ヶ月だ。
 確か、授業で習ったことがある。赤紙が来ても直接戦地に行くわけじゃなく、一旦召集されて訓練を受け戦地を指定されると。その間に終戦を迎え、出征を免れた。
 そうやって生存した人、実際多かったんじゃないの?

「……待ってます」
 私はカタカタと震える手を抑えようと、モンペを強く握り締める。
「うん、待っといて。大丈夫や、こうゆうのは鈍臭い方が生き残るもんなんやって」
 屈託のない笑顔に、私は声を振り絞る。
「はい」
 召集の指定日は一週間後。大志さんは身辺整理を始めた。
 遠方に父方の親戚が居るらしいがそこは商売を生業としている為、田畑については経験がないらしい。
 家や土地の権利は当然ながら親戚に渡すことになるが、管理をする代わりとして家と田畑を私と隣人の菊さんに無償で預けると手紙を書いていた。
 隣人に畑を預けるのは以前からの取り決めだったらしいけど、家に関しては私を住まわせてくれる為。ただただ、大志さんの心遣いに感謝の言葉を伝える。

 一週間という時間は、どれほど短いものなのだろう。
 気付けば出征前日。
 大志さんはキリが良いところまで物語を書き上げ続きは帰って来てから言いながら、自室の引き出しにそっとしまう。
 読みたい気持ちは心の奥底より沸々と湧いていたが、達筆な字は変わらず読めず、字が読めるようになってからとまた子供扱いをしてくる。

 縁側に出ると空上に広がるのは、キラキラと輝く幾千もの星。それは吸い込まれそうなほど美しく、就寝時間はとっくに過ぎていたけど二人で縁側に座り星を眺めた。

「和葉は何で小説書き始めたん?」
 星を見上げたまま、大志さんはそう口にしてきた。
「私、私は……。文章を書くどころか、本すら全然読めませんでした……」
「意外やな。じゃあ、何をキッカケに読み始めたんや?」
「……それは」
 それは、思い出したくもない理由だった。

 私は小さい頃から、鈍臭い子供だった。
 そんな私がクラスで浮くようになったのは、小学校高学年の頃。難しくなっていく勉強や人間関係に付いていけなくて親に怒られてクラスでは笑われて、家でも学校でも居場所を失くしていった。
 あの頃、一番嫌いだったのは休み時間。私なんかと友達になってくれる子なんて居るわけなくて、とにかく席で小さくなっていた。
 だけどそれだと、こっちを見てて怖いと女子グループにヒソヒソと言われたことから、学級文庫から適当に本を取って俯いて読んでるフリをしていた。
 でも活字なんて読むの好きじゃないし、国語の教科書を読むのすら辛い。なのに、何やってるんだろ?
 頭にも入ってこない文章をぼーと眺めながら、もういっそのこと消えてしまいたい。そんなことばかり考えていた。
 そんな時に、一冊の児童書に出会った。
 その話は不思議な道具を使って旅に出るという、楽しくて、夢があって、人との出会いを描く冒険の物語だった。
 何故かその話だけはスラスラと頭の中に入ってきて、消えたかった私を別の世界に連れて行ってくれた。
 全ての人に嫌われていると思っていたけど世界は広く、色々な人が居て、多種多様な価値観がある。狭い学校と家庭だけが全てではない。そう教えてくれたんだ。
 だったら今の場所でもう少し頑張ろうと、学校に通えた。
 こうしていくうちに中学生になった。地区の関係で半分は入れ替えになり、そこで会った気が合う子と友達になれた。
 好きな本の分野は違うけど本が好きな者同士図書室に通い、良かった本を勧め合う。小学生の頃には想像も出来なかった学校生活が待っていた。

 その頃にようやく知ったのは、私が好きな児童書には原作があって、これは子供向けに改稿してあったということ。
 その原作を読んで、他作品も読んで、その面白さに魅了された私は気付けばSF小説を書いていた。
 私がそこまで変われたのは、あの作品に出会えたおかげ。
 その気持ちを思い出させてくれたのは、大志さんのおかげだった。

「そっか。辛かった和葉に勇気を与えてくれた本か?」
「はい」
 この時代に合わせて多少は内容をボカしたけど、話した内容は全て事実。たった一冊の本が消えたかった私を明るく照らしてくれた。この星々のように。
 翌日、小雨がパラパラと降る中、駅に村人五十人ほどが見送りにへと駆け付ける。
「ご武運をお祈りしております」
「行ってまいります。ご迷惑をおかけしますが、家に、畑。和葉をよろしくお願いします」
 菊さんの言葉に背筋をピシッと伸ばして、一礼する大志さん。それはいつも交わしている馴れ合いの軽口はなく、公然の場に見せるものだった。
 ……やめてよ、今生の別れみたいにするのは。大志さんはすぐ帰ってくるんだから。

「和葉、行ってくるわ」
「はい……」
 熱い目元を抑え、切れそうに痛む喉を抑え、張り裂けそうな感情を抑え、振り絞る声で口にした。
「そんな顔せんといてな。俺は今、清々しい思いなんや」
 思いがけない言葉に顔を上げると、一点の曇りもない瞳に上がっている口角。その言葉に偽りのない、屈指のない表情だった。
「俺はな、やりたいことをやり切った。後悔なんて何もない。……ま、一つ言うなら和葉が心配やけどな」
「子供扱い、しないでください」
 ははっと笑いながら頭を撫でる大志さんは、私の頭をぐしゃぐしゃにする。
 しかしその手は離れてゆく。到着した汽車に乗る為に。

「カタカナで書いといたから読んでくれんか?」
「え!」
 すぐにその反応が取れたのは、何について言っているのかが分かったから。大志さんが書き綴った原稿を目にしても達筆過ぎて読めないと嘆いていたから、わざわざカタカナで書いてくれたんだ。
 その優しさに、今度は別の意味で涙腺が緩む。
 ダメ、泣いたら。笑顔で送り出すと決めているんだから。
 言葉に詰まった私は人目にも触れず、大志さんの手を強く握り締めていた。
 そんな私に大志さんは、そっと顔を寄せて来て一言呟いた。
「もし、元の時代に帰れるなら帰りなさい」
「……え?」
 私から離れてゆく目は全てを察しているように、こちらを真っ直ぐにとらえている。
「分かったか?」
「待ってます!」
「帰らなアカン。みんな心配するで」
 鳴り響く汽笛に、私が掴んでいた手から指を引き抜いた大志さんに、唇を噛み締め首を横に振る。
 走り出した汽車より手を振る大志さんが最後に見せた表情は、満面の笑みだった。

「大丈夫よ、大志さんなら。な?」
 その場に崩れてしまった私を支えてくれたのは菊さんで、そのまま手を引いてくれ一時間かけて村に戻ってきた。
 家に戻ってくると台所も茶の間もやたら広く、静まり返っていた。元々広い家だったけど、そう思うのは大志さんが居ないからだろう。
 ちゃぶ台の前に一人座り、大志さんの席をぼんやりと眺める。

 ……大志さん、もしかして私が未来から来てると分かったの?
 空襲を黙っていたと知った上で、私と普通に接してくれていたの? まさか、そんなわけ。
 それに。この時代にはそんなSF的な話は流通しておらず、作家の中でもその発想は珍しかったと思う。
 そんな発想、まるで。
 ……え? まさか。
 その考えが過った時、全身に寒気が走ったような気がした。心臓がバクンバクンと音を鳴らし、呼吸が乱れていく。
 そんなわけない! そんな!
 この悪寒を振り払いたくて、心臓の鼓動と呼吸を落ち着かせたくて、私は原稿を置いておいたと言われる大志さんの開きっぱなしになった部屋に飛び入る。
 そこには分かりやすいようにと机に置いてあり、原稿用紙を手に取る。
 聞いていた通りカタカナの文字で書き綴られており、一行目に「ミライショウジョ カズハ」と記されていた。
「未来少女、和葉」
 思わず声に出してしまう単語。やはり、大志さんは私の正体に気付いていたんだ。
 嫌な音を鳴らし続ける心臓を無視して、私はその物語を読み始める。それは未来から来た私と共に過ごした一年間を綴ったものだった。

 途中まで読んだ私は、まだ続きはあるけどこれ以上読み進めることが出来なかった。
 だってこの文体、初めて見るような気がしないから。
 そう心付いた私は、玄関のドアを勢いよく開けて駆け出す。

 ──大志さん! 行ったらだめ!
 私は駅まで駆ける。引き止めたい一心で。
 息が切れ、喉が焼けそうに痛くて、足がもつれていく。
 赤紙には召集場所が書いてあったらしいけど私には読めず、どこに行ったのかも分からない。
 大体どうやって止めるの? どうやって?
 それに気付いた私は足が前に出なくなり、そのまま膝を付き手を地面に付いた。
 すると俯いた私の目から涙がポタポタと落ちていき、それは乾いた地面を濡らし色を変えていく。

 あの人は昭和初期の文豪と呼ばれたSF作家、菅原平成先生だったかもしれない。
「生まれるのが早過ぎた天才」。それが文豪の別称で、
実際にあの方は生まれるのが早過ぎた。当時SFは海外で数作発表されたぐらいで、日本では表に出ていなかった。
 戦後人々が絶望している中で、夢と希望の物語である菅原平成先生の本が注目されるようになった。
 誰もが思い付かない発想、子供から大人までを虜にする夢が溢れる物語。
 現代では児童書や英訳され、子供から海外の人まであの方の話を読んで面白いって言っている。私なんて、人生が変わったんだから。

 だけど、それを菅原平成先生は知らない。
 あの方の作品が認められたのは死後。生まれるのが早過ぎたと言われているのは、出征して死ぬ運命にある人だから。
 どうして気付かなかったの?
 もしかしたら、助けられたかもしれないのに。
 私の軽率な考えが、大志さんを死なせてしまった──。

「大志さん!」
 私の張り上げた声が、夕陽の空へと消えていく。

 目からは止めどなく涙が落ちていき、心臓は痛いぐらいに鼓動を鳴らして張り裂けそうに痛く、息が出来ないほどに苦しいのに私はただその名前を呼び続けていた。

 いつしか時は黄昏時を迎えており、金色に輝くの空が広がっていた。それを目にしたのが最後の記憶として、私はいつの間にか意識を手放していた。